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「予定説」という奇怪な思想

吉田拓郎の歌で岡本おさみ作詞の「祭りの後」という歌があるが、その中に「日々を慰安が吹き荒れて」というフレーズがある。早朝散歩の間というか、歩き始めになぜかそのフレーズとメロディが頭の中を浮遊していたのだが、なぜ「慰安」に「吹き荒れる」というマイナスイメージの言葉が続くのだろうか、と考え、それは「慰安の前」には「不幸、苦しみ、悩み」があるからだ、という結論になった。つまり、「吹き荒れて」いるのは実は我々の人生の不幸なのである。
そこから、どういう経路でか、「宗教というのも、我々の間で吹き荒れている慰安なのではないか」という思考に至ったのだが、つまりはそれが宗教の「現世利益」であり、それは決して馬鹿にできるものではない。来世に天国に行けるかどうかではなく、その宗教を信じることによる慰安こそが宗教の価値なのだ、というわけだ。
というのは、キリスト教には「死んで天国(神の国)に行けるかどうかは最初から定められている」という恐ろしい思想の宗派があるからだ。とすると、現世で善行をしようが悪行をしようが、無関係だ、ということになる。あるいは、我々の行為は最初から決定されており、自由意志などない、という思想になる。そのどちらも現世の道徳を無化する恐ろしい思想だが、案外、平気で悪行をする宗教者や宗教信者はそういう思想かもしれない。
つまり、宗教が道徳的かどうかは、その宗教と無関係だ、という思想になり、たとえばオウム真理教も、信者に「生きる意味」を与えたとすれば、宗教としての存在意義はあった、となるかもしれない。

「予定説」について、ウィキペディアから引用する。


予定説(預定説、よていせつ、英語: Predestination)は、聖書からジャン・カルヴァンによって提唱されたキリスト教神学思想。カルヴァンによれば、救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとする(二重予定説)。神学的にはより広い聖定論に含まれ、その中の個人の救済に関わる事柄を指す。全的堕落と共にカルヴァン主義の根幹を成す。


予定説を支持する立場からは、予定説は聖書の教えであり正統教理とされるが、全キリスト教諸教派が予定説を認めている訳ではなく、予定説を認める教派の方がむしろ少数派である(後述)。

内容

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予定説に従えば、その人が神の救済にあずかれるかどうかはあらかじめ決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないとされる。例えば、教会にいくら寄進をしても救済されるかどうかには全く関係がない。神の意思を個人の意思や行動で左右することはできない、ということである。これは、条件的救いに対し、無条件救いと呼ばれる。神は条件ではなく、無条件に人を選ばれる。神の一方的な恩寵である。


救済されるのは特定の選ばれた人に限定され、一度救済にあずかれた者は、罪を犯しても必ず神に立ち返るとされる[1]。これは、聖徒の堅忍信仰後退者の教理である。[2][3]

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論語の考察3 「文章」とは何か

些細な事柄が大きな意味を持つこともある。
ここに書くことは、「論語」の中では些細な事柄だが、様々な分野の「専門家のダメさ」を示すという、「大きな意味」を持っている。専門家は、蓄積された「学問の先達の定説」が固定観念となり、その受け継いだ説の馬鹿馬鹿しさや非論理性に気づきもしないのである。

さて、ここで問題になるのは「文章」という漢字熟語である。この「文」も「章」も「あや、飾り」の意味があることは、漢字の初歩的知識だろう。名前の「文子」を「あやこ」と読ませ、太陽をデザインした国旗を「日章旗」と呼ぶ類だ。つまり、おおげさに言えば、これが「デカルト流」の「分析」である。分けて考えることだ。さらに、分けたものをまとめるのが「総合」だ。

以上は前置きで、本題の「論語」の話である。「論語」公冶長篇に「夫子の文章は得て聞くべきなり。夫子の性と天道とを言うは得て聞くべからざるなり」という文章がある。(書き下しは金谷治のもの。)これを、金谷治と宮崎市定はそれぞれこう訳している。

(金谷訳)「先生の文彩は(だれにも)聞くことができるが、人の性(もちまえ)と天の道理についておっしゃることは(奥深いことだけに、ふつうには)とても聞くことはできない。」

(宮崎訳)「先生の生活の哲学は、これまでいつも教えを受けてきたが、先生の性命論と宇宙論とは、ついぞ伺ったことがない。」

問題は、それぞれの訳文の「文章」の訳である。私が赤字にした部分だ。どちらもひどい訳である。金谷の「文彩を聞く」という日本語もひどいが、宮崎の「文章=生活の哲学」もひどい。

では、どう訳するべきか。例によって漢和辞書を調べると、「文章」の説明の中に「礼楽、制度、教育など、一国の文化を形成しているもの」とある。論語のこの文章の文脈的に明らかにこれが正解だろう。とすれば、どう訳するか。「文彩」や「生活の哲学」がダメすぎるのは当然だが、私なら、「文化規範」とする。

「先生の文化規範論一般は聞くことができましたが、人の本性は何かや天道はどういうものかは聞けませんでした」となる。

これを別の言い方をすると、「孔子は形而下の説は講義したが形而上の話はしなかった」ということだ。まさに「怪力乱神を語らず」である。


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日本精神が世界を救う、か

マッドサイエンティスト井口博士の「大摩邇」所載記事だが、アマルティア・センの思想が私の「大和(大いなる和)の精神」が世界を救うという思想と酷似しているので転載する。
一応、ユーチューブ動画も載せておくが、私は動画嫌いなので自分では見ていない。(文章は一瞬で読めるが、動画は視聴に時間がかかりすぎて時間がもったいない。)(日本語の文章は不要箇所は飛ばして読めばいい。漢字やカタカナ部分を見れば、その判別は容易である。機能性では世界最高の言語だろう。誤字があっても推理・判読は容易だ。)

(以下引用)
【海外の反応】「日本こそ世界の希望だ!」ノーベル経済学賞の権威アマルティア・センが語る、世界が学ぶべき日本の真実
【コンスピラシー】スノーデンの生きる世界と全く違う世界を構築することが日本の道。ノーベル経済学賞の権威アマルティア・センが語る、世界が学ぶべき日本の真実_d0407307_14531034.png
これはインド人のノーベル経済学賞受賞者アルマティア・セン博士の意見ということである。
彼の結論は単純。
日本がなければ地球は崩壊した
ということだ。
なぜ日本がなければ地球は崩壊したのだろうか?
これを我々日本人は肝に銘じてよく理解する必要がある。
アルマティア・センの結論は以下のものである。
日本は世界にとって非常に重要な国だ。
日本は世界の希望である。
日本の調和を重んじ、利他的な精神を基盤とした社会は、人類が未来を築くための手本になる。
「和を以て尊しとなす」の聖徳太子の十七条の憲法の精神が社会の至る所に根付く国である。
日本は性善説の国である。
センさんの結論は非常にシンプルである。
要するに、もし日本がなかったら、ヨーロッパの大航海時代に全世界は白人国家の植民地になり、白人とその奴隷の社会という地球になっていただろうというわけである。
日本人はそれをどうやって阻止してきたのか?
これを我々日本人は今以上に研究しなければいけないわけだ。
要するに、我々日本人がこれまでずっと持ち続けてきた「日本らしさ」、それをこれからもずっと維持していかなければいけない。
これが私の哲学である。
哲学というものが決まれば、それから先は自ずと決まるようになる。
当然そのためには英語や中国語より日本語である。日本語中心で考えること。これが必須条件になる。
日本の作法や日本の様式が重要になる。
しかしながら、戦後一貫してGHQ以降は日本人的なるものはNHKに代表されるメディアから「時代遅れ」「差別的」「権威主義」「談合」というように蔑まれないがしろにされてきた。
だから昔に比べてほとんどアメリカ人と区別できないほどになったわけだ。
1960年代には数学者の岡潔博士がそのことの危険性をずっと警鐘を鳴らし続けたが、いまや岡の危惧は実現してしまった。
それでもまだほんの僅かだが日本らしさは残る。
ここを取り戻すような教育体制・社会体制に戻すのが今の日本にとっていちばん大事なことだと思うのだ。
要するに、前回のメモで見るような白人社会とは全く違う哲学の世界を作り上げることに日本は挑戦すべきだということである。
はたして日本は俺が思う方向に動くだろうか?
これまでの経験ではいつも俺が思う方向へは一度も動いたことはなかった。
だから、この問題も俺の信じる方向とは正反対の方向に動くのではないかと予想する。
いやはや、世も末ですナ!

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「朱子学」は存在しない(朱子批判と「格物致知」批判)

まず、なぜ「朱子学は存在しない」と言うかというと、朱子は自分自身のオリジナルな思想があるのではなく、それまでの儒学を体系化し、「四書五経」を選定し、「四書」を「五経」の上に位置づけ、さらに、「論語」を四書のひとつと位置づけることで孔子や「論語」を格下げし、「四書」の順序を「大学」「中庸」「論語」「孟子」とすることで、「大学」や「中庸」は「論語」以上の価値があるという「無意識を操作した」のである。
そういう意味では朱子は孔子の「敵」とも言えるだろう。
ただし、「大学」や「中庸」の持つ、一種の見かけの「論理性」は、こけ脅かしには最適のもので、それだけに「政治教科書」や「公務員教科書」としては使用しやすかったわけだ。

その「論理性」が見せかけのものだ、ということを「格物致知」を例にして説明する。

最初に、その「格物致知」がどういうように登場するかを引用する。

「古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は、まずその身を修(おさ)む」
「その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。知を致すは物に格(いた)るにあり」(大学・経一章)

まあ、セールスマンの早口トークを聞いているように催眠術にかけられそうなセリフだが、このどこにも論理性は無い。
念のために、どこでもいいから「なぜ?」という言葉をはさんでみるがいい。「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む」「なぜ?」

国を治めるという「君主にしか通用しない話」を、なぜ「公務員」が学ぶのだ?

つまり、ここですでに「朱子学」の欺瞞性が見えるのだが、末尾の「格物致知」が気になる人のために説明をする。

「格物致知」を「物に格(いた)り、知を致す」と読ませる漢学者が多いと思うが、それは習った通りに言っているだけだろう。この「格」は「いたる」ではなく「きわめる」と読むべきである。ちゃんと漢和辞書に「格:きわめる」の意味が載っている。そもそも、「物に至る」では意味不明だろう。「物」とは何か。
この「物」とは「あらゆる物」である。あらゆる物の性質や特質を「極める」のが「格物」なのである。だから、その作業によって「知を致す(知に至る)」わけだ。
だが、その結果が、国を治め、明徳を明らかにすることとどう結びつくのか。物理学者や科学者でないと君主になるべきではないのか。それとも公務員すら学者でなければならないのか。
ここに「公務員教科書」としての朱子学のインチキさがあるわけだ。この公務員を「士大夫」としても「武士」としても同じことだ。要は、「小人閑居して不善を為す」から、「道徳的で難解な教科書でも勉強させておけ」と言う話である。

私なら「その国を治めんと欲する者は、先ずその知を致す」でこの長々しい文章を一文にするところである。そうすれば「君主用教科書」にはなる。だが、あまりにも当たり前の言葉なので、誰も感心しないだろう。それを長々と尻取り文を続けることで、聞いている方は意味が分からなくなり、深遠な思想だ、と思い込むわけである。






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「古典」と「アルカイック」

小林秀雄の対談集を読んでいると、啓発的な言葉にしばしば出会う。言った当人自身がその言葉の重要性を知らないで言いっ放しで終わり、その思想を発展させたり体系化することは無いだろうが、いわば「詩人的直観」で社会や人生の貴重な宝石の輝きを目に留めている、という感じか。そういう意味で彼の本は読む価値がある。有象無象の「論理的で体系的な思想や著作」があっと言うまに無価値化するのとは違うようだ。

というのは前置きで、先ほどトイレで読んでいた彼の本(対談集)の中で私の興味を惹いたのが「古典的とアルカイックの違い」と、「ギリシャは海賊文化だ」という指摘である。

前者の事例が、「ギリシャは古典的だがエジプトはアルカイックだ」と「唐は古典的だが六朝はアルカイックだ」というふたつだが、つまり、私の理解で言えば、「古典的とはその後の文明や文化に継続されるもの」で、「アルカイックとは継続されず、ただ屹立するもの」となる。
さらに、「ギリシャは海賊文化だ」とは、ギリシャの海賊行為によって地中海文明のあらゆる文明的産物がギリシャに流れ込み、その後のヨーロッパ文明の源流となったという意味で、「ギリシャ文明が古典的であること」とつながるわけである。
これは、イギリスが海賊行為によって世界のあらゆる文化を略奪し、その繁栄でイギリス文明(文化)が形成されたのと同じである。日本は長い間の鎖国でアルカイック文明だったのが、イギリスその他に侵略され強姦される形で「世界文明」の一要素となったわけである。
強姦されようが、子供は生んだから結構だ、という思想もあるだろう。多くの男たちと遊ぶようになって人生が豊かになって結構だ、という思想もある。まあ、今の日本はヒモ(アメリカ)のための売春が仕事になったとも言えるか。

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論語考察2「我未だ剛なる者を見ず」

孔子が「我未だ剛なる者を見ず」と言うと、或る人が「シントウという者がいるではありませんか」と言う。すると、孔子は「シントウは欲がある。どうして剛なる者と言えようか」と答えた。
(公冶長 第5)

この話から見ると、孔子の考える強さとは精神的な強さであり、そしてそれは「自分の欲に対する強さ」だと分かる。ちなみに、「剛」という漢字は「強さ」よりは「硬さ」が主意かと思われる。つまり、「剛」の音符は「ゴウ」で、「硬玉」の「コウ」に通じるのである。欲に対する強さは、欲に対する防御の硬さ、とも言える。
外部の敵には強い人間も内部の敵である「欲」には弱いのが通例で、そこが多くの英雄偉人の失敗や滅亡の原因になる。
この話の直前に、サイヨ(宰与)という男が昼寝をして孔子がその行動をひどく怒る話があるのだが、たいていの人は「昼寝したくらいで何を怒るのだろう」と不思議に思うだろう。だが、それは孔子にはサイヨの学問に対する不熱心さであり、孔子の怒りは、昼寝をしたいという欲望に簡単に従う弱さへの激怒だったかと思われる。
さらに、その前のあたりに「仁者はほぼ存在しない」という言葉もあり、孔子の考える「仁」のレベルの高さも分かる。
「強さ」も「仁(博愛)」も言葉にするのは簡単だが、問題はその強さや博愛の質やレベルである。だから「巧言令色鮮(すくな)し仁」なのであり、口達者なサイヨの昼寝はその一例だ、と見るべきだろう。

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論語考察1「君子の天下におけるや、適もなく莫もなし」

私の別ブログに書いた記事だが、なかなか思考労働(娯楽でもあるが)をしたので、ここにも載せておく。気が向けば今後もこのテーマで書くかもしれないが、一回きりでもなかなか有意義な内容だと思う。それは「世間の『権威』を恐れるな」ということだ。素人が考えてもおかしいと思うことを「専門家」が書いていることは案外あるのである。

(以下自己引用)
最近、論語に興味があるので、それを読みながら、思い浮かんだことや考えたことをメモ的に書いていく。(念のために言えば「思い浮かぶ」と「考える」は別の思考である。「思い浮かぶ」は記憶の単なる想起であり、「考える」は「考察」であり、思考の深化だ。)

なお、参考資料として金谷治訳注の「論語」(岩波文庫)と、宮崎市定の「論語」(岩波現代文庫)を主に使用し、漢字は明治書院の「新釈漢和(新修版)」で調べるが、私自身の解釈をいきなり書くことも多いかと思う。何しろ、「論語」は紀元前の書であり、当時の漢字の意味が後世では分からないことも多いのである。つまり、漢和辞典にある説明が正しいとは限らないのであり、肝心なのはその解釈が合理性があるかどうかだ。

第一回は、「里仁第四」の「君子の天下におけるや適もなく、莫もなし」の解釈だ。

全体は「子の曰く、君子の天下に於けるや適も無く、莫も無し。義にこれ与(とも)に比(した)しむ」という文で、書き下しは金谷による。
なお、宮崎による書き下しは「君子の天下におけるや、適なきなり、莫なきなり、義をこれ与(とも)に比す」である。

今回は漢文そのものも書くが、面倒なので、これ以降は漢文は省略することが多くなると思う。

子曰 君子之於天下也 無適也 無莫也 義之興比

というのが、一応見やすく分かち書きした漢文原文である。
訳は、金谷のものが

先生がいわれた、「君子が天下のことに対するには、さからうこともなければ、愛着することもない。(主観を去って)ただ正義に親しんでいく」

宮崎の訳が

子曰く、諸君は天下に立って、古語にあるように、平平淡淡、ただ正義に味方する、という風にやってくれ。

で、見てのとおり、まったく異なっている。
宮崎の訳は全体に強引で「古語にあるように」の古語を明示せずに「無適以下は何か古語の引用かと思われる」という感じで、勝手な訳をすることがある。
金谷のものは、従来の説の中で妥当と金谷が思うものを選択したもののようだ。
しかし、それが本当に正しいか、というと、そうとも限らないだろう。
「無適也 無莫也」の訳(さからうこともなければ、愛着することもない)を「適」や「莫」の漢字と対比して不自然に思うのは私だけではないと思う。その後のカッコの中の(主観を去って)も、どれほどの意義がこの文章に関してあるのかどうか疑問なところだ。

ということで、ここから私の解釈になる。

「適」は「適合」の意味だ、というのがまず私の解釈である。
そして「莫」は「漠」と同じで、「ぼんやりしていること」だ、というのが私の解釈である。

問題は「適合」が何への適合かということだが、ここで「論語」の中でも有名な「君子は器ならず」を想起すればよい。つまり、君子というのは、何か特定目的や特定用途にだけしか使えない人材であってはならない、ということだ。
だから、君子は何かの(ちまちました)用途に単に適合するだけではダメだ、ということである。
そういう「大きな」人物を使えるのは王侯の見る目次第だから、なかなか取り立てられない。そこで漫然と時を過ごしてはならない、刻苦勉励せよ、というのが、「ぼんやりしてばかりでもいけない」つまり「漠(莫)なきなり」である。
その勉励の内容が、「学問仲間とともに義を考究する」ことなのである。

というわけだが、全体の訳は「君子は天下において、適材適所という単なる「器」では困るが、また用いられないからといってぼんやりしていては困る。常に義を考究しなさい」となる。これで「君子は器ならず」とも一貫性が生まれるわけである。要するに「器」ではなく、宰相レベルの「器を使う大きな存在」になれ、ということだ。

ついでだが、「比す」は「比較検討する」意味だと解釈している。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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