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ユダヤ人の「世界支配」思想

「東海アマブログ」記事で、あまりに長いし、例によって「偏見と独断」的記述もあるので、その中で「99.9%正しい」と思われる部分を抜粋して転載する。ただし、常識に属するが「ユダヤ人」とは「ユダヤ教を信じる者」であり、人種ではない。(もともとは人種だった。つまりアラブ系人種のひとつだった。だが、現在は「東欧系白人」が「近現代ユダヤ人(ユダヤ教を信じる者)」の最初の出自である。)
ユダヤ教とはつまり、「自分たちだけが人間で、それ以外は動物と見なしてよい」という思想である。これは旧約聖書に明白に書かれている。それを変えようとしたのがキリストで、だから殺されたのである。その後の「キリスト教」がユダヤ思想に汚染されたものであることは、私の「革命者キリスト」の中に書いてある。

(以下引用)


 ユダヤ金融資本は、世界中の食料や資源を独占し、人類社会に飢餓を持ち込んでいる。そして戦争を推進している。今起きている戦争、ガザやウクライナの戦争もユダヤ人が背後で糸を引いている。

 ガザのジェノサイド大虐殺を行っているのは、まさしくユダヤ人だし、ウクライナも同じだ。彼らの本当の狙いは、自分たちが経営している軍需産業の利益のために、戦争をやらせて兵器を消耗させ、更新させることで利権が転がり込んでくる。

 そしてシオニストユダヤ人会議が、「約束の地=グレーターイスラエル」を成立させるために、ガザ大虐殺や911テロ、イスラム国、ベイルート巨大爆発などの陰謀を重ねてきた。

 SDGsの本当の狙いは全人類の管理と、資源の独占にあることが見える。
 ダボス会議は、世界中の化石燃料を抑制し、自分たちが提供する原発電気オンリー社会を作り、人類の食料を、「安全」と称する、バイエル(モンサント)が販売するバイオ操作農産物以外の使用を禁止している。また「代替食」と称して、コオロギを食べさせることもやっている。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6104850.html

 アメリカには食品安全近代化法を2011年に導入させ、日本には種苗法を導入させ、伝統農業の完全破壊を狙っている。
 そしてビルゲイツは、北極種子倉庫を作り、世界中の農産物の権利独占を始めている。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5827223.html
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5827752.html

 SDGsとは、世界の新自由主義者による未来ビジョンである。
 ただし、書かれている耳障りのいいきれいごとのビジョンと実際に起きていることは正反対だ。
 それは、ガザやウクライナの現実、そして貧しくなり、苦しくなった我々の生活をみれば一目瞭然だ。

 世界は新自由主義によって、凄まじい格差拡大が起きて、ごくわずかの特権階級と、奴隷に等しい大半の大衆という極端な差別、二極化構造に陥っている。
 新自由主義がもたらす最大の害悪、それは人間の競争による選別と、差別の強固な社会が構築されることである。

 次の総理は小泉進次郎と、高橋洋一が指摘したが、竹中平蔵の弟子ともいえる日本の新自由主義思想政治家が、もたらす政治とは何か? 容易に想像がつく。小泉進次郎は、バイオ農業とコオロギ食の伝道師だった。

 それは、伝統農業を禁止し、全国民に遺伝子異常を起こすバイオ操作農産物を食べさせる。「健康保障」の名の下、全国民にワクチン接種を強要し、いつでも死なせられるバイオ人間に変えてしまう。
 人々をスーパーシティという名の人間畜産施設に収容し、15分以上の移動を禁止し、何もかも管理された「ゴイム」に馴致するのだ。
 https://ameblo.jp/tokaiama20/entry-12863598832.html

 我々は、おぎゃーと生まれて、最初の集団生活である保育園や幼稚園の段階で、すでに人間を選別する競争社会に叩き込まれている。
 幼稚園や小学校に入れば、必ずお絵描きやかけっこで、順位を強要され、上位だと誉められ、下位だと嘲笑され、上位を目指さねば人間でないかのような洗脳を受けてしまう。

 私は、こうした競争選別主義が、世界における人間犯罪の99%の原因になっていると考える。

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達磨と維摩

達磨大師は、私の記憶では(下に書かれているのと少し異なり)「面壁十年」とされていたと思う。その結果、足も血行障害か何かで失った(という伝説・風評)から、我々のよく知る「だるまさんが転んだ」のあの達磨人形ができたわけだろう。
しかし、面壁十年だろうが九年だろうが、それほど長期にわたって座禅しないと悟れなかったというのは、かなりの鈍根というか、愚物だったのではないか。
これと対照的なのが維摩(ユイマ)居士で、まったく修行などしないで即座に釈迦の教えの核心を悟った、つまり、「輪廻の鎖」から脱したという。他の弟子たちはほとんど悟れなかったようだ。だから、あれほど膨大な仏典(釈迦が書いたものは存在しない。膨大な仏典の大半は、愚鈍な弟子たちや孫弟子たちが創作したもの。)が残され、後世を誤らせているのだろう。
山本七平と小室直樹の対談の一部(小室の発言)を引用する。

(以下引用)

小室「維摩は俗人であって、釈迦を尊敬しているが弟子ではない。なんらの戒律を守っているわけではないが、独力で悟りを開いてしまっている。仏教の立場からすれば、これでよいのであって、彼は既に救済されている。」「維摩のほうは、魔王から家来の魔女をもらいうけて妾にしたりしている。こんなことをしても、悟りさえ開いていれば、それでいいわけです。これこそ仏教の真髄。古来、維摩経がきわめて高く評価されてきたのも当然だと思います。」

(以上引用)

何となく、一休禅師(「本物」のほうの一休宗純)のエピソードを想起させる。
魔女を妾にするなんて、羨ましいではないか。むかし、テレビにあった「可愛い魔女ジニー」を思い出す。「奥様は魔女」というのもあったし。奥さんや恋人にするなら聖女より魔女だろう。聖女は畏れ多くて手が出せないwww

ついでに達磨のエピソードも引用しておく。これ自体は悪いエピソードではない。ただ、釈迦の教えは、それほど難しいと印象されているのか、と、アホ臭く思うだけだ。

(引用2)



弟子の曇林が伝えるところ[3]によると、菩提達磨は西域南天竺国において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば南北朝の時代(遅くとも479年の成立以前)に宋境南越にやって来たとされている[4]


北宋時代の景徳年間(1004 - 1007年)に宣慈禅師道原によって編纂され禅宗所依の史伝として権威を持つに至った『景徳伝燈録[5]』になると、菩提達磨は中華五祖、中国禅宗の初祖とされる。この灯史によれば釈迦から数えて28代目とされている。南天竺国香至[注 2]王の第三王子として生まれる[6]中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで道育、慧可弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗(りょうがしゅう、楞伽経にちなむ)と呼ばれた。


普通元年(520年)、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。9月21日10月18日)、広州に上陸。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝はが治めていた。この書では南朝梁の武帝仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。武帝は達磨に質問をする。

帝問曰「朕即位已來、造寺寫經度僧不可勝紀。有何功德。」
師曰「並無功德。」
帝曰「何以無功德。」
師曰「此但人天小果有漏之因、如影隨形雖有非實。」
帝曰「如何是真功德。」
答曰「淨智妙圓體自空寂、如是功德不以世求。」
帝又問「如何是聖諦第一義。」
師曰「廓然無聖。」
帝曰「對朕者誰。」
師曰「不識。」
帝不領悟。師知機不契、是月十九日,潛回江北。— 『景徳伝灯録』巻三
帝は質問した。「朕は即位して以来、寺を造り、経を写し、僧を得度すること数え切れない。どんな功徳があるだろうか。」
師は言った。「どれも功徳はありません。」
帝は言った。「どうして功徳がないのか。」
師は言った。「これらはただ人間界・天界の小果であって、煩悩を増すだけの有漏の因です。影が物をかたどっているようなもので、存在はしても実体ではありません。」
帝は言った。「真の功徳とはどのようなものだろうか。」
答えた。「浄智は妙円ですが、その本体はそもそも空です。このように功徳は俗世間で求められるものではありません。」
帝はまた質問した。「聖諦の根本的意味はどのようなものだろうか。」
師は言った。「この世はがらんどうで、聖なるものなどありません。」
帝は言った。「では朕と対座しているのは誰なのか。」
師は言った。「認できません。」
帝はその意を理解できなかった。師は機縁が合わなかったと知り、この月の19日にひそかに江北に帰った。

後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかった。


白隠慧鶴筆『達磨図』

達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされている[7]が、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる『坐禅の定義』[8]などに継承されている。


大通2年12月9日529年1月4日)、神光という僧侶が自分のを切り取って[注 3]決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。[10]


永安元年10月5日528年11月2日)に150歳で遷化したとされる[11][注 4]。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう[12][13]円覚大師[14]

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天皇制と「エタ・ヒニン」の関係?

「逝きし世の面影」の宗純氏の文章の一部だが、粗雑な論理である。
私は尊皇主義だが、「神権的天皇制(古代天皇制)」の支持者ではないし歴史にも詳しくないので、単に論理だけを論じるが、天皇制の本質は「一君万民」だったのではないか。つまり、人民の間に「エタ・ヒニン」を作る(できる)のとは話がまったく違う。
そして「人の上に人を作る」のは資本主義でも共産主義でも社会という組織の活動の上で不可避のことで、天皇制とは無関係な話だ。
その「人の上に人を作る」が、「天皇神格化」のことなら、既に終わった軍部支配時代の話だ。むしろ、半分は意図的に作られたとしても、「神の存在しない」近代社会において「天皇の神格化」がなぜ可能だったか(それが日本の文化の土台に存在し、民衆の好意的反応があったからこそ、そしてそれが「日本の誇り」の象徴であったからこそだろう。)を考えることこそが、日本という国の未来を考える上で有益なのではないか。
なお、「民主主義」が事実上不可能な政治システムであることを聡明な宗純氏は分かっていると思う。だから「代議制民主主義」という「背後から操作可能」な偽民主主義が世界のほとんどの国で行われ、そのほとんどが「民衆搾取政治」になっているのである。

言うまでもないと思うが、私は「民主主義批判」を「天皇親政」に直結させるほどの馬鹿ではない。それでは226の過激派青年将校と同じである。しかし、天皇こそが日本の象徴だ、という意見は私の信念であり、それは日本国憲法の言明するところだ。そして天皇は、あるいは「日本を守る最後の盾」になる可能性もあると思う。なぜか。それは天皇はその存在意義の上で日本と一心同体だからだ。

(以下引用)


この「逝きし世の面影」ブログのカテゴリー「部落解放同盟」が詳しいが、生まれながらに尊い人を作れば自動的に生まれながらに卑しい人も生まれる。人の上に人をつくる仕組みは絶対に駄目で、天皇制とエタヒニンは一つのコインの裏表の関係で、基本となる仕組みが同一なのである \(^o^)/




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神道と日本人精神

サイト名は忘れたが、神道の根本的知識である。
こういうのを載せたからと言って、私が「日本神道連盟」なる右翼組織に共鳴しているなどと思わないように。あんなのは政治活動家による宗教利用である。

ごく主観的な意見を言えば、神道は、世界で唯一の「和の思想」である。その和は祖先から子孫に至り、自然や地球全体に及ぶもので、当然、世界中の人間が和の対象だ。自然破壊もしない。
引用記事中の言葉を借りれば、

神道は生きている今(今中)を大切にした森羅万象や宇宙などへの信仰です。この世での生活を大切にし、自然と調和しながら充実した人生を送ることが重要であると考えられています。

つまり、あなたも私も、いや世界全体、宇宙全体が「神」なのである。あるいは「神性」を本来持っているのである。

で、神道の最大の特徴は「穢れ」を忌むことで、この「穢れ」は(私の考えだが)当然「汚い行動」をも含むだろう。つまり、これだけですべての倫理道徳を含むのである。

すべてを「法律的に」定義する西洋的(ユダヤ的)発想(契約の思想)とは大違いであり、後者は「その法規をいかにして搔い潜るか」の永遠の連鎖となる。(山本七平の本は、ほとんどがそうした「ユダヤ的発想」肯定論になっている。)結果的に「無邪気な、信じやすい善人が苦しみ、狡知に長けた悪人が栄える」社会になる。契約社会とは近代資本主義社会でもある。それは道徳性とは無縁の社会だ。

西洋思想が入ってくるまでは、武士には武士道徳、商人には商人道徳、庶民には庶民道徳、ヤクザですら「任侠」というヤクザ道徳があり、それらは日本文化の根底に根差していたはずだ。つまり「汚らわしい行為をしない」である。金持ちが軽蔑され、常に話の悪役にされたのは、「汚らわしい行為をしないで蓄財ができるはずはない」と考えられたからだ。だから心ある富商は慈善や社会貢献もしたのである。

さて、今の日本はどうだろうか。

カネがすべて」の社会になっていないか? 宗教的集団が社会不和の種を撒き、戦争肯定(殺人肯定)思想を平気で主張していないか?

参考として、下のコメントを挙げておく。ここに書かれた「日本の美点」が消えつつあるとしたら、その原因が「新自由主義的精神(獰猛な利己主義)」の拡大にあるのは明白だろう。

■ 私は10年以上前に日本に引っ越してきたけど、
  それ以来日本を出る意欲がなくなってしまった。
  日本は美しく、清潔で、安全で、平和で、
  人々は信じられないくらい親切。
  ビーチにも行けるし雪だって見られる。
  あらゆる体験が出来て、よく整備されていて、
  そしてどの季節も素晴らしい。 +7 ベトナム




(以下引用)

神道は「宗教」ではない?

神道は一般的に「宗教」とは呼ばれません。なぜなら、神道には明確な教義や経典、開祖が存在しないからです。


神道は、自然への畏敬と祖先崇拝を中心に、長い歴史の中で自然発生的に形成されてきた信仰体系です。そのため、「信じなければならないもの」が明確に定められていないのです。


一方、仏教は釈迦を開祖とし、経典に基づいた明確な教義を持つ宗教です。

世界観の違い

神道は自然や人間、生命体など、宇宙に存在する一切のものを神格化し、お祀りしたり、信仰したりします。一方、仏教は「悟りを開く」ことを目指し、心の迷いがなくなり安らかな境地に達することを求めます。

生前・死後の考え方の違い

神道には輪廻転生の概念はありません。死後、人は黄泉の国と呼ばれる死者の国へと旅立ち、そこで祖先と再び出会うと考えられています。


一方、仏教では輪廻転生を信じ、悟りを開くことで輪廻から解脱し、涅槃(ねはん)と呼ばれる理想的な境地を目指す考え方があります。

人生の捉え方の違い

神道は生きている今(今中)を大切にした森羅万象や宇宙などへの信仰です。この世での生活を大切にし、自然と調和しながら充実した人生を送ることが重要であると考えられています。


一方、仏教は来世重視の宗教です。仏教では、「人生は苦」という根本的な教えから始まります。


無常、無我、非苦という三つの真理に基づき、老病死や人間関係の悩みなど、あらゆる苦しみは避けられないものであると考えます。また、仏教は、苦しみの根本的な原因を明らかにし、苦しみから解放されるための具体的な方法を示します。*4)

神道と天皇の関係

神道と天皇は、古代から深い関係にあります。天皇は、神道の神々、特に天照大神の直系の子孫とされ、国家の象徴として、また神聖な存在として尊重されてきました。また同時に天皇は、宮中三殿において全ての神々祀る神主の役割を果たしています。天皇が古代から行ってきた宮中祭祀を中心として「皇室神道」があります。


現代の天皇は、政治的な権力を持たず、象徴としての役割を果たしています。しかし、国家と国民の安寧と繫栄を祈る「宮中祭祀」を執り行うことは、今日でも天皇の重要な役目です。

神道における神社の役割

神社は、日本固有の宗教である神道の神々を祀る施設で、全国に10万社以上あり、生活に密着したものになっています。


一般的に神社は神様の家とされ、参拝場所としての役割があります。多くの人は毎日の感謝の気持ちを伝え、また家内安全や無病息災、合格祈願といった願いをし、人々の心の拠り所となっています。


神社によって祀っている神が様々なことも神社の特徴です。高天原に住む神々(天津神)や土着の神々(国津神)だけでなく、歴史上の偉人、動物や自然、中には外国の神様を祀った神社もあります。


神社は色々な神様の家であると同時に、パワースポットや地域文化の継承地といった様々な側面があり、日本人のアイデンティティを形成しています。

神道に関してよくある疑問

【『日本略史 素戔嗚尊』に描かれた須佐之男命とヤマタノオロチ】

神道は日本の伝統と文化、そして人々の生活の中に深く根ざした信仰体系です。しかし、神道の起源は非常に古く、未解明のことや今なお研究中のことも多くあり、その本質や特性については、多くの人々がまだ理解していない部分があります。


ここでは神道についてのよくある疑問にお答えします。

宗教ではないの?

神道は、一般的な宗教の枠組みには当てはまらないと考えられています。神道は、自然や祖先、そして日常生活に存在する神々を尊重し、感謝する信仰体系です。


神道には、一元的な神や教義、組織的な教会体制は存在しません。自然や祖先への畏敬の念に基づいた、長い歴史の中で自然発生的に形成された信仰体系と言えるでしょう。

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物事には複数の面がある(東海アマ氏批判)

これも「東海アマブログ」記事の一部で、アマ氏が何度も書いていることだが、私はこれを違う見方で考えてみたい。
ユダヤ人が13歳までに旧約聖書の一部を(かなり膨大に)暗記するという義務のことである。氏はこれを、その内容の残虐さや不道徳性から否定的に捉えているが、私は、この「教育」がユダヤ人の「記憶力」を圧倒的に向上させ、その知的能力の拡大の土台になったのではないか、という説を提起する。
つまり、前に書いた、短い真言「オン・バサラ・アラタンノウ・オン・タラク・ソワカ」を百万遍唱えて覚えるという「強制的記銘」が、その後の暗記課題の克服の起点になるというのと同じ意味である。百万遍唱えるという「努力の経験」が、その後の学習への取り組みを容易にするということである。「あれができたのだから、これくらい何でもないさ」となるわけだ。1秒で暗記できたから終わり、とはならないのである。「百万遍唱えた」という経験が大事なのだ。
これは、昔の中国の「科挙」の試験のために、受験者が四書五経を暗記したのと同じである。受験者の「暗記能力」を測るのが科挙の真の目的で、それがあれば役所の仕事に必要な能力の土台はあるということだ。もちろん、儒教自体が、いわば「公務員心得」的なものであり、その内容を覚え、身に着けるというのも大事だっただろう。(だから徳川政権は武士たちに儒教学習を推薦したのである。)(要するに、アマ氏の「儒教=身分差別の根源」という見方はかなり近視眼的である。今の公務員や上級国民に「仁義礼智信」の儒教精神の持ち主などいるか?)


(以下引用)

だが、ユダヤ人には、バルミツワという宗教的義務が課せられていて、13歳までに旧約聖書の一部を暗唱してラビの前で暗唱しなければならない。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%84%E3%83%AF%E3%83%BC

 ここで暗唱するのは、創世記の一部、陰謀で他部族を殺戮するものや、たくさんの虐殺処刑ばかりが含まれている。
 https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/ot/gen/34?lang=jpn
 https://www.logos-ministries.org/old_b/lev19-20.html

 このなかに陰謀殺人や姦通の投石処刑などが、これでもかと詰め込まれていて、これを幼いうちから暗唱させられると、どんな人間性が成立するのか?
 それは、ビルゲイツのような超絶サイコパスばかりを大量に生み出すのだ。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6199388.html

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小室直樹の「日本仏教非仏教論」


「これ(注:すべてを因果応報で説明すること)を別の言葉で言うと、徹底した輪廻の法則による因果律なんですよ。それくらい徹底させれば、もう仏教じゃない。仏教の目的は解脱することで、悟りを開くことである。悟りを開けば輪廻の因果律から外へ出ることができる。それがあり得ないというのは、悟りを開かないということですからね。日本にくると、仏教みたいに見えながら仏教とは全く違ったものになる。」(山本七平対談集「日本教の社会学」の中の小室直樹の言葉)

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「家庭の幸福は諸悪の本」と「悪の凡庸さ」



闇の中でソファに座ってぼんやりと考えていた時に、太宰治の「家庭の幸福は諸悪の根源」(正確には「諸悪の本」のようだ。)という言葉が頭に浮かび、もしかしたら、これこそが、私が延々と構想している(というか、書きたいと思っている)「組織悪」の本質、あるいは機序ではないか、と思いついて、ネットで調べていて見つけた記事である。
実にいい記事で、なぜ「家庭の幸福は諸悪の本」なのかが明白に分かり、それが私の考えていた「組織悪」の根本であることが確認できたので、転載する。先に、私によるまとめを赤字にして書いておく。

つまり、「家庭を守るため」という名目が、自分の属する組織の悪を自分が実行する名目になり、免罪符になるということである。しかもそれは「自分の家族」だけでなく「組織構成員全員の家庭の幸福を守る」という「立派な」大義名分を持っている。

これで、なぜ組織悪が発生するかは明白になったようだ。言いかえれば、組織は善人を容易に悪に変えるのである。それが「悪の凡庸さ」の本質であり、これは「状況(組織)次第で普通人が簡単に悪事を働く」という意味である。

(以下引用)「ことばとつばさ」というサイトから転載。

太宰治「家庭の幸福」を読んで

わかば
2021年1月25日 08:34

2021年1月23日(土)にオンラインで読書会を行いました。
ご参加いただいた4名の皆様、ありがとうございました。


読書会報告記事ということで無料版です。


以前の読書会では課題本はわたしが決めていたのですが、最近では会の終わりに参加者で話し合って決めています。


前回『ヴィヨンの妻』を読んだ際に、もっと太宰治を読みたいという話になり、参加者のお一人の『家庭の幸福』がおすすめだという話を受けて、今回はこの課題本になりました。


青空文庫で読めます。


太宰治、あいかわらず

太宰治は相変わらずな生活です。飲み歩き、借金を作り、女と遊んで、朝帰り。家族は明日食べるお金にさえ困っているのに、自分だけは放蕩生活の通常運転です。それなのに本人は「死にたい」……。


そんななか、奥さんと子どもたちが原稿料が入ったのをいいことにラジオを買ってきます。そして、みんなで楽しく聞いているのです。


このラジオ、みんなで楽しく聞いて笑顔になるところ、家庭円満の象徴ですね。


太宰(主人公)は、にがにがしく思いながらも、病気で寝ているときにラジオを聞くのです。引き込まれて聴き続けているうちに夜になると、『妙なもの』を聴きます。それは、政府の役人と民衆の街頭録音でした。

太宰治、公務員にキレる

この辺りから、太宰が役人の態度に対してキレはじめます。


現在の国会中継と同じで、役人は奥歯にものが挟まったような言い方しかしないわけです。しかもニヤニヤしながら。

つまり、その官僚は、はじめから終わりまで一言も何も言っていないのと同じであった。

と言い切り、もし、その場にいたらこう言うのだ!といきまきます。読書会では音読をしたのですが、このあたりを声に出して読むととてもスカッとします。

あなたはさっきから政府だの国家だの、さも一大事らしくもったい振って言っていますが、私たちを自殺に導くような政府や国家は、さっさと消えたほうがいいんです。誰も惜しいと思やしません。困るのはあなたたちだけでしょう。何せクビになるんだから。

今の世にもう一度生き返って言ってほしいくらいですよね。というより私たちが言わなければならないことです。


そして、さんざん文句を言ってから、自分は政治活動に興味がないとして、

私の視線は、いつも人間の「家」のほうに向いている。

と言います。これ読書会でもお話したんですけど、すごく印象的な言葉です。太宰は家庭というものを嫌悪してたのかな?家庭の幸福を手に入れたくて、でも、手に入れられず癇癪を起こしていたのかな?


このあたりで読了後のトークが盛り上がりました。


実は、わたしも家庭というものに心安らがない人なので、少し太宰の気持ちがわかるんですよね。

太宰治、読者に一撃を与える

それで、太宰は、公務員が家庭の幸福を守ろうとすればするほど、国民にとって優しくない社会になると結論づけます。めちゃめちゃ極論です。


そして、物語の最後はこう締めくくられます。

家庭の幸福は諸悪の本

これはかなりの一撃でした……。


自分のいい加減さを棚にあげ、国民が貧困に喘いでいるのは、公務員が、恵まれた待遇で「ラジオ」なんかを聴きながら、自分の家庭のためだけに働いているからだ。それが諸悪の根源なのだと喝破されるのです。


極論だとは思うけれども、あながち間違ってもいないし、政治、社会、家庭など太宰の描くもの全てが繋がっている気がしました。


その極論に乗せられて物語としても、社会に対する抗議としてもどこかでその世界観を楽しませてもらっている自分がいました。不思議です。


でも、考えてみたら、幸福で理想的な家庭なんてあるんでしょうか。わたしはないとおもいます。太宰が断罪している役人の家庭だって何かしら不幸の種はあるはずです。それが見えないところがまた人間なのだと感じられました。


みなさんと最後にああだこうだいう物語としても最高の一編でした!次回も楽しみです。


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それだけで人生は生きるに値します。

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