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愛することと「愛を求める」こと

先に孔徳秋水氏の言葉を引用しておく。なかなかの名言である。非常に当たり前のことを言っているのだが、なぜかこれまで誰も言わなかったことである。

(以下引用)


「愛を求める」行為は、


 


相手に「タダでよこせ」とおねだりする行為であり、


 


「カツアゲ」と大差ないのです。


 




(以下考察)

ホリエモンが、「何でもカネで買える。愛もカネで買える」と言ったことがあって、それは「愛」ではなく単なる肉体か奉仕作業の購入だろう、と思うのだが、あの臭そうな男に「百万円やるから俺を愛せ」と言われて愛する女性がいるのだろうか。純粋に愛するなら、カネを貰わなくても愛するだろうし、相手を不愉快に思うなら、百万円貰っても(寝ることはしても)愛することはできないだろう。むしろ、「百万円やる」と言われたら侮辱だと思うのではないか。
まあ、何とかいう成金の恋人になって捨てられてタレント生命を失った女性タレントもいたが、あれは「カネで体を売った」のか、それとも本気で愛したのか。後者なら、気の毒な話である。男のほうは相手を単なるブランド物の女体としか見ていなかったわけで、女性の側からは、愛とは奉仕であることを示す話になったようだ。そこで損得勘定をするのがビジネスマン、ビジネスウーマンで、この場合、男はビジネス的に性交、いや成功し、女は完全に失敗したわけである。

さて、「愛を求める」という、不思議な行為について考えてみる。「愛を求める」とは「私を愛しろ」と要求する行為だが、そういうことができるのは、凄い精神だな、と思う。
それは相手に愛されるに足る特質や長所が自分にある、という前提、確信があってのことなのか。それとも、「自分は相手より上だから、それを要求する権利がある」という判断なのか。それとも「自分には何もないけど、愛してほしい」ということなのか。たとえば、自分の価値がゼロで、相手の価値が100の場合、「それでも自分を愛してほしい」と思う精神は、なかなかの勇者の精神だ。
相手の「愛」が、乞食への施しのようなものでも、愛されればいいのだろうか。(まあ、そういうのもあってもまったくおかしくはないのだが。たとえば、三島由紀夫の「綾の鼓」のように、醜く貧しい老人が絶世の美女に恋をしたような状況である。)だが、その「施し」は、本当に愛かと言えば、そうではないだろう。愛される要素がゼロの相手に愛を施す場合、それは慈善行為であって、恋愛ではない。ここまで語ってきた「愛」は恋愛の話なのである。

もっとも、この考察は愛を経済的に捉えすぎているのであり、「愛は盲目である」という昔からの俚諺もあるので、この論考自体が愚論ではあるだろう。まあ、冗談論文である。



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「政府もメディアも警察も裁判所も刑務所も財閥もみんなマフィア」www

藤森かよ子という、(たぶん)大学教授が、少し前にネットフリックスでヒットした韓国のドラマ「イカゲーム」に関して評論した文章の一部である。まあ、要するに現代は「不信の時代」である、ということだ。道徳的にはアモラル(無道徳)で、アノミー(無感動・無規範)の状態になる。

(以下引用)


■真実が暴かれる21世紀の庶民は疲弊している

 


 なぜ、このようなダークヒーローが残酷に大量殺人をする映画やドラマがアメリカや韓国ばかりでなく、日本でも人気を博しているのか?


 ヒントは、『ヴィンチェンツオ』の中で女性弁護士が言う台詞の中にある。「イタリアのマフィアはシシリーにいるだけ。でも韓国は、政府もメディアも警察も裁判所も刑務所も財閥も、みんなマフィア」という台詞の中に。

 上が上なんだから、法そのものが恣意的なあてにならないものなのだから、実質的には法治国家じゃないのだから、生き抜くためには下もマフィアになるしかないということだ。


 日本社会は、そこまでは腐っていないと思いたいかもしれないが、真実はわからない。


 ドラマや映画を製作する側も、それを消費する側も、2021年に生きる人間とならば、以下の8点を共通認識としている(と思う)。


 


(1)教科書に書いてあることは、真実のほんの一部。歴史のほんの表面。教育は、国民を奴隷にするために機能している洗脳機関。常識を疑え!

(2) 立派なスローガンや主義主張の背後には、残酷冷酷な意図が潜んでいる(ことが多いかもしれない)。地獄への道は善意で敷き詰められている。


(3)TVや映画を含み大手メディアは、それらの立派なスローガンや主義主張の残酷冷酷な意図を隠し、糖衣状にして流通伝搬させる装置。


(4) そういうメディアの策略を読むメディア・リテラシー(media literacy)を身につけることは非常に難しい。せいぜい中途半端な陰謀論者になり、脳と心が一層に混乱するだけだ。

(5)価値観の相対化が進み倫理も美意識も人それぞれになるのは、多様性を認めあう理想の世界に見えて、実際には人々は何を守ればいいのかわからなくなった。表面的にはポリコレぶりっこだが、実際は、無規範(anomy)が世界に蔓延しつつある。


(6)そういう世界の中で、人々は自己防衛のために他人を潜在的脅威とみなし、相互不信が人間関係の基調になる。人間は相互扶助のために集団を形成するはずが、集団形成そのものが難しくなりつつある。たとえば、個人が属する最小集団である家族そのものが個人にとって危険なものとなるように。古代からそうだったのかもしれないが、それが暴露されてきた。

(7)「お上」は庶民から収奪するだけの存在であり、特権的支配層は「お上」と結託して税金の中抜きが自由にできる。ならば、自分たちだって、脱税や課税回避地域への資産逃亡や非合法行為は自己防衛として許されるというアナーキーな心情が、多くの企業人や庶民の心に形成された。


(8)昔の庶民は、良きにつけ悪しきにつけ、メディアの発達もなく、factだろうがfakeだろうが、情報にアクセスする機会も手段もなく、特権層の腐敗も知らず、価値観の混乱や無規範に翻弄されることもなかった。しかし、現代に生きる庶民は、真実もゴミも大量に浴びるので疲弊する。



次のページ『イカゲーム』の大量死は、ダークヒーロー映画の悪人大量死とは違う

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まず、自ら「不要老人処分」の範を示せwww

「阿修羅」コメント欄から転載。
ジャック・アタリは1945年生まれらしいから、現在78歳くらいだろう。

60〜65歳を超えるとすぐに、人間は生産するよりも長生きし、社会に多大なコストをかけます。


で、この爺さんは自分は殺処分される側ではなく、愚劣な本を何冊か書いただけで殺処分する側にいるつもりのようだwww つまり、年齢が問題ではなく、実は下級人類を殺処分するのだろうが、本気で人類の半分以上を殺す気だろうか。誰が労働をするのだ?

(以下引用)

ジャックアタリ:1981年自身の著書の中の声明文より
「将来的には、人口を減らす方法を見つけることが問題になるでしょう。60〜65歳を超えるとすぐに、人間は生産するよりも長生きし、社会に多大なコストをかけます。そして、社会のために何もしない弱者、そして役に立たない人々がますます増えるので、私たちは年寄りから特に愚かなものから始めます。
これらのグループを対象とした安楽死。安楽死は、すべての場合において、私たちの将来の社会の不可欠な手段でなければなりません。もちろん、人を処刑したり、収容キャンプを設置したりすることはできません。私たちは、それが彼ら自身の利益のためであると彼らに信じさせることによって彼らを取り除きます。
多すぎる人口、ほとんどが不要ですが、経済的に高すぎるものです。社会的には、人間機械が徐々に劣化するのではなく、突然停止する方がはるかに優れています。何百万人もの人々に対して知能テストを実行することができないことを、あなたは想像することができます。
特定の人々を標的とするパンデミック、本当の経済危機かそうではないか、老人や肥満な人に影響を与えるウイルス、それらは何でもいいが、私たちは何かを見つけ、それを引き起こします。弱者はそれに屈し、恐れ、愚かな者たちはそれを信じて治療を求めます。
私たちは、解決策として治療法を計画し、愚かな者たちは自ら選択し畜殺場に並びます。」

これでもワクチンを打ちますか?これは陰謀そのものですよ、皆さん。

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北林あずみの「人間中心主義批判」「欧米中心主義批判」

「北林あずみ」のブログ記事の一部を転載。面白いところはほかにもたくさんあるが、あきれるほど長い記事を書く人なので、読むのも疲れるだろう。簡潔にまとまったところだけ取り出す。
なお、「北林あずみ」氏は男であり、爺さんである。何で女名前なのか、本名かペンネームなのかは知らない。
氏の批判する「人間中心主義」の批判点は、「人間」の定義次第で他者を切り捨てて来た思想だから、ということである。たとえば、白人にとって有色人種はかつては人間ではなく「動物」の一種だった。そして暴力支配の時代には「女子供」は人間扱いされなかったのである。女は「財産」であり、子供は労働力予備軍だったわけだ。
私は「尊皇主義」なので、下の記事の言葉の中には反発する部分もあるが、明治政府以降の政府による「天皇神格化」(一神教的国家神道)は、日本を誤らせたものだと思っている。


(以下引用)

 日本の古代神道は、仏教思想と出遭って融合するのだが、人間中心主義と欧米中心主義を乗り越える可能性を、わたしはそこにみている。
 日本の右翼と極右と保守は、一神教的国家神道をあたかも日本特有のものであり、日本の精神的な伝統であり、真髄のようにみなしているが、まったくの間違いだ。一神教的国家神道はキリスト教の模倣であり、それに儒教の絶対的家父長制を接ぎ木したもので、多神教的な日本の精神的伝統と構造とは真逆のものだ。一神教的国家神道を作った張本人の伊藤博文が日記で吐露しているのだから、否定のしようがない。一神教的国家神道とは、西欧近代主義の出来損ないの物真似でしかなく、人間中心主義はそのままで、欧米至上主義の代わりに、天皇を神として、天皇を戴く国を神の国とする、日本至上主義を据えたものでしかない。
 お粗末でありお笑いでしかないのは、その日本至上主義だが、明治維新政府が打ち出した脱亜入欧の政策をみればわかる通り、その実は、「欧米至上主義 〉日本至上主義」なのだ。日本至上主義=日本主義の根っこには、欧米へのコンプレックスがある。だから、そのコンプレックスを打ち消そうと、激しいアジア蔑視となって噴出するのだし、欧米へのコンプレックスがひっくり返ると鬼畜米英になったりするのだ。日本主義とはかくも歪んだ構造をしている。
 櫻井よしこをみれば一目瞭然だろう。櫻井よしこの歪んだ精神こそが、日本主義の本質だ。ご主人様のアメリカに、ちぎれてしまうのではないかと心配したくなるほど尻尾を振っている一方で、中国と韓国に向かって牙を剥きだして吠えているのだ。そして日本主義を掲げ、一神教的国家神道の旗を振っている。見苦しいまでの歪んだ心だ。櫻井よしこの日本主義が、日本を侮蔑し、日本を貶めていることに気づかない。これほど日本の精神文化と精神的伝統とほど遠いバカはいないのではないか。思い込みも甚だしい。

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人はなぜ「無敵の人」になるのか

私自身の別ブログに書いたばかりの文章だが、ここにも載せておく。

(以下自己引用)
最近よく言われる「無敵の人」は、確かに無敵である。
しかし、その種の人間が卑小にしか見えないのは、その行為が単なる身近な他人や通りすがりの人間の大量殺人にすぎないことが多いからである。つまり、「無敵」であるはずなのに、「弱敵」しか相手にしない卑怯さが、彼らを軽蔑すべき存在にしている。
これがたとえば北一輝とか大塩平八郎になると、国家や政府を相手に立ち上がった彼らの行為は、まさに英雄的行為である。いや、革命的行為だけが英雄的なのではなく、「強敵」に対して立ち上がった行為が英雄的なのである。それが世間的には悪と見做されても、それは英雄の行為だ。その種のものには、たとえばマルキ・ド・サドやニーチェがいる。文筆行為の中には、その種の英雄的行為がよく見られる。文筆の徒は柔弱な者と見られることが多いが、実は英雄にしかできない行為を為したことも多いのだ。ただし、それが人類の利益となる行為だったかどうかはまた別の話である。それで害を受けた善良な者たちも多いだろう。ここでは、善であれ悪であれ、普通人ができない行為をした者を英雄としている。

「無敵の人」がなぜ無敵になるか、その根本を言おう。それは、自分の人生と生命を捨ててかかるからである。それはしばしばその人の家族の人生も犠牲にする。だから、革命家と犯罪者は「無敵の人」としては同類なのである。
世間の多くの人が不自由と不満の人生を送る理由もまた同じ盾の半面だ。我々は、自分の人生、家族の人生を守るためにあらゆる不自由を忍んで生きるのである。
老人などは、もはや守るべき生命もほとんど無いのに、なぜあらゆる不自由を耐え忍ぶのか。それは、自分が明日死ぬ、という覚悟ができないからである。そして、自分の現状を作っている、社会的地位、名声、親類縁者などへの未練があるからである。

この一文は読みかけのトーマス・マンの「魔の山」の一節から想起した思念を書いたものなので、その一節(2か所)を引用する。

こういう事態(注:肺病からの回復が絶望的で、余命がほとんど無いこと)から僕にゆるされるすこしばかりの自由を、みなさんに大目にみていただきたいんです。高等学校で落第ときまってしまって、教師に質問もされないし、宿題もやらなくていい、あれと同じなんです。あの幸福な状態に僕は最後的にたどりついたんです。僕はもうなにもしなくていいし、もう数にもはいらない人間で、どうにでもなれなんです。



彼の感じたこと(注:主人公ハンス・カストルプ自身が、前述の若者アルビンの述懐を聞いて、彼自身の落第の経験を思い出したことへの感想)はだいたいつぎのようなことになる。つまり、名誉はりっぱな結構な特典をあたえてくれるが、不名誉もそれにおとらぬ結構なものであって、むしろ不名誉の特典はまったく広大無辺ともいえる性質のものである、というものであった。

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障害者には健常者が描く世界はほとんどファンタジー

私の別ブログに載せた、ある人の投稿記事の一部だが、現代の「笑い」の性質を通じて現代日本の世相をなかなか見事に浮き彫りにしていると思う。

(以下引用)引用したすべての部分に同感しているわけではない。「万能の空白」という言葉も、それに関する言葉もかなり意味不明だし、共感できない。しかし、障害者から見たら、この世界のテレビドラマはほとんど「ファンタジー」だというのはかなり鋭いと思う。


私は生まれつき障害者で、弱者側の人間なので、
ぶっちゃけ、ドラマやバラエティで「普通」ということになっている舞台や環境、セリフに全く共感できません。「ハリポタと同じファンタジー」だと思いながら、見ています。
「そうそう、こんな世界あって、こういうことができたら笑えるだろうな」みたいな。



「仕事先の銀行で大金を横領してキャバクラ開いた」
→仕事いくとなぜか首になるので、そこまでやったことないので想像できない
→ご飯食べられるだけで幸せなのに、なんで大金とるの?



「ふらりといった旅行先で殺人事件に巻き込まれた、大変!」
→障害上、頭の中で考えながら行動できないので、修学旅行のしおりのように「これから何が起きます」とあらかじめ分単位で予定された通りに行動しないと、外に出られませんが何か?



なんというか、私が障害もちで特殊なせいかもしれませんが、多分一般レベルでも
「普通の定義が普通じゃなくなってきている」せいもあると思います。



「普通にご飯を食べ、進学し、就職し、結婚し、普通に子供を持ち、普通に育児やって、普通に家を買って、普通に年金を受けて老後を生きる」
この普通の前提が今は全部崩壊しているので、「笑いを生むための平均的な共通項」がなくなってきてるのです。



ある意味、教育やインフラや歴史が崩壊してて、共通言語もない多民族の途上国で
「何をやったら相手(どんな背景持ってる人か全く想像できない相手)は笑ってくれるのか?」を考えるのと同じ状態です。



だから「メチャクチャ」「カオス」「おかしな動き・言葉」しか
もはや笑いを作る方法がないのかもしれません。



「普通が崩れてしまった」状態だから、「その場のおかしなセリフの繰り返し」「素っ裸」「ゾンビ(人を食う、死なない)」など、一目でわかる「異常」、「いじめたり殺してもどこからも文句がこない存在」を演出しないと笑いやネタが取れなくなったのかもしれません。



これ、冷静に書いてみると、統合失調症か、精神異常者の行動とあまり変わらないようにも見えますね。(障害者側からいうのもナンですが)



つまり、精神異常者の行動は「笑える」ってことですけど(少数派、異常なので)
それをうまく書き換えて普通に見える人が演じる・またはものすごく異常な格好した人がやることで、ギャップで笑いを作ろうとしてますけど



ネタの根底が「弱者、障害者」なので、一瞬は笑っても、ずっとヒットする・長年親しまれるような笑いに根付かないんじゃないかなーと思ってます。



笑いの根底とは「おどけて、いじられたいと思っている人が笑われる」
(個性がたまたまあるけど、いじられたいと思ってないのに、回りが勝手に「かまってあげてる」と解釈していじると、いじめになる)



「そうじゃないだろ」とツッコミ待ちのボケ



頭がいい人・権威ある人がなぜか「実は当たり前のことができない」、といった「万能の空白」
のような、オーソドックスな笑いが結局ずっと使えると思いますが…



親父ギャグ、一発ギャグ…これはちょっともう古すぎてダメなんでしょうね。
なんというか笑いを作ろうとしても、余裕がなさすぎて。
どちらかというと、笑いの代わりに「癒し」を求めてる気がします。



笑いは「希望や元気」があると欲しいものですが、今現在、世の中に希望や元気がないので
まず疲れを癒して、回復して、元気になってから、「笑えるものが欲しい」と思うかと。



安心の定義も崩れ、エネルギーがかなり低下していて、回復・治療・希望作りを
まず先にしないと、笑ったり、何か生み出す元気もない状態のような気がします。

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日本の仏教という、インチキ仏教

司馬遼太郎の「以下、無用のことながら」は、タイトル通りに無用の文章がほとんどを占めている(司馬の個人的交友関係に関する文章が多い。友人の訃報に関する記事など)が、中には面白い文章もある。真面目な講演記録や歴史考察などだ。その中に、仏教、特に浄土宗や浄土真宗を論じた文章があって、なかなか興味深い考察をしている。私はその浄土真宗擁護の根本思想には反対だが、考察に値する文章である。
引用すべき箇所を探すのも、それをワープロ打ちするのも面倒なので、大意を先に書いておくと、「大乗仏教は釈迦の教えではない」ということである。仏教とは釈迦の教えが土台である、とするなら、「現在のほとんどの『仏教』は仏教ではない」ということだ。本来の釈迦の教えは「個人的悟り」に至る道であり、つまり「小乗仏教」こそが本物、本来の仏教だ、ということだ。そして、釈迦の教えには天国(浄土)は存在しない。つまり、浄土宗のような「厭離穢土欣求浄土」という思想などは、釈迦の教えに反しているわけである。
釈迦の教えは文字化されたものはほとんど無いが、その中心思想が「空」であることだけは確かなようだ。とすると、「般若心経」こそが釈迦の教えの本質だと見てだいたい正解だと思われる。
ただし、司馬の文章は、彼自身が浄土真宗を信じる土地や家に生まれたことから、上記のことを明確には言っていない。ポイントはただ、大乗仏教(個人的悟りを目的とする禅宗を除く日本のほとんどの仏教はそれ)は釈迦の教えではない、ということだけだ。
司馬の言葉を引用する。

要するに浄土思想というのは、輪廻の思想が日本人に合わなかったので、鎌倉期くらいでストップした、そして浄土思想に転換したのだろうと考えています。
浄土思想は、地理的に西のほうに浄土があり、そこへ行くんだというだけですから、輪廻はそこでストップするのです。

まあ、これ(輪廻の思想が日本人に合わなかった)は浄土宗の成り立ちについての司馬の妄想の可能性が高いが、浄土宗が「浄土」の存在を大前提としているのは教派名から明らかである。では、その浄土はどこにあるかという時に、なぜ「天にある」としなかったかというと、これは私の推測だが、天はすでに皇祖によって占拠(著作権登録ww)されていて、はばかりがあったからだと思う。そこで、「西方浄土」という概念を作った、あるいは仏教の経典はインド(西方)から来たからそこが浄土だとしたのだろう。では、西へ西へとどんどん行けば誰でも浄土に行けるではないか、と思っても、それをナンセンスだと思う人はさほどいなかったのだろう。まあ、当時の人間には、日本の外の世界というのが想像できなかったから、それで済んだわけだ。
釈迦はおそらく「念仏称名」などまったく言っていないだろう。そもそも、念仏だろうがお題目だろうが、それがなぜ仏教の小道具になるのか、私にはまったく理解できない。そんなのは仏教というか、釈迦の「空」の思想と何の関係も無いではないか。要するに、念仏やお題目というチケットを買えば、誰でもディズニーランド(浄土)に行けます、みたいな思想である。
もちろん、それで無学な庶民が安心立命できるから、詐欺でも「良い詐欺」だと言えないことはないがそれを釈迦の教えだ、仏教だ、というのは大局的には害が大きいだろう。つまり、オウム真理教や幸福の科学を非難できないことになる。極論すれば、「仏教とは空観がすべてである」とすべきである。






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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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