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背信とは何か

物事を論理的に考えるには、「問題となっている事柄を分けて捉える」ことだ、というのが私が高校生のころにデカルトの「方法序説」を読んで得た思考鉄則で、これは私が学んだことの中で一生を通じてもっとも有益なことだった。その後、「荀子」を読んで、言葉が正確に定義されないままに議論を行っても無駄だ、という「正名論」にも感銘を受け、何かを考える場合は、使用されている言葉の定義が何かということから考える習慣をつけるように努力してきた。
世の中の思想的混乱は、だいたいはこの2点があいまいであることから来ているようだ。つまり、「複数の要素を持つ事柄を丸ごと論じている」か、「言葉そのものが曖昧である」かである。
下でこれから書く「背信とは何か」についても、その2点での思考が中心となっている。

先に、「背信」を二つに分けておく。

1:意図的な裏切りとしての背信。
2:誠実に努力したが運が悪かったり能力不足などのために結果を出せなかった場合の背信。

の二つであるが、おそらく多くの人は頭の中でこの二つを分けていないと思う。

スポーツ新聞を読む人は良く知っているだろうが、大事な試合などで序盤に滅多打ちされ、敗戦の主な原因になった投手をスポーツ紙は「○○投手背信投球」などと書くことが多い。
私はこうした見出しに非常な不快感を持つ者だが、それがなぜか、ということが以下の議論の主題である。
さて、背信とは「信頼に背くこと」である。それはいい。だが、背信という言葉は、実際には「裏切り行為」のニュアンスが籠められているのである。実際、「信頼を裏切った」のだから、「背信」と言われて当然だ、と言う人もいるだろう。だが、「裏切り」という言葉は、明らかに「モラルに反した行為をした」という含意があり、それは「背信」でも同じなのである。
要するに、監督の期待(信頼)に応えることができなかった投手は「裏切り者」である、というのが「背信投球」の含意であるわけだが、そこで考えたいのが「信頼に応えられなかったこと」や「期待を裏切ること」はこうした悪罵を投げつけられて当然の行為なのだろうかということだ。人間である以上、その日の調子もあって、相手打線に打ち込まれることもあるし、投球が思いのままにコントロールできないこともある。それが、これほど非難されるようなことなのか、ということを私は言いたいわけだ。
言葉に神経質すぎる、と私自身が批判されそうだが、言葉は思考の基本道具であり、思考は感情を動かすものだ。つまり、マスコミなどが使う言葉は大衆を洗脳するのである。だから、我々はマスコミの使う言葉にはどんなに神経質になってもなりすぎることはない。

実は、本題はその先にある。
「背信」において非難されるべきは、本当は、「信じるべきでない相手を信じた人間」、つまり、野球であれば打ち込まれた投手ではなく、その投手に試合を任せた監督ではないか、ということだ。ところが、関西のスポーツ紙で「能見背信投球」とか「藤浪背信投球」という見出しは毎日のように見るが、「金本背信采配」という見出しは見たことがない。関東でも同じだろう。「内海背信投球」とか「澤村背信投球」とかはあっても「高橋背信采配」は見出しにならないはずだ。だが、敗戦の最大の責任者は監督であるのは言わずと知れたことである。
要するに、不祥事があった場合、経営者の責任がほとんど問われないのと同じことなのである。すべては現場の責任になり、その現場でも、本当は命令者の責任であるのが実行者だけの責任とされる。
「泣いて(涙を振るって)馬謖を斬る」という言葉がある。
諸葛孔明のファンである人々には済まないが、敗戦の本当の責任は、馬謖という無能な将をこの戦の責任者として任命した孔明にあるのではないか。馬謖が単なる口先だけの男であり、いわゆる「学校秀才」にすぎなかったとして、非難されるべきは、大事な戦にそういう男を将にした孔明である、と私は思う。いわゆる「任命責任」だ。本当の責任は任命者にこそある。
「泣いて馬謖を斬る」という言葉も、「本当の責任者の責任を見えなくした」害悪のある言葉だと思う。どこの組織でも、一番のトップは自分は責任を取らず、下の者に責任を押し付けるものだ。その代表的な例がこの孔明と馬謖のエピソードだと思う。













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ビジネスの怖さ

ビジネスというのは多くの場合騙し合いだし、その世界では騙されるほうが悪いのである。要するに、そういう覚悟の無い人間や人を見る目の無い人間がビジネスをやるべきではない。
簡単な比喩を使えば、紳士服を着た猛獣たちがうろつくジャングルだ。
契約書も読まないで契約するような人間は、裸でライオンや虎の前に平気で出る人間である。つまり、人間ではなく人肉という餌にすぎない。




さんがリツイート

もうこれで何人も後輩が食い物にされかけてるの止めたからほんっっっとうに気をつけて、やばいところは平然と「有料で売るけど貴方に印税ありません」とか「原作権貰います(こっちが好きに改変できますし好き勝手に使えます)」とか書いてあるからなマジで





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歴史的には、「発達障害」でない科学者や学者や文学者のほうが稀だろう

実際、創造的な偉業を成し遂げた人の多くは「周囲と協力して何かを成し遂げた」のではなく、一人でその偉業を成し遂げたのであって、それを「天才」とかつては言っていたが、今はそれが「発達障害」になったわけだ。
要するに、社会適応(他人との交渉)ができない人間のことを「発達障害」としているわけだが、べつに他人との交渉だけが人生や仕事のすべてではない。昔の職人や農民には(あるいは武士も含めて)口が重くて他人との交渉が苦手な人が多かったが、現代ではそういう人々は「発達障害」扱いだ。現代では口達者なだけの不誠実な人間がどんどん出世するから大企業は軒並み潰れていく。


(以下引用)


発達障害(何かの才能に秀でていて集中力抜群一人でいることを苦にしないメンタル)


2018年11月21日:22:00




1: 風吹けば名無し 2018/11/19(月) 22:48:42.50 ID:NsdWpnpW0
あれ…健常者より上じゃね?



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損得と好き嫌いが人間を動かす最大の力

引用は「神戸だいすき」さんのブログ記事の一節だが、「あとは、損得と好き嫌いの感情だけ」という括り方は的を射ているのではないか。
結局、社会関係というのは、「損得と好き嫌い」で決まるのが大半だろう。議論などしても、べつにお互いが言葉の定義をした上での議論ではないのだから、相互理解にはほど遠い(気の強いのが勝って、小心な者や口下手な者が不満を心に溜めたまま引き下がる)のが常だろう。つまり、お互いが納得することなどほとんど無いのが社会の人間関係だ、ということだ。
夏目漱石が「智に働けば角が立つ。情けに棹させば流される。とかく人の世は住みにくい」と書いた時代と本質は変わっていないが、昔以上に、「情け」を出すと自分が流されて溺死するような時代になっているように思う。まあ、私自身は現在は社交関係がまったく無い人間なので、これはネットなどによる観察にすぎない。私の知っている人のなかには、どうして他人のためにここまでできるのか、と思うような、情愛の深い、義理を大切にする、仏様のような人も何人もいる。
だが、繰り返せば、社会関係(特に赤の他人同士の共同作業)というのは基本的には「損得と好き嫌い」でほとんど決まっている、と私も思う。要するに、PTAとか自治会というのはそういう人間たちの展覧会になるだろう、ということだ。

極論を言うなら、「構成員の8割がDQNである組織」を動かすのは「民主主義」では不可能だ、ということだ。民主主義を常に擁護する私だが、それは認めざるを得ない。では、日本国民の8割がDQNだとしたらどうなるか。当然、安倍政権のような、半キチガイの悪魔だらけの独裁的政権が跳梁跋扈することになるわけである。或る種の暴力(強制力)と狂信でしかDQNは動かせないし、DQNは上位DQN(強権的DQN)を尊崇するものなのだ。これも、「好き嫌い」が原動力だ。DQNは知的な人間が大嫌いで、DQN仲間が大好きなのである。



(以下引用)



最近ね、同じ日本人でも、言葉が通じない、内容が理解できない、心が届かない人が、たくさんいることがわかってきたの。

昔は、みんなが、同じ物差しをあてがわれていたから、少なくとも、感情を殺してでも「善悪是非のものさし」だけは同じだった。だから、言葉が通じたのだけど。

今は、もっている物差しが、全然違う。常識と言うモノ「通念」というものが、無くなったので、もう、話は通じないのよ、何をどこまですればいいのか、もう、共通項が存在しない。

あとは、損得と好き嫌いの感情だけ・・・


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オカマと宝塚

別ブログに書いたものだが、ここにも載せておく。追記すれば、ジャニーズ的存在やクラブのホストなども「宝塚」の男性版であり、現実の男性性の否定だから、女性たちに熱狂的に支持され、男たちに徹底的に嫌われるのである。男が好むのは、見かけは豚でも、中身は「本物の男」という、「紅の豚」のような存在であり、そういうような外見の醜い存在であっても愛してくれる女性があのアニメの中には二人(美少女と美女)もいるから、あのアニメを好む、「外貌の不自由な男」はたくさんいるわけであるwww

オカマと宝塚



最初に言っておくが、私はLGBT問題については基礎的な知識も無い人間だ。LGBTが何の略かも分からない。たぶん、「L、G、T」は「レズ、ゲイ、トランスジェンダー」だと思うのだが、Bが何かは分からない。それにGがゲイだとすると、ゲイについての私の理解は間違っているのかもしれない。
と言うのは、私は、「オカマ」とは「ゲイ」であって「ホモ」ではない、と理解しているからだ。もちろん、本来の「ホモセクシュアル」は、「自分と同じ性の相手を愛する人間」だと思うし、それは男女を問わないだろう。「男を愛する男」も「女を愛する女」もホモセクシュアルと呼ぶのではないか、ということだ。それが、日本だと前者はホモ、後者はレズと使い分けられているのだろう。そうすると、「ゲイ」とは何かということになるが、それは「女性性を愛好し、それを公表する男」、つまり女装や化粧や宝飾類を好む男だろう、と私は理解している。そしてホモはむしろ女性性より男性性を強調する者が多いようだ。プロレスラーのような体つき、髭を生やす、スキンヘッドにするなどである。(つまり、最近の若者男性は、見かけで言えば、ほとんどがゲイかホモかであるwww) ついでに言えば、ゲイでもあり同時にホモでもある男もいるだろう。

そこで、本題に入るが、「オカマ」とは女性性を愛好し、それを公表し(あるいは実践し)ている男だ、というのが私の理解だと先ほど書いた。その理解(定義)によって、なぜ女性がオカマを好み、男がオカマを嫌うのか、説明できるのではないか。
要するに、「意識上の上下関係」の問題なのである。男でありながら、女性性を愛好し、それを公表するということは、「男は女性より劣った存在だ」ということを宣言しているに等しいわけである。いわば「男同盟の中の裏切り者」だ。そういう存在を男が嫌い、憎むのは当然だろう。漫画やアニメで長い間、オカマが嘲笑の対象となってきたのは、そういう潜在意識が男のほとんどの中にあったからだと思う。
ところがまた、「男は女より劣っている」という主張は、女性の側には痛快この上ない宣言であり、しかもオカマは見て面白く、接近しても「性暴力」はしそうに見えないから、安全なペット的存在に見えるわけである。これが女性がオカマに寛容な理由だろう。

では、タイトルに書いた「宝塚」はどうか。これは、女性が男役をやるのだから、女性性の男性性への敗北ではないか、と言われるかもしれないが、そうではない。ここでも勝利しているのは女性なのである。なぜなら、ここにあるのは現実に存在する醜く臭く暴力的な男ではなく、「美化され理想化された男性像」だからだ。つまり、こういう男性が描かれること自体、現実の男性の否定のようなものだ。

などとアホな理屈をこねまわしてみたが、「潜在意識の中の上下関係」というのは、現実の社会現象の中に伏在している重要なポイントではないかと思う。



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ネロやヒトラーの「自己実現」www



そんな人間に「自己実現」されては困るという連中もこの世界には膨大におり、私なども若いころの夢が実現していたら、世界はとんだ迷惑を蒙っていただろう。何しろ、絶対的権力者になって、ハーレムを作りたい、というのが夢だったのだからwww
むしろ、世間の人間がそういう不埒な「夢」を持たないことのほうに驚いてしまう。大きくなったら社会の役に立つ仕事をしたい、などと本気で考えている若者がいること自体(本当にいるとすればだが)、私には不思議に思える。社会の役に立つ仕事をしたい、ではなく、好きな仕事をして、その結果、それが社会の役にも立つならいいな、くらいがせいぜいではないだろうか。本気で、「社会の役に立つ」のがそういう人々の人生の第一義なのだろうか。





  1. そんなわけなので、「自己実現」は、「欲望実現」とか「煩悩実現」といったあたりの、もう一段階浅ましい感じの言葉に言い換えてほしい。
  1. 「自己実現」という言葉を使う人たちがなんとなくイメージしているに違いない「努力や経験によって自己を実現していく」ニュアンスが好きになれない。「自己」なるものが仮に実在するのだとすれば、それはものごころついた時点で既に「実現」していると考えるべきなのではあるまいか。


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アイヌ沖縄同祖論

私は沖縄の離島の生まれで、幼稚園の時に家族で沖縄本島に引っ越したのだが、沖縄本島のその土地の方言が使えず、その辺の子供たちに嘲笑されて仲間入りができず、そのまま「子供付き合い」ができないまま成長したのだが、そのために沖縄の方言が大嫌いで、長じてもいつも「標準語」しか使わなかったのだから友人が少ないのは当然である。そのせいもあって、ローカルなもの全体が嫌いな性格になり、中学か高校生のころにサマセット・モームの短編集の解説の中で「コスモポリタン(世界人、とでも訳すか。)」という言葉を知って、自分は本質的にコスモポリタンとして生きたいと心のどこかで願ったように思う。

以上は前置きで、要するに私が沖縄方言が大嫌いだった、ということを述べるためである。
そういう私が書く沖縄方言の話だから、かなり胡散臭い内容であることをお断りしておく。

私が小学生のころだったと思うが、たぶん先生か誰かが、薩摩の沖縄侵略の話のエピソード(だったと思う。)として、鉄砲というものを知らなかった或る田舎者が、薩摩の兵士が火縄銃を撃ったのに驚き、

「ポー(棒)のサチ(先)からピ(火)がンジチ(出でて)、ワ(バ? 吾)がパナ(鼻)、イリプガチ(入り、穿った。貫通した)」

と仲間に言ったという話をした。(ずいぶん昔の記憶なので、ここに記した言葉は正確ではない。)要するに、沖縄の或る土地での言葉の訛がひどいのをからかう、或る意味差別的なジョークだったと思うのだが、なぜこんな話を今するのかと言うと、先ほど、用便のついでにトイレで梅原猛訳の「古事記」の末尾にあった梅原当人の解説部分を読んでいると、その中にアイヌの言葉が幾つか挙げられ、こういう言葉が書かれていたからだ。

パシュイ(箸)、パチ(鉢)、ピツ(櫃)、ペラ(箆)

もうお分かりだと思うが、これらの語の発音は、大和言葉のha行音がみなpa行音になっている。
そして、私が先ほど書いた沖縄の方言もha行音がpa行音になっているのだ。
なお、古琉球語では、おそらくe音はi音に転化することが多い。いや、古代縄文語ではi音だったのが、大和征服民族、つまり日本を征服した朝鮮渡来人(弥生人)が蝦夷人、つまり縄文人の言葉のi音をe音に変えたのかもしれない。

そして、その蝦夷人は北に行った民族と、南に行った民族に別れ、北に行ったのがアイヌとなり、南に行ったのが琉球民族になったのだと思う。ただし、その琉球でも、征服者はおそらく中国か朝鮮か大和から来た一族が中心だっただろう。
私は尚王家の末裔に遭ったことがあるが、明らかに大陸系統の風貌だった。しかし、沖縄の一般人の風貌は、アイヌ系に近いことは良く知られている。
まあ、今のように人種混交があった後では、先祖がどこ系だというのは差別の助長にしかならないが、「沖縄アイヌ同祖論」はかなり蓋然性が高いと思う。
明治政府以降の(いや、その前からの)アイヌ民族や琉球民族への中央政府の差別的扱いも、「この連中は別民族だ」という中央政府高官たちの心理から来ているかと思う。







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プロフィール

HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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