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「意思と思考と無意識」

古いフラッシュメモリーに保存されていた文章で、既にこのブログに転載済みかもしれないが、我ながら面白い思想なので、自己引用しておく。

(以下引用)やや読みづらいので、冒頭の二つの引用記事は最初は読み飛ばすといい。


意思と思考と無意識


 


 


「個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」


 (『国体の本義』より。佐藤優『国家の神髄』よりの引用)


 


「阿頼耶識は、生命の中枢であり、「我」よりもさらにその根底にある生命そのものに執着する。阿頼耶識の発見こそ、唯識論最大の発見であるとされている。


人間が行為(現行)をすればその痕跡が残る。これを種子という。種子は、阿頼耶識中に残って蓄積される。これは、すべての経験は無意識の中に残るというフロイトの考え方と同様で、『過去の経験は、意識の中に何も残らなくても、無意識の記憶となって、すべて蓄積されている』のだ。


この蓄積を『薫習』という。薫習とは、香りが衣服などに付くことをいい、過去の経験が、阿頼耶識に付着、蓄積されることをいう。これを、『現行の種子は阿頼耶識に薫習される』という。


たとえば、よい行為(現行)をすれば、よい種子が薫習される。


種子は、また現行を生む。例えば、よい種子からは、よい行為(現行)が生じる。


(中略)


この心の一部分は、常(不変)に近いから、これこそ『我』であるとしてしがみつく。その心(阿頼耶識)の一部分を、とくに末那識という。末那識は、実在しない『我』を実在すると錯覚して、あくまでもこれにしがみつくのだ。


現行から薫習され阿頼耶識の中に蓄積されている種子は、生まれてからの種子のすべてである。ここまではフロイトと同じだが、ここから先が違う。唯識論では、生まれる前、永遠の昔からの薫習による種子がすべて阿頼耶識に蓄積されていると考えている。すなわち、前世の種子も、前前世の種子も、前前前……世の種子もすべて蓄積されているのである。


 


遺伝子情報もまた種子の一種と唯識では捉えている。すなわち、阿頼耶識は厖大なデータバンクといえよう。なにしろ生まれる前、遥か昔のいわば天地開闢の頃からの記憶があるのだから。


(中略)


人間の意志、これも一種の譬えであって、意志以前の誰も自覚しない原意識のようなものが、転生する。」


   (小室直樹『日本人のための宗教原論』より)


 


 


以上の二つの引用は、これから自由意思を論じ、ひいては社会や国家を論じるための前提である。この二つの引用に共通するのは、個人はこの世界全体と歴史的につながっている存在だということだ。我々の頭脳が学校教育や読書、あるいはさまざまなメディアを通じて手に入れた情報を蓄積していることは自明であるが、その蓄積された情報は、実は遺伝子の中にまで含まれている可能性がある、という仮説をここでは「阿頼耶識仮説」としておく。つまり、記憶や知識の遺伝もある、という仮説だ。


ただし、この仮説は、自由意思の問題を論じる時にのみ用いる予定だ。あくまで予定であり、「予定は未定。決定にあらず」と中学生ジョーク的なお断りをしておこう。


 


先に国家と個人について論じよう。


『国体の本義』(あるいは『国家の神髄』)から引用した部分は、べつに記憶の遺伝までは前提とはしていない。ここで重要なのは、単なる孤立的個人が集合したのが国家なのではなく、「国家によって形成された個人」の集合体が国家なのだ、ということである。これが、佐藤優が『国家の神髄』の中で言おうとしたことだろう。その点に関しては、私は佐藤と意見を同じくする者だ。


この考え方からするならば、一つの国家の中に複数の民族文化が共存する国では、国家をまとめていくためには強引な紐帯が必要になる。アメリカなどはその代表であり、そこでは「自由競争こそ正義である」「自由競争の結果を受け入れることが正義である」という思想が常に国民の中に流し込まれている。そこでは、公正な自由競争がなされているか、という点検よりも、まず競争そのものが当然視されている。不正な「自由競争」はあくまで個々の条件による特例とされ、その不正は自由競争の正しさには無関係とされる。


では、日本の場合はどうか。日本の中にも異民族の割合が増えてきた現状では、佐藤優的な意味での愛国心(自らと国家との精神的血縁を前提とする愛国心)は土台が揺らいできたのではないだろうか。


思想面においても、日本固有の文化を知る若者の割合がここまで低下したのでは、もはや日本の固有性を前提とした思想は意味を失いつつあるのではないだろうか。つまり、思想としての右翼はもはや消滅する運命にあるのではないか。左翼に敵対して守るべき日本の固有性、日本固有の文化などもはやほとんど無い。ならば、その戦いの兵士も不要だろう。右翼思想は、せいぜいが、日本人であるだけで近隣諸国の人々よりも自分が上位であると錯覚し、インターネットに汚らしい他国侮辱の言説を書き込むネット右翼のような社会底辺の人間のガス抜きの役にしか立たないのではないか。


日本文化はもはや日本語という言葉、日本語を用いて書かれた古典的書物の中にしか無いのではないだろうか。おそらく、マスコミが戦後すぐから今まで積極的な日本語破壊を行ってきたのは、アメリカによる日本文化破壊プロジェクトの一つだろう。明らかに、日本文化は太平洋戦争を境にしてそれ以前とはっきり断絶しているのである。教育とマスコミの力によって。


一方、左翼思想はフランス革命に源流があり、社会や国家から独立して思考しうる近代的個人と、合理的理性のみを思想の根拠としている。


左翼は、佐藤の言うアトム(原子)的存在である。佐藤はそれを否定的に見ているが、思想が社会や国家に限定され(支配され)ないのだから、世界全体がその視野に入ってくるとも言える。社会を客観的に批判しうるのは、その社会の外部に立つ思念のみだろう。


グローバリズムは新自由主義による世界の捻じ曲げだが、その結果は個々の国家における土着的文化の破壊である。その点だけを見れば、左翼による世界同時革命に近い現象だ。現代社会を批判する論者がしばしば新自由主義者の政治家や新自由主義的政策を左翼呼ばわりするのは、それが従来の社会秩序を破壊するものだという点では正しいと言える。ただし、その社会秩序破壊はただ「金の獲得」だけを目的とするもので、底辺層の幸福や福祉を目的とした社会主義や共産主義とはまったく異なるものだ。その両者を同じ「左翼」の名で呼ぶことは誤解のもとだろう。


 


さて、国家と個人の関係について考えよう。


人はこの世に誕生して以来、あらゆる情報を吸収して成長する。その情報は、彼が生まれた国の文化に基づく情報である。たとえば、日本人なら日本語による情報になる。彼が得る視覚情報、聴覚情報、言語情報のすべては、日本という国によって枠組みが与えられているのである。つまり、彼は否応なしに日本人として成長するのである。当たり前のことを長々と述べるようだが、これはあまりにも当たり前すぎてその意味に気づかないものなのだ。


 


我々は自分の頭脳で考え、自分の自由意思で判断している、と思っている。


本当にそうか?


 


我々がある意思を持つのは、そのように意思するべくプログラムされていたのではないか、というのが自由意思を疑うということだ。


まあ、阿頼耶識までは仮定しなくてもいいが、無意識というものが存在することは、現在の科学でも公理と見ていいだろう。我々の思念のメカニズムは、「意識された問題について意識的思考が行われる一方で、無意識の中から意識の表面に浮かんでくる関連情報によって思念が広がりと複雑さを持ち、それによって生産的な思想的結実を生む」というものだ。我々は自分の思考内容について、すべての情報を思考前から把握することはできない。思考材料は我々の巨大な無意識の「データバンク」の中にあるのだ。


とすると、そのデータバンクに或る偏向があるならば、我々の思考自体がその偏向の影響を受けるのは自然なことではないか。


我々は、或る問題について自分の自由意思で或る判断を下したと思うものだ。しかし、そのように決定するべく、無意識の中で決められていたのではないか? そして、我々の無意識のデータバンクは、日本という国の文化と歴史にその材料の大半を負うている。ならば、我々が純粋に合理的に思考し、判断したと思っている場合も、ただ我々の中の原日本人が判断しているだけだ、という可能性はある。


しかし、これは結局は答えの出ない問題だ。論証不可能。ならば、「語りえないものに対しては沈黙するべきだ」となるか。まあ、語りえないなら沈黙するしかないのだから、このウィトゲンシュタインの言葉は、そう見えるほど深遠なものでもないのだが。


合理的理性には限界がある、というのは当然であり、そもそもその理性の母体となるデータバンクは、巨大な暗闇の中にあるのだ。たまたま我々がちょっとうまい思考をした時には、我々はそれを自分の手柄とし、自分の頭の良さに自惚れるのだが、なあに、それは「偶然の結果」にすぎない。我々の無意識が我々にどんな思考材料を提供するか、我々の意識的理性はまったく関与していないのだから、まぐれ当たりのヒットでしかないのである。


もちろん、意識的理性の運用のうまい人もいるし、芸術家などの中には無意識の思考素材調達に才能のある人もいる。画家のキリコなどは、一生のある時期にだけ、無意識の井戸の中から豊富な素材を汲み上げたのだ。また、音楽家などだと、その技術的修練によってその人の無意識が特異な偏りを生んで、天才的な作品を豊富に生み出すということもあるだろう。いずれにしても、我々の意識は無意識の暗い大海の上に漂う小島にすぎない。


 


国家と個人の関係に話を戻せば、我々の思考も意思(意志)も、その生まれ育ち今生活している国家によって規定されている。ならば、我々がどのような意思を持とうが、それは常に日本人としての意思になる。我々の自由意思は、その偶然的な現れにすぎない、ということだ。であるから国家が我々の無意識を支配するために教育を改変していこうというのは、確かに国民コントロールの手段としては当然だが、その内容が「日本神話を事実として受け入れよ」という『国家の神髄』の主張になると行き過ぎだろう。


 


だが、こんな議論は空論だ。我々は自分に自由意思があると信じて生きている。そう信じているからには、それが現実なのだ。たとえ自分の判断が我々の中の超自我によるものだろうが、我々は自分の自我がそれを判断したのだと信じている。


 


しかし、小室直樹の阿頼耶識についての簡明な説明にある、「種子(シュウジ)」と「現行(ゲンギョウ)」の関係は重要である。


我々は常に外界から情報を取り入れ、それが我々の無意識の中に蓄積される。その蓄積された「種子」が我々の判断を形成し、我々の行動を決定する。その行動、すなわち「現行」がまた新しい情報の一つとなり、「種子」となっていく。こうした無限のサイクルが我々の思考や意思決定を形成していくのである。しかも、そのほとんどは無意識のうちに行われている。


簡単な例を挙げよう。ある困難に直面して、「困難と戦う」か、「困難から逃げる」かの選択を迫られたとする。ここで「逃げる」を選択するとあなたの中には「一度逃げた自分」という情報がインプットされ、「種子」となるわけだ。すると、同じような場面ではまた「逃げる」を選択するという習性が作られる可能性は高い。


最初の選択で「困難と戦う」を選択して、良い結果が得られるとは限らない。しかし、「戦った自分」という情報や、「なぜ失敗したのか」という情報は手に入る。それは、次の選択にも影響を与えていく。逃げた場合には得られない情報である。これも「戦った自分」という「種子」である。


こうした無意識の機能を理解すれば、様々な「よく生きるための言葉」が、ただの美辞麗句ではなく、やはり人間知の結集であると分かるだろう。


 


さて、何のためにこんな埒もない議論をしてきたのかというと、一つには、書かないと、自分の思想は発見できないからである。文章化して私ははじめて自分の中にある思想の一端を知ることができる。言語化しないかぎり、私の思想は無意識の海を漂うクラゲにすぎないのである。で、そのようにして検出された思想に意味があろうがなかろうが、それを考え、書くこと自体が私には楽しい。それが一番の理由だ。


 


この文章を書くきっかけは、最初に引用した二つの文章である。あの二つの文章は、私の頭脳を刺激し、面白いヒントになりそうだと思われた。だから、まずその二つを思考素材として冒頭に置いたのである。


まあ、国家論と思考論、あるいは自由意志論が思うほどには交わらなかったが、それはそれでいい。断片的思考は断片的思考でまた役に立つこともある。

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ブッダの教えと現代仏教の齟齬

現代仏教の各宗派はすべてインチキである、というのが私の考えだが、「宗教情報センター」というサイトの解説を見ると、私の認識は正しいようだ。(インチキだから無価値というわけではない。文学というフィクションにも大きな価値があるようなものだ。だが、インチキはインチキだ。)


(以下引用)赤字と下線は夢人による強調。



1.伝統仏教の「霊魂」観

 「死後の世界」についての科学主義的な原則論と世論との乖離に直面しているのは公教育の現場だけでない。伝統仏教界にも、教理と民俗的信仰の乖離の問題がある。
 仏教の開祖・釈迦は、「霊魂と身体の関係」や「死後の有無」などについては答えなかった(「無記」)。その理由として、毒矢が身体にささったときには毒矢を抜くことが最優先であるのに、それをせずに余計なことにこだわっていると毒がまわって死んでしまうという「毒矢のたとえ」がある。そのような問いは、生老病死などの苦の問題を解決するのに資することがないという考えからであろう[1]。とはいえ仏教は、あらゆるものに「永遠に変わらず独立的に存在し、主として支配能力がある実体[2]」は「ない」という「無我説」を説いており、「霊魂という実体的な存在を否定する」と一般に解釈されている。
 だが、インド仏教にはヒンズー文化の輪廻転生思想が取り入れられ[3]、それが中国を経て日本に伝来した。さらに仏教は日本古来の霊魂観と祖先崇拝という民俗的伝統を取り入れ、15~16世紀ごろに「葬祭仏教」として日本社会に定着した[4]。そこでは一般的に、死者は、僧侶による葬送儀礼によって仏(ホトケ)となり、子孫によって墓に埋葬され、子孫による祭祀を受け続けて先祖、つまり祖霊となっていくとされた[5]
 こうして、霊魂についてはインド仏教も、さらに日本各地の民俗信仰を吸収して展開した「日本仏教」も教理の矛盾を孕んだまま存在しているこのため日本の伝統仏教は、教理の基本としては無我説に基づき霊魂の存在に否定的であるが、ほとんどの宗派が統一された公式見解を持たず、個人的見解も多様である。

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善悪二種類の「人間の条件」

イギリスによるインド支配の後、インド独立を機にインドはインドとパキスタンに分裂したが、その分割の理由はヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立にある、と(たぶん)理解されているかと思う。しかし、それまでは平和に共存していたこの二宗教が、国家分裂によって対立関係になった、という見方も可能だろう。
この前、市民図書館から借りた「夜の日記」という本の著者(インド人女性)後書きによると、

「インド各地の特定の場所で、ときおり紛争が起こります。けれども分割(夢人注:1947年)の前には、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、シク教徒、それにパールシー教徒、キリスト教徒、ジャイナ教徒などの少数派の宗教教団の人たちが、なかよく暮らしている地域もありました。国境をこえるときに緊張が大きく高まり、パキスタンに入国するイスラム教徒とインドに入国するヒンドゥー教徒やその他の宗教の人たちのあいだで戦闘や殺人が起こります。暴力が起こったのは、ほとんどがかつては平和だった場所です。千四百万をこえる人が国境をこえたと考えられていて、そのあいだに少なくとも百万人が死んだといわれています(もっと多いという人もいれば、少ないという人もいます)。」

下線部が少し分かりにくいかと思うが、パキスタンがイスラム教中心の国になる、という決定があって、インド内にいたイスラム教徒がパキスタンに移る際にもともとパキスタン所在地にいた他教徒との間で闘争が起こり、殺人が起こったということ、そしてヒンドゥー教中心となるインドに入ろうとした、パキスタン側の地にいたヒンドゥー教徒が、インド内の他教徒との闘争になったということかと思う。
まあ、いずれにしても、宗教というものが人をキチガイ(殺人鬼)にする例である。
なお、仏教がインド発祥でありながら、インドでまったく発展しなかったのが私には謎なのだが、誰かこれについて納得のいく説明をしてくれないものだろうか。
はっきり言って、ヒンドゥー教もイスラム教も私には愚劣な思想だと思われるのだが、たとえばイスラム教徒は世界に十六億人いるという。もはや、キリスト教を超える世界宗教と言っていいのではないか。イスラム教の何がそれほど魅力があるのだろうか。単に私のような一知半解の馬鹿には理解ができない深遠な宗教なのだろうか。それなら、その信者たちの殺し合いは立派な行為となるのだろうか。

この「夜の日記」の本文は未読だが、翻訳者の後書きに、こうある。

「どうやら人間は『自分(たち)ではないもの』との関係で自分を定義し、意味づけをせずにはいられない生き物のようです。ヒンドゥー教徒であるには、ヒンドゥー教徒でないものの存在が必要です。日本人であるためには日本人でないものの存在が必要です。男であるためには男でないものの存在が必要です。健常者であるためには健常者でないものの存在が必要です。さまざまな境界線を引いて「わたしたち」と「かれら」をわけ、ちがいを強調し、自分とちがうものを排除して、対立するのは、人間という生き物に深く組みこまれた条件なのかもしれません」

まあ、「人間の条件」とは、「非人間的な悪」に対する倫理的立場を示すのが普通だろうが、ここに書かれたのも、或いは(悲しむべき)「人間の条件」かもしれない。
そして、翻訳者山田文さんは、こう続ける。

「けれども、そうしたちがいを暴力につなげることなく、ちがいを抱えながらともに生きていくことができるのもまた人間ではないでしょうか。」







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戦争とは略奪の象徴である

「縄文時代=狩猟・漁労生活=財産の蓄積がない=貧富の差がない=戦う理由がない=平和な社会がずっと続く」

財産の蓄積が闘争の原因。それが資本主義社会が戦争と搾取の連続になる理由

(以下引用)




2024年08月28日 12:01

1: それでも動く名無し 警備員[Lv.5] 2024/08/28(水) 01:49:25.59 ID:Z74Ih6Xp0
一万年間ほぼ何も進化せず
のんびり過ごしてた模様
no title

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2: それでも動く名無し 警備員[Lv.8][新芽] 2024/08/28(水) 01:50:44.56 ID:ejult/Mf0
実際には縄文中期頃には稲作始めてた事がわかっている
3: それでも動く名無し 警備員[Lv.20] 2024/08/28(水) 01:52:22.43 ID:EFc0p1Lx0
これもう極楽浄土やろ

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仏教とは何か

「隠居爺の世迷言」記事の後半で、私としては不満というか、異論のあるところもあるが、まあ、些末事なので、記事全体の主旨には賛同する意味で転載する。ただ、隠居爺氏の「明治維新より前の日本文化にも不満、明治維新以降の日本文化にも不満」という気持ちには「?」となる。では、すべての日本文化に不満かというと、その前(省略した部分)では日本文化は素晴らしい、西洋文化は浅薄だ、と言っているのだから、主旨がよく分からない。まあ日本文化の精神性と西洋文化の物質性(世俗性)の折衷がいい、くらいの意味だろうか。

ちなみに、仏教は少しも難しくない。司馬遼太郎が言っているとおりで、要は「空」という概念を通過して現世を見ることで「悟り」に達する、つまり「現世の苦や悪の存在に悩まされない」心を作ることである。(仏教に依らなくても「悟り」を開いている庶民は無数にいるだろう。ただ、彼らはそれを自分では言わないだけだ。あるいは自分で気づいていないだけだ。)
仏教の本質は(一部の宗派・偽仏教を除いて)宗教ではなく、ストア派に近い哲学だ。葬式も仏事も仏像の類も宗教的装飾・偽装でしかない。(それが庶民救済機能もあったから、無意味だとは言わないが。)
ただし、仏教は悟りの際に「無欲化」する可能性が高いので、西洋人的には「廃人」となる可能性が高いwww だから彼らの中には仏教を「虚無主義」だと言う人もいるのである。
蕪村の「卯月八日 死んで生まるる子は仏」は冗談俳句だが、仏教の真髄でもある。死んで生まれれば、現世の苦悩は何も無いのだから。ただ、もっと手軽には、竜安寺の石に刻まれた「我唯だ足るを知る」で、とりあえず悟りに近い状態になれる。

(以下引用)

 仏教は大変に難解な宗教です。これは他の宗教ではあまり見られないものかもしれませんね。キリスト教も神道も拍子抜けするくらい分かりやすいですから。小説家の司馬遼太郎は、仏教においては「解脱こそ究極の理想なのである。」と書いています。そして、「本来の仏教はあくまでも解脱の〝方法〟を示したもの」だそうです。つまり、「解脱するために修行をするのが仏教」ということになるでしょうか。

 そこで、 " 解脱 " とは何かが問題になりますが、「解脱とは「煩悩から解き放された心の状態」である。」(日本大百科全書(ニッポニカ))とあります。では煩悩とは何かといえば、「心身を悩まし、乱し、煩わせ、惑わし、汚す心の作用をいう。」(百科事典マイペディア )のだそうです。

 どうも仏教は、「この世は苦しいもの」という前提を置いて、その苦しさを精神的に解決するための方法を示すようです。それを達成することが解脱であり、悟りを開くといってもいいのでしょう。

 では、解脱して悟りを開いたらどうなるのでしょうか。その瞬間から、薔薇色の、ハッピーな生活が訪れてくるのでしょうか。人生は喜びで満ちあふれるのでしょうか。どうもそうではなさそうです。解脱することによって幸福になるのではなく、一段高度な精神状態、俗世間を超越したレベルの高い存在になるようです。そうなったとしたらどんな気分なのかは、解脱していない私ではよく分かりませんが。

 でも、面白いですね。面白いのは西洋文化と正反対であることです。前回の記事では0.01秒にこだわる陸上100m走のことをしつこく書いてしまいましたが、仏教の精神はそれと真逆のようです。仏教的な思想が支配的な東洋では、目標はそれぞれの人の精神的な成熟です。精神的な成熟によって人生の問題を解決しようとします。0.01秒などという瑣末な問題にはこだわらないわけです。東洋の文化・文明は、精神文化、精神文明といっていいように思います。それに反して、西洋文化・文明は物質文化、物質文明ですね。

 さらに日本の場合は、より複雑であることも指摘する必要があるでしょう。日本は中国・インド文化圏の一番はじに位置していたせいで、中国・インドの文化が遅れて入ってきました。そして私の想像するところ、日本の原始的な文化を滅ぼす形で無理やり侵入してきました。そのせいで日本人は中国・インド文化を受け入れながらも、実は不満を抱えていたのではないでしょうか。

 私はそのことが、明治維新以降の日本を方向づけたと思っています。つまり、中国・インド文明・文化に対する不満が、西洋文明・文化の取り入れという形で表れました。アジアで日本だけが狂気のように西洋化したのは、それ以前から1000年以上も東洋文化・文明を嫌っていたことが影響したのではないかと思います。

 日本人は、西洋文明に触れたことで、それまでがんじがらめに縛られていた東洋から解放されたような気分になったことでしょう。嬉しかったのだと思いますよ。そして、明治維新以降現在に至るまで、日本の行ってきたことは一貫して日本の西洋化です。その結果、日本の物質文明がいかに素晴らしい進歩を遂げたかについては、私が説明するまでもありません。

 しかし、世の中は「全てうまくいく」ということはないものですね。西洋文明・文化には精神性が欠けているという大欠陥があるのです。そのせいで生じたことは、日本人の軽薄化です。私は最近の日本人が劣化してきたように見えて仕方がないのですが、そして、そのことが腑に落ちなくて首を傾げていたのですが、どうも間違いないようです。東洋文明の精神性を捨ててしまったために、日本人は劣化、幼児化、幼稚化してきているようです。

 そのことは、岸田総理でこれ以上ないくらい証明されました。9月に行われる総裁選の候補者を見ても、なんとまあ未熟で愚かな人たちばかりかと呆れるくらいです。石破茂くらいでしょうか、大人に見えるのは。ただし、石破茂のことを私が詳しく知っているわけではないので何とも言えませんが。ただ、石破茂夫人は大変にできた人のようです。この点が、安倍、菅、岸田の3馬鹿大将と大きく違うところです。

 話がそれました。特にバイデン政権になってから、アメリカが遠慮会釈なく日本を侵略し始め、日本文化まで破壊しつつあるのが現状になります。自民党政権はそれに抵抗しません。それが良かろうが悪かろうがとにかくアメリカに従い、そこで自分たちだけがうまい汁を吸おうとするのが自民党の正体ですね。

 私は、明治維新以前の、中国・インド文明に完全に染まった日本を好みませんが、現在のようにヤンキーどもに侵略されている日本も好みません。しかし、日本や日本文化を大切にしようとする政治家が、与野党を問わずほとんどいないように感じます。日本の崩壊を食い止めようとする人が見当たりません。現在の日本は、国の存亡の危機に直面しているのかもしれませんね。

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ADHDの人と普通人の違いは「価値観」か

「他人のためなら動ける」というのは、「利己的欲望には興味が薄い」わけで、学校教育の目標は「いい成績を挙げて他人に褒められる」「いい学校に進んで出世する(金持ちになる)」という利己的動機で、まあ、今どき「親のために勉強する」という人はあまりいないだろう。「親に怒られるから仕方なく勉強する」は無数にいるだろうが、それも「自分の利益」のための勉強だ。つまり、ADHDの人が学校教育になじめないのは当然だ、となる。
で、他人のためなら動けるというのは、宗教家などには普通の人格だ。(詐欺宗教は別の話。)学問研究の世界も、「自分のため」ではなく、社会の幸福の増進のため、というのが当たり前で、昔は御用学者は少なく、貧乏学者が普通だったのではないか。実際、昔の学者のエピソードは、たいていADHD的である。ニュートンなども、考え事をしていて、卵を茹でるつもりで懐中時計を湯に入れたという(嘘か本当か知らないが)エピソードもある。


(以下引用)


       
       
       
       
       
       
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ADHDの「利他的動機付け」とは

ADHDは他人のためなら覚醒するという「利他的動機付け」研究が話題に
ADHD人のためなら覚醒する説
・自分の部屋は掃除できないけど人の部屋は掃除出来る
・自分のスケジュールは管理出来ないけど人のは出来る
・人助けがしたいという意欲がそもそも強い
「ADHDは人のためなら覚醒する」説については

『利他的動機付け』というテーマで論文も書かれており、

『ADHDの子供は他人の笑顔や感謝の言葉を報酬にした時、健常者よりも一時的にスペックが上がる』

という結果が研究によって実証されていたりするんですよね
利他的動機づけはADHD傾向が高い人の作動記憶を改善する

ADHDの利他的動機付け
ADHD自童の認知的コントロール能力は 他人の笑顔や感謝の言葉のような社会的報酬が期待されるときには健常児童よりも大きく改善する (Kohlset al.,2009 ) ADHD傾向の高い人ほど 他者の利益に対して強く動機づけられるのかもしれない 。
(中略) 行動に落ち着きのないADHD患者に対しては ,自分自身に対する報酬ではなく,他人の利益や喜びが期待できるような社会的状 況で認知的コントロ ール能力をトレーニ ングするほうが有効かもしれない 。
出典:https://ci.nii.ac.jp/naid/110009803281
    これ面白いのは逆に

    「自分への金銭的報酬が期待できる場合には、
    ADHD傾向が高い人ほど認知能力が下がる」

    という研究もあるんだよね。

    以前にも「ADHDは突然の報酬を回避する傾向がある」という研究もあったりして、

    ”自分への報酬”をうまく認知できない
    という特性が一貫してるっぽいんだよな
    作動記憶と空間認知が一気に底上げされてる結果からすると、

    『他人の事なら”よく見える”』
    すなわち
    『自分の事にはリアリティを感じないが、他人の事なら現実的に検討できる』
    という状態なのかな。

    単純に強い動機付けによってモノアミン系がドライブした結果全体のスペックが向上した、とも取れるけど
    『非日常パワー』
    『お金だけじゃ動けない』

    このあたり含めるとやはり「やり甲斐搾取」との相性の良さが危惧されますね…

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    空なるかな空なるかなすべて空なり

    「混沌堂主人雑記」から抜粋転載。引用記事自体は「蚊居肢」記事。長いので途中省略。
    「自体性愛」は、簡単に言えば「オナニー」であり、他者を必要としない性愛だ、と私は解釈するが、まあ、自閉症を自慰者だと言うと社会的にかなり問題があるだろう。
    しかし、「他者を必要としない」ことを「直接的には(接触可能な肉体的外部物体としては)必要としない」の意味だとすれば、読書から思索まですべてが自慰的行為だとなり、私のブログなどその最たるものだろう。他のブログも同様ではないか? 「いや、私は、自分のブログが読まれ、名前が売れて、稼げることを目指しているから自慰ではないし、自己完結的でもない」と言う人は、まあ、私は下品だとは思うが、他者とつながることを重視していると言えないこともない。
    もちろん、フロイトその他も「自体性愛」は「主体の起源」である、としているわけで、特にそれを否定しているわけではない。むしろ、他者との関係が幻想の出発点とも言えるだろう。いや、外部との関係そのものが私やあなたの幻想でしかないかもしれない。その思い違いが悲劇にも喜劇にもなるわけだ。自分の思考全体が幻想でもあるわけで、何だか岸田秀みたいになってきたwww

    (以下引用)
    僕も似たようなことを言ってきたがね、でもポカンとしているのは日本人だけじゃないよ。最近は大量虐殺があったって自分や自分の愛するひとに関わりがなかったらヒトはポカンとしているものじゃないか、そこから出発すべきじゃないかと考えるようになったね。
    繰り返し引用してきたが、ルソーとフロイトの古典的な同一化の話がある。
    私たちはどのようにして憐れみに心を動かされるのであろうか。私たちを自分の外に連れ出して、苦しんでいる存在に同一化することによってである。
    Comment nous laissons-nous émouvoir à la pitié ? En nous transportant hors de nous-mêmes ; en nous identifiant avec l'être souffrant.( ジャン=ジャック・ルソー『言語起源論』1781年)
    同情は同一化によって生まれる[das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung]〔・・・〕
    一人の自我が、他人の自我にある点で重要な類似をみつけたとき、われわれの例でいえば、同様な感情を用意している点で意味ふかい類似をみとめたとき、それにつづいてこの点で同一化が形成される[ Das eine Ich hat am anderen eine bedeutsame Analogie in einem Punkte wahrgenommen, in unserem Beispiel in der gleichen Gefühlsbereitschaft, es bildet sich daraufhin eine Identifizierung in diesem Punkte](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)
    これを受け入れるなら、人は同一化しなかったら憐れまない、同情しないんだ。
    さらにルソーはキツイ「真理」を言っている。
    人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけを憐れむ。
    On ne plaint jamais dans autrui que les maux dont on ne se croit pas exempt soi-même.(ジャン=ジャック・ルソー『エミール』1762年)
    つまり自分はまぬがれると思ったら、憐れまないと言ってる。ガザのジェノサイドを自分は免れると思ったら同情しないんだ。ここはヒトそれぞれの想像力の問題があるがね。
    僕もこのガザの学校の死者たちの家族に真に同一化しているか言えば危ういよ、自分は免れているとおもっているね。
    ヴェイユのいうエゴイズムを人はみな持っているんじゃないかな。
    一般にエゴイズムといわれるものは自己愛ではなく、遠近法の効果である。人は、自分がいるところから見える物の配置が変わることを悪と呼び、その地点から少し離れたものは見えなくなってしまう。中国で十万人の大虐殺が起こっても、自分が知覚している世界の秩序は何の変化もこうむらない。だが一方、隣で仕事をしている人の給料がほんの少し上がり、自分の給料が変わらなかったら、 世界の秩序は一変してしまうであろう。それを自己愛とは言わない。人間は有限である。だから、正しい秩序の観念を、自分の心情に近いところにしか用いられないのである。
    Ce qu'on nomme généralement égoïsme n'est pas amour de soi, c'est un effet de perspective. Les gens nomment un mal l'altération d'un certain arrangement des choses qu'ils voient du point où ils sont ; de ce point, les choses un peu lointaines sont invisibles. Le massacre de cent mille Chinois altère à peine l'ordre du monde tel qu'ils le per-çoivent, au lieu que si un voisin de travail a eu une légère augmenta-tion de salaire et non pas eux, cet ordre est bouleversé. Ce n'est pas amour de soi, c'est que les hommes étant des êtres finis n'appliquent la notion d'ordre légitime qu'aux environs immédiats de leur coeur.
    (シモーヌ・ヴェイユ 「前キリスト教的直観」Intuitions pré-chrétiennes )
    ましてやフロイトのいう「病者のエゴイズム」状態にあれば、身近な人にだって関心がなくなる。
    (中略)
    自閉症はフロイトが自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものである[Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. ](オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』1911年)
    この自体性愛=自閉症が、ラカニアンにとって主体の起源であり、享楽である。
    自閉症は主体の故郷の地位にある[l'autisme était le statut natif du sujet](J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)
    享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである[la jouissance …qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme.](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
    ーー《身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である[The jouissance of the body is autistic: thanks to love and to the fantasy we can have relationships with partners – but in the end jouissance is autistic]》.(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
    ま、要するに現在は幻想が剥がれ落ちたんだな、エディプスの幻想やら宗教の幻想やらが。かつての礼儀作法の国日本なら礼儀の法の幻想が。
    最近は自閉症者と呼ばれる人が多いようだからな、特に日本では。というわけで、彼らみな「病者のエゴイスト」だよ、ツイッター眺めるとそんなヤツばかり目につくね。
    とはいえ主体の根にあるのは自閉症であり、現在はそれが露骨に現われているという前提に立ったとき、どうしたらいいかってのは容易には見出せない。人間はこういったもんだと諦めるほかなくなってしまう。悪はやりたい放題となる。
    これじゃあいくらなんでもマズイ、・・・で、こういった文脈のなかに例えば、柄谷やラカニアンによる「普遍宗教の回復」の議論がある。

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