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道徳の基盤は何か

「道徳的動物日記」から記事の一部を転載。道徳の基盤は「感情」であり、感情は理性より強い、という思想に同意する。そして、道徳の基盤には「自己の利益(が社会の利益と一致すること)」が存在する、という視点を次の文章は与える。つまり、道徳というのは本来的には合理的なもののはずなのだが、それが歪められることも多い。それもまた感情の力だろう。道徳の仮面を被った、醜い感情というのがあるわけだ。嫉妬や制裁願望などだ。


(以下引用)


先日の衆議院選挙で自民党や維新が多数の議席を獲得したあとには、リベラルな学者やジャーナリストの多くはショックを受けて、「日本人はいつになったら人権という考え方を理解できるのか」「差別的な政策を疑問にも思わない人たちに囲まれて暮らしているなんて苦痛だ」といった種類の嘆きや愚痴をTwitterに投稿して、それを保守派の論客やツイッタラーがあげつらってやいのやいのと騒ぎ立ててバカにする、という光景が繰り広げられていた。これは今回に限らず、選挙のたびに繰り返される事態ではある。そして、選挙結果について嘆くリベラルが、自分とは違う投票行動をした人たちは「人権に配慮しない」「ジェンダー平等や環境問題を気にしない」などと自分たちよりも狭い見方に基づいて投票した、と決めつけがちであることはたしかに問題だ。


 よく指摘されるように、人が投票する際には差別や平等などの道徳に関わる事柄だけでなく、経済をはじめとした自己利益に関する様々な事柄を総合的に考慮して判断しているはずだ。むしろ、選挙というシステムでは、他者に対する道徳的な配慮よりも自己の利益に基づいた投票をおこなうことのほうが一般的であり、それは民主主義の前提ともなっているだろう。


 その一方で、道徳は人権や平等だけではない、という見方も重要だ。ハイトによれば、少数派や弱者が被る苦痛に対する配慮(ケア)や平等と公正を求める気持ちと同じように、権威に対する尊重や愛国心も、「労働者が収める税金に寄生しながら楽して暮らす公務員や生活保護受給者」に対する怒りや制裁願望も、道徳感情であることには変わりない。だとすれば、ケアも平等も愛国心も制裁願望も、どれかが優れていてどれかが劣っているわけではなく、いずれも等価なものと見なせるのだ。


 ……とはいえ、ハイトの議論を批判するジョシュア・グリーンやジョセフ・ヒースが論じるように、リベラルが「ケア」や「自由」を重視して他の道徳基盤を軽視しているのは、彼らがたまたま「ケア」や「自由」を好む感性をしているからではなく、理性を行使したり教育を受けたりした結果として「集団に対する忠誠や権威に対する服従、穢れたものに対する嫌悪感は、道徳判断の指標としては不適切である」という意識を身に付けたからであるだろう*3。六つの指標から二つや三つに絞って判断することは不自然で人為的なものであるが、多様な集団がひとつの共同体に存在しており複雑な経済や政治制度やテクノロジーが発展した現代社会というものがそもそもは不自然で人為的な環境であり、「集団主義的な判断や嫌悪感に基づく判断をしないこと」は、現代社会で生きるわたしたちに条件として課せられている。環境がまったく違う狩猟採集民で暮らしているときに身に付いた道徳感情を野放しにしていると、個人間でも集団間でも悲惨なトラブルが生じてしまい、経済も政治もまともに機能しなくなってしまうからだ。また、進化心理学に基づいたグリーンやヒースのみならず、『感情と法』で法律と道徳の感情的な起源を探ったマーサ・ヌスバウムも、嫌悪感に基づいた判断はすべきでないと論じているのである。


 すくなくとも高等教育を受けたリベラルであれば、彼や彼女の価値観は、教育や陶冶の結果として身に付いたものである可能性が高い。問題があるとすれば、リベラルの人たち自身が、そのことをすぐに忘れてしまって、自分たちの価値観を「人間として当然持っているはずの価値観」と思い込んでしまうことだろう。人権感覚は身に付いていないことがデフォルトであるが、それと同時に、現代社会で生きる人間には人権感覚を身に付けることが(道義的に)要請されるのだ。


 


……もっとも、ハイトによると、倫理や政治に関する規範的な主張とは、当人が持っている道徳感覚に、もっともらしく聞こえるための理屈を与えたものに過ぎない。理性という「乗り手」は感情という「象」に振り回される無力な存在であり、理屈とは感情という犬を正当化するために振り回される尻尾のようなものに過ぎない、というのがハイトの主張の根幹にあるものだ。


 したがって、客観的な倫理とか、より正当な政治的立場といったものは存在しない、というのが彼の見方である。だから、「(現代社会という環境のことを考慮すれば)人はリベラルな価値観を身に付けなければいけない」という反論にハイトが同意することはまずない。

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社会のどこにも悪魔はいる

図書館から借りた老人向けの大活字本シリーズで「怪奇・ホラーワールド 異世界への入り口」というのを読んだが、あまり面白くない。まあ、当然それは私の主観であり鑑賞力の問題だが、私はホラー小説とかホラー映画をまったく面白く思えないのである。
その前に読んだ「黒い兄弟」というリアリズム(かつ理想主義的)児童文学のほうがはるかに面白かったのだが、怖さという点でもこちらのほうがはるかに怖い。つまり、「現実世界の怖さ」であり、それに比べると、並みの小説家が書いたホラー小説などファンタジー小説である。細部の描写は面白くても、幽霊やゾンビが出て来た時点で、私は退屈する。馬鹿馬鹿しいとしか思わない。そんなファンタジー的存在より、現実の人間がはるかに怖い。
人間の中の怪物的存在というのは、あなたの隣にいるかもしれない平凡人でもありうるのである。政治をしていないから大量虐殺をしなかっただけで、平気で人を殺せる人間があなたの隣にいるのである。殺さないのは単に警察につかまり処罰されるのが嫌だからだ。「黒い兄弟」の中では、人買いの男よりも悪魔的なのが、主人公ジョバンニを買った家の主婦である。この女とその息子の悪魔性は、私の読んだ小説の中でも出色だ。生まれつきの悪魔だろう。自分の子供以外の人間に対しては、まったく同情も共感心も無く、平気で自分の家が買った子供を虐待し、虐め殺せる人間である。
しかしまた、こうした悪魔的人間も、その悪魔的行為は貧困のためであることが多いように思う。生活苦のために、悪魔的行為を自己正当化するわけである。まあ、貧困からの解放が社会を道徳的にするとは安易に思わないが、かなり道徳的に改善するのは確実だろう。つまり、他人を食わないと生きていけないなら、食うしかないのである。社会が人間を悪魔化していたわけだ。
マルクス以前の社会主義は、まさにこうした貧困層への同情から生まれた、ヒューマニズムだったのである。
ついでに言えば、「黒い兄弟」では、富裕階級の慈善家の存在によって、問題は解決する。つまり「デウス・エクス・マキーナ(機械仕掛けの神)」による解決(主人公の救済)だが、これは児童文学としての限界だろう。これが、主人公もその周辺の子供もすべて死ぬ、としていれば、よりリアルだったかもしれない。まあ、誰も読まなくなるだろうが。「フランダースの犬」や「火垂るの墓」のアニメを喜んで見る子供はいない。

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十二支分

この「十二支分」の中の言葉は「般若心経」に出て来る言葉が大半で、私はこれらの言葉の意味をあまり考えないで我流の「般若心経」理解をしていたのだが、少し深堀りすると面白いかもしれない。
要するに、般若心経、あるいは仏教とは「煩悩から脱出する」道だということだ。そこが、「神の国(天国)」に行くことを理想とするユダヤ・キリスト教との根本的な違いであり、より「現実的」な思想だ、と言えそうである。何しろ、ユダヤ・キリスト教というのは「神は存在しない」の一言で終わるのだから。(で、神への信仰を失った西洋社会が無惨な無道徳社会になったのはご存じのとおりだ。)
ところが、「いかにして現世の苦悩を無くすか」というのは人類永遠の、王侯にも庶民にも富人にも貧人にも存在する悩みであり、今なら心療内科とか精神科という商売すら存在するのである。



十二の支分[編集]

  1. 無明(むみょう、avijjāavidyā) - 無知[4]。過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。
  2. (ぎょう、saṅkhārasaṃskāra) - 生活作用[1]、潜在的形成力[4]、志向作用。物事がそのようになる力=業
  3. (しき、viññāṇavijñāna) - 識別作用[1]。好き嫌い、選別、差別の元
  4. 名色(みょうしき、nāma-rūpa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。物質的現象世界[1]。名称と形態[4]。実際の形と、その名前。
  5. 六処(ろくしょ、saḷāyatanaṣaḍāyatana) - 六つの感受機能、感覚器官[1]。眼耳鼻舌身意の6感官[4]六入(ろくにゅう)ともいう[4]
  6. (そく、phassasparśa) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触[1]
  7. (じゅ、vedanā) - 感受作用[4]。六処、触による感受。
  8. (あい、taṇhātṛṣṇā) - 渇愛、妄執[1]
  9. (しゅ、upādāna) - 執着[1]
  10. (う、bhava) - 存在。生存[1]
  11. (しょう、jāti) - 生まれること[1]
  12. 老死(ろうし、jarā-maraṇa) - 老いと死[1]

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苫米地英人の解説による「空観・中観・仮観」

前にも載せたかもしれないが、苫米地英人の記事の一部で、いわば「仏教概論」である。私の意見だと、かなり高度な仏教理解だと思える。私などは仏教を「空観」でしか理解していなかったが、そこに「仮観」と「中観」を加えることで、理解が完全に近くなり、また現実世界をほぼ完全に包含する理解(世界認識)になりそうである。ただし、残念ながら「見方」を「味方」とするような誤記が何か所かある。
注意したいのは「空観」が、「すべては虚しい」というニヒリズムと混同されがちなことだ。下で書かれているように、「空観」とは、「絶対的なものは存在しない」ということで、その揚げ足を取れば「なら、空観自体も絶対ではないから信ずるに足りない」となる。しかし、想念というのは「何でもあり」なのだから、絶対とか相対の対象ではないのである。要は、その思想が世界理解に役立つなら有益だ、というプラグマチカルな姿勢で対すればいいだけだ。
下の記事を私流に要約すれば、「仮観」「中観」が空観の支柱になるわけである。ある意味「仏教的三位一体」と言えるだろうか。「空観」だけが突出して有名なのが、(私などもそうだが)仏教理解を妨げているのだろう。
「十二支縁起」は「十二縁起(因縁)」と言われるもので、暦の十二支とはあまり関係は無さそうだ。


十二因縁の支分は、無明名色六処老死の12個であり(支分の詳細は十二の支分の節を参照)、この12個の支分において、無明によって行が生じるという関係性を観察し、行から次第して生や老死という苦が成立すると知ることを順観という[3][注釈 1]。また、無明が消滅すれば行も消滅するという観察を逆観という[3][注釈 2][1]


順観と逆観の両方を行って、人間のありように関する因果の道理を明らかにした結果、因果の道理に対する無知が苦悩の原因であったと悟る[3]。その際には苦悩が消滅し、根源の無明が消滅しているため輪廻もなくなるとされる[3]



(以下引用)誤記と思われる部分は括弧と赤字で注を入れた。

例えば、キリスト教の神は「絶対的」な存在です。密教でも基本は大日如来という「絶対的」な存在を前提としている宗派が多いです。だか ら、密教は仏教というよりもヒンズー教(バラモン教)に近いといわれるのです。勿論、仏教という本来の枠組みでは、(例え密教宗派でも)、絶対的な存在は ないと考えます。お釈迦様が菩提樹の下で悟ったとされる十二支縁起は、正に、全てのものは、縁起(因縁)によるもので、それだけであるものは何もないとい う哲学です。ですから、神が存在したとしても、縁起によるものであり、絶対的な存在ではあり得ないと考えられています。当然、生命も空であり、縁起による ものであるので、この意味では絶対的な存在ではないです。
 ただ、そこに戒という考え方が出てきます。自分に対する戒めです。「私は、何が何でも 決して人を殺さない」という自分に対する戒めです。何が何でもは、「絶対に」という普通の日本語で言うことが多いでしょう。だから、人の価値は私にとって は絶対であって、決して相対化しないという戒めです。これが、「洗脳原論」の「世の中には相対化してはいけないものがある」という意味です。仏教では戒め であって、やっては反則であるという契約(神との契約)を破るという意味とは違うわけです。 キリスト教世界では、人は殺してはいけないという絶対の神と の契約なわけです。(「神と契約した人以外は」という限定がついている解釈が戦争を肯定していることは「洗脳護身術」で書きましたが。)

  ところで、「中観」という見方があります。まず、「空観」というものがあります。空観は、まさにこの十二支縁起に従って、宇宙に絶対的なものはなにもな い、全ては縁起によるものであるという味方(見方?)です。勿論、私たちの「現実世界」も含めてです。私たちが、存在を認めている、現実世界も、よくよく見ると、例 えば、映画のスクリーンのように、近づいてみると、沢山の画素の投影にすぎない、つまり「まぼろし」であるという見方です。「空」の味方(見方?)です。私たちの身 体も拡大していくと、最後は素粒子の状態にすぎないというのと同様でしょう。ただ、これは西洋哲学の現象論とはちょっと違います。現象論的発想では、映画 館を私達が出ると、映画は消滅しなければ行けません(いけません?)。スクリーンでない方向をみたら映画は消滅しなければなりません。中願(中観?)と対比されるときの唯識もそのよ うな解釈をされています。実際は、私たちが映画館を出たって、その映画は続くのであり、決して映画は消えるわけではないですね。これを「仮観」といいま す。その実体は空であっても、ちゃんとその映画には役割、機能がある、その意味で映画はちゃんと存在しているという見方です。ここで浮かび上がってくるの が、スクリーンが空であることを知った上で(空観)、空なるスクリーンに機能を持たせて(仮観)、それを見ている自分がいるということです。そして、とな りに(の?)席にも、ちゃんと同じことができる人がいるということです。これが正に中観です。そして、その隣の人は、実性はもちろん空であるけれども、だから自分 の内部表現を操作すれば、消してしまってもなんら変わらない存在ではないということです。だから、空観だけだと、宇宙はむなしいものだし、まさに、となり の命もただのまぼろしですが、中観ではそうはいかないわけです。
 サトリの先にあるものの大前提が、まさにこの空観、仮観、中観が当たり前のようにできた状態(円融三諦)であるわけです。

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恋愛とじゃがりこ

三谷幸喜の脚本「オケピ!」を読んで、不思議に思ったのが、恋愛とは何だろう、ということだ。舞台伴奏専門のオーケストラの中で、美人のハープ奏者に、指揮者が惚れるのだが、そのハープ奏者はオーケストラの中の男性の半分くらいと寝ている女である。(指揮者はその事実を最初は知らない。)で、そのハープ奏者がそういう女だと知った上で、この指揮者はこの女に未練たっぷりなのだが、これは恋なのだろうか。それとも、他の男同様に自分もこの女と寝たいという欲望、つまり性欲なのか。いったい、恋愛と性欲はどう違うのだろうか。また、このハープ奏者は、一番新しい相手であるトランペット奏者に思い入れがあるようなのだが、これは恋愛なのか、性欲なのか。男から男へ相手を次々に換える女にとって、恋愛とは何なのか。
で、先ほど思ったのが、「じゃがりこ」である。まあ、じゃがりこが何か分からない人は少ないと思うので、説明はしない。私は、じゃがりこにまったく興味がなく、食べてみたいとも思わなかったのだが、ある時、スーパーで安売り(在庫処分)をしていたので、数種類買って試してみると、なかなか美味い。で、しばらくして、その中の「たらこバター味」というのを買ってみたら、これまでのじゃがりこの中で一番美味いと思い、大量に買ってみた。
その後どうなったかは、予想がつくだろう。飽きたのである。「たらこバター味」だけでなく、他の味のじゃがりこもすべて興味も食欲も無くなった。
恋愛というのは、このじゃがりこのようなものではないだろうか。相手に興味を惹かれると、矢も楯もたまらなく、「欲しくなる」。しかし、数回味わえば、飽きるわけだ。だから、次々と別の相手が恋愛(食欲)の対象になる。少なくとも、多情な女性の恋愛は、食欲とさほど差はないし、何なら、アクセサリーや化粧品と大差はないのではないか。で、食われるほうの男も、セックスの相手をして性欲は満足されるから、相手をするのにやぶさかではないし、それが美人の相手ならなおさらだろう。しかし、じゃがりこを食うのと大差はないわけだ。で、いろいろと面倒くさいことが恋愛に付随して起こるが、色好みな種族にはその面倒も気にならないのだろう。女性の中には、死ぬまで恋をしたいという、おそるべき種族もいるようだ。

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男の子への母親の熱愛の意味

ケストナーの「わたしが子供だったころ」は、ケストナー自身のエピソードだけでなく、20世紀初頭から第一次世界大戦までのドイツの姿がありありと描かれていて、子供には難しい本だが、大人には興味深い。
で、それを読んで私が一番感じたのは、ケストナーとその母親は「一卵性親子」だったということだ。あるいは「恋人母子」だったということだ。
昔の結婚は今のような恋愛結婚ではないから、夫婦間の愛情というのは長い間一緒に暮らすうちに生まれる「同僚意識」に近いものだったと思う。とすると、女性の愛情の対象は夫より、自分が生んだ、「自分の分身」である子供、特に男の子に向けられるわけである。つまり、息子こそ、母親にとっての「理想の男性」であり、夫は単なる家庭の暴君であったのではないか。これが「母性愛」の本当の意味だろう。もちろん、女の子に対しては「姉妹愛」のようなものが生まれることもあっただろうし、これも自分の分身としての愛情は持っただろうが、「異性愛」の要素は無いわけである。
嫁入りした女性にとって姑が最大の敵になる所以だ。つまり、「恋敵」なのである。

(以下引用)


エーリッヒ・ケストナーErich Kästner、 1899年2月23日 - 1974年7月29日)はドイツ詩人作家である。

生涯[編集]

ドレスデンの記念館にあるケストナーのブロンズ像

ドレスデンのノイシュタットに生まれた。父エミール・ケストナーは鞄作りの手工業者だったが、産業工業化のあおりを受けて、工業労働者になり、母親イーダ(旧姓アウグスティーン)は夫の少ない労働賃金を補うため、理容師になる(『わたしが子どもだったころ』に詳細)。本当の父親はユダヤ人の主治医エミール・ツィンマーマン (Emil Zimmermann (1864–1953)) 博士で、母イーダとツィンマーマンという医者との間に生まれた不倫の子供であった、と言われているがケストナー本人はそれについて言及しておらず、また、その根拠の大多数が伝聞であることから、いまだ結論は出ていない。


教師になろうとして、教師を養成する専門のギムナジウム中高一貫教育校)に入学。第一次世界大戦に兵士として召集される。命令と服従という関係しかなかった学校、軍隊に反発を感じ、大学進学を決める。ライプツィヒで学業の傍ら、新聞の編集委員をしながら、詩や、舞台批評を発表。空前のインフレの影響もあり、苦労して大学を卒業した後、ベルリンに出て詩人として認められた。


辛辣で、皮肉の強いパロディや、厭世的でシニカルな作品を多く発表する。また、恋愛を対象としたものも多い。1928年に発表した子供のための小説『エーミールと探偵たち』が好評で、次々と子供のための小説を執筆し、児童文学作家として世界的に有名になった。とりわけ、世界各国で何度も映画化された、同タイトルの映画は有名。ケストナー作品の挿絵は「エーミールと探偵たち」執筆と相前後して知り合った画家イラストレーターヴァルター・トリアー (de:Walter Trier 1890-1951) が多く手がけ、その関係はトリーアの死去まで続いた。


成人向けの文学作品でも健筆を振るった。ベルリンの荒廃を描いた『ファービアン』(1931年)は第二次世界大戦世代の日本の作家たち(織田作之助吉行淳之介開高健など)に、好意的に読まれ、子供のためだけではない小説家としての顔を見せている。


自由主義民主主義を擁護し、ファシズムを非難していたため、ナチスが政権を取ると、政府によって詩・小説、ついで児童文学の執筆を禁じられた。ケストナーは父方を通じてユダヤ人の血を引いていたが、「自分はドイツ人である」という誇りから、亡命を拒み続けて偽名で脚本などを書き続け、スイスの出版社から出版した。ナチス政権によって自分の著作が焚書の対象となった際にはわざわざ自分の著書が焼かれるところを見物しにいったという大胆なエピソードがある。ナチスもケストナーを苦々しく思っていたが、拘束などの強硬な手段を取るにはケストナーに人気があり過ぎ、逆に民衆の反発を買う恐れがあったため、ケストナーの著書を焚書にした際、子供たちに配慮して児童文学だけは見逃したり、変名でケストナーが脚本を書いた映画『ほら男爵の冒険』を制作したりしている。一方でベンヤミンを含む、マルキシズムの立場からは、政治的に立脚点が無く、その理想は、プチブルジョアのための慰めでしかない、という批判を受ける。


戦後は初代西ドイツペンクラブ会長としてドイツ文壇の中心的人物になった。ちなみにドレスデンにいたケストナーの母親とは戦後の東西ドイツ分断で離れ離れになってしまったが、東ドイツ政府もケストナーが反ナチを貫いた事を高く評価、母親を手厚く保護したという。1960年、『わたしが子どもだったころ』で優れた子供の本に贈られる第3回国際アンデルセン賞を受賞した。


長年ルイーゼロッテ・エンダーレという女性と生涯ともに暮らしていたが、内縁関係のままで生涯結婚する事はなかった。ちなみに『ふたりのロッテ』の主人公である双子の姉妹(ルイーゼとロッテ)は、この内縁の妻の名を分けて名付けたことで知られている。


ケストナーは1974年7月29日に死去し、ルイーゼロッテとともにボーゲンハウゼン墓地に埋葬されている。


ノーベル文学賞の候補者が公表されている1971年以前に6度(7人から)ノミネートされていた(一方自身が他の文学者を推薦したことも3度ある)[1]



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「新興宗教」考

私の生涯の宿題のひとつは、「宗教(神仏)と無関係な道徳の確立は可能か」、というもので、その具体的な内容を考察したいと思っているのだが、先に、その前提である、「宗教と無関係な道徳」の可能性を考えると、それはある意味では「通俗道徳」であり、「公徳心」であり、その土台は「社会という存在そのもの」である。つまり、神仏ではなく「社会」そのものを尊ぶことが公徳心である。もちろん、神仏への信仰と公徳心は両立するし、それどころか、お互いを強化するだろうが、私が言うのは、「神仏への信仰」無しでの公徳心であり、今の「通俗道徳批判」の風潮に逆らって、それこそを「通俗道徳」と名付けたい。まあ、それが嫌みなら「基本道徳」でもいいし「公徳心」という使い慣れた名前でもいい。

前に書いた、「西洋ではキリスト教を信じなくなった結果、モラルが完全に失われた」という話だが、これは当然の話である。土台となる存在無しで建築はできない。つまり、これまでの西洋社会の道徳は土台となる存在(ユダヤ・キリスト教)が虚構だったために、その虚構性が全体の共通認識となった結果、キリスト教道徳全体が「空中楼閣」だったと認識され、崩壊したわけだ。
では、日本の場合はどうか。仏教を信じている人間の数は非常に少ない(仏教思想に好意を持っている私のような人間は多いだろう。)と思うが、その反面、怪し気な新興宗教の信者は驚くほど多いと私には思える。私はそれらの新興宗教の教義が分からないので、単にその教祖たちの風貌の下劣さを見るだけで反発を感じるし、仄聞する教祖の人格も下劣な印象なので、なぜ彼らがあれほどに信者を集められたのか、不思議でならない。
教祖の印象は別として、その信者たちは案外穏健で善良だろうと私には思える。教団の強引な金集め以外には、彼ら信徒が悪質な行動を取った例はほとんど無いからだ。例外がオウム真理教だろうか。
新興宗教というのを、どの時点から「新興」とするのかと問うなら、たとえば英国国教会など、強引そのものの作り方をした「新興宗教」で、国王が(愛人と結婚しようとして)今の王妃と離婚するためだけに作ったようなものである。(カソリックは離婚ができなかったからだ。)そういう無茶苦茶な宗教を英国人の大半が信じたという事実から見ても、宗教が伝統宗教か新興宗教かということ自体は、あまり根本的な問題にはならないだろう。問題は教祖の人格と教義と教団の行動である。ほとんどの新興宗教は「教祖の神格化」を行っているので、内部にいるとほとんど無意識のうちに洗脳されるのだろう。で、教義自体は実はどの教団でも大差はないのではないか。おそらく「通俗道徳の勧めによる現世利益」が中心だろうと思う。せいぜいが、仏教系かキリスト教系か、あるいはまったく新しい系統かという違いだけだろう。
統一教会が邪教とされているにしても、キリスト教系新興宗教である、という点では英国国教会とそれほど差は無いわけだ。あと50年も教団が継続したら、「伝統宗教」となる可能性すらあるのである。単に「勝共連合」の金集め組織が、そうなるわけだwww
さて、宗教による、あるいは宗教によらない「通俗道徳の勧め」によって、社会が安全平和になるなら、はたして通俗道徳は否定されるべきなのかどうか、というのが私の提起する問題だ。何度も言うが「立身出世主義」などを通俗道徳と呼ぶのは不適切であり、それは道徳でも何でもない。また仮に「立身出世して自分の家族を、いや社会全体を良くしよう」とするなら、それこそ本物の道徳的思想だろう。「立身出世主義」でない人間が出世できないのは社会が悪いとするなら、それは性格的に恋愛ができない人間が存在するのは社会が間違っている、というのと同じ話である。
まあ、恋愛云々は、いずれ書こうと思っていた思考テーマが頭をもたげただけであるwww

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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