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副島隆彦の「転進」

日本陸軍の言葉の用法では、「転進」とは「退却、逃走」の意味らしいwww


引用したのは副島隆彦の新著の目次で、彼はスピリチュアリズムに目覚め、その方向に生きるつもりらしい。
まあ、スピリチュアリズムとは何か、ということを私はよく知らないが、詐欺商売の温床であることは知っている。副島はその教祖になって金儲けでもするつもりかwww
つまり、政治的インフルエンサーとしての生き方をやめた、と言えそうだ。
私から見れば、思想的堕落、退嬰、退廃だが、人の生き方はその人の問題だ。むしろ、精神的次元上昇だ、と評価する人たちもいるだろう。
もともと、副島の社会的影響力はさほどのものでもなかったと私は見ている。しかし、「学問道場」の弟子たちは、彼のこの「転向」をどう思うだろうか。まあ、半分くらいは造反するのではないか。
目次から判断する限りでは、特に奇抜な思想を書いているようではない。伝統宗教への批判に関しては、私に似ているのではないか。つまり、始祖の哲学や思想を、後継者たちが捻じ曲げた、ということだ。それが

神との仲介業「司教」はもう要らない 016
ブッダとイエスは偉いが「教団」は要らない 023
人騙しや金儲けの宗教は要らない 029

という目次タイトルから感じられる。
なお、精神と霊魂の違いを定義するなら、「精神は肉体の死と同時に消滅するが、霊魂は肉体と分離しても存在し続ける」、というのが私の考えなので、私は霊魂の存在はまったく信じていないが、精神(思考、あるいは無意識も含む全意識)こそが人生の本質だと思っている。また、精神は肉体と共に消えるが、それが書籍や芸術や行動の記録などの形で、あらゆる人間に影響を与えるなら、それは精神が肉体の死の後も生き続けているとも言える。
先祖の墓や仏壇などは、先祖や父母を偲ぶよすがにはなる。つまり、そこに意味はあるだろう。できれば、土葬にして、その遺骸がそのまま地中にあるほうが、墓としての意義がある。前に書いた、C・ロセッティの詩は、キリスト教は土葬だから意味があるのである。「キャリー」では、それがホラーになるがwww

(自己引用)




もしも私が死んだらあなた
悲しい歌を歌わないで
お願い、楽しい歌を……
私の枕元にバラや
陰深い糸杉を植えないで
雑草の生い茂るままにして
通り雨や露の濡らすにまかせ
そして
あなたが望むなら思い出して
そして、あなたが望むなら忘れて

私は影を見ることはないでしょう
雨を感じることもないでしょう
苦しむように鳴く夜鶯の声を聞くこともないでしょう
永遠の夕暮れの薄明かりの中で夢見て
幸せに私は思い出すでしょう
そして、幸せに忘れることでしょう

(クリスチナ・ロセッティ)*夢人注:実は、最後の連の中の「幸せに」は「haply」をhappilyと同義の古語だろうと勘違いした誤訳だが、この誤訳が気に入っているので、そのままにしておく。「haply」は「ことによると」の意味の古語である。


(以下引用)


『自分だけを信じて生きる スピリチュアリズムの元祖エマーソンに学ぶ』 目次


序 私は霊魂に導かれ、女神さまと出会った 003


Ⅰ 霊界への扉が開かれた
神との仲介業「司教」はもう要らない 016
ブッダとイエスは偉いが「教団」は要らない 023
人騙しや金儲けの宗教は要らない 029
スピリチュアルと宗教は異なる 034
霊魂をバカにしたエリート層の自滅 037


Ⅱ 自分だけを信じて生きよ


エマーソン著『自己信頼』はなぜ重要か 044
大人気のエマーソンの講演 050
日本で先に出版された『セルフ・ヘルプ』との違い 056
『西國立志編』をむさぼり読んだ明治の日本人 059
「自己を信頼して生きよ」とはどういうことか 063


Ⅲスピリチュアルに神はいない
スピリチュアリズムの本髄と仏陀の名言 084
「犀の角のようにただ独り歩め」のすごさ 088
スピリチュアルが世界に広まるのは当然だ 091
スピリチュアリズムとは何か 099


Ⅳ あらゆる現代思想の源流となったエマーソン
1840年代、社会主義の勃興 104
エマーソンから始まった現代思想運動の数々 108
スピリチュアリズムの生みの親 110
デカルトの二元論と霊魂(思考)の大切な話 117
カントの「超越主義(トランセンデンタリズム)」と全く同じ 128
農地解放思想 搾取は人を幸せにしない 131
菜食主義とヒッピー運動 強欲は世界を破滅させる 134
性の解放 セックスは罪ではない 140
社会福祉運動と社会主義思想 貧困はよくない 142
ユニテリアンの特殊さ 146
ユニテリアンと理神論 148
ユニテリアンとフリーメイソン 151


おわりに 154

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混沌の美化という妄想

「混沌堂主人雑記(旧題)」と書き続けてきたが、今回の引用記事は、混沌堂主人氏が真面目に「天皇否定論」を書いているので、その姿勢に敬意を表し、現在のブログ名を明記したいが、覚えていないので、御免蒙る。うろ覚えだが「春曲丼より混沌麺」だったか。混沌麺は「広東麺」の洒落だろうか。(私は、混沌状態があまり好きではないが、氏が「混沌堂」を名乗るのは謙遜なのだろうか自賛なのだろうか。)

引用した氏の議論は、戦前・戦中の日本には見事に当てはまるとは思うが、今の「象徴天皇制」にはまったく当てはまらない議論だと思う。
もちろん、「上司無答責」という悪習慣は今の日本にも瀰漫しているだろうが、それは天皇とはまったく無関係な話だ。他国には部下の「抗命権」があるというのも神話だろうと私は疑っている。つまり、名目的にはあるが、実用は不可能だというわけだ。だからこそ軍隊が馬鹿な戦闘をする事例が膨大にある。企業でも同様だ。むしろ、西洋社会こそ「上司の権限の絶対性」があるからこそ、欧米企業が馬鹿な行動ばかりしてきたのだろう。

天皇や天皇家を「殺し尽く」せば社会が良い方に変わることなどありえない。むしろ、アナーキズムと思想的殺人免責の非人道的社会が生じるだけだろう。つまり「春曲丼(ハルマゲドン)」が来る。そして、混沌(カオス)状態がそれよりいいとも思えない。不死鳥が焼き尽くされて新たな不死鳥が生まれるのは、神話か妄想でしかない。ついでに言えば、不死鳥が焼き尽くされるとは、現在の社会が完全に亡びることであり、全人類、あるいはひとつの社会の現在の成員すべてが死ぬことでしかない。あまり、詩的に陶酔しないことだ。

(以下引用)引用記事中の記事筆者による引用部分は未読。考察材料としての転載である。

「天皇」が日本を滅ぼす理由。

2024 - 01/27 [Sat] - 11:08

事実上は「誰か」が決定したのだが、誰もそれを決定せず、かつ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような「生成」が、あからさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力を持っていることを忘れてはならない。(柄谷行人『批評とポスト・モダン』1985年)
思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統い御するような権力が成立したことがなかった。〔・・・〕あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。〔・・・〕日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。〔・・・〕
見かけの統合はなされているが、それは実は空虚な形式である。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。それは、大陸的な父権的制度と思考を受け入れながらそれを「排除」す
るという姿勢の反復である。
日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992年 )
これらの原因に「天皇」とその無責任が、大きく関わっている。
日本では自衛隊ですら「上官の命令責任」が曖昧である。
これは、自衛隊が「まともな防衛組織」でなく、「まともな組織」ですら無い証拠でもある。
それを、私なりに説明してみる。
上官の命令で、部下が動く。
その命令で、虐殺等の戦争犯罪を起こしたとしたらどうか・・・
日本では「上官の命令に違背することは、即違法。」と自衛隊でも。旧軍でも「上官の命令は天皇の命令」で違背は、即違法でなんなら処刑だ・・。
それで起こされた戦争犯罪は、部下は抵抗して止めれない。止めたら即死だしな。
なら、それで起きた戦争犯罪の大きな責任は、実行犯の部下よりも、命令を出した上官に多くある。
それが、マトモな論理展開で、世界のどの国家も、この論理で法律・軍法が作られている。
そこで、部下が「これはおかしいし、下手したら軍の信用を失って敗亡の元にすらなる」と「抗命」して、止まれば「戦争犯罪」は予防できる。
また「抗命権」を認めると、それを認めないことで「全部の命令責任」が、上官に掛かるのを、部下が「抗命権」を持つことで、軽減ができるのだ。
「なら、そりゃ、反対したらいいし」って論理が通用し、それが軍隊・組織内で通用していたら、正当な抵抗が可能になる。
またそれでおきた戦争犯罪は、上官に責任が第一に有るが部下も「抵抗しなかった」と、責任の分担が起きて、個々への責任が軽減される。
なら「上官の命令責任」を明確にして、「抗命権」を規定し認めた方が良いはずである。
「上官の命令責任」 を認めて規定しないと、そもそも「組織」が、マトモに機能しない。
上官の命令責任が、明確でないと、それ自体が「忖度」を生む。忖度は「脱法的」であり、責任の所在をさらにあやふやにする。
それで、失態や戦争犯罪が起きても、責任は「部下・実行者」に擦り付けることになる。
だが、そんなことは他国やほかの組織には、「知らんがな。そりゃお前らの管理責任がなってない」って話で。
戦争中の、日本企業が朝鮮人や中国を勧誘や拉致をして過酷な労働をさせていた例が腐るほどあるけど、これも「責任の所在」をあいまいにすることで「逃げ切る」のが、この国の思惑であるが。
そもそもこういうことを認証したり推奨した「国家」の責任も、曖昧なのである。
そりゃ、軍隊の「上官の命令責任」すら明確化してないし、上官の責任逃れに従うのが「忠義」と買う言っていたカルトですから、「責任の所在」など曖昧になります。
それの逆噴射が、戦前の暴走する「帝国陸海軍」なのです。
上官に「責任をとらない・取らせない」ために・・・あるいは「天皇」に責任を取らせないために、同時に自らの勲功を上げるために、勝手に「忖度」し命令を偽造して、暴走して侵略を止めれず、中国大陸の深みにはまって衰亡していく。
そもそも「責任」をとらないのだから「暴走」しても結果がよければ、「無問題」が、横行した。
それは「軍人が傲慢」とかの問題ではなく「そもそも上官が責任を取らない・天皇は無責任」なので、「命令に絶対服従」でも「結果を問わない」のなら、その「意図」を「忖度」して、「結果」を出そうとするのも、当然の話なのだ。
「天皇」が無謬で神聖なら、「天皇」がそれでないのなら、「天皇」の廃位か廃止だが、それではない。
「天皇の無謬」は、現実に対する「無謬」でなく、それに追従する人間に対してだけ「無謬」なのであり、外国人や畜生・仏神・草木瓦石からみたら、相対的な一物でしかないのだ。
事実上は「誰か」が決定したのだが、誰もそれを決定せず、かつ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような「生成」が、あからさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力を持っていることを忘れてはならない。(柄谷行人『批評とポスト・モダン』1985年)
これが「天皇が無謬=無責任」を日本国の指導者が守り続ける理由であろう。
その「決定した誰か」となって責任を取りたくない、失敗したら。
だが、「成功」したら、その「決定した誰か」が多くの栄光を得るハズなのである。
その「無責任」で「栄光」だけを、指導層・天皇家が得るために「天皇の無謬=無責任」が不可欠なので有り、それに反対する者を、すりつぶしてきたのが、現代日本であり、それが衰亡の最大の原因なのである。
その結果なにが起きたか・・・・
一つは「自己責任論」である。
国家・政府が、基本的に日本人の統治に責任を持たない=天皇は無責任だから、そもそも選挙権を得ても、その国家が「日本人を守る」統治をする保証が無い。
日本国憲法に「国家が日本人を守る責任が有る」と明確に記しては無い。
まして、改正以前の憲法の「天皇」が唯一の統治権者でありながら、前の敗戦に全く責任が無い・・・てことを前提に、法律・法治思想ができあがっていたら、そりゃ、国家が日本人を守る責任が無いか希薄になるのは、当然である。
国民を守らない国家・・・・においては、自分で自分を守るしかない。当然隣人を守るのも躊躇する。家族を守るのも危険になる・・・。
 その結果、勤勉、倹約、自己規律を求める通俗道徳は、逆説的に、生き馬の目を抜くような、「万人の万人に対する戦争状態」としてのホッブズ的世界を招き寄せてしまうのです。それが、極端な競争社会に全面化するのは、明治維新によって、江戸幕府が崩壊し、それまで人々の行動に枠をはめていた江戸時代の身分制的秩序が崩壊した後のことです。現在の「分断社会」の原型はこの明治時代に生まれています。そして、この状況を大本教の教祖である出口なおは「獣の世」(※)と呼んだのです。
「倹約の美徳」を称賛し、将来に備えるため「貯蓄」に励みました。勤労を前提として、社会保障を限定する自己責任型の福祉国家を維持することができたのです。ここでは出口なおの案じた「獣の世」は、限定的にしか現れてきませんでした。
 しかし、バブルが崩壊後、状況は一変します。減税と公共事業に支えられた勤労国家の発動も虚しく、国際的な賃金下落圧力が景気回復を妨げ、巨額の政府債務が積み上がりました。また、少子高齢化が進み、専業主婦世帯と共働き世帯の地位も逆転、近代家族モデルは完全に破綻しました。さらにバブル崩壊に追い打ちをかけるように、市場原理や競争原理、自己責任論が持ち込まれました。
今、日本社会は通俗道徳の実践にエネルギーを費やした多くの敗者で溢れています。働くことは苦痛でしかなく、勤労の先に待ち構えるのは貧困のリスクなのです。まさに「獣の世」の再来と言えます。
日本の協調性の半分は「同調圧力による脅迫」であり、それに背くと「消される」からで、それを避けるための「おもてなし」なのです。
日本人は社会を維持するために悪意ある行動や意地悪な考え方を培ってきた。前近代の村社会において最大の正義は「共同体の維持」だ。手を取り合わなければ生きていけないからこそ、秩序を乱すものには罰を下してきたし、はじき出されれば生きていけない。とすると、日本人の礼儀正しさや親切さは社会から村八分にあわないための同調圧力に起因するものであると言えるのではないか。
「一致団結」とはいうが、内心はいつも面従腹背。
「考えて行動」など、「一致団結」の邪魔になる。
考えて、「責任の所在」を調べ出すと、天皇はじめ指導者=責任者の責任を問われる。
その「自己責任論」で、他の倫理「助け合い」「思いやり」が、軽視され忘れていくと、自然「嘘」「誤魔化し」「奪い合い」が普通になる。
天皇の無謬~国家が国民に責任を持たないことで、あらゆる悪徳が発生していくのだ。
もう少し理屈や文章を練りたいけど・・・
ともわれ「天皇」と「天皇の無謬~無責任天皇」が、日本人を殺し、日本を永遠に破壊し続けて、もうすぐ日本人は死滅します。死体と家畜の二つになって。
コメント欄に
少なくとも「無責任」なので、それを頂点・象徴にする組織・社会の「責任の帰属」やそれに付随している倫理観が、あやふやになる。
そのために社会に「責任忌避」「他人に責任を押し付ける」気風を助長する。
同時にそれゆえに「自己責任論」のような過酷に庶民の自助を強要する一因になる。
責任忌避をするために強者・権威に追従し、それでない弱い人達に、責任や厄災を押し付ける「切り捨て」が社会全体で横行する。
「自助・共助」とか言いながら、自助至上なので、共助すら機能しがたくなる。
その結果は、一種の「権力崇拝」が、天皇~象徴天皇の根本思想となり、その社会は、弱肉強食の殺し合いで、社会と言うよりも、やくざのシマとなる・・。
無論、そんな社会が「国家組織」の法治が機能するわけがない。
日本は防衛組織でも「上官の命令責任」が曖昧なことを伊勢崎賢治氏が指摘されているけど、そのよう組織をまともに機能させることすら、不可能。。
まあ「上官の命令責任」の明確化をすると、前の敗戦に「天皇に責任が有る」と明白ですし。
倫理も破壊し、法治も最初から無い。それが「天皇~象徴天皇~明治帝政」。
てのが私の私見です。
にしても、かなり「欠陥」だらけ「問題だらけ」なのに、日本の知識人・法律家は、平然と受け入れている。
「天皇」システムは、あと前の記事のような「鵜呑みで信じろ!」的詰め込み的教育の精華なのでしょうね。
天皇が、日本人殺戮の最大の主犯である。
天皇家を殺し尽くして 日本人を救う
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みの富む社会になりますように。
お読みくださりありがとうございます。




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女性の「恋愛脳」と女性政治家

「隠居爺の世迷言」記事の後半で、書かれたことにすべて同感、同意するわけではないが、面白い視点であり、考え方だと思う。つまり、「権力志向」型の「特殊女性」というのは、一般的女性論の枠の中で論じるのは誤りなのだろう。(一般的女性は、母性的、平和的な傾向があるが、「愛」や「恋」に関しては野獣化し、戦闘的になり、無道徳化するらしいww)
男性政治家と同じく「権力志向」でも、女性の場合は「より強い権力の虎の威を借りる」事例が多いのは明らかな傾向と言えるだろう。これは安部派その他の自民党女性代議士全員に共通している。見事なほどに同じ傾向である。
もちろん、男の政治家でもそういう連中はいるが、それは陣笠代議士の類である。
もうひとつの傾向として、その手の「権力志向女性政治家」は、女性同士で同盟することはない、ということがある。(フェミニズム運動を政治運動とした場合は別の話になる。これは、最初から「女性の権利の拡張」だから、人間の好悪の問題とは別である。)まあ、同じ女性であるなら、この場合は「寵愛の」敵同士になる。
要は、アニメ「薬屋のひとりごと」ではないが、女性政治家の戦いは「後宮の女同士の戦い」になるわけだ。

(以下引用)

 さて、ずいぶん回り道をしたけれども、ここから本題に入っていく。アメリカの混乱ぶりというか、退廃ぶりというか、衰えは特にバイデン民主党政権になってから目に余る。それは一部のアメリカ人にとっても、その理由をどこに求めていいか理解の難しい不思議な問題と感じられている。

 前々回ご紹介した「耕助のブログ」では、James Howard Kunstlerという私の好きな人の記事が載っていたことがあるけれど、そこで彼が面白い指摘を行っている。それは「アメリカ民主党は活動家の女性に支配されるようになり、女性活動家は次の2つの顕著な行動傾向を示した。彼女たちは何かにつけて感情に基づいて決定を下す傾向があった。そして、彼らは男性よりも政治的戦いにおいてはるかに冷酷だった。彼女たちの感情は、フェアプレーの精神など古くからの価値観をひっくり返して、汚い手口に手を染めた。」というものだ。

 Kunstlerの記事を当ブログで取り上げたのは、昨年の1月8日になるが、今ごろになってじんわりと私の心を占めるようになった。なぜかというと、現外務大臣の上川陽子に総理大臣の呼び声があるとどこかのサイトで見たからだ。下手をすると日本は上川陽子総理大臣の国になるかもしれない。大変に恐ろしいことだ。

 実は私が上川陽子外務大臣の記事を当ブログで書こうかと思っていたときに、YouTubeで「上川陽子外相へ・和製ヌーランドになるなかれ」という動画がアップされた。

 動画に登場する渡辺惣樹という人は以前ご紹介したことがあるが、考え方が私と極めて近いと勝手に思っている人で、この動画も私とほぼ同意見になる。ただし、私はそれを一歩進めて、女性が権力を発揮できるような地位に就く場合には、政府、マスメディア、専門家、国民は細心の注意を払って用心しなければならないことを付け加えたい。

 これは男だって同じことではあるけれども、例えば岸田総理などは典型的な例で、あんな人を総理大臣にしたのは完全な誤りだった。もっとも、今の自民党にはあれ以上の人材がいないのかもしれなくて、そうであるならば自民党は自ら政権を返上するべきなのだが。

 岸田総理は大変に弱い人だ。お分かりになるだろうか。どうも、リーダー的な地位に就く人というのは弱い人ではダメらしい。この場合、強い弱いとは何かとなるとそれだけで大きなテーマになってしまうけれど、一言で言えば "精神的な独立性" ということになると思う。

 岸田総理も、一部の女性も、精神的に独立することが苦手だ。苦手だとどうなるだろうか。誰かに頼ろうとする。頼ればその者の意向に従うことになる。ということは自分で考えようとしなくなる。さらには、頼ろうとする相手の歓心を買おうとする気持ちにもなる。例えば、岸田総理のように無条件でアメリカに尻尾を振り始める。

 おまけに、ライバルなどいようものなら、つまり、頼ろうとする相手に自分よりも重用する存在があろうものなら、それに負けじと必死になってライバルと戦い、相手を蹴落とし、自分だけのものにしようとする。一言で言えば「寵愛を得るための戦い」が生じる。

 これが、女同士の戦いになった場合は、しばしば熾烈なものになるのは、女の人であれば理解できるだろう。寵愛を得るための争いには、ルールもなければ、手段が制限されることもない。あるのは勝つか負けるかだけになる。勝つことが全てになる。

 そのような戦いを勝ち上がった女性として私が思いつくのは、ビクトリア・ヌーランド、ヒラリー・クリントン、ナンシー・
ペロシ、日本では小池百合子と上川陽子になる。より地位が低くなれば、そのような女性たちをかなりの数発見できるはずだ。彼女たちの背後には大物が控えている。それは男になるのだが、彼女らは女の感性をフルに生かして、自分を支えてくれる男が何を考えているかを探る。そして、その探った結果を元にして、先駆けして大胆に振る舞い、歓心を買う。それが、寵愛競争に勝つ方法になる。

 国を仕切るようなポストに女の人が就いた場合には、そのような競争を勝ち上がったと考えていい。それゆえ、そのような女性のすることは過激であり、ルールがないがしろにされ、手段を選ぼうとせず、時としてこれ以上ないくらいに残酷になる。

 上川陽子を例にとって説明してみよう。上川陽子は法務大臣をしていたときに、オウム真理教の死刑囚全員(13人)の死刑執行にサインをした。2018年7月のことだった。上川陽子が法律に違反したわけではなく、道徳的に問題があるのでもない。しかし、死刑の執行にサインをすることを大抵の法務大臣は嫌がる。まして相手がオウム真理教で13人もとなると厄介だ。誰も手を上げなかったのだろう。

 しかし、日本政府にはどうしても死刑を執行したい理由があった。どんな理由かというと、これは単なる私の勘繰り、想像でしかないが、その後に予定されている新型コロナ騒動、そしてワクチン接種によって、国が多数の日本人を死に追いやる可能性があると分かっていたためだ。

 そうなってから、オウム真理教の死刑を執行したのでは、世間の抵抗・非難を招くと判断したのだろう。私のように、 "ワクチン接種による殺人はオウム真理教よりも悪質だ" なんて言い出す者が出てくるからね。

 そのため、新型コロナ騒動が持ち上がる前に死刑執行を済ませておく必要があった。そこでどこかの黒幕の意向を受けて手を上げたのが上川陽子だったのだろう。以上はあくまで想像上の話だが、政治の世界で優れた女性、有能な女性、社会の脚光を浴びる女性、華々しく活躍する女性にはそのような面があると考えていいように私は思っている。そして、上川陽子は渡辺惣樹氏の指摘するように、現在日本の外務大臣として、世界の平和を乱すために活躍中だ。

 そのような様子を見ると、女性が社会的な戦い、競争、勝負といったものに向いていないことを示している。男はある意味生まれながらの兵士であり、戦うための本能が備わっている。そのため、男の戦いにはルールがあり、手段も定められる。ちょうど狼が腹を見せた段階で、敵の狼がそれ以上攻撃をできなくなるようなものだ。

 もちろん、全ての男がそうであるとまではいえず例外もある。例えば、ビル・ゲイツのように女の腐ったような者が現われると、ルールも手段もわきまえない金儲けを始めて、世界を混乱に陥れる。ただし、それはあくまでも例外であって、女の人がともすれば陥りがちなルールのない世界とは違っている。

 さて、バイデン政権は全くの恥知らず政権であり、それは神に逆らうからだ。信仰もしていない私が神を持ち出すのはおかしいが、一般的的に使われる言葉だと自然に逆らうということになるだろう。植物が緑色であることには理由がある。人間に男と女があるのには理由がある。人間が病気にかかるのには理由がある。ユダヤ人が嫌われるのにも理由がある。

 アメリカバイデン政権はそのようなことを一切無視する。無視した上で、全てを同一色に染め上げようとする。全部まぜこぜにして、特徴のなくなった灰色のものを提示して、これで効率が良くなっただろう、管理しやすくなっただろう、儲かるだろうなどと言い始める。

 しかし、自然に逆らって、つまり、神に逆らって事を為そうとしたところでうまくいくはずもない。今のアメリカは世界中から不評を買っている。それがある意味BRICS等の結束を強めていることを考えると、来期もバイデンに継続してほしいような気もするが、水戸黄門ではないけれど「助さん、格さん、もういいでしょう」というところかな。

 と、いろいろ書いてみたけれど、あれこれ言ってはみても、全体としての日本女性は賢いのではないかと私は期待している。ワクチンを除けば、それほど国に騙されているようでもない。男のように特攻隊で死ぬような、あるいは死なせるような馬鹿な真似を女の人はしないからね。政府が何と言おうがしっかり自分の損得を考えるのが女性というものだ。

 しかし、女性の中にはビクトリア・ヌーランド、ヒラリー・クリントン、ナンシー・
ペロシ、小池百合子、上川陽子のように、寵愛を勝ち得て暴走する人間も出てくるわけで、そのような罠にかからないように賢く生きていくことが必要とされる。誤った道を選択すると、自分をも満足させることのできない女の一生になってしまう。

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ユーモアと懐疑主義

「大摩邇」所載の「in deep」記事(だと思う。要するに岡氏の記事だ)の一部を転載。berief とfaithをどちらも「信念」と訳すなど、頭をひねる(首をひねる? まあ、180度ひねらないほうがいい。)ところもあるが、「ユーモアの効用」についてはまったく同意見である。私は、映画でもテレビドラマでも漫画でも小説でも、ユーモアの無い作品が苦手で、ユーモアが無い、というのは「思想の固定化」(こわばり)がそこにあるからではないか、と今考えた。
つまり、ユーモアとは懐疑主義と表裏一体で、エーコが「薔薇の名前」で言っている(と思うが)ように、ユーモア(笑い)が宗教の敵である、というのはまさにそこに理由があるのだろう。(もっとも、熱烈なキリスト信者であるドストエフスキーは優れたユーモア感覚の持ち主でもあったが。)同じ理由で、軍人(少なくとも、上層部)にはユーモアは厳禁だろう。上官の命令が「御免、冗談だった」では済まないww 戦場での兵士のユーモアがアメリカ映画ではよく描かれるが、あれは、「恐怖からの逃走」の手段のひとつだと思う。まあ、一種の強がりである。

文中に「アモール・ファティ(運命の愛)」がユーモアだ、と書いた引用部分があるが、これはどういう意味か、知りたいものだ。そもそも「運命の愛」とは、「運命的な愛」という、大衆ラブロマンス的な意味ではなく、「運命愛」、つまり、「運命への愛(運命を愛すること)」ではないか、と思うが、確かニーチェも「運命愛」ということを言っていた気がする。それがどういう意味か知らないが、「我々の運命が最初から決まっているとしても、それを愛することが賢者の道だ」とでもいうことなら、そこに「ユーモア」が重なるのは納得できる気がする。たとえば、死はすべての人間の運命だが、だからといって毎日泣いて暮らすのは馬鹿だろう。脳天気に笑って過ごし、死ぬ時も笑って(笑顔で)死にたいものである。

*一応言っておくが、「キリスト信者」は「キリスト教信者」とイコールではない。カソリックなどは、あれは「パウロ教」(教会主義)が発展したものであって、キリストの教えそのものではない。教会への絶対的服従というシステムはユダヤ教(の、キリストが否定した部分)に近い。新教でも、キリスト教と言うよりルター教やカルヴィン教だろう。だから分裂したわけだ。そういう意味では、日本の仏教もすべてブッダ(シッダルタ)の教えの一部の恣意的な解釈や改変だろうと思われ、それらが「仏教」と名乗るのは詐欺に近いのではないか。まあ、仏典(経典)そのものが、ブッダの死後に作られたものだろうから、詐欺のし放題である。もっとも、その中には優れた思想もあるだろうから、詐欺=悪だとは言わない。嘘をついて人を救ったとしても、それは悪ではないだろう。まさに「嘘も方便」である。神道となると、教義そのものが存在しない。つまり、民間習俗であって、宗教ではない。もっとも、その中にある自然崇拝(尊重)は、人間(人類)の私利・我欲から来る地球環境保護思想より精神的に上かもしれない。ーー長々と書いたが、今気が付いたが、これは私の「懐疑主義」の見本でもある。つまり、物事を(偉そうに)上から目線(メタ視点)で見ることだ。どんな馬鹿でも、上から目線で周囲を見ることはあるが、それを大きく拡大し、政治や政治家、学者や歴史や思想を上から目線で見るのである。

(以下引用)

疑うことの重要性

今年の初め頃、「疑うことは知恵の源である 7つの理由」という海外の記事をご紹介したことがあったように思います。…って、あれ? 見つからない。…ああ、メルマガでした。その記事では、以下の 7つの項目について、もちろん著者がそう考えているというだけですが、それぞれ詳しく書かれている長い記事です。


 


1.) 疑いは答えを質問に変える。


2.) 疑いは文化的条件付けを再調整する方法を教えてくれる。


3.) 疑いは、盲信という固い地面に心を開く種を植える。


4.) 疑いは自己を拡張する。


5.) 疑いがあると、時代の先を行くことができる。


6.) 疑いは傲慢をユーモアに変える。


7.) 疑いは中道の威力を教えてくれる。


 


このうち、メルマガでは、「6.) 疑いは傲慢をユーモアに変える」などをご紹介していました。先ほどまでの話とはズレる内容ですが、これはこれで大事なことだと思いましたので、再掲しておきたいと思います。


疑いは傲慢をユーモアに変える


優れたユーモアのセンスほど強力なものはない。それはどんな力よりもパワフルだ。


上機嫌の渦の中で、宇宙全体があなたの中にあり、あなたを通して振動し、すべての月に吠え、言葉よりも古い言語を歌い、そして最も重要なことに、あなたは宇宙の中では点にすぎないが、宇宙全体でもあるということを思い出させてくれる。


あなたが良いユーモアの渦中にあるとき、あなたはより高い周波数と同調している。


その時、あなたは高次の無秩序な秩序を汲み上げる泉源となる。その時、あなたは絶望の現場における希望の光となる。その時、あなたは文化的条件付けというまばゆい光の中の暗闇の灯台となる。


あなたは、つむじ風の中で、すべての結び目をすり抜ける無邪気な宇宙飛行士となる。


培われたユーモアは、世界をひっくり返す裏返しの鏡だ。


傲慢よりもユーモアを、憧れよりも笑いを。運命よりもアモール・ファティ(※ ラテン語で「運命の愛」)を。それはエゴを鎖に繋ぎとめる。


カミュはこう言った。


「人間の偉大さは、自分の状態よりも強くなるという決断にある」


新しい知識を構築するには、まず虚偽を破壊し、自分自身を真剣に受け止めすぎるのをやめることができなければならない。信念(belief)から信念(faith)へと勇気を持って飛躍するべきだ。


確信はなくても、好奇心を持つべきだ。納得するのではなく、創造的になるべきだ。順応主義者ではなく、風変わりであるべきだ。


思い上がりに満ちるのではなく、ユーモアを持つべきだ。


wakingtimes.com


ちょっとわかりにくい部分もありますが、ユーモアというか、笑いのすべては「現実や常識を疑う」ところから生じるものです。


常識とおりのことを言われて笑う人はいません。


「鉛筆は文字を書く道具です」


と言われて、( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ と笑う人はいません。


「鉛筆は、両耳からぶら下げて、手を使わずにお寿司を食べる道具です」


と言われれば(それじゃ誰も笑わねえよ)…ああ、まあ、これは例えとして不適切でしたが、要するに、現実や常識の概念への「破壊行為」が笑いです。


ずっと以前に書かせていただいた「笑い」についての以下の記事では、エイプリルフールの起源が、古代イスラム神秘主義者の「ウソつきの日」にあることを書きました。


世界の秩序を特異的に転倒させることが笑いの原点だったと。


それにより社会は生き返る。


(記事)創造神Jamに16歳で救われた私が40年後に気づいたこと
In Deep 2019年11月23日


 


何だか何を書いているのだか自分でもわからなくなってきていますが、先ほどの山本七平さんの、


> その不動の常識によりかかっていた方が楽だから、そこで思考を停止し…


いうことでは、やはりダメなんだと思います。

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「弁証法」懐疑論

私は、東海アマ氏を高く評価し、尊敬する部分もあるのだが、彼は、「知識と記憶力は凄いが、判断力がダメダメである」という評価である。ある種の偏見が固定観念となり、まともな判断力が無い、という印象だ。言い換えれば、膨大な知識と記憶力がほとんどムダになっている。
その原因が何か、と考えた場合、知識の選択の際に、既に偏見で判断しているというのが大きいと思うが、彼の判断の根底が、彼がしばしば力説するヘーゲルの「弁証法」にあるのではないか、そしてそれが彼の判断をダメダメにしているのではないかとふと思ったので、その考察をしてみる。つまり、「弁証法否定論」を試みようというわけだ。
もちろん、私はヘーゲルなど読んだことがないので、その一般的理解である「(正⇔反)→合」という思考法に、或る種の陥穽があるのではないかという考察である。
この論理形式は、「科学的思考」の基本でもあると思うが、そこに何かの陥穽があるのでは、という疑念だ。でなかったら、新コロだの新コロワクチンだの地球温暖化だの二酸化炭素否定論だのと、科学があれほどの間違いをしてきたはずがないだろう。もしかしたら進化論もビッグバン説もすべて間違いかもしれない、と私は疑っている。あるいは、ウィルス説そのものが間違っている可能性もあるだろう。あるいは「相対性理論」も間違いでないとも限らない。

まあ、そういう「子供っぽい」疑念はともかく、「弁証法」を考察してみる。これは、「或る説」に対して、「別の或る説(前説を否定する説)」が出てきて、それを突き合わせて考察することで、「両者を止揚した、より『正しい』説」が出て来る、という考え方だろうと私は理解している。問題は、これが「単なる二説の比較である」ことではないか。実は、他にも無数の説がある中で、「どうでもいい説」や「一見合理的に見える愚説」だけを突き合わせて、学界や論争者に都合のいい「答え」を出しているだけではないか、ということだ。これこそが、「科学の誤り」の根本ではないか、ということであり、しばしば「政治の誤り」の原因にもなるだろう。

そして、さらに言うなら、「論理そのものの問題」というのが出て来る。
私の考えでは、論理とは「説明手段」(「自分自身への説明」含む)でしかなく、「思考手段」としてはさほどたいしたものではない。つまり、1+1=2を永遠に続けても、何も出て来ないということだ。本当に大切なのは「直観」であり、そこにこそ「正解」はあることが多いと私は思う。もちろん、その「直観」は実は長い間の知的修練の結果、無意識の中に蓄積された知的経験の記憶から生じるのであり、小学生が「ビッグバン説は間違いだ~」と言っても、あまり説得力はないだろうし、私が言っても同様だ。しかし、問題は、「専門家」たちの思考や知識も「偏見」で固まっているだろう、ということだ。「論理」は、それを是正する力があるだろうか。

まあ、とりあえず、「論理(形式論理)」や「弁証法」は、実は「設定された土台の上での議論にすぎない」とだけ言っておく。

ちなみに、私はデカルトによる「分析と総合」という思考法が科学的思考、あるいは論理的思考の基本だと考えている。これはヘーゲル的な「二者択一」の陥穽を持たない。




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広田先生の文明論

12時(深夜0時)ごろ目を覚まし、寝床で、読みかけの「三四郎」を最後まで読んだ後、寝直そうと思ったが、目が冴えてしまったので起きてこれを書いている。
私は漱石の作品を全部読んだわけではないが、「吾輩は猫である」と「三四郎」は漱石のベストの作品ではないか、と思う。前者はカリカチュア性が強いので、真面目に読む人は少ないと思うが、漱石は真面目に文明批評や社会批評をしている。「三四郎」も同様で、青春小説の反面、ここにも優れた文明批評がある。その一部を抜き出す。漱石の漢字の使い方は独特なので、一部、こちらで変更する。引用部分は「広田先生」の言葉である。これは漱石自身の意見でもあると思う。

(以下引用)

「近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強過ぎていけない。我々の書生をしている頃には、する事為す事ひとつとして他(ひと)を離れた事はなかった。すべてが、君(夢人注:主君)とか、親とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それをひとくちに言うと教育を受ける者がことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸漸(ぜんぜん:次第に)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある」(夢人注:「露悪家」は漱石がこの時作った造語らしいが、今は普通の言葉だろう。少なくとも「露悪的」は普通の語だ。)
「昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日では各自(めいめい)同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でも何でもない。臭いものの蓋をとれば肥桶(こえたご)で、美事(みごと)な形式を剥ぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。」
「形式だけ美事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地(生地)だけで用を足している。はなはだ痛快である。天爛漫としている。(夢人注:このあたりは広田先生=漱石の皮肉だろう。もちろん、「天真爛漫」が本来の熟語)ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義(夢人注:これは現代で流行語の「他人軸」と考えたほうがいい。広田先生は、これを「偽善」とも言っている。)がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういう風にして暮らしていくものと思えば差支えない。そうして行くうちに進歩する」
「英国を見たまえ。この両主義が昔からうまく平衡が取れている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、傍から見れば堅くなって化石しかかっているーーー」

(以上引用)

「三四郎」が書かれたのは20世紀初頭で、正確には明治41年(西暦だと1908年か)のようだ。つまり、英国が帝国主義の覇者として世界を睥睨していた時代である。そのころに英国の衰退を予見していた漱石は慧眼どころか、予言者だろう。そして、日本が露悪家(「正直」な利己主義者)だらけになりつつあることも指摘している。現代の日本がまさに悪人天国であるのは言うまでもない。みな、「正直」な露悪家だ。これは「偽善」の衰退の結果とも言える。
まえから書いているが、「偽善」とは、天然自然の善性の顕れではなく、「人為的に行う善」であり、これこそが社会を良化するのである。少し前の流行語で言えば「やらぬ善よりやる偽善」である。さて、今や、テレビでホリエモンやひろゆきや漫才師たちなど「自分の本音を言う」と思われている連中(元犯罪者たち。あるいは蓋を取った肥桶)が、日本の言論を支配し、若い人々や子供たちに影響を与えている。
こうした状況では、広田先生でなくとも日本は「亡びるね」と思うのが当然だろう。

ちなみに、私は英国の衰退の原因は「植民地時代が終わった」という時代の趨勢と、英国が階級社会であることにある(階級社会は必然的に衰退する。日本も同様。インドの発展は単なる人口ボーナスである。)と思っているが、その考察はまたの機会にする。




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「組織悪」と「自分軸」

「大摩邇」所載の「マスコミに載らない海外記事」の一部で、ジョン・ミアシャイマーという、わりと最近高く評価されている軍事評論家(か?)の書いた文章らしいが、私は下の引用文の赤線を引いた部分に来て、それ以降を読む気を失った。
先に、その文章から載せる。

(以下引用)

 第一に、ジェノサイドは他の戦争犯罪や人道に対する罪とは区別されるが「そのような行為全ての間にはしばしば密接な関係がある」と強調している。(1)例えば、第二次世界大戦でイギリスとアメリカがドイツと日本の都市を爆撃した時に起きたように、戦争に勝つために民間人を標的にすることは戦争犯罪だがジェノサイドではない。イギリスとアメリカ合州国は、標的にされた国々の「かなりの部分」、あるいは全ての人々を絶滅しようとはしていなかった。選択的暴力に裏打ちされた民族浄化も戦争犯罪だが、ジェノサイドではないが、イスラエル生まれのホロコースト専門家オメル・バルトフが「あらゆる犯罪の中の犯罪」と呼ぶ行為だ。4

(以上引用)

いや、これは「ジェノサイド」と呼ばれる行為をあまりに狭く定義したものだろう。一般的理解では、「他民族への大量殺戮行為」をジェノサイドと認識していると思う。ヒトラーですら、ユダヤ人全員を絶滅させようとしたわけではない。自分にとって利用価値のあるユダヤ人は殺していない。そもそも、ユダヤ人の定義すら明確ではない。
広島や長崎への原爆投下や、日本の諸都市、あるいはドレスデンなどへの無差別爆撃がジェノサイドでなくて何なのか。つまり、最初から「膨大な民間人が死ぬことを当然の予測として行われた殺戮」はジェノサイドなのであり、そうでないなら、旧約聖書に書かれた古代ユダヤ人の他民族殺戮行為以外にジェノサイドは無い。何しろ、「女は処女だけ(戦後に繁殖牝馬的に利用するために)残し、男は全員殺す」のである。

話は変わるが、ミアシャイマーがこういう記述をしたのは「言葉の定義に正確であろうとした」のかもしれないが、その心底には英米人としての自己弁護の気持ちがあったのではないか。
これは、私が常々言っている「組織悪」の一種である。自分が属する組織(大きくは国家)を自分と同一視して考える心理である。その心理は、「自己愛」という人間の根本的心理に根があるだけに強力で、しかもほとんど無意識に発動される。
念のために言っておくが、私は自己愛を否定しているのではない。その無意識の発動の危険性を言っているのである。私も(自分が日本人だから当然だが)ほとんど無意識のうちに日本や日本人と自分を同一視しており、外国人が日本や日本人を褒めると、自分自身が褒められたように嬉しいし楽しいのである。(ただし、「日本政府=日本」でないのは当然だ。ネトウヨや工作員はそういう馬鹿思想を植え付けようとするが。)
最近はやりの「自分軸」という言葉も、実は自己愛の美名であるとも言える。これは要するに「自分中心」と同じことであり、「軸」と「中心」で何が違うのか。どちらも、自分が軸、あるいは中心になって他者が廻るのである。「自分中心」を「自己中心」と言っても同じだろうが、これを「ジコチュー」と言えばあっと言う間に悪口に変わるのであるwww 「お前ってほんとにジコチューだよな」と言われてあなたは嬉しいかwww 「あなたは自分軸がしっかりしていて素晴らしい」も内実は同じである。ついでに言えば、組織の下にいながら自分軸を持てる(心の中に持っているつもりでも、それを行動で示せる)人間などほとんどいないだろう。


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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