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「論語」の基本思想

私の別ブログから転載。
「論語」は世界最高の「世俗道徳」(神仏を前提としない道徳)の思想書・教科書である。ただし、「儒教」は後世の人間が論語を解釈し学問化し、公教育化したものなので、論語の解釈自体が恣意的である可能性がある。(たとえば封建支配体制維持のための「忠」の意味の捻じ曲げなどがある。)かえって、論語の基本思想を単純化したほうが有益だろう。
フロイトの言葉の末尾を私流に言えば、「人間関係によって苦悩が生まれる。その苦悩を軽減するのが隣人愛だ」ということだ。つまり「隣人愛=仁」である。下の文章では「仁=博愛」と書いているが、同じことである。我々は現実には博愛を隣人愛としてしか実行できないからだ。口先だけの博愛を語る(騙る)詐欺師は無数にいるだろうが。(私自身、社交嫌いの思考沈潜人間である。)*念のために言えば「思考沈潜」は漠然とした浮遊思考の下に意識が沈んでいるだけだ。

(以下自己引用)


1行で分かる「論語(儒教)」の真髄



論語(儒教)の真髄は「」と「忠恕」で済む。

後は、漢和辞書を引いて、この2語の意味を理解すればいいだけだ。


一応、解説する。
「仁」とは「博愛(を衆に及ぼすこと)」である。
「忠恕」とは、「忠」が「まごころ」の意味、「恕」が「まごころに従って行動すること」である。厳密には「恕」単独だと「心に従うこと(心の如し)」だが、上の「忠」が真心(中正なこころ)を意味するので、「忠恕」で真心に従う生き方を意味する。だから「論語」では「夫子(孔子)の道は忠恕のみ」と言っているのである。その真心の具体的内容が「仁」である。漢字の成り立ちは「人が二人いること」であり、いわば社会の最小単位だ。その二人がいさかえば、この世は地獄になり、愛しあえば天国になる。後者を「仁」と言う。つまり、社会全体で言えば「博愛」である。


(追記)フロイトの「幻想の未来」の中にこういう一節がある。

「知性の優位が実現するのは、はるか遠い未来のことかもしれないが、無限に遠い先のことではないだろう。そしてこの知性の優位が目的とするのは、キリスト教の神に期待するものと異なるものではないのであるーーもちろん宗教的にではなく、人間にふさわしい形で、外的な現実が、運命が許すかぎりにおいてということだが、その目的とは、隣人愛であり、苦悩の軽減である。」





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実存主義の考察


実存主義について考えようと思うのだが、私は実存主義にはまったく関心がなく、自分が関心を持っているマルキ・ド・サドが、あるいはその生き方が実存主義的ではないかな、と思って最近少し興味を持ってきただけである。
とりあえず、手元にある簡便な「新明解百科語辞典」で調べると、

人間の実存を中心的関心とする思想

という曖昧な説明の後、

「合理主義・実証主義による客観的ないし観念的人間把握、近代の科学技術による人間の自己喪失」などを批判 (カギカッコは筆者による明確化)

とある。で、実存とは

① スコラ哲学で、可能的存在である本質に対して、事物が存在することそれ自体をいう語。現実的存在。現存。
② 実存主義で、特に人間的実存をいう。個別者として自己の存在を自覚的に問いつつ存在する人間の主体的なあり方。具体的状況にある人間の有限性・不安・虚無と、それを超越し本来的な自己を求める人間の運動。自覚存在。

とある。つまり、「実存主義」では、「実存主義者だけが人間的実存である」ようだ。
まあ、馬鹿馬鹿しい思想だと思う。インテリや頭でっかちの学生にだけ人気のある思想だったのが頷ける。

さて、私がサドを実存主義的だと考えたのは、澁澤龍彦の「映画論集成」の中に、こういう一節があり、それをサド的だな、と考えたからだ。

「つまり、政治が政治の原則を踏み外すこと(社会革命)によって、政治そのものを克服し、社会的・政治的疎外の産物にすぎない国家の形態を廃棄しなければならないように、芸術も芸術の原則を踏み外し、まっしぐらに非芸術(魔術)の方向に向かうことによって、人間疎外の産物にすぎない芸術の王国を否認すべきであるという、客観性と主観性の両々相俟った、まことに革命的な理論がこれなのであって云々 」(注:「革命的な理論」と言っているのはシュールレアリズムの理論家であるアンドレ・ブルトンの映画論のこと)

ここで「疎外」と言っているのは、人間が社会で生きるうちに、社会に持つ違和感や孤立感、つまりまさに「疎外感」のことだと考えればいいかと思う。肯定的に言えば、その孤立感は当人の責任ではなく社会の責任だ、というのが実存主義だろう。さて、そこで自分を変えて社会の一部に、あるいは歯車になるか、それとも「社会のほうを変えるか」という選択が生じる。ほとんどの人、「善良なる市民」の99%は前者を選び、稀な一部が「革命家」になるか「社会の反逆者」になるわけである。後者の例がマルキ・ド・サドだ、ということで、やっと話の冒頭とつながるわけだ。

ちなみに、国家が「社会的・政治的疎外の産物にすぎない」とされるのは、我々は国家の成立にまったく関与していないし、国家の内容に同意したわけでもないからだ、と私が理屈づけしておく。


まあ、このように考えれば、実存主義が反政府運動の一要素となったり、左翼的知識人に人気があったのも、頷けないことはなさそうだ。

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思想と論理

私が唯一、真実であると信じる言葉(命題)は「力こそパワーである」という言葉だが、これは私が暴力主義者だということではない。論理的に言って「AはAである」以上の正しさを持った論理は無いからだ。ただ、そこに「力とは何か」という、各自各様の定義を入れたら、その論理は成り立たなくなる。
などと言ったのは、フランス革命の「自由、平等、友愛」について、実はその当時の「友愛」には女性は含まれていない、と茶々を入れる発言をこの前ネットで見たからである。
まあ、男性と女性の間には恋愛があるだけで友愛は無い、という考えもあるだろうし、この標語の「fratanite」は「博愛」の意味であり、当然女性も含まれる、という考えもあるわけだ。
つまり、言葉を厳密に定義していない命題や議論はすべて無効だ、という話だ。
ところが現実には言葉が定義されないままの議論が社会全体を飛び交っているのは言うまでもない。となると、すべては「下手な考え休むに似たり」となる。まあ、娯楽としての議論ならそれでもいいし、私の書く文章はすべてその類だ。

さて、上記の議論(ダメ思考)の例を書こう。
私は「超現実主義(シュールレアリズム)」というものを「現実には存在しないものを想像する面白さ」だと考えていたが、それが違うようなのである。

前にも引用した「フランス的思考」の中に、こういう言葉がある。アンドレ・ブルトンの「シュールレアリスム宣言」の一節である。


「私たちが受け継いだ数々の不運にまじって、精神の最大の自由が残されたことはよく認識しなければならない。(略)想像力だけが、ありうることを私に教えてくれるのであり、恐るべき禁忌を少しばかり取り除くにはそれだけでじゅうぶんである。」(強調原文:ただし、この引用では傍点を赤字にする。)

つまり、超現実主義とは「ありえないこと」の想像ではなく「ありうること(現実を超えた先にあるもの)」の想像だったわけだ。少なくとも、その種の芸術の創造者は「そうであるべきだ」とブルトンは考えていたようである。ここには「政治的意味」もありそうだが、それは措いておく。

まあ、このブルトンの言葉や思想の是非はともかく、私が「超現実主義」と考えていたものがまったく違っていたのは事実であり、私はこの言葉を知ってから今に至るまでその誤解を持って生きてきたわけだ。
だからといって別に大きな被害はないが、要するに、我々の認識(大きく言えば世界認識)はその程度のものではないか、ということである。

その前に私は「今更ながら実存主義」という思考テーマを考えていたのだが、それは「実存主義批判」であり、だから「今更ながらの実存主義批判」なのだが、この思想(らしきもの)やその議論が一世を風靡したということ自体が大きな問題ではないか、という思想である。それはまた気が向いた時に考える、かもしれない。

ついでに言っておけば、私は「自由主義」に批判的だが、「精神の自由」は人間に与えられた最大の幸福である、と思っている。私が無批判に肯定する自由は精神の自由だけである。
だが、自由が「主義」、つまり政治運動となった時にそれは人類最大の災厄にもなるだろう。なぜか。それは法も倫理も必然的に「禁止の体系(自由の束縛)」であるからだ。つまり、自由主義は法と倫理を無化するのだ。あなたは犯罪の自由を支持するか? 暴力の自由、殺人の自由、強姦の自由を肯定するか?






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「天皇」否定論と肯定論の検討

私の別ブログに書いたメモ的記事だが、議論の叩き台として転載する。
もちろん、ここに書いた内容は天皇肯定論者にも否定論者にも不満なものだろうが、あくまで叩き台を提出するだけだ。もっと説得力のある否定論や肯定論があれば、私も読んでみたい。
まあ、ここに書いたのは三島由紀夫の「文化防衛論」を、分かりやすい形で、あるいは私なりの理解(誤解)で書いたものとも言える。

なお、「天皇制」という言葉は議論を混乱させる要素があると私は(何となくだが)思っている。たぶん、この言葉はそれだけで「天皇支配」を連想させるのではないか。「象徴天皇制」も同様だ。まあ、感覚的な話だが、「制度」(固定や呪縛)への無意識的な拒否反応を惹起するとも言える。

「肯定論」の8について補足すれば、未来は過去の伝統や遺産としての現在からしか生まれない、というのが永遠の真理だと私は思っている。改変はいいが、過去の消去や過去との断絶は利益よりは損失が大きいだろう。

(追記)このブログに載せてある「『文化防衛論』の考察」の一部を載せる。「日本人とは日本文化が意識的無意識的に体に刻みこまれている者」と定義できる。日本への移民はあくまで過渡的存在としての疑似日本人だ、と言える。日本文化に染まって、真の日本人になるわけだ。もちろん、ならない者もいる。長年日本にいながら日本人を敵視し、軽蔑する者もいる。つまり自ら「自分は日本人ではない」と主張しているわけだ。

13)「文化の無差別的包括性」を保持するために「文化概念としての天皇」の登場が要請される。

(考察)簡単に言えば「日本文化を保持するために、日本文化の象徴としての天皇の存在が重要である」ということだろう。天皇という存在が論じられる時、ほとんどは「政治的存在」としての天皇しか論じられていない。天皇という存在が日本文化の歴史の中心にある、というのは私も主張してきたことであるが、そこには別に三島の影響は無い。単に、日本文学史を見ていたら、それ(天皇が文化の中心にいること)が歴然としているというだけのことだ。記紀と三大歌集が無ければ日本の古代中世文学は無く、古代中世文学が無ければ、当然その発展としての江戸文学も無い。そして、明治の欧風文化採用と太平洋敗戦でその伝統は切られたのである。つまり、あの敗戦と戦後教育は日本の文化の伝統を断ち切ったわけだ。日本文化の伝統を愛する三島が、その伝統の中心に天皇があると考えたのは自然なことである。

(以下自己引用)


私は天皇肯定論者なのだが、要は日本文化と伝統の象徴としての天皇の存在を貴重だとする思想であり、また日本国憲法肯定者として、憲法の規定する「国民統合の象徴としての天皇」を尊重する意味での天皇肯定論者である。
そして、ネットで見る「天皇否定論」の根拠がどうもよく分からないので、その分析と考察をしてみる。ただし、メモ的なものだ。詳しい考察は後に回すつもりである。

最初に、私が考える「天皇否定論」の根拠を箇条書きにしてみる。もちろん、見落としもあるだろう。その中で私が重要と考えるのは「感情的に天皇の存在が許せない」というものだが、「感情論だからダメ」とは決めつけるつもりはない。ある意味では論理よりも強いのが感情だろう。ただ、とりあえず、ここでは「天皇否定論」と「天皇肯定論」を両方並べて、どちらがより合理的か、あるいは正当性があるかの比較をしてみるつもりだ。

Ⅰ 天皇否定論

1:日本国憲法は国民の平等を謳っており、天皇を国民の上位に置くのは許せない。
2:日本は「民主主義国家」であり、本来は君主的存在だった天皇は不要である。
3:天皇を「国民統合の象徴」とする意義はない。
4:天皇やその親族にかかる財政負担が無駄である。
5:昭和天皇のために死んだ無数の国民の死の責任が昭和天皇にあり、その子孫である天皇家自体、否定されるべきである。
6:天皇が神道連盟などの宗教に利用される可能性が大きい。
7:右翼が天皇を担ぎ上げて、日本を全体主義国家にする可能性がある。
8:天皇が存在しなくても、日本国民は何ひとつ困らない。
9:その他

Ⅱ 天皇肯定論(それぞれ「否定論」の否定であるが数字は対応していない。)

1:日本の歴史は天皇が大きな要素であり、天皇は日本文化の伝統であり象徴である。
2:現在の天皇は単なる象徴であり、日本国民の上位にあるわけではない。
3:憲法は天皇の政治関与を禁じており、民主主義と矛盾する存在ではない。
4:天皇に関係する予算は外交儀礼上必要だが、不満なら削減すればいい。
5:祖先の罪は子孫に関係しない。
6:神社等との関係が大きな問題になった事例は敗戦後は存在しない。
7:天皇が「象徴天皇」である限り、政治利用は不可能である。
8:天皇がいなくなれば、他国との違いが無くなり、「日本人」は過去と断絶する。
9:その他



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「自由主義」の極限

石井洋二郎の「フランス的思考」の記述の一部を要約する。

(以下引用)赤字は夢人による強調。

「宗教的拘束にとらわれない十七世紀の自由思想家を『リベルタン』という。」

「美徳は人間において二次的な情動でしかなく、人間の内にある第一の情動は、他のいかなる情動にもまして、誰を犠牲にしてもかまわないから自分の幸福を実現したいという欲求であることは、疑う余地がない」(注:サド作品の登場人物の発言である。)(注2:「一次的」「二次的」を過大に考えていることを除けば、私自身、この発言は正しいとは思っている。ただ、多くの「正常な」人は「他人を犠牲にする」という一点で立ち止まるのである。これは我々の無意識に埋め込まれた第二の本能だろう。我々自身が「親という他人」から生まれた存在なのだから。つまり、この論理は見かけほど堅固なものではない。単に「極限的(数学的論理)思考」なだけだ。)

「自由の享受に限界はないというこの論理をさらに押し進めていけば、最も普遍的でこれ以上に絶対的な準則はないと思われる『人を殺してはいけない』という規範までもが相対化されることになるであろう。この段階にまでたどりついてしまえば、もはやタブーはいっさい存在しない。サドにあって重要なのは、ただおのれの欲求を充足させることだけであり、他者への配慮を前提とした友愛とか憐憫とか隣人愛といった観念は、まったく空疎で無意味な偽善にすぎないのである。」

(以上引用)

あまり誰も言わないことだが、こういう「重要なのは、ただおのれの欲求を充足させることだけであり、他者への配慮を前提とした友愛とか憐憫とか隣人愛といった観念は、まったく空疎で無意味な偽善にすぎないのである」という思想は実は現代世界に底流する観念であって、多くの人はそれに則った行為(経済犯罪などが顕著で、前科持ちがマスコミ、特にテレビで堂々と発言している。)をしながら、それを明確に言語化しないだけである。
これが「自由主義の極限」である。「愚劣な合理主義」と言ってもいい。なぜ愚劣か。それは、この思考が実は自分自身にすら本当の満足を与えないからである。なぜなら人間の欲求は本当はささやかなもので満たされるからだ。
気に入らない人間を殺したいという欲求はよくあることだ。しかし、世界中の「悪人」を殺したいとなれば、「自分」が(他者から見た悪人として)その中に入るのである。この矛盾を解決するのが法であり道徳である。これは「偽善」と言うより、「社会の集合知」と言うべきだろう。

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「革命者キリスト」概説

前書き後書きを除けば全12回の論文で、その第一回だけ載せる。全体は「徽宗皇帝のブログ」に載せてあるが、検索がしにくくなっているようだ。しかし、ここに載せる部分だけでその大要は分かるだろうし、それで十分である。

(以下自己引用)
革命者キリスト
イエスと「キリスト教」(キリスト教の政治的歴史)


概説

最初に中心思想を述べておく。
イエス・キリストと呼ばれた男、ナザレのイエスは、ユダヤ教を改革しようとして当時のユダヤ教指導者たちの手で始末された男である。その思想は当時の厳格な儀式典礼主義のユダヤ教を批判し、より精神的なものにしようとするものであった。
キリストは神の子ではなく、その死後に布教のために神格化された人物である。教会によってキリストの教えも変質した。その過程がここで論ずる事柄の中心であるが、それにはユダヤ教との関連、そしてローマ帝国との関連が重要である。
現在の「キリスト教」の土台は、キリストの死後100年の間に、その教えを元にして形成された。新約聖書の中にある四福音書の中の、キリストの言葉そのものが、純粋なキリストの教えであり、それ以外の記述、たとえば様々な「奇跡」は、キリストの神格化のために、記述者が付加したものである。たとえばキリストの「死後の復活」も伝道のための作り話である。そうした不合理性を除去した後に残るものが真に重要な「キリストの教え」である。(ドイツのブルトマンの「聖書の非神話化」の主張も同じ趣旨だろう。)
キリスト教はさらに「キリスト教(あるいはユダヤ教)」という一神教をローマ帝国の国教に採用しようと考えたローマの手によって変質させられた。つまり、現在の「キリスト教」は、「ローマ化したキリスト教」であり、その土台を作ったのはパウロである。パウロは熱心なユダヤ教徒であり、最初はキリスト教徒を迫害していたが、ローマからの指令によって(?)「新キリスト教」オルグ活動家となった人物である。この人物とローマ帝国の力によってキリスト教の世界宗教への道が開かれた。ローマがユダヤ教ではなくキリスト教を選んだのは、民族宗教色が強すぎるユダヤ教よりも、精神性や内面性を重視するキリスト教のほうが、ローマ人も含めて他民族を折伏し、吸収するのに向いていたからである。大事なのは、「一神教」の持つ「絶対性」であった。あるいはマルクス用語で言う「歴史的必然」と言ってもいい。つまり、「最初から正義はこちらにあり、勝利は約束されている」とする思想だ。なぜなら、他の宗教の神々が「世界内存在」であるのに、一神教は世界そのものを作った神であるから正義と勝利は保証され約束されているのである。(そうした超越神、創造主という存在と、この世の悪の存在の矛盾は、とりあえず無視すれば良い。)
キリスト教がローマ・キリスト教(国教化以前のこの段階ではローマンカソリックとはまだ言わないほうがいい。)となった頃に、キリストの教えがアレンジされ、福音書も作られた。ローマ教会によってそれまでのキリスト伝承が整理され、正典(カノン)と外典が区別された。本来のキリストの教えが正典と外典のどちらにあるかはわからないが、外典を一般大衆が目にする機会はほとんど失われ、「キリスト教」批判の契機も失われた。
ローマ・キリスト教がローマンカソリックとなっていく過程で、さらにユダヤ教への退化が生じ、現在の「キリスト教」に近づいていった。さらに、様々な教父たちによってキリストの母の神格化や三位一体説、原罪説などが加わり、ローマンカソリックという異様な「キリスト教」が出来上がった。その異様さは、かつてイエス・キリストが憎んだ「因習的ユダヤ教」とそっくりである。その因習的な部分とローマンカソリックの腐敗した上層部への反撥が宗教改革を生んだ。しかし、その新教もまた「聖書」に依拠する限りは、キリスト本来の教えと一致することはありえなかった。キリストの教えを純粋化するには、聖書中のキリストの発言のみを抽出する必要があったのである。もちろん、それすらも記述者によって歪められたものではあるが、それでもその教えの革命性は明らかである。
結論的に言えば、世間で言う「キリスト教」は、「キリストの教え」では無い、ということだ。キリスト本来の教えは、共産主義に近いほどに、この世の富と栄華を否定する思想であるから、資本主義社会とは両立できない思想である。その資本主義の牙城のアメリカが「キリスト教」国家であるなら、それは「キリストの教え」とは別のキリスト教でしかない。同様に、「汝の敵を愛せよ」「右の頬を打たれたら左の頬をさし出せ」という、許しと寛容の教えがあの残虐な十字軍と両立するはずはない。そこには、ユダヤ教独特のダブルスタンダードの思想、つまり、「自分の民族に対しては倫理を守れ、だが、異民族に対してはあらゆる悪が許される」という選民思想がある。ユダヤ民族を白人種に変えれば、これが西欧国家や西欧人種の気風でもあることは、近世近代現代の歴史に明らかである。
「キリスト教」は、西欧人の考えの土台である。したがって、その思想がキリスト本来の思想といかに異なるものであるかを西欧人たちが知れば、(つまり、自分たちがキリスト教だと信じていたのは実は変装したユダヤ教であることを知れば、)彼らが自らを反省し、あるいは西欧の貪欲によって破滅しかかっているこの世界が救済される可能性への道が開かれるかもしれない。そのためにも、この論が書かれる必要性があると私は信じる。

あらかじめ言っておくが、この論への批判は、その本質的部分への批判のみに願いたい。つまり、現在の「キリスト教」は、はたして聖書の中のキリストの言葉と一致しているかどうかということだ。その点での反論はおそらく不可能だろう。現在の「キリスト教」社会ほど非キリスト教的な社会も存在しないだろうからだ。それ以外の部分は、遥かな過去の時代についての推測にしかすぎない。歴史そのものが、勝者の歴史でしかない以上、後世の人間にできることは、歴史的記述について合理的判断を心がけることだけだ。もともといい加減なものでしかない歴史的記述や資料の細部の取り扱いにいちいち文句をつけられるのは御免である。

                         2008年11月23日記

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一神教の本質

知人から貰った本の中に小谷野敦(「あつし」とも「とん」とも読ませているようだ)の新書がいくつかあって、どれもなかなか面白いので、今、最後の「日本人のための世界史入門」を序論だけ読んだところだ。
彼は論争的(カタカナ語があるが、失念)な精神的体質の人間で、やたらに他人というか他論者を批判し食ってかかっているが、だいたいにおいて他者(他論者)を非論理的だと思っているらしい。特に、途中で持論を適当に変えている人間や、その議論の中の矛盾には我慢がならないようで、私から見ればゴリゴリのリゴリズム(rigorism:厳格主義)人間だが、その自分の論説自体、途中で内容がズレたりしているようだ。まあ、論理への過信だろう。そもそも人文系の議論に論理がどれほど有効か、分かったものではない。一部では通用しても、その一部以外には通用しない論である場合も多いだろうが、それを「論理的一貫性がない」と批判するのは、攻撃自体が愚かなのではないか。世のあらゆる事象は多岐に渡っており、それぞれの境界も曖昧なのである。
だが、小谷野の書く文章は面白いし痛快だから読む価値はある。しかし、その主張をすべて信じるのはお勧めしない。まあ、7割か8割くらいは妥当、という感じか。その主張自体、それほど意義があるようにも見えない。わりとマスコミ論者同志や人文系学問内部の問題なのである。やや右派的思想が感じられるが、「軽評論」と言うべきだろう。根が正直に思えるので、意図的に世間を騙す意図は無いと思う。
要は、「高校教科書や大学教養課程レベルの知識も無い人間が多すぎる」ということへの苛立ちが、彼の論争的体質の中心なのだろう。まあ、それでいくつも本を出せたのだから結構なことではないか。

さて、本題に入る。前書きに小谷野のことを書いたのは、彼が「民主主義」に否定的で、また「民衆史観」にも否定的なようなので、「民主主義」と「民衆をどう見るか」の問題を論じ、ひいては政治体制としての民主主義の是非を考えてみようか、ということだ。

と思ったが、先ほど、「日本人のための世界史」を読み進めて、もっと興味深い問題に出会ったので、そちらを紹介する。この引用だけでもかなり物議をかもしそうな文章である。論争屋小谷野の面目躍如だ。これ(下記引用内容)を言った人を私はほかに知らない。だが、同じ思想を持つユダヤ教については東海アマ氏が何度も書いていて、それは何も「タルムード」を読まなくても、「旧約聖書」を読めば、その思想は明白なのだから、この思想は一神教の本質だと私は思っている。その中でキリスト教だけが異質と言えば異質なのである。だからキリストは十字架で処刑されたのだ。
さてその思想とは何か。前掲の書から引用する。


「『クルアーン』を読んで驚くのは、それが『旧約聖書』とほとんど内容が同じということで、(中略)だからイスラム教は、本来キリスト教徒とユダヤ教徒は『啓典の民』として特別扱いし、言葉をもってイスラム教に改宗するよう説得すべきだとしているが、それ以外の民、つまり仏教徒(無神論)などは、問答無用で殺していいことになっている。


これは大問題の発言で、私は「クルアーン(コーラン)」を読んだことは無いので、この言葉が事実かどうかは分からない。しかし、イスラエルという国の軍隊やイスラム系テロリストの強さや残忍さ、あるいは殺しても死なないようなしぶとさ、執念深さの根底には、この思想があるのではないか、と思われる。日本で言えば信仰をバックボーンとした一向一揆のようなものだ。「厭離穢土欣求浄土」の思想が、戦国最強の織田信長の軍隊をもっとも悩ませたのである。

ちなみに、この文章を読む前に、私は娯楽記事中心の別ブログでこんなことを書いている。

(以下自己引用)注記すれば、キリスト教は「汝の敵を愛せよ」(あるいは「良きサマリア人」のエピソード)に見られるように革命的一神教であるので、ユダヤ教やイスラム教と同列ではないが、そのキリスト教国家が異民族を虐殺し、奴隷化したのは言うまでもない。つまり、キリスト教は彼らに根付いていないのである。これを「偽善的キリスト教」とでも言っておく。「偽キリスト教」でもいい。キリスト教の変質については詳しくは「革命者キリスト」参照。


前に「詩情と笑い」という一文で「ナルニア国ものがたり」をつまらないと批判したが、その理由を作者が詩人でありユーモアが欠如しているから、とした。その部分を後で自己引用するが、その前に、少し考えが深化した気がするので、それを先に書く。それは「一神教には反戦思想は無い」というものだ。
これは当たり前の話で、一神教というのは、その神を信じている者は善、信じない者は悪であるという思想であり、つまり、その神を信じない相手がどういう国や民族であろうと、それは悪なのであり、戦争して国土を奪ってもいいし、その国民を皆殺しにしても奴隷にしてもいい、となる。つまり「帝国主義は一神教文化圏の必然」なのである。




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酔生夢人
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仙人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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