世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、カントの『実践理性批判』を解説する。


『純粋理性批判』で人間の認識の限界を示したカント。ところが、それによると「自由の存在」「霊魂の不滅」「神の存在」などの哲学が全部否定されてしまう。そこで、今度は道徳哲学でこれらの回復を目指そうとしたのだが──。

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「自由に我慢できること」が自由?

 カントは人間の認識の仕組みを『純粋理性批判』で説明しました。けれども、『純粋理性批判』によると、「神」「霊魂」などの人間が経験できない領域は人間は推理できないということが明らかになりました(神や霊について考えてもわからないということ)。


 そこで、カントは新たにこれらを回復するために、道徳的な形而上学をうちたてようとします。その内容が『実践理性批判』です。


 自然科学の世界では、ニュートンの万有引力の法則があります。そこで、カントは自然の世界と同様に、道徳の世界にも普遍的な法則があると考えました(道徳法則)。


 それは、自然の因果法則とは違って、私たちの意志を規定する命令であって、「~すべし」という命令の形をとります。


 また、それは幸福(快楽)を得るための条件付きの命令ではありません。たとえば、「もしお金がもらえるなら、人を助けよ」というような条件付き命令ではダメなのです。これを「仮言命令」といいます。


 真に道徳的な命令は、自分の幸福を計算に入れず、行為の結果をまったく顧慮しないで、いついかなる場合でも「~せよ」と命ずる無条件的な命令です。これは「定言命令」と呼ばれます。


 「もしお金がもらえるなら」のところをカットして、「人を助けよ」だけの部分にしたら「定言命令」になります。


 道徳法則が命令の形をとるのは、私たち人間が理性的存在者であると同時に感性的存在者(欲望に負けてしまう存在)でもあるので、道徳法則に従って行為するとは限らないからです。


 だから私たちは、いつも「無条件に~をするべし」と言い聞かせながら生活しなければなりません。ついつい寝過ごしてしまったり、食べすぎてしまったりするのは、本能のままに生きる感性的存在としての動物と同じです。


 でも、理性をもった人間は自分で自分の欲望をコントロールすることができるのです。

「霊魂不滅」「神の存在」は要請される

 道徳法則という人生の公式は、人間がもともともっている実践理性が自分自身に与える法則です(理性の自己立法)。


 自分で自分を律するわけですから、これを「自律」といいます。カントによると人間が「自律」的存在であるということは、人間が「自由」であるということを意味します。


 自分でルールに従うこと、つまり、「無条件に~せよ」という命令に従うのは自由なのです。


 これは、普通に考えると不自由であるという印象をもちますが、「他のいかなる権威にも他律的に拘束されることなく、実践の原理をみずから洞察し、それによってそのつどの自己の実践生活をみずから規制していくことができる」という意味なので「自由」なのです(自分の欲望をコントロールできるということ)。


 カントによると、それが人間の「尊厳」にほかなりません。


 ところで、『純粋理性批判』では、人間の意志の自由の証明は認められなかったのですが、このように『実践理性批判』では、道徳的命令において意志の自由が確保されました。


 同じく、霊魂の不滅も神の存在も『純粋理性批判』によれば、証明することはできませんでした。しかし、『実践理性批判』によると、「最高善」の概念を介することで、これらが実践的に要請されるのです(証明はできないけれど、「霊魂」も「神」もあるのです)。


 最高善の実現は、人間が感性的存在者である限り、現実において期待できません。


 だから、来世におよぶ無限の道徳的努力が、したがって「霊魂の不滅」が要請されます。また、最高善が実現されるべきであるとすれば、徳と幸福との完全な合致を保証する全能な「神の存在」が要請されなければなりません。


 このようにして、実践理性は、「自由の存在」「霊魂の不滅」「神の存在」という3つの理念に対して実在性を与えることができたのです。