キリストは「神という存在への絶対的帰依」のためにユダヤの民に処刑され、サドは「みずからの欲望を満たすことだけが唯一の『理』であった」と書かれているが、その理に従った一生は刑務所と精神病院が生涯の後半の住居のほとんどである。つまり、どちらも「自分の信条に徹底的に従った」生涯だったのである。言わば、どちらも合理性の極地であったわけだ。言い換えれば、ふたりとも精神世界の英雄だったと言える。(「悪霊」のスタヴローギンにはサドの面影がある。)
なお、論理性で言えば、(神の存在証明は不可能であり、おそらくインチキだから)私はむしろサドに軍配を上げる。だが、キリストにせよサドにせよ徹底した論理は危険なものだ。我々の思考は曖昧さと非論理性に満ちているからこそこの社会で生きていけるわけだ。
(以下引用)
マルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740年6月2日 - 1814年12月2日)は、フランス革命期の貴族、小説家。マルキはフランス語で侯爵の意であり、正式な名は、ドナスイェン・アルフォーンス・フランソワ・ド・サド (Donatien Alphonse François de Sade [dɔnaˈsjɛ̃ alˈfɔ̃ːs fʀɑ̃ˈswa dəˈsad])。
サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリの刑務所と精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1か月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄に1年、そしてシャラントン精神病院に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在は高い評価を受けている。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。
生涯
[編集]生い立ちと教育
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マルキ・ド・サドは、パリのオテル・ド・コンデかつてのコンデ公の邸宅、現在のパリ6区コンデ通りとヴォージラール通り付近)にて、サド伯爵ジャン・バティスト・フランソワ・ジョセフと、マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン(コンデ公爵夫人の女官。宰相リシュリューの親族)の間に生まれた。彼は伯父のジャック・ド・サド修道士による教育を受けた。サドは後にイエズス会のリセに学んだが、軍人を志して七年戦争に従軍し、騎兵連隊の大佐となって闘った。
1763年に戦争から帰還すると同時に、サドは金持ちの治安判事の娘に求婚する。しかし、彼女の父はサドの請願を拒絶した。その代わりとして、彼女の姉ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユとの結婚を取り決めた。結婚後、サドは息子2人と娘を1人もうけた[1]。
1766年、サドはプロヴァンスのラコストの自分の城に、私用の劇場を建設した。サドの父は1767年1月に亡くなった。
牢獄と病院
[編集]サド家は伯爵から侯爵となった。祖父ギャスパー・フランスワ・ド・サドは最初の侯爵であった[2]。時折、資料では「マルキ・ド・マザン」と表記される。
サドは「復活祭の日に、物乞いをしていた未亡人を騙し暴行(アルクイユ事件)」「マルセイユの娼館で乱交し、娼婦に危険な媚薬を飲ます」などの犯罪行為を犯し、マルセイユの娼館の件では「毒殺未遂と肛門性交の罪」で死刑判決が出ている。1778年にシャトー・ド・ヴァンセンヌに収監され、1784年にはバスティーユ牢獄にうつされた。
獄中にて精力的に長大な小説をいくつか執筆した。それらは、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論、キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説でもある。だが、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』をはじめ、淫猥にして残酷な描写が描かれた作品が多いため、19世紀には禁書扱いされており、ごく限られた人しか読むことはなかった。
サドは革命直前の1789年7月2日、バスティーユから「彼らはここで囚人を殺している!」と叫び、革命のきっかけの一つを作ったと言われる。間もなくシャラントン精神病院にうつされたが、1790年に解放された。当初共和政を支持したが、彼の財産への侵害が行われると次第に反共和政的になった。1793年12月5日から1年間は投獄されている。1801年、ナポレオン・ボナパルトは、匿名で出版されていた『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』と『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』を書いた人物を投獄するよう命じた。サドは裁判無しに投獄され、1803年にシャラントン精神病院に入れられ、1814年に没するまでそこで暮らした。