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「やつは敵である。敵を殺せ」は人類を呪縛する呪いの言葉

埴谷雄高のこの言葉は、昔読んだ時にはあまりピンと来なかったのだが、政治や歴史に興味を持つようになると、まさに政治と歴史の実相はこの一言に尽きていると感じる。
そして、国民が容易に政治家(一般人でもこれに近いことを言う。)のこの言葉に煽動されるのは、前に言ったように「感情は理性では制御できない」からである。感情を理性で制御できると思っている人がいたら、その頭をぶん殴ってみるがいい。その人の心は即座に怒りと屈辱で燃え上がり、制御を失うだろう。
なお、この「呪いの言葉」の対極にあるのが、キリストの「汝の敵を愛せよ」であるが、どのような政治家もこの言葉を前面に押し立てたことはない。それは、「言った瞬間に(国民に憎悪され)自分自身が敗北する」と心の底で思っているからだ。(キリストに近い思想の政治家が、鳩山由紀夫氏だっただろうと私は思っている。)
相手を敵と味方に分けることで自分が「味方の集団の中にいる」と思うことが、人に限りない慰安を与え、そして安倍や橋下のような政治家に都合よく行動するのである。それを愚民と言う。





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これまでの政治の意志もまた最も単純で簡潔な悪しき箴言で示すことができるのであって、その内容は、これまで数千年の間つねに同じであった。

 やつは敵である。敵を殺せ。

(埴谷雄高)






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民族差別と迫害の心理分析

異国の人間、あるいは他文化圏の人間が隣にいる時の居心地の悪さというのは何が理由か。
それは、要するに「こいつとはコミュニケーションが困難だろう」と即座に予想されるのが第一の理由だろう。
と言うことは、話の行き違いで喧嘩になり、極端な場合はお互いに殺し合いをする可能性もある、ということだ。もちろん、それは「同じ文化圏の人間ならそうはならない」という誤解が前提にあるのだが、そちらは「まあ、まず大丈夫だろう」と心の中でなあなあになる。普段は同じ日本人にも警戒する人間も、こういう場合は「日本人同士だもんな」と都合よく解釈する。
大雑把に言えば、異文化の人間も、同じく人間としての精神的共通項が多いはずだが、問題はその「些細な(はずの)違い」が、お互いに「絶対的な違い」になることだ。
たとえば、「他人の咀嚼音に我慢できない人」というのは西洋人に多い。日本人が蕎麦やみそ汁を啜る音を下品極まる音と見做すわけである。それだけで、日本人を低劣な人種だと見下す馬鹿もいるだろう。
昔の日本人から見れば、人前も憚らず抱き合いキスする西洋人は動物的だと思われたはずだ。
これらは一例にすぎないし、現在では世界全体の風儀が西洋化しているから「絶対的な違い」ではなくなってはいるだろう。
西洋人の場合は最初から日本人とは違う文化だと思っているから、お互いの違いへの「覚悟」が最初からある。
ところが、日本国内にいる朝鮮人(韓国人)についてはどうだろうか。
日本人は彼らの風儀や言動が自分たちと違うことを許容するだろうか。いや、それを「かつて自分たちの植民地であった『劣等民族』」の風儀や言動と最初から見下げるのではないか。
つまり、西洋人に対しては、「自分たちより優れた文化圏の人々」と最初から畏怖し、朝鮮人に対しては逆に、最初から見下していたのではないか。

欧州やロシアにおけるユダヤ人迫害の場合も、「なぜ連中はここにいる必要があるのだ」と常に煙たがられていたわけだが、それは単純に「言葉も通じにくいし、我々とは違う風習(文化)を持っている」という煙たさだっただろう。それが、たとえばユダヤ人の商人に掛けで買い物をし、その催促をされた時に、「『俺』の国に勝手に居座っているくせに、偉そうな顔をしやがって」と逆恨みし、相手に暴行を加えたりする。そうすると、周囲の人間のほとんどは、理屈の通っているユダヤ人の味方をするのではなく、「同胞」の味方をするわけだ。つまり、感情が理性より大きな力を持つ。そうした小事件が積み重なっていくうちに、ユダヤ人憎悪は深層流となり、迫害は迫ってくるのである。
要するに、こうした民族差別の問題は、感情の問題だから、理性ではなかなか解決はできないのではないか、というのが私がここで当座の結論としておきたい考えだ。
ちなみに、「感情と理性は別のセンターを持っている」というのは、ロシアの神秘思想家グルジェフの考えで、私は、これを「理性は感情を制御できない」というテーゼとしている。
もちろん、「制御できない」は大げさな言い方で、「非常に困難だ」ということだ。







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読書(文章を読むこと)について

私はツィッターをやっていない(覗くだけである)ので、ツィッターの誤読の状況は知らないのだが、下に書かれたこと自体は「速読の技法」としては非常に正しいのではないか。まあ、ツィッター程度の長さの文章を誤読するのは、誤読される文章自体に欠陥がある場合の方がはるかに多いような気がする。誤字や文法的間違いやあいまいな表現や「自分独自の言葉の使い方」などはザラにある。
そういう「誤読されて当然」な文章をなぜあえて書くのか、と言うと、「思うこと言わざるは腹膨るるがごとし」(「徒然草」)ということだろう。私があまり誰も読まない文章を幾つかのブログで書いているのも、結局は自分自身との対話(想念)を形にして明確にしたいだけである。だが、ツィッターはもともと他人との対話のための手段だろうから、自分の発言が誤解されたら自分の文章の書き方を反省するのが先ではないかと思う。

なお、速読の技法(小説を速読する意味は無いので、論文などの場合)を書いておけば、

1:最初と最後を注意して読む。ただし、最初の部分は「書いた事情」や「どうでもいい前置き」「作者の言い訳」など、読む価値が無いことも多い。しかし、「結論を先に書く」タイプもあるから、その場合はそこだけ読んで終わりにしてもいい。
2:文章の中盤は、漢字部分とカタカナ部分だけ拾いながら流し読みする。

というものである。それ以外の平仮名部分は、助詞助動詞そのほか、「思想や概念そのものではない」ので、肯定文か否定文かだけ気をつければいい。
一番の時間の節約は、「読まないでいい文章は読まない」ということで、自分の興味の無い話題や「語彙が特殊な文章(宗教関係や哲学関係)」「難読漢字だらけの文章」などは私はほとんど読まない。(読めない、というほうが正確か。幸田露伴の文章の多くは、読めたらいいなあとは思う。)
ついでに言えば、哲学書はデカルトの「方法序説」だけで十分だと私は思っている。この非常に読みやすく薄い本は思考法の基本と思索の喜びを私に教えてくれた。長い本の例で言えば、プラトンの「国家」なども部分的(トラシュマコスの発言関係など。)には面白かったが、文章全体を苦労して読む必要は無かったと思う。今ならウィキペディアで要旨だけ知ればいい。ショーペンハウエルは、彼の哲学内容(中心思想)自体は知らないが、「読書について」や「自殺について」などはとても読みやすく、文章が機智に溢れ、エッセイとして面白い。(つまり、哲学者の書いた本だからと言ってすべてが難解なのではない、という例だ。)彼の「読書について」に書いてある、「読書とは自分の頭を他人の思想の運動場にすることである」という言葉は、読書についての非常に重要な指摘だと思う。この言葉は私の読書姿勢(つまり、警戒心と批判精神を持って読む。)への有益な指針になった。



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Twitterやってると「文字が読めると文章が読めるのは違うんだな」と実感することが多々あるのですが、文章を読めない人は①最初の3行くらいしかちゃんと読めない②文章に組み込まれた単語を拾って勝手に解釈をする③最初と最後だけ読んで間の文章が読めないというタイプがいるっぽいな


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命令服従構造の無い組織は不可能か

PTA役員選びはどこの学校でも揉めるのが普通だが、なぜPTAには無駄な仕事が多いのか、という理由を下のコメントが示している。
これは、PTA役員に自ら立候補して会長副会長という役職を無くし、母親の懇親会的な存在にし、そのついでに学校の見回りなどもすることでいじめを撲滅したという、或る母親についてのスレッドのコメントである。
組織の腐敗は、どんな小さな組織でも組織が宿命的に持っている命令服従構造、つまり権力システムから来る、ということのささやかな例として転載。

(以下引用)




24:鬼女まとめ 2016/06/02(木)19:46 mFJ
会長があるからいけないってほんとそう。

会長って、数回やると出馬の足掛かりや、自営の名売りになるからやりたい人が存在する。
⇒ある程度実績ないと意味ないからバザーなどの行事をやる。
⇒役員大変⇒なんで自分だけ?みんなやれよ!⇒強制的に役員
⇒嫌々なった人が簡略化を訴える⇒会長とかをやりたい人が断固反対の無限ループ

最近、強制PTA役員が全国的に問題になってる。
本当に出来ない人にやらせるって。
母子家庭のママさんとか、ガンのママにも欠席裁判。
断ると村八分、引き受けたら完璧を求められる。

私は何度も簡略化するか、事情がある人は配慮してあげてと言ったけど、
会長副会長に一蹴されたわ。

私は子供関係のボランティアは普通の何倍もこなしてきたけど、
それは他の大変なお母さんにその分楽して欲しいから。
けど、タヒなばもろともな思考の人が多くて困る。


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「風が吹けば桶屋が儲かる」は事実か嘘か

たとえば、マスコミがこれを「親に叱られたショックで子供が死んだ事件(事故)」と書いても、嘘ではないだろうが、出来事の根本を誤解させることになる。
つまり、「出来事を要約して伝える」ことは大きな間違いのもとになりうるわけだ。



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スーパーボールを口に入れて遊んでいた子供を叱ったら驚いて吸い込んでしまい窒息して亡くなったという話を知り、「小さな物を口に入れないよう気をつける」だけでなく「口に入れた時の注意の仕方に気をつける」と心得ています。
特に夏休みで帰省中は親類に情報共有が大切。


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だが、公憤や批判精神は健全な社会の礎である

加藤諦三という人は、私の知っている人物だとしたら、1970年代くらいにやたらに人生論みたいな(人生の先輩から若者への偉そうな忠告みたいな)ことを書いていた人で、私は若かったから当然そういう「上からの説教」には反発していたのでひとつも読んだことは無いのだが、当時はなかなかベストセラーにもなっていたと思う。
まあ、そういう「心に刷り込まれた反発心や嫌悪感」が残っている現在の目で見ても、下の言葉は非常に正しいと思う。
ただし、それは正論を言う人間の心理分析として正しいというだけのことで、正論を言うこと自体が批判される(現在、そういう風潮すらある。)べきでないのは当然のことである。

じっさい、私自身が「社会の規範を守らない人間」大きくはヤクザや犯罪者、小さい場合は入れ墨(刺青)人間や下品なファッションの人間や無神経な人間や狡猾な人間が大嫌いなのは、自分自身が「いつもやりたくないことをやらされていた」からだろうと思う。ただし、その選択は(生きていくための選択として)自分自身で決めたものだから、特別な誰かに不満などまったくない。
あるのは、そういう、「嫌なこと(勉強や仕事などwww)」をしないと生きていけないという世界そのものへの不満だけである。したがって、私は常に「平凡人のユートピア」、つまり理想的社会主義社会を夢見るのだろう。まあ、要するに、現在の科学の成果と文化的蓄積があれば、一部の人間による過剰な収奪という愚行さえ無ければ、ほとんどの人間(平凡人)が週3日の6時間労働くらいで月給25万円くらい(家賃不要で、可処分所得が15万円くらい)得られる社会を作れるはずだ、と私は思っているのである。





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いつもやりたくないことを強引にやらされていた人は、憎しみと怒りがある。すると社会の規範を守らない人を許せない。秩序を乱す人を許せない。正論を盾にして、くやしいことをぶつけている。それは憎しみと怒りが正論に変装して現れてきた姿である。


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「無知」への嘲笑の正否

こういう事象を見て対象となる人々を嘲笑するのは容易だが、その「間違い」の原因や理由まで考えると笑うべきことかどうか分からないのではないか。

テレビ制作者たちは、単に図形感覚が無いとか比率が分かっていないのではなく、世代別の懲戒処分者数の中で「10代~20代」の多さを視聴者に印象づけようという「意図的ミスリード」であったと考えるべきだろう。その証拠に、円グラフの扇形のサイズだけでなく、字の大きさまで変えている。まあ、それにどういう底意があるのかまでは知らない。それが印象操作なら、私は、この種の印象操作は、単なる無知による過ちよりはるかに悪質だと思う。)

ケーキの切れない非行少年たちが、なぜ奇妙な「三等分」の図を描いたか、というのも、理由があると思う。一番単純なのは「三等分」を単に「三つに分ける」ことだと誤解していたというものだ。つまり「等分」の意味を知らなかっただけではないか。(ついでに言えば、「無知」は頭が悪いというのとはまったく別である。これらの非行少年がものすごく頭はよいという場合もあるだろう。)

そんなの(「等分」の意味)は小学校2年か3年くらいで習っているだろう、と言われるかもしれないが、算数の授業に興味の無い子供が毎度毎度授業をしっかり聞いているはずはない。そして、実生活でケーキや何かを分ける場合、「俺が一番体がでかいから(喧嘩が強いから)多く取る」という方法だけでやってきた可能性もある。
だから何だ、と言われたらそれまでだが、物事にはだいたい理由があるのだから、あまり表面だけ見てあれこれ言わないほうがいい、ということである。また、深い意味がある場合には、それを考察するのも娯楽である。




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ケーキの切れないテレビ制作者たち




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男性
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考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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