私は、「悪の超人主義」も、「善の超人主義」も、かなり問題を含んでいると思っている。善意の超人主義も「自分のできる分野で頑張りなさい」という、子供を「苦しめる」思想であることが多い。なぜ「頑張るのか」と言えば、この優勝劣敗の社会で生きていくためである。つまり「弱さ、無能力は悪である」という思想で、「子供のため」を思う行為が、しばしば子供を殺していないか?
まして、劣弱な人間は殺し尽くすべし、という「やまゆり園事件」が露呈した「残虐な超人主義」は、そもそもどれほどの正当性を持っているのだろうか。
先ほど読んだ或る記事の中で、ニーチェが面白いことを言っていることを知ったので、それを転載する。ただし、この後の部分では意味不明のうわごとで自由を擁護している。つまり、「超人の自由はいい自由」で、「凡俗の自由はダメな自由」ということだろうか。まあ、要はエリート主義だろう。一般人の自由は踏みにじってよい、ということか。私には単に「野獣の自由」に思える。ただ、下の引用した文章は、非常に示唆的だと思う。あるいは、これは「自由そのものの本質」ではないか。つまり、当たり前すぎる話だが、「大きすぎて目に見えない文字」として言えば、人間社会のあらゆる規範は自由の束縛なのである。
自由主義的制度は、それが達成されるやいなや、自由主義的であることをただちにやめる。あとになってみると、自由主義的制度にもまして忌まわしい徹底的な自由の加害者はないのである
(以下引用)
【インタビュー】超人への志向と弱者の否定、表裏の善悪
社会 | 神奈川新聞 | 2019年8月26日(月) 14:00
スポーツだけではない。受験も、就活も、身分や家柄によらない自由な競い合いを支え、自己実現に導いているのが能力主義だ。一方、能力の優劣で生殺を決めたのが、津久井やまゆり園19人殺害事件だった。能力主義の得体(えたい)が知れない。哲学者の竹内章郎さん(65)を訪ねた。(聞き手・川島 秀宜)
―能力によって比較したり、評価したりすることに、わたしたちは余りに慣れすぎているような気がします。
「既得権益に縛られず、平等に競争の機会を与えているのが能力主義です。この社会を支える『善』の側面ばかりに慣れ親しみ、能力主義が差別や偏見を生み、さらに命にまで優劣をつける優生思想につながり得るという『悪』の側面には容易に気づけない。能力主義においては、善悪が表裏一体であることに注意しなければいけません」
―善悪の両面性は、思想史にも残されていますか。
「能力主義が支える優生思想は、大げさに言うと、人類史をずっと貫いてきました。オリンピック発祥の古代ギリシャのプラトンもそう。『身体の面で不健全な人は死ぬに任せる』(※1)と書いている。ルソーは児童教育のバイブルとされる『エミール』で障害者に言及し、『社会の損失を2倍にし、1人で済むところを2人の人間を奪い去る』(※2)と言った。ホッブズも平等思想をうたうと同時に『リヴァイアサン』で契約能力がない『先天性の白地(はくち)、狂人』は獣と一緒(※3)、と指摘している」
「平塚らいてうや福沢諭吉を挙げれば、わたしたちが能力主義の『悪』の側面にいかに鈍感であるか、わかるはずです。平塚は女性解放運動の『善』なる印象が強いですが、『普通人としての生活をするだけの能力のないような子供を産むことは、人類に対し、大きな罪悪である』(※4)と公言している。福沢は『人の能力には天賦遺伝の際限ありて、決して其(そ)の以上に上るべからず』と述べたうえで、人間の産育を家畜改良のようにせよ(※5)と提言しました。ほかにも切りがありません。結局、『悪』の側面は歴史のさまつな問題として扱われてきたのです」
―能力主義の極致は「超人」。超人思想を説いたニーチェも、一方で弱者を「畜群」と呼び、残酷なまでにさげすむ記述がたくさんあります。
「ニーチェも優生思想丸出しですね。例えば『権力への意志』にこうあります。『不出来な者どもにも認められた平等権は、最も深い非道徳性である』(※6)と。耳心地のいい言葉だけを抜き取ったニーチェの名言集は、ベストセラーになりました。それは本質的なニーチェ像ではありません」
―やまゆり園事件の植松聖被告(29)も記者に寄せた手記で「私は『超人』に強い憧れをもっております」と書いていました。
「社会の底流にある能力主義が表面化した事件だと感じました。起こるべくして起きた、と。能力主義に基づいた社会構造上のモデルを、わたしは『垂直的発展』と呼んでいます。スポーツもそうだが、低いから高くとか、遅いから速くとか、少ないから多くとか、結局は下から上へという発想です。ただ、高く跳ぶためには、踏み台を強く踏み込まなければいけない。超人に対する憧れは、現状の強烈な否定と裏腹な関係にあります」
―能力主義のアンチテーゼはあるのでしょうか。
「『垂直的発展』のモデルに対し、『水平的展開』を大事にしたい。能力が低いとか、死に近い生という境遇において、横に伸びる世界があると思います。例えば、コミュニケーション。垂直的発展のモデルでは、言語による意思疎通を指しますが、果たしてそれだけでしょうか。福祉の現場では、水平的展開が実践されている。職員は、言葉が話せない障害者の気持ちを目つきやうなり声から読み取り、コミュニケーションを成立させています。手話のように、相当に専門的な技量を伴う。でも、能力主義の社会では、なかなか評価されません。概念化して世間に打ち出していくべきでしょう」
―この国は経験したことのない超高齢化社会を迎えています。現状の「垂直的発展」モデルでは限界がありそうです。
「健康至上主義が徹底されれば、病気や障害を治癒するという観点が、いつの間にか排除にすり替わる。ナチスの健康政策と排除政策は一体でした。ナチスは高齢化社会を見通し、いかに健康的に老いるかを構想していた。高齢化が緩やかだった戦後ドイツには結局は当てはまらなかったが、『人生100年時代』をうたう日本はこれからどう進んでいくのでしょう」
「認知症患者は2040年に800万人になると推計されています。おのずと水平的展開モデルが求められてくるはずです。そうなれば、能力主義を外側から包囲できる」
―ダウン症の長女と暮らす父親として、日本の障害者福祉をどう考えますか。
「ダウン症の程度も人によってさまざまです。芸術に打ち込めたり、語学に堪能だったり。ダウン症でもこんなにできる、というメッセージがメディアを通して強調されがちです。娘は重い方です。できないことがあることに、もっと目を向けてもいいのではないでしょうか」
「WHO(世界保健機関)の障害分類は、インペアメント(機能障害)、ディスアビリティ(能力障害)、ハンディキャップ(社会的不利)の三つがあります。日本語はしかし、『障害』しかありません。直訳すればハードルという言葉を転用している国は、ほかにないでしょう。人間に対する視野が狭いのかもしれません」
たけうち・あきろう 1954年生まれ。岐阜大教授。専門は社会哲学、生命倫理。ダウン症の長女、藍さん(38)と暮らす。岐阜県内で共同作業所やグループホームを運営する社会福祉法人「いぶき福祉会」に設立から関わった。著書に「いのちの平等論」「『弱者』の哲学」など。
〈編注〉
※1 「身体の面で不健全な人々は死んで行くにまかせるだろうし、魂の面で邪悪に生まれつき、しかも治療の見込みがない者たちはこれをみずから死刑に処するだろう」(プラトン/藤沢令夫訳「国家」『プラトン全集11』岩波書店、P238~239)
※2 「ひよわで病気がちの生徒を引き受けた人は、教師の職務を、看護人の職務にかえてしまう。無益な生命の世話をすることに、生命の価値を高めるために当てていた時間を使い果たしてしまう。…わたしは、病弱な、腺病質な子供は引き受けたくない。…そんな生徒にむだな労力をかけたところで、社会の損失を二倍にし、社会から一人ですむところを二人奪うだけ」(ルソー/戸部松実訳「エミール」『世界の名著30 ルソー』中央公論社、P373)
※3 「生来の愚か者、子ども、狂人に法がないのは獣についてと同様である。また彼らには、正・不正を主張しうる資格もない。なぜなら彼らは、契約を結んだり、契約の帰結を理解する能力を持ったことがなく」(ホッブズ/永井道雄、上田邦義訳『リヴァイアサンⅡ』中公クラシックス、P11)
※4 「一般はなお無制限の多産について自らは何の責任も感じていません。ことに下層階級のとうてい多くの子供を養育してゆくだけの力のないのが明らかであるにもかかわらず、…無知な、無教育な厄介者を社会に多く送り出して、いよいよ貧困と無知と、それにともなう多くの罪悪の種子とをあたりにまき散らしています。…アルコール中毒者であったり、癲癇(てんかん)病者であったり、癩(らい)病や黴(ばい)毒患者であったり、はなはだしきは精神病者でありながら、子孫をのこしています。…普通人としての生活をするだけの能力のないような子供を産むことは、人類に対し、社会に対し、大きな罪悪である」 (平塚らいてう「母性の主張について」『平塚らいてう著作集2』大月書店、P336~337)
※5 「人間の婚姻法を家畜改良法に則(のっ)とり、良父母を選択して良児を産ましむるの新工風あるべし。…強弱、智愚、雑婚の道を絶ち、その体質の弱くして[心の]愚なる者には結婚を禁ずるか又は避孕(ひよう=避妊)せしめて子孫の繁殖を防ぐ」(福澤諭吉「福翁百話」『福澤諭吉著作集第11巻』慶應義塾大学出版会、P214~215)
※6 「子を産むことが一つの犯罪となりかねない場合がある。強度の慢性疾患や神経衰弱症にかかっている者の場合である。…不出来な者どもにもみとめられた平等権――これは、最も深い非道徳性であり、道徳としての反自然そのものである!」(ニーチェ/原佑訳「権力への意志」『ニーチェ全集第12巻』理想社、P217)