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愛と恋と兼愛(博愛)

昨日のブログに引用した文章の一節を再掲載する。ここを起点に「愛とは何でしょう?」という問題(まあ、古いジャズソングの題名だが)を考察してみようというわけだ。

一番の問題は、英語では、幾種類もの愛(そう、愛には種類があるのである。)をloveの一語でまとめてしまう癖があることだ。そこで、次の一文は日本人には謎になる。

私を戦争へと押しやったのも、ほかならぬこの愛を渇望する心だったのだ。

そうか、私が敵兵や敵国民を見つけしだい射殺するのは、「愛のため」だったのだ。というわけだ。……当然、そうではなくて、彼を戦争へ押しやったのは、自分の家族や友人や国家や郷土への愛着心であり、それは我執の一部なのである。だが、それも愛、これも愛、きっと愛~♪、なのである。

ここで、恋について考えてみる。先ほどの「愛とは何でしょう」は、あるいは「恋とは何でしょう」と訳されていたかもしれない。当然、原題はWhat is love?だと推定できる。つまり、英語では愛と恋に区別は無いと思う。それを区別している日本人は猿なのか? それとも高度文明なのか?

では、愛と恋の違いは何か。私は家族を愛するが、家族を恋するとは言わない。つまり、恋とはその絶対条件として性的結合を目的とするのであり、それが無い希少な恋愛をプラトニックラブなどと言ったりするが、実はプラトン時代の男色がその起源らしい。ただ、プラトンの作品では、それは「友愛」や「師弟愛」として描かれているようだ。つまり、セックス描写は無い、と思う。西洋人には性的要素の無い恋愛は想像できないから、「あいつらは男色家だったに違いない」と邪推した可能性もありそうだ。
こうして、「恋愛=性愛」というのが基本思想になった結果、片思いをして自殺する、などという「若きウェルテルの悩み」などが、珍しい現象を描いたということで当時のベストセラーになったりしたのではないか。

さて、今度は、片思いや家族愛より、より抽象的な博愛について考えてみる。これは春秋戦国時代の墨子の「兼愛」思想にも見られる古い思想だが、東洋の人間には心の奥底に流れている思想だと思われる。
だが、闘争こそが社会のアルファでありオメガである西洋社会には、こうした博愛思想というのはキリスト教の中にわずかに見られるだけである。後は、ドストエフスキーやトルストイの作品の中に見られる程度か。
それ以外は「あいつは敵だ。敵は殺せ」が西洋の基本思想だと思われ、そして誰が敵なのかは、上の人間が勝手に決めるのである。要するに、博愛思想などがあったら困るのである。敵を殺すこともできないし、敵から財産を奪うこともできないし、敵だから騙す、ということもできない。言い換えれば博愛思想は上級国民の最大の敵であるわけだ。

おそらく、「兼愛非攻」の墨子の平和主義は西洋では翻訳されていないか、黙殺され続けているだろう。それは「資本主義」と「帝国主義」の最大の思想的敵なのである。




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