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聖徳太子の仏教理解

「備忘録として」というブログから転載。
聖徳太子の仏教理解がどのようなものか知りたいので、ネットで調べてみたが、あまり分からない。見つかったのが、この記事である。
私は、物部氏、蘇我氏ら豪族に対抗し、あるいは協力して中央集権を図ったマキャベリストとしての聖徳太子(その子供ではないが、太子の遺志を継いで蘇我氏を滅ぼしたのが中大兄皇子)という話を構想できないか、と思っているのである。物部・蘇我の戦いは仏教伝来と関係するので、太子の仏教理解がどうだったか知りたいわけだ。まあ、読んだことは無いが山岸凉子が「日出ずる国の天子」(「皇子」か「天子」か忘れたが)で描いたのも、そういうマキャベリストとしての聖徳太子だったのではないか。
ついでだが、中大兄皇子が天皇にならず長い間皇太子のまま政治を行ったのは、推古天皇の摂政として政治の中枢にいた聖徳太子の真似だったと思う。つまり、表に立たずにいることで力がむしろ自由にふるえるという政治技法だ。

(以下引用)

法華義疏

2014-11-30 19:36:29 | 仏教

聖徳太子は三経義疏を著わした。三経とは勝曼経、維摩経、法華経であり、義疏とはその注釈書である。法華経を解説した鎌田茂雄の『法華経を読む』も義疏ということになる。日本書紀には、606年に皇太子が推古天皇に勝曼経と法華経を講義したとある。天皇は大いに喜び、(褒美として)播磨国の水田100町を皇太子に施し、因って以て斑鳩寺に納めた。


(推古天皇十四年)秋七月、天皇、請皇太子令講勝鬘經、三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經於岡本宮、天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺。


聖徳太子』の中で梅原猛は、三教義疏を読んでそれらが聖徳太子の作品であることを確信したと記す。津田左右吉らの偽書説に対して、三教義疏も読まずにそれらが聖徳太子の作ではないとしていることに痛烈な批判を加えている。梅原猛が依拠するものが花山信勝の訳した『法華義疏』である。先月、神田古書店街で掘り出し物がないかと渉猟していたときに、偶然、彼の本をみつけ衝動買いした。文庫本上下2冊組で、ビニールでカバーされていたため中身も確かめずに買った。家に戻りそそくさとビニールを破り捨て表紙をめくったところ、内容があまりに難解で自分の実力では手に負えず、結局は花山信勝のあとがきだけを読んだ。


本の最初のページに以下の法華義疏冒頭の写真が載っている。”法華義疏第一 此是 大委上宮王私 集非海彼本”とあり、”大和の国の上宮王の私に集まるところ、海の彼(かなた)の本には非ず”と訳される。花山は、”本来、奈良時代の本はほとんどが朝鮮半島か中国大陸からもたらされた。海外の仏教経典の注釈は上宮王である自分のところに集り、その中から自分の意に適した文章を採用し、簡潔にまとめた。”と解し、義疏は聖徳太子自筆とする。



法華義疏については偽書説が盛んであるが、花山は訳本のあとがきで、”法華義疏を読めば読むほど、義疏を書いたのは聖徳太子以外の何人でもありえないと思うようになった”と述べている。花山の示す理由は以下のとおりであるが、法華義疏の著者に習い、一部私意を付け加える。


1.全四巻にわたって行間や余白に細字で加筆、貼り紙、文字の上下入れ替え、返り点、消字など、本書の著者でなければ不可能と考えられる前後連絡のある統一的加筆修正がなされている。字体は欧陽詢(おうようじゅん=557-641年唐の書家)の筆法が加わっているので奈良中期の文字とみられる。貼り紙があるような草稿本が偽書である可能性は低い。


2.法華義疏など三教義疏は、聖徳太子の死後すぐから太子御製として久しく伝承されていた。


8世紀中旬の鑑真は南岳の恵思禅師が上宮聖徳王として生まれ変わり法華経を弘通されたという信念のもと渡海を決意する。鑑真に同伴した弟子の思託(したく)は、『上宮皇太子菩薩伝』を著して、太子が三教義疏を作ったと記し、772年に入唐した日本僧は揚州竜興寺にいた鑑真の遺弟の霊祐大師に上宮王の撰号のある『法華義疏』四巻と『勝曼経義疏』一巻をもたらした。そして唐僧の明空が『勝曼経義疏』に私抄一巻を書き”上宮王 非海彼本”の注釈をした。9世紀に入唐した円仁がそれを写して我が国にもたらした。 (恵思禅師=6世紀に活動した天台宗の二祖。龍樹が開祖)


708年生まれの智光は自著で三教義疏から多くの引用をしているが、その引用文は現存の三教義疏と相違がない。


天平19年(747年)の法隆寺伽藍縁起並流記資材帳に、法華義疏四巻、維摩経疏三巻、勝曼経疏壱巻が記録されている。


3.法華義疏では光宅寺法雲(467-529年)の書いた注釈書である『法華義記』を直接引挙し、また是非するものが多い。その大胆な批判精神と、経文や先人の解釈にとらわれない独自の解釈の発表、簡潔明晰な特徴など、太子のような大人物であって初めて私集できるものである。


「ただし、私に懐(おも)うには」、「ただし疑うらくは---」、「然れども、これはこれ私の意なり」、「しかれども、私意及ばず。ゆえに、記さざるなり」、「しかれども、私意は少しく安らかならず」、「今、私に釈すれば」、「論ぜざるも明らかなり」、「これに例して推すべし」など、自身のことばで解釈を行っている。特筆すべきは、「実に就いて論ずることを成さば(実例に沿って論ずるとすれば)」ということばの多さで、論議が常に実際的立場からなされているのである。


4.法華義疏の中には、少乗の誤字(正は小乗)、身子と真子の混用、舎利弗と舎利仏の混用など他にも誤字や異字があり、漢字が使用され始めた時期の専門僧でない上宮太子こそその著者としてふさわしい。


5.606年の法華経講義の翌年、太子は小野妹子を隋に遣わし、沙門数十人を同伴させ仏法を学ばせ仏典を請来させている。


6.一大乗という法華義疏独自の用語がある。小乗に対する大乗、三乗に対する一乗を合体させた一大乗は、著者の造語であり、他の義疏にない独自の解釈をしている。一大乗は誰もが仏性を持てるという平等思想であり、これはまさに十七条の憲法の10条に通ずる。


7.法華義疏は他の2義疏に言及しているので同一人物が書いた可能性が高く、解釈は勝曼、維摩、法華の順に要を得てくることから、成立年もこの順番だと考えられる。これは日本書紀の年代順に一致する。


8.著者は安楽行品で”山の中で常に坐することを好む小乗の禅師には親近せざれ”と解釈し、そんなことをしていては仏の教えを世間に弘められないではないかと疑問を呈する。これは先人の天台智や法雲の解釈とは真逆であり、著者の解釈が間違っているのだが、僧侶でない仏教で日本の政治を変えようと考える為政者、すなわち聖徳太子のことばであることを証明している。


またまた、聖徳太子の人間性に惚れ込んでしまった。


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自由と道徳(オブジェクティビズムの危険性)

「徽宗皇帝のブログ」記事に出て来た「ランド研究所」は、おそらくアイン・ランドの名を冠しており、つまりランドの思想の継承者による国際政治研究所だろう。そのランドの思想の名称であるオブジェクティビズム(客観主義)というのが分かりにくい、と言うか、その実態と遊離した名称だと思うので、ウィキペディアからその解説を引用する。この名称の何が問題かというと、哲学思想としての客観主義はごく当たり前の思想だが、それとほとんど無関係な政治思想(下の記述の中で私が赤字にした部分)までこの名称に含有させている、つまり詐欺的名称だからだ。
なお、茶色にした部分は哲学思想と政治思想の中間部分である。その茶色部分の中にも、利己主義を「道徳的」とする詐欺がある。私は「自己愛」は人間の本質だが、利己主義は反社会的かつ非道徳的だと考えている。道徳とは本来(社会全体を守るための)「自由の束縛」であり、「禁止の体系」なのである。

「進撃の巨人」で、自分の自由を最大限に追及したエレンが最終的に「自分たちの属する集団以外の世界のすべてを破壊し、殺戮するに至った」ことは象徴的だろう。(なお、この作品は批判的・分析的に見るのはいいが、頭の悪い人や子供は見ないほうがいい。)
ついでに言えば、自分の自由を最大に追及したら、最後には自分以外の存在は、自分の属する集団も含め、単なる自分の「道具」となり、「物」となり、場合によっては「敵」にもなるのである。これはエレンが、自分に献身し通し、自分を守り続けて来たミカサを最後の別れの場面で「俺は最初からお前が嫌いだった」と突き放すところに明示されている。つまり、「守られる存在(全能でなく、自由でない存在)としての、嫌悪の対象となる自分」をミカサという守り手の存在が露呈していたからだ。(ただし、作者がそこまで考えて描いたかどうかは分からない。あちこち不合理な部分だらけの作品なのである。しかし、無意識レベルでは「自由」の本質について正解に達していたと思う。)
ついでに言えば、「禁止の体系」の最たるものは道徳より法律である。絶対の自由を主張する者は、法律を廃止し、すべてに「自由競争」を求めるのが当然であり、それはすなわち「暴力の支配」である。(ある意味、「進撃の巨人」とはその象徴だ。)つまり政府という存在を自分の手足とするか、廃止するのが筋だろう。前者がDSであり、後者が新自由主義の主張する「小さな政府」の帰結、アナーキズム(無政府主義)である。
さて、自由を信仰するあなたは道徳も法律も不要だ、と主張するだろうか。

(以下引用)

オブジェクティビズム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オブジェクティビズム英語Objectivism、別訳「客観主義」)は、ロシア系アメリカ人作家アイン・ランド(1905–1982)が創出した思想体系である[1]。最初はランドの小説(特に『水源』および『肩をすくめるアトラス』)で表明され、後にエッセイおよび評論集で表明された[2]。オブジェクティビズムを支持する者をオブジェクティビスト英語Objectivist、別訳「客観主義者」)と呼ぶ。哲学研究者でランドの知的相続人に指名された[3]レナード・ピーコフは、オブジェクティビズムをより厳密に体系化した。ピーコフは、オブジェクティビズムは不変の「閉じた体系」(closed system)であるとしている[4]


オブジェクティビズムの中心的主張は以下である。

  • 現実意識から独立して存在している。
  • 人類は感覚を通じて現実と直接接触する。
  • 人は概念形成と帰納的論理を通じて客観的な知識を獲得できる。
  • 人が生きる適切かつ道徳的な目的は、自分自身の幸福の追求である(「合理的利己」)。
  • この道徳にかなう唯一の社会体制は、個人の権利を最大限に尊重する社会体制であり、具体的には自由放任資本主義である。
  • 人間生活における芸術の役割は、人間の形而上学的観念を、現実の選択的な再現によって芸術作品という物理的形式に変換することにより、人が理解し感情的に反応できるようすることである。

アカデミックな哲学研究者は、ランドの哲学をほぼ無視ないし否定している[5]。しかしオブジェクティビズムは、米国のリバタリアンや保守派の間では大きな影響を持ち続けている[6]。ランドが創始したオブジェクティビズム運動は、ランドの思想を一般社会やアカデミズムの世界に広げる運動である[7]

哲学[編集]

「私の哲学の本質は、人間は英雄的存在であり、自己の幸福の追求を人生の目的とすることは道徳的であり、生産的達成は最も崇高な活動であり、理性だけが絶対的基準である、と見なす人間観である」
アイン・ランド[8]

最初ランドは、自分の哲学的アイデアを小説、特に『水源』と『肩をすくめるアトラス』で表現した。その後「ザ・オブジェクティビスト・ニューズレター」(The Objectivist Newsletter)、「ザ・オブジェクティビスト」(The Objectivist)、「ザ・アイン・ランド・レター」(The Ayn Rand Letter)などの定期刊行物や、『オブジェクティビズム認識論入門』( Introduction to Objectivist Epistemology)や『利己主義という気概』(The Virtue of Selfishness)などのノンフィクション書籍で、自分の哲学的アイデアをさらに詳しく展開した[9]


「オブジェクティビズム」という名称は、「人間の知識や価値は客観的(objective)である」という考え方、すなわち、「知識や価値は、実際に存在し、現実それ自体の性質によって規定され、人の精神によって発見されるのであり、人の思考が勝手に生み出すわけではない」という考え方から取られている[10]。ランドが「オブジェクティビズム(objectivism、客観主義)」という名称を選んだのは、実存の優越を基礎に置く哲学の名称としてランドが好んだ「実存主義(existentialism)」という名称が、既に使われていたからである[11]


ランドはオブジェクティビズムの特徴を、「地上で生きるための哲学(a philosophy for living on earth)」であること、すなわち、現実に根拠を置きながら、人間および人間が生きる世界の性質を定義することを目指す哲学であること、と表現した[9]


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論理思考と直観思考

小林秀雄の或る文章に引用されていたパスカルの言葉から判断すると、パスカルはデカルトをまったく評価していなかったようだ。私はパスカルの「パンセ」を若いころに読みかけて、ほんの数ページで挫折した人間なので、それが事実かどうかは知らないし、別にパスカルという人間を思想家として評価しているわけでもない、むしろ、「分析と総合」という、思考の大原則を自分に教えてくれたデカルトをはるかに評価している。だが、パスカルは神を「無前提的に信じる」ことを採用した人間である以上、デカルト的な「論理による真偽判定」手法の否定者となったのは当然だろう。ユダヤ・キリスト教的な神の存在は論理的には否定されて当然だからだ。これはドストエフスキーがその著作の中で何度も「2+2は4」という思考を下らない、と書いている理由である。

では、仏教ではどうか。私は仏教の本質は宗教ではなく、「現世をより良く生きるための哲学」だと思っており、来世の有無とか神仏の存在とかは本来のブッダの教えとはまったく無関係だと思っている。つまり、ほとんどの日本仏教はブッダの教えとは無関係なのではないか、と思っているわけだ。葬式仏教など特にそうである。捨身飼虎の説話など、葬式仏教の対極だろう。 
で、仏教の本質は何かと言えば、それは「この世界をいかに理解するか」という問題に答えたことで、その答えは「色即是空 空即是色」である。そこには、なぜそう言えるのかという論理は無い。ただ、直観的な答えを提出しただけだ。それを信じるかどうかというところにだけ仏教の宗教性はある、とも言えるだろう。で、色即是空・空即是色を信じることで、無用な迷いや悩みから解放されるというご利益がそこにあるから、その意味では宗教だとも言える。

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対立原理と包摂原理

サマセット・モームは「世界の十大小説」の中で、バルザックが「人間喜劇」(バルザックが自分の小説群に与えた総称)の中で描き出そうとした主題(人類の原理)を

「人間は善でもなければ悪でもなく、本能と性癖を生まれながらに持っている。社会はこの人間を、ルソーの主張とは違って、腐敗堕落させるどころか、完全にし、進歩向上させる。だが、その一方、利己心は人間の持つ悪しき傾向を極度にまで発達させる

という思想だとしている。
バルザック自身がそれに類したことを発言しているかどうかは別として、私もこの思想に賛同する。ただし、ルソーが言うように、文明や文化が人間を腐敗堕落させる面もあると思う。
要点は人間の悪を極度にまで発達させるのが「利己心」だということだ。

では、利己心に対して、東海アマ氏のように「利他心」を「正しい人類原理」だとするのは正しいか。それは大間違いだ、というのが私の考えだ。
東海アマ氏の考え方は「形式論理」であり、おそらく氏が称揚するヘーゲルの「弁証法」がその思考法の土台にあると思う。
なぜ、その考えが間違いかと言うと、「利他心」は「利己心」の完全な対立物であり、そのふたつを「正→反→合」とアウフヘーベン(何と日本語訳していたか失念。「止揚」か?)する作業が行われていないからだ。利己心に対して利他心を提出しただけでは、何も発展しないのである。
そもそも、「利他心」の中には「自分」という存在が捨象されている。つまり、完全な利他心は「自己犠牲」しか無いのであり、どこの世界にも、平気で自己犠牲をする人間は実に希少なのである。そんなものを人類原理にできるはずがない。
では、利己心と利他心をアウフヘーベンするのは何か。それは「人間愛」だというのが私の答えだ。人間愛なら、他人を愛するのも自分を愛するのも含まれることになる。
それほど大袈裟な話ではなく、「(汝自身と同様に)汝の隣人を愛せよ」というだけのことだが、これが実は難しいのである。汝の隣人は(だいたいは利害関係のため)しばしば汝の敵なのだから。
しかし、自分と利害関係の無い隣人まで憎悪するようになれば、それはまさに「人類の敵」であり、それが最近しばしば起きる大量無差別殺人事件の犯行者の心に起こっている現象だろう。つまり、社会から満足を得ていない人間が社会や他の人間全体を憎悪するようになるわけだ。
さらには、自分と何の関係も無い他の国やその国民を憎悪するようになると、これはまさに社会的精神病である。
議論はここまでとしておく。とりあえず、「人間愛」が人間の正しい原理であり、そして人類を幸福にする原理だとだけ言っておく。そしてその理解や実行には必ずしも宗教を必要とせず、自分の理性に問うだけで「これが正解だ」と分かるはずである。ただし、実行が容易だとは言わない。たとえば、誰か異性を愛した時に生じるのは人間愛ではなく激情と情欲と独占欲だろう。それはしばしば極度の利己心なのである。



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エロチシズム論

別ブログに書いた小論だが、わりと満足できる内容なので、こちらにも載せておく。

(以下自己引用)

エロチシズム論



三島由紀夫の文学論「ジョルジュ・バタイユ『エロチシズム』」の冒頭部分だけ読んだのだが、そこに書いてあるバタイユとやらのエロチシズム論が不可解なので、考察ネタにしてみる。

とりあえず、「エロチシズム」という、言葉だけはよく聞くが定義の曖昧な言葉の私流の定義からしておく。それは「性的欲望を喚起する物象や言語表現によって喚起され高揚した、性欲を含む複合的感情」としておく。つまり、基本は性欲だが、性欲だけではなく、或る種の神秘感や美感がそこには存在する、と言えるのではないか。たとえば、自分の母親や姉妹の全裸を見た時に、相手を犯したいという性欲を感じる人もいるだろうが、普通の性欲とは言えない或る強烈な感情を生じる人もいるだろう。それは、近親相姦というタブーによって、より激烈化しつつ隠れた性欲であり、葛藤であり、苦悩なのではないか。しかも、そこには或る種の美感すらあるかもしれない。
まあ、分かったような、偉そうなことを書いているが、私は男の性欲など射精すれば終わりという思想であり、恋愛と性欲はまったく別だと考えている。そして、エロチシズムというものもよく分かっていない。だが、それを「性欲と同じ」とするのは違う気がする。まあ、美的概念のひとつでもあるだろうが、裸=エロではない。勃起した男を見て女性が美的と思うとは思えない。あんな無様な姿はない。映画やアニメのラブシーンでも男の勃起したペニスは見せないし描かないものである。
ここで、三島由紀夫が紹介しているバタイユの「エロチシズム論」の概要を書いておく。
三島の文章をさらに私が簡略化しておく。

1:生の本質は非連続性にある。
2:個体分裂によって個々の非連続性が始まる。
3:個々の個体において生殖の瞬間にのみ連続性の幻影が垣間見られる。
4:しかし、存在の連続性とは死である。
5:ゆえにエロチシズムと死は固く相結んでいる。
6:エロチシズムとは、われわれの生の、非連続的形態の解体である。
7:それはまた、「われわれ限定された個人の非連続性の秩序を確立する規則的生活、社会生活の形態の解体」である。
8:ここに性愛と犠牲の近似点があり、犠牲が裸にされることがこうした解体の第一歩であり、殺されることがその完成である。
9:なぜなら、犠牲の死によって、人々は存在の連続性の明証を見るからであり、それがすなわち神聖感の根拠である。
10:エロチシズムには三つの形態があり、「肉体のエロチシズム」「心のエロチシズム」「神聖なエロチシズム」である。

さて、理解できただろうか? もちろん、私には理解できないのだが、理解に努めてみよう。

1はそのままだと極論だが、「個人の生の本質は、両親から切り離された存在であるという非連続性にある」とでも言えば納得できるだろうか。そこに人間の生の孤独の出発点もある。
2は、私が上の説明で言ったことと同じだろう。
3も、「生殖」とは祖先から子孫に続く、「血(遺伝子)の連続性」を確立する手段だから、そこには「連続性」が幻想されるわけだ。もちろん、それが「避妊」という壁をはさんでいても、性交という行為自体によって、連続性の幻想は生じるのである。
4が一番難解であり、論理性が無いように思える。そこにどういう論理を持ってきたらいいのだろうか。1で見たように、生の本質は非連続性である、というのは良しとしよう。としたら、形式論理としては、生の反対物である死の本質は連続性である、となるわけだろうか。しかし、死の本質が連続性だ、と聞いて頷く人はほとんどいないと思う。死とはまさに生の断絶であり、究極の非連続性だと誰でも思うだろうからだ。まあ、とりあえず、個人の死ではなく、種としての死を問題とするなら、個体の死は生殖の前提条件であり、個体に死がなければ生殖の必要性も無いわけである。つまり、(個体の)死は種としての連続性の前提条件となる。これを乱暴にかつ断定的に言ったのが「存在の連続性とは死である」という言葉だ、と解釈しておく。
5は、4が同意できたら即座に了解されるだろう。
6も、5と同様に4への同意で了解されるだろう。
7も、同様に4への同意で了解されるかと思うが、わかりやすく言えば、セックスをしている時に会社や仕事のことを考える馬鹿はいない、ということだ。
8は、まあ、どうでもいい話だと思う。犠牲がどうこうという人類学的問題に関心が無い人間には意味を持たないことだ。性愛と犠牲が近似している、というのは「それはあなたの意見ですよね」と言っておく。だからどうなの、という話だ。
9は、4への同意から了解されるだろう。要するに、「存在の連続性とは死である」という、奇抜な逆説への同意があるかないかで、4以降の論への同意・不同意が決まる。
10もどうでもいい話で、だから何なの、である。エロチシズムを御大層なものとするために「神聖なエロチシズム」をくっつけただけで、エロチシズムに心のエロチシズムと肉体のエロチシズムがあるのは馬鹿でも分かる。むしろ、エロチシズムとは肉体ではなく心の問題だ、とするのが私は正解だと思う。

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「性の解放」論と売春肯定論

男である私にはあまり関心が持てない話題だし、論じる資格も無いのだが、考える手がかりとしてここに保存しておく。
宮台真司が「売春肯定論者」であるということは前に読んだことがあるが、女性の性の解放と売春の肯定の間には深い裂け目があると思う。つまり、売春はその行為自体が危険性を持っているということだが、もちろんそれは不特定多数との性交渉にはすべて付き物でもある。妊娠や性病や暴力団が怖くてセックスができるか、という勇敢な女性も多いだろう。
まあ、ここで詳しく論じるだけの知識が私には無いのは前に書いたとおりである。売春という人類最古の仕事が否定されるべきものかどうか、また現在の日本社会の貧困状態の中で売春しか生きる手段の無い女性のこともあり、議論の余地は大きいだろう。言えることはただひとつ、女性が売春をしなくても済む社会をまず作ることである。買う側の男の話や男の売春や娯楽としてのセックスの話はそれからだ。正直、男の性のことなどどうでもいいww

(以下引用)





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なぜ仁藤夢乃さんは萌え絵やAVを攻撃せねばならなかったのか

狂人note
2022年12月21日 18:00

仁藤夢乃さん率いる一般社団法人「Colabo」の炎上が止まらない。


不正会計疑惑からはじまった本件だが、議員会館を借り切った豪勢な提訴記者会見や個人情報流用疑惑などが話題を呼んだこともあり、ほんの3ヵ月で「ネット炎上」の枠を超え「社会問題」の域に達してしまった。国会質疑でも取り上げられるなどネットの外の世界でも激震が走っており、本件がこのまま不可逆的に広まっていくことは避けられないだろう。


正直なところ、ここまで大事になるレベルで仁藤夢乃さんは憎まれていたのかという驚きがある。colabo追及の中心人物である暇空茜氏には5000万円超の寄付金すら集まっているわけで、本件が「ネットユーザーによる面白半分の炎上事件」ではなく「真剣にcolaboを追求してほしいと願っているサイレントマジョリティの爆発」であることは自明と言って良いだろう。当たり前だが、ここまで多くの人々から憎悪されるというのは並大抵のことではない。


圧倒的な大衆的反感を招いている仁藤夢乃氏だが、実のところ氏がヘイトを買った原因は「Colabo」の支援活動とはあまり関係がない。


仁藤夢乃氏がネットユーザーの怒りを買ったのは氏が表現規制に長年加担していたからだ。2016年の秋葉原デマ事件、2021年の「温泉むすめ」バッシング、いわゆる「AV新法」の設立プロセスに深く関与していた疑惑など、仁藤氏の炎上には常に「表現規制」問題が契機だった。


もちろんこれらの運動が仁藤氏ひとりに率いられていたわけではない。しかし漫画やアニメやAVなどの創作物の「表現の自由」を危うくする勢力の中心人物のひとりとして仁藤氏は広く認知されており、だからこそ「女性支援」という基本的にはマイナーなジャンルの活動家である氏がここまでの反感を集めるに至っているわけだ。実際、中心人物の暇空茜氏もcolabo追求の動機が表現規制問題であることを明言している。


しかし冷静に考えると、これは極めて不自然なことだ。


仁藤夢乃さんが代表をつとめる一般社団法人Colaboのメイン事業は「若年セックスワーカーに向けた支援事業」だ。そして言うまでもなく若年セックスワーカーの問題と漫画やアニメはなんの関係もない。未成年売春の背景にあるのはまず第一に機能不全家庭やメンタルヘルスの問題であり、創作物をいくら規制したところで当事者の利益には一切繋がらない。それはまっとうな支援者なら論じるまでもない話だろう。


Colaboの支援活動とは本来なんの関係もないはずの表現規制について、なぜ仁藤夢乃氏らは熱心に首を突っ込み続けたのだろうか。常識で考えればそれは敵を無駄に増やすだけの悪手だったはずなのだ。しかし実際にはColaboやぱっぷすなどの「女性支援」団体は常に「表現規制」の中心であり続けた。彼女らの不可解な行動は一体何に起因しているのだろう。


本稿は婦人保護行政の歴史を紐解きながら、婦人保護業界が「表現規制」運動の中心に躍り出てしまった歴史的経緯と、仁藤夢乃らの内在的論理に迫っていく。


婦人保護業界を潰した「売春の非犯罪化」

2022年現在、「売春は犯罪である」という認識を持っている方はどれほどいるだろうか。


「売春防止法」というものがあり、法を厳密に適用すれば罪として立件できるという知識を持っている方は少数ながら存在する。しかし一般の人々も、現場のセックスワーカーも、ほとんどは売春が「犯罪」であるなどとは夢にも思っていない。良し悪しは別として性産業は半ば大っぴらに社会の一部として組み込まれてしまっている。それが2022年の現状だ。


しかし、「売春婦=犯罪者」の図式は1980年代ごろまではごく当たり前のものだった。売春関連事案の検挙数は年間1万人以上にものぼっており、多くのセックスワーカーやその予備軍が「犯罪者」として警察に検挙・補導され、婦人保護施設婦人補導院などの矯正施設に収容保護されていった。


今となっては信じられないかもしれないが、「犯罪者たる売春婦を矯正施設に収容・保護する」というのが日本の婦人保護行政の基本路線だったのだ。


その路線が転換されるのは1990年代ごろからである。皮肉にもジェンダーフリーや女性の社会進出の機運が高まった結果、売春が「女性の性的自己決定権の行使」とみなされる風潮が高まり、「売春婦=犯罪者」の旧来的図式に疑問符が呈されるようになっていった。


学術界においてこの論調をリードしたのは確実に宮台真司氏だろう。氏が1994年に著した「制服少女たちの選択」は学術界・出版界に一大センセーションを巻き起こし、「援助交際」は1996年の流行語大賞にノミネートされるまでになった。多くの文化人、学者、作家、コメンテーターが女子高生の売春を半ば肯定的に取り上げ、売春婦のイメージは「後ろ暗い犯罪者」という否定的なイメージから「若く主体的な新しい時代の女性たち」という肯定的なイメージに塗り替えられていく。


この価値観の変化は、警察の取り締まりにも影響を与えた。


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引用:男女共同参画白書 令和2年版

ピーク時は年間1万2000件にも及んだ売春関連の検挙数は、1990年前後から坂を転がり落ちるように減少していく。令和元年においては検挙数わずか574件。もちろん売春のカジュアル化自体は進行しているから、これは「警察が売春婦を摘発しなくなった」ということだ。つまり社会的価値観の転換を経て、女性の売春は実質的に非犯罪化されていったわけだ。



個々のセックスワーカーにとってはおそらくプラスに働いたであろうこの変化は、しかし、ある業界には壊滅的な打撃を与えていた。


そう、本稿のテーマである婦人保護業界の人々だ。


先にも少し触れたように、


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与えられた前提情報で思考することの危うさ

あまり真面目な記事ばかり書いているとつまらないので、別ブログに書いた記事をこちらにも載せておく。まあ、こういうのを面白いと思うのは私だけかもしれないが、書いた以上は無駄にしないでおく。

(以下自己引用)

ミステリーの根本技法 2022/12/17 (Sat)

谷川流の涼宮ハルヒシリーズは、アニメを見たのが1,2年前で、原作小説を古本屋で買って読み始めて1年くらいかと思うが、もちろん全作品は揃っていない。それどころか、同じ作品を何度も買っているのは、その作品タイトルが記憶できないためである。まあ「消失」だけは記憶できるが、それ以外は無理だ。従って、作品内容もほとんど覚えていない。ひどい場合は、同じ作品を半分くらい読んでから「あっ、これは前に読んだやつだ」と気づいたりする。
まあ、同じ作品を何度も楽しめるとも言えるから、ボケも悪いばかりではない。
で、「憤慨」の中に出て来る、キョンの書いた「恋愛小説」には、2度目も騙されてしまったのである。つまり、最初に読んだ時もあまり真面目に読んでいなかったので、これがいかにトリッキーな推理小説であるかが分からなかったわけだ。「恋愛小説」だという前提で読んだので、そうとしか思えず、その「推理小説」性を忘れていたので、二度も騙されたのである。
要するに、我々は「与えられた前提で思考する」ことが完全に習慣化しているために、実に騙されやすい存在になっているということだ。この場合は「恋愛小説」として提出されたら、そういう目でしかその作品を読まなくなるのである。これは人間性への鋭い問題提起だろう。
ちなみに、このキョンの小説のトリックは、日本の推理小説の傑作のひとつとされている(かどうかは知らないが、その年度の代表作だと思う。)「葉桜の季節に君を想うこと」と同じである。あの作品は、作中の事件自体よりも、作中で最後まで隠された「ある事実」によって読者をあっと言わせたのだが、キョンのこの「恋愛小説」がまさにそれと同じであり、ある意味では、これが推理小説の基本かもしれないと思う。つまり、「作者が『肝心の事実』を隠して話を進めれば、ミステリーになる」ということだ。
これを「叙述トリック」と分類してもいいが、推理小説全体がそうだと言ってもいいと思う。

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