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一神教の本質

知人から貰った本の中に小谷野敦(「あつし」とも「とん」とも読ませているようだ)の新書がいくつかあって、どれもなかなか面白いので、今、最後の「日本人のための世界史入門」を序論だけ読んだところだ。
彼は論争的(カタカナ語があるが、失念)な精神的体質の人間で、やたらに他人というか他論者を批判し食ってかかっているが、だいたいにおいて他者(他論者)を非論理的だと思っているらしい。特に、途中で持論を適当に変えている人間や、その議論の中の矛盾には我慢がならないようで、私から見ればゴリゴリのリゴリズム(rigorism:厳格主義)人間だが、その自分の論説自体、途中で内容がズレたりしているようだ。まあ、論理への過信だろう。そもそも人文系の議論に論理がどれほど有効か、分かったものではない。一部では通用しても、その一部以外には通用しない論である場合も多いだろうが、それを「論理的一貫性がない」と批判するのは、攻撃自体が愚かなのではないか。世のあらゆる事象は多岐に渡っており、それぞれの境界も曖昧なのである。
だが、小谷野の書く文章は面白いし痛快だから読む価値はある。しかし、その主張をすべて信じるのはお勧めしない。まあ、7割か8割くらいは妥当、という感じか。その主張自体、それほど意義があるようにも見えない。わりとマスコミ論者同志や人文系学問内部の問題なのである。やや右派的思想が感じられるが、「軽評論」と言うべきだろう。根が正直に思えるので、意図的に世間を騙す意図は無いと思う。
要は、「高校教科書や大学教養課程レベルの知識も無い人間が多すぎる」ということへの苛立ちが、彼の論争的体質の中心なのだろう。まあ、それでいくつも本を出せたのだから結構なことではないか。

さて、本題に入る。前書きに小谷野のことを書いたのは、彼が「民主主義」に否定的で、また「民衆史観」にも否定的なようなので、「民主主義」と「民衆をどう見るか」の問題を論じ、ひいては政治体制としての民主主義の是非を考えてみようか、ということだ。

と思ったが、先ほど、「日本人のための世界史」を読み進めて、もっと興味深い問題に出会ったので、そちらを紹介する。この引用だけでもかなり物議をかもしそうな文章である。論争屋小谷野の面目躍如だ。これ(下記引用内容)を言った人を私はほかに知らない。だが、同じ思想を持つユダヤ教については東海アマ氏が何度も書いていて、それは何も「タルムード」を読まなくても、「旧約聖書」を読めば、その思想は明白なのだから、この思想は一神教の本質だと私は思っている。その中でキリスト教だけが異質と言えば異質なのである。だからキリストは十字架で処刑されたのだ。
さてその思想とは何か。前掲の書から引用する。


「『クルアーン』を読んで驚くのは、それが『旧約聖書』とほとんど内容が同じということで、(中略)だからイスラム教は、本来キリスト教徒とユダヤ教徒は『啓典の民』として特別扱いし、言葉をもってイスラム教に改宗するよう説得すべきだとしているが、それ以外の民、つまり仏教徒(無神論)などは、問答無用で殺していいことになっている。


これは大問題の発言で、私は「クルアーン(コーラン)」を読んだことは無いので、この言葉が事実かどうかは分からない。しかし、イスラエルという国の軍隊やイスラム系テロリストの強さや残忍さ、あるいは殺しても死なないようなしぶとさ、執念深さの根底には、この思想があるのではないか、と思われる。日本で言えば信仰をバックボーンとした一向一揆のようなものだ。「厭離穢土欣求浄土」の思想が、戦国最強の織田信長の軍隊をもっとも悩ませたのである。

ちなみに、この文章を読む前に、私は娯楽記事中心の別ブログでこんなことを書いている。

(以下自己引用)注記すれば、キリスト教は「汝の敵を愛せよ」(あるいは「良きサマリア人」のエピソード)に見られるように革命的一神教であるので、ユダヤ教やイスラム教と同列ではないが、そのキリスト教国家が異民族を虐殺し、奴隷化したのは言うまでもない。つまり、キリスト教は彼らに根付いていないのである。これを「偽善的キリスト教」とでも言っておく。「偽キリスト教」でもいい。キリスト教の変質については詳しくは「革命者キリスト」参照。


前に「詩情と笑い」という一文で「ナルニア国ものがたり」をつまらないと批判したが、その理由を作者が詩人でありユーモアが欠如しているから、とした。その部分を後で自己引用するが、その前に、少し考えが深化した気がするので、それを先に書く。それは「一神教には反戦思想は無い」というものだ。
これは当たり前の話で、一神教というのは、その神を信じている者は善、信じない者は悪であるという思想であり、つまり、その神を信じない相手がどういう国や民族であろうと、それは悪なのであり、戦争して国土を奪ってもいいし、その国民を皆殺しにしても奴隷にしてもいい、となる。つまり「帝国主義は一神教文化圏の必然」なのである。




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キリストとサド

石井洋二郎という人の「フランス的思考」の終章を先に読んで、「合理性とは理性を最高の原理とし、それに反するものを否定する思想上の立場」という辞書的定義が書かれているのを見て、「最高の原理とみなすものに反するものを否定する」生き方という点ではキリストとマルキ・ド・サドは双子ではないか、と思ったので、サドについてのウィキペディアの記述を載せておく。
キリストは「神という存在への絶対的帰依」のためにユダヤの民に処刑され、サドは「みずからの欲望を満たすことだけが唯一の『理』であった」と書かれているが、その理に従った一生は刑務所と精神病院が生涯の後半の住居のほとんどである。つまり、どちらも「自分の信条に徹底的に従った」生涯だったのである。言わば、どちらも合理性の極地であったわけだ。言い換えれば、ふたりとも精神世界の英雄だったと言える。(「悪霊」のスタヴローギンにはサドの面影がある。)
なお、論理性で言えば、(神の存在証明は不可能であり、おそらくインチキだから)私はむしろサドに軍配を上げる。だが、キリストにせよサドにせよ徹底した論理は危険なものだ。我々の思考は曖昧さと非論理性に満ちているからこそこの社会で生きていけるわけだ。



(以下引用)


マルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740年6月2日 - 1814年12月2日)は、フランス革命期の貴族小説家。マルキはフランス語侯爵の意であり、正式な名は、ドナスイェン・アルフォーンス・フランソワ・ド・サド (Donatien Alphonse François de Sade [dɔnaˈsjɛ̃ alˈfɔ̃ːs fʀɑ̃ˈswa dəˈsad])。


サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリ刑務所精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1か月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄英語版に1年、そしてシャラントン精神病院英語版に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在は高い評価を受けている。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。

生涯

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生い立ちと教育

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父のサド伯爵、1750年ごろ。



母マリー=エレオノール。

マルキ・ド・サドは、パリのオテル・ド・コンデフランス語版かつてのコンデ公の邸宅、現在のパリ6区コンデ通りフランス語版ヴォージラール通りフランス語版付近)にて、サド伯爵ジャン・バティスト・フランソワ・ジョセフフランス語版と、マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン(コンデ公爵夫人の女官。宰相リシュリューの親族)の間に生まれた。彼は伯父のジャック・ド・サド修道士による教育を受けた。サドは後にイエズス会リセに学んだが、軍人を志して七年戦争に従軍し、騎兵連隊の大佐となって闘った。


1763年に戦争から帰還すると同時に、サドは金持ちの治安判事の娘に求婚する。しかし、彼女の父はサドの請願を拒絶した。その代わりとして、彼女の姉ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユとの結婚を取り決めた。結婚後、サドは息子2人と娘を1人もうけた[1]


1766年、サドはプロヴァンスのラコストの自分の城に、私用の劇場を建設した。サドの父は1767年1月に亡くなった。

牢獄と病院

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サド家は伯爵から侯爵となった。祖父ギャスパー・フランスワ・ド・サドは最初の侯爵であった[2]。時折、資料では「マルキ・ド・マザン」と表記される。


サドは「復活祭の日に、物乞いをしていた未亡人を騙し暴行(アルクイユ事件)」「マルセイユの娼館で乱交し、娼婦に危険な媚薬を飲ます」などの犯罪行為を犯し、マルセイユの娼館の件では「毒殺未遂と肛門性交の罪」で死刑判決が出ている。1778年にシャトー・ド・ヴァンセンヌ英語版に収監され、1784年にはバスティーユ牢獄にうつされた。


獄中にて精力的に長大な小説をいくつか執筆した。それらは、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説でもある。だが、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』をはじめ、淫猥にして残酷な描写が描かれた作品が多いため、19世紀には禁書扱いされており、ごく限られた人しか読むことはなかった。


サドは革命直前の1789年7月2日、バスティーユから「彼らはここで囚人を殺している!」と叫び、革命のきっかけの一つを作ったと言われる。間もなくシャラントン精神病院にうつされたが、1790年に解放された。当初共和政を支持したが、彼の財産への侵害が行われると次第に反共和政的になった。1793年12月5日から1年間は投獄されている。1801年、ナポレオン・ボナパルトは、匿名で出版されていた『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』と『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』を書いた人物を投獄するよう命じた。サドは裁判無しに投獄され、1803年にシャラントン精神病院に入れられ、1814年に没するまでそこで暮らした。

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有名思想と、その本質

世界の有名思想、私に言わせれば「ブランド思想」というものは、その本質はひと言で言えるし、ひと言で言えない思想はロクなものではないとすら私は思っているが、「専門家」はその事実を絶対に口にしない。それは彼らの存在価値が、その思想を秘儀化することで守られているからである。

たとえば、マルクスのマルキシズムは、あの膨大な「資本論」を読まないと議論の入り口にも立てないような印象をマルキスト達は世間に植え付けているが、その本質は「資本家たちが民衆から収奪しているから、民衆は常に貧乏で底辺に押さえつけられているのである」という一文で示せる。

キリスト教とユダヤ教はより簡単で、どちらも「創造主(唯一神)へ絶対的に帰依せよ」という命令である。つまり、この両者は本質は同じだと分かる。イスラム教も同じ宗教だ、というのも分かる。その違いは神への「経路」としてユダヤ教は「儀式や宗教的規則」を重んじることで宗教的指導者たちの権威を守ったのに対し、キリスト教は内面での信仰こそを本質として「神との直接の対峙」が可能だとし、それによってユダヤ教から迫害されたわけだ。つまり、その意味ではカトリックによる「教会を神への仲介者とする」やりかたはキリスト教の歪曲だ、となる。イスラム教も、「モハメッド」を神への仲介者とすることや繁文縟礼はキリスト教やユダヤ教の変形にすぎない。
つまり、キリスト教世界とイスラム教世界の対立は愚の骨頂であり、「仕組まれたもの」だと分かる。ユダヤ教とイスラム教の対立も同様の「兄弟げんか」だが、現にガザのジェノサイドという悪魔的行為がこの現代に存在している。

で、いい加減な知識であるとお断りしたうえで言えば、フロイトの「超自我」思想を「集団的無意識」に変形したのがユングで、吉本隆明の「共同幻想」も「集団的無意識が個々に抽象語になったもの」と言えるかと思う。つまり、たとえば「国家」とは「実在物」ではない、つまり物理的存在ではないという点で幻想だが、その幻想は実に巨大な力で全国民を縛っているのだということだ。

ただ、念のために言えば、私は以上に述べた個々の存在が価値がないとは言っていない。価値がないどころかすべて巨大な力を持っているのである。
問題は、上に書いたように、これらの思想の本質は実に単純なのだが、「専門家」がそれを難解にすることで、自分たちの地位や権力や収入の土台にしていることだ。さらには、これらの「本質」が理解されないことで、無数の対立や争闘や殺戮が生じているのである。

楽観的に見るなら、「地球温暖化詐欺」や「新コロ詐欺」で科学者や医学者のインチキぶりと卑怯さが露呈したことで、今後の世界では、多くの界隈での「専門家」が本物か偽物かの人々の判断が厳しくなるだろう。いや、それでないと、これまでの世界が払った膨大な犠牲が報われない。

最後に告白しておくが、私はユングの著作も吉本隆明の著作も一冊も読んだことはない。だから彼らの思想について私が書いたことは単なる想像である。
「資本論」など、覗いたことすらない。読む意義すら認めていない。失礼なたとえで言えば、中身を見なくても、表紙に女性のヌードの絵や写真があればエロ本だと分かるのと同じで、見るまでもないわけだ。ただし、私が「社会主義者(穏健的社会主義者・反暴力革命主義者)」であるのはこれまで何度も言ったとおりである。共産主義は(社会主義全体への偏見まで蔓延させた意味で)社会主義の敵とすら言っていい。



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生と死についてのいくつかの想念

中学生向けの本である「死をみつめて」という哲学書というか、雑文集を読んでいて、いろいろと考えたので、メモだけしておく。これは、この本の内容ではなく、そこから触発された私の想念である。

1:「天上天下唯我独尊」は、釈迦の教義には反する困った作り話というかセリフだが、これが、釈迦が生まれたまさにその時に言われたことを考えると、「この世界で、(私という個人にとって)私という存在、私の生命こそが至上の価値である」という、誰にとっても当たり前の言葉になる。そして、それは「自分が生きているということが自分にとっては唯一の現実である。自分が存在しなければ世界は存在しない」という当たり前の認識になるだろう。人生とは自分の死という唯一の消失点に向かって歩いていくことであり、しかも生きている間、その消失点は(空想として以外)ほとんど見えないのである。

2:死が眼前に見えた時、人は恐怖に襲われ、生命の希少さと貴重さを意識する。これを「生命飢餓感」という言葉で言ってもいい。(岸本英夫という人の用語)

3:キリストが処女から生まれ、死から復活したという「崇高なインチキ」。(埴谷雄高)

そのほかに、地球の生命体の中で自分の同類を殺すのはほぼ人間だけである、ということ(「私は、私達人間ほど、他の生物をやたらにとって食い、そして娯楽のためだけにも殺す地上最凶悪の生物はいないと繰り返し述べてきていますが」埴谷雄高)、そしてそのことをほとんど誰も不思議に思わないということの不思議を考え、そこに政治や組織や権力の発生機序を少し考えたのだが、まだ思想的萌芽にすぎない。手塚治虫の「火の鳥」に、これに近い内容の話があったかと思うが、やはりこれは文章によってこそ明確になる思想だろう。

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「精神の帝国主義」

まだ構想段階だが、「精神の帝国主義」という思想を文章化しようと思っている。
そのきっかけは、「ローマ帝国の産業は何だったか」という疑問が頭に浮かび、答えは「ローマ帝国に産業は無い。強いていえば軍隊が産業だった。その仕事は収奪だった」ということである。これは近代西洋の帝国主義はもちろん、アメリカでのロックフェラーやモルガンの仕事が「産業界の征服事業」であったこと、そして現在の金融資本主義が「金融による民衆支配と収奪」であることに通じている。これが「精神の帝国主義」である。つまり、「労働は奴隷(属国)がするもの」という思想だ。その萌芽はギリシャ文明やマケドニア文明にあり、ローマ帝国で完成され、その精神は西洋文明の根底である、ということだ。
もちろん、西洋文明だけでなく、基本的に封建主義社会・身分社会では、この「精神の帝国主義」「労働は奴隷がして支配者層は遊んで暮らす」という思想が根底にあるが、東洋ではそこに儒教や仏教の影響による「仁慈」の思想があったのが西洋との違いである。西洋の覇道一辺倒に対し、東洋には王道思想があったわけだ。それが完全に「精神の西洋化」がされてきたのが現代だろう。エゴイズムの集団化・組織化と武力化、法の歪曲と悪の隠蔽と逆に露骨化、弱者軽蔑と無慈悲さ、宣伝広告や公教育の利用などがその特徴である。

まあ、改めてまともに文章化しなくても、その内容は上に書いた思想でほとんど尽きてはいる。

念のために言えば、帝国主義は「主義」なのだから、それに「精神の」を付けるのは冗語(無駄な付けたし)だという批判をする馬鹿に対して、それなら「精神病としての帝国主義」と言っておく。支配者のそれはチャップリンの「独裁者」で戯画化されている。ただ、それは国民一般の精神に内在しているので、あえて「精神病」とは言わないだけだ。自己愛や利己主義そのものが精神病ではないのと同様である。そして組織化した(国民運動化した)帝国主義は国民全体を狂気にする。

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一神教世界での反戦思想の土台の不在

娯楽記事中心の私の別ブログに書いた記事だが、かなり的を射た内容だと思うので、このブログにも転載する。

(以下自己引用)

前に「詩情と笑い」という一文で「ナルニア国ものがたり」をつまらないと批判したが、その理由を作者が詩人でありユーモアが欠如しているから、とした。その部分を後で自己引用するが、その前に、少し考えが深化した気がするので、それを先に書く。それは「一神教には反戦思想は無い」というものだ。
これは当たり前の話で、一神教というのは、その神を信じている者は善、信じない者は悪であるという思想であり、つまり、その神を信じない相手がどういう国や民族であろうと、それは悪なのであり、戦争して国土を奪ってもいいし、その国民を皆殺しにしても奴隷にしてもいい、となる。つまり「帝国主義は一神教文化圏の必然」なのである。では、一神教どうしの国と国はどうなるか。それはまず根底に善と悪の戦いという「戦争完全肯定思想」があって、さらに「相手側はこちらを攻撃しようとしているから(とにかく相手は悪だから)、戦争するしかない」というプロパガンダでいい。これも世界史で常態的に見られる戦争理由だ。ちなみに、バチカンが戦争中止に動いた例は無い、と思う。まあ、形だけの仲裁行動はあるだろう。

これが「ナルニア国ものがたり」と何の関係があるかというと、この話の中で「戦争の理由」がまったく書かれていないからである。単に「氷の魔女」は悪であり、それがこちらを襲ってくるから戦うべきだ、というだけだ。なぜ氷の魔女が悪かというと、生き物をどんどん氷に変えるから、という話で、なぜ氷の魔女がそうするかの説明はない。まあ、氷の魔女だから、世界全体が氷漬けのほうがいいのだろう。
何だか、欧米諸国がある国を攻撃する時に似ている。つまり、存在そのものが悪だから退治する、という無茶苦茶ぶりである。その理由に「独裁国家だから」というのがあり、それは国内問題で外国の口出しすることではないだろう、という反論は、「いや、その国民のためという『人道的理由』なのだから、その政府を倒すのは当然だ」となる。

まあ、「ナルニア国ものがたり」とも「一神教」とも話がずれたが、そのまま載せておく。
どうせ思考の途中の思考素材の一部である。宗教論はいずれまた考察する。

ここでは、日本の童話のような人道主義や「万人愛」は一神教世界の児童文学には見られない、としておく。動物を擬人化しても、それは「主人公たち(白人)の側」だから善とされるにすぎない。敵側の動物は悪なのである。つまり、最初から善の側(白人側)と悪の側(非白人側)が区別されているわけだ。有色人種も「白人の味方」である場合に善とされるのである。

なお、宗教が信じられなくなっても、その宗教の影響下で書かれた児童文学がその国民の成長途上で精神的に影響を与え、深層心理になるのである。つまり、その国の「物語」文化が国民性や民族性になり、また新たな文化の土台となり永久化する。

(以下自己引用)

「ナルニア国ものがたり」という、有名な児童文学があって、名前だけは昔から知っていたが、なぜか読む気になれなくて、この年(何歳かは特に秘す)になって初めて読んでみた。
私は児童文学は好きで、名作と呼ばれているものは、何歳の人間が読んでも面白いはずだ、という考えだが、これが、まるで面白くないのである。子供向けの本だから当然だ、とはならない。優れた児童文学や童話は大人が読んでも面白いのである。
「ナルニア国ものがたり」がなぜ面白くないかというと、私の考えでは、作者自身が面白くない人間で、つまり「ユーモア感覚」がないからだろう、と思う。作者はC.S.ルイスという、詩人としては有名な人らしい。

(中略)

なお、「ナルニア国ものがたり」第一巻だけは我慢して最後まで読んだが、第二巻は最初で放棄した。第一巻の「衣装箪笥の奥が異世界に通じる」というギミックは面白いと思ったが、第二巻では、特に明白な理由もなく、いきなり異世界に行くという雑さである。そう言えば、第一巻でも、話をかなり端折っており、ライオンが子供たちを王や女王に任命したから王や女王になりました、で話はほとんど尽きている。その前に少し、氷の魔女とやらとの戦争があるが、それも簡単に終わり、描写らしい描写はほとんどない。こんな調子で全7巻の「ナルニア国クロニクル」を書かれても、すべてが単なる「説明」で終わることは予測できるのである。
まあ、その「壮大さ」の印象だけで感心する子供も多いだろうから、これが児童文学の古典扱いされているのだろう。

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「超人主義(優性思想)」は社会全体にはびこっている

エリート思想や英雄賛美思想がしばしば陥る「超人主義」について論じる前に、そもそも超人主義(超人思想)とは何か、について下の記事を引用しておく。
私は、「悪の超人主義」も、「善の超人主義」も、かなり問題を含んでいると思っている。善意の超人主義も「自分のできる分野で頑張りなさい」という、子供を「苦しめる」思想であることが多い。なぜ「頑張るのか」と言えば、この優勝劣敗の社会で生きていくためである。つまり「弱さ、無能力は悪である」という思想で、「子供のため」を思う行為が、しばしば子供を殺していないか?
まして、劣弱な人間は殺し尽くすべし、という「やまゆり園事件」が露呈した「残虐な超人主義」は、そもそもどれほどの正当性を持っているのだろうか。

先ほど読んだ或る記事の中で、ニーチェが面白いことを言っていることを知ったので、それを転載する。ただし、この後の部分では意味不明のうわごとで自由を擁護している。つまり、「超人の自由はいい自由」で、「凡俗の自由はダメな自由」ということだろうか。まあ、要はエリート主義だろう。一般人の自由は踏みにじってよい、ということか。私には単に「野獣の自由」に思える。ただ、下の引用した文章は、非常に示唆的だと思う。あるいは、これは「自由そのものの本質」ではないか。つまり、当たり前すぎる話だが、「大きすぎて目に見えない文字」として言えば、人間社会のあらゆる規範は自由の束縛なのである。

自由主義的制度は、それが達成されるやいなや、自由主義的であることをただちにやめる。あとになってみると、自由主義的制度にもまして忌まわしい徹底的な自由の加害者はないのである



(以下引用)

【インタビュー】超人への志向と弱者の否定、表裏の善悪


社会 | 神奈川新聞 | 2019年8月26日(月) 14:00


 スポーツだけではない。受験も、就活も、身分や家柄によらない自由な競い合いを支え、自己実現に導いているのが能力主義だ。一方、能力の優劣で生殺を決めたのが、津久井やまゆり園19人殺害事件だった。能力主義の得体(えたい)が知れない。哲学者の竹内章郎さん(65)を訪ねた。(聞き手・川島 秀宜)






竹内章郎さん
竹内章郎さん

 ―能力によって比較したり、評価したりすることに、わたしたちは余りに慣れすぎているような気がします。
 「既得権益に縛られず、平等に競争の機会を与えているのが能力主義です。この社会を支える『善』の側面ばかりに慣れ親しみ、能力主義が差別や偏見を生み、さらに命にまで優劣をつける優生思想につながり得るという『悪』の側面には容易に気づけない。能力主義においては、善悪が表裏一体であることに注意しなければいけません」

 ―善悪の両面性は、思想史にも残されていますか。
 「能力主義が支える優生思想は、大げさに言うと、人類史をずっと貫いてきました。オリンピック発祥の古代ギリシャのプラトンもそう。『身体の面で不健全な人は死ぬに任せる』(※1)と書いている。ルソーは児童教育のバイブルとされる『エミール』で障害者に言及し、『社会の損失を2倍にし、1人で済むところを2人の人間を奪い去る』(※2)と言った。ホッブズも平等思想をうたうと同時に『リヴァイアサン』で契約能力がない『先天性の白地(はくち)、狂人』は獣と一緒(※3)、と指摘している」
 「平塚らいてうや福沢諭吉を挙げれば、わたしたちが能力主義の『悪』の側面にいかに鈍感であるか、わかるはずです。平塚は女性解放運動の『善』なる印象が強いですが、『普通人としての生活をするだけの能力のないような子供を産むことは、人類に対し、大きな罪悪である』(※4)と公言している。福沢は『人の能力には天賦遺伝の際限ありて、決して其(そ)の以上に上るべからず』と述べたうえで、人間の産育を家畜改良のようにせよ(※5)と提言しました。ほかにも切りがありません。結局、『悪』の側面は歴史のさまつな問題として扱われてきたのです」

 ―能力主義の極致は「超人」。超人思想を説いたニーチェも、一方で弱者を「畜群」と呼び、残酷なまでにさげすむ記述がたくさんあります。
 「ニーチェも優生思想丸出しですね。例えば『権力への意志』にこうあります。『不出来な者どもにも認められた平等権は、最も深い非道徳性である』(※6)と。耳心地のいい言葉だけを抜き取ったニーチェの名言集は、ベストセラーになりました。それは本質的なニーチェ像ではありません」

 ―やまゆり園事件の植松聖被告(29)も記者に寄せた手記で「私は『超人』に強い憧れをもっております」と書いていました。
 「社会の底流にある能力主義が表面化した事件だと感じました。起こるべくして起きた、と。能力主義に基づいた社会構造上のモデルを、わたしは『垂直的発展』と呼んでいます。スポーツもそうだが、低いから高くとか、遅いから速くとか、少ないから多くとか、結局は下から上へという発想です。ただ、高く跳ぶためには、踏み台を強く踏み込まなければいけない。超人に対する憧れは、現状の強烈な否定と裏腹な関係にあります」

 ―能力主義のアンチテーゼはあるのでしょうか。
 「『垂直的発展』のモデルに対し、『水平的展開』を大事にしたい。能力が低いとか、死に近い生という境遇において、横に伸びる世界があると思います。例えば、コミュニケーション。垂直的発展のモデルでは、言語による意思疎通を指しますが、果たしてそれだけでしょうか。福祉の現場では、水平的展開が実践されている。職員は、言葉が話せない障害者の気持ちを目つきやうなり声から読み取り、コミュニケーションを成立させています。手話のように、相当に専門的な技量を伴う。でも、能力主義の社会では、なかなか評価されません。概念化して世間に打ち出していくべきでしょう」

 ―この国は経験したことのない超高齢化社会を迎えています。現状の「垂直的発展」モデルでは限界がありそうです。
 「健康至上主義が徹底されれば、病気や障害を治癒するという観点が、いつの間にか排除にすり替わる。ナチスの健康政策と排除政策は一体でした。ナチスは高齢化社会を見通し、いかに健康的に老いるかを構想していた。高齢化が緩やかだった戦後ドイツには結局は当てはまらなかったが、『人生100年時代』をうたう日本はこれからどう進んでいくのでしょう」
 「認知症患者は2040年に800万人になると推計されています。おのずと水平的展開モデルが求められてくるはずです。そうなれば、能力主義を外側から包囲できる」

 ―ダウン症の長女と暮らす父親として、日本の障害者福祉をどう考えますか。
 「ダウン症の程度も人によってさまざまです。芸術に打ち込めたり、語学に堪能だったり。ダウン症でもこんなにできる、というメッセージがメディアを通して強調されがちです。娘は重い方です。できないことがあることに、もっと目を向けてもいいのではないでしょうか」
 「WHO(世界保健機関)の障害分類は、インペアメント(機能障害)、ディスアビリティ(能力障害)、ハンディキャップ(社会的不利)の三つがあります。日本語はしかし、『障害』しかありません。直訳すればハードルという言葉を転用している国は、ほかにないでしょう。人間に対する視野が狭いのかもしれません」





 たけうち・あきろう 1954年生まれ。岐阜大教授。専門は社会哲学、生命倫理。ダウン症の長女、藍さん(38)と暮らす。岐阜県内で共同作業所やグループホームを運営する社会福祉法人「いぶき福祉会」に設立から関わった。著書に「いのちの平等論」「『弱者』の哲学」など。



〈編注〉
※1 「身体の面で不健全な人々は死んで行くにまかせるだろうし、魂の面で邪悪に生まれつき、しかも治療の見込みがない者たちはこれをみずから死刑に処するだろう」(プラトン/藤沢令夫訳「国家」『プラトン全集11』岩波書店、P238~239)
※2 「ひよわで病気がちの生徒を引き受けた人は、教師の職務を、看護人の職務にかえてしまう。無益な生命の世話をすることに、生命の価値を高めるために当てていた時間を使い果たしてしまう。…わたしは、病弱な、腺病質な子供は引き受けたくない。…そんな生徒にむだな労力をかけたところで、社会の損失を二倍にし、社会から一人ですむところを二人奪うだけ」(ルソー/戸部松実訳「エミール」『世界の名著30 ルソー』中央公論社、P373)
※3 「生来の愚か者、子ども、狂人に法がないのは獣についてと同様である。また彼らには、正・不正を主張しうる資格もない。なぜなら彼らは、契約を結んだり、契約の帰結を理解する能力を持ったことがなく」(ホッブズ/永井道雄、上田邦義訳『リヴァイアサンⅡ』中公クラシックス、P11)
※4 「一般はなお無制限の多産について自らは何の責任も感じていません。ことに下層階級のとうてい多くの子供を養育してゆくだけの力のないのが明らかであるにもかかわらず、…無知な、無教育な厄介者を社会に多く送り出して、いよいよ貧困と無知と、それにともなう多くの罪悪の種子とをあたりにまき散らしています。…アルコール中毒者であったり、癲癇(てんかん)病者であったり、癩(らい)病や黴(ばい)毒患者であったり、はなはだしきは精神病者でありながら、子孫をのこしています。…普通人としての生活をするだけの能力のないような子供を産むことは、人類に対し、社会に対し、大きな罪悪である」 (平塚らいてう「母性の主張について」『平塚らいてう著作集2』大月書店、P336~337)
※5 「人間の婚姻法を家畜改良法に則(のっ)とり、良父母を選択して良児を産ましむるの新工風あるべし。…強弱、智愚、雑婚の道を絶ち、その体質の弱くして[心の]愚なる者には結婚を禁ずるか又は避孕(ひよう=避妊)せしめて子孫の繁殖を防ぐ」(福澤諭吉「福翁百話」『福澤諭吉著作集第11巻』慶應義塾大学出版会、P214~215)
※6 「子を産むことが一つの犯罪となりかねない場合がある。強度の慢性疾患や神経衰弱症にかかっている者の場合である。…不出来な者どもにもみとめられた平等権――これは、最も深い非道徳性であり、道徳としての反自然そのものである!」(ニーチェ/原佑訳「権力への意志」『ニーチェ全集第12巻』理想社、P217)


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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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