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性教育と売買春

エプスタイン文書との関係で、性教育と売春の関係を考えようと思い、少しネットで探し、下の記事が引用に適切かと判断した。つまり、「先進国」では、(これは私の偏見だろうが「性教育」推進の事実から見て、実施者の意図はともかく、当然生徒側の自然な反応として)性行為は「推奨すべき行為」とされていて、その「性交可能年齢」も低いというか、先進国に限らず、性交可能年齢、あるいは性交が不法行為とされる年齢は低いのではないか、と推測したわけだ。
たとえば、イギリスだと「性的同意年齢」は16歳だが、現実には15歳での性交経験率が女子で23%男子で18%だ。では、その「相手」はどういう年齢層と考えられるか。たとえば、15歳同志での性交は法的に処罰対象となるのだろうか。あるいは、16歳を超えていても、売春による性交は特別に不法行為とされるのか。その際、処罰されるのは「買った」側だけなのか、自ら積極的に「売った」とすれば、そちらは処罰されないのか。
買うほうの「買春」がほめた行為でないとしても、売るほうは、どうなのだろうか。もちろん、児童誘拐で攫った女子を売春に使うなどの行為は死刑にしてもいいだろうが、世界的には「自らの意志で売春している」女性は膨大にいるだろうし、そうした売買春で「買う側」だけが一方的に非難されるのはおかしくはないか、ということだ。
ちなみに、日本での女子高校生や女子大生の「パパ活」は明白な私的売春である。
はっきりとは記憶していないが、「源氏物語」で光源氏が紫の上を強姦した時の紫の上の年齢は10歳前後で、「たけくらべ」の女主人公が客を取らされたのも、12歳前後だと思う。昔からロリコン男は多かったし、文化が発達したから低年齢性交が違法化したわけでもないだろう。

要は、「不同意性交」かそうでないかの違いだけではないか。そして、その「同意」が低年齢では「判断能力が低い」と見做されるのだろう。で、売買春は、明らかに「合意の上の性交」なのではないか。嫌だけど、商売だから仕方がないというのは「不同意性交」ではなく、「いやだけど仕事だから働く」という、当たり前の話だろう。

(以下引用)

イギリス  性的同意年齢など、法律で多くのことが決められている

15歳での性交経験率

女子23%、男子18%。(WHO 2013~2014年調査)避妊率が低く、10代の妊娠、中絶が多い。

年代別できごと

1988年 コンドームの無料配布
2019年 「人間関係と性の教育」をカリキュラムにとりいれ、義務化された。

国の雰囲気

法律で決められていることが多くある。

  • 性的同意年齢は16歳。
  • 16歳未満の者と性的な行為をすることは法律で禁止。
  • 12歳以下の子どもに対する性的虐待や強姦、性的な勧誘は最大で無期懲役になる。
  • ポルノは、18歳未満の子ども目に触れないように配信しなければならない。

性教育は各家庭で保護者が行うべきだという考えが根強い。学校で行うことは、特定の価値観を押し付ける事になるのではないかという意見があり、そのため、性教育の授業をうけない選択をすることができる。

学校で学ぶ内容

全ての小学校で「人間関係」を学び、思春期や妊娠・出産のしくみなどについて知る。身体の変化が始まる前までに第二次性徴について学んでおくべきということもしめされている。


中学校では、「人間関係と性」を学ぶ。精巣、勃起、陰茎、など器官の名前をきちんとおそわる。女性の生殖器についても、ヴァギナ、クリトリス、陰唇などの機能や、性交についてもきちんと説明される。さらに、胎児の発達や、母親のアルコール摂取や喫煙、風疹のウイルスなど胎児の健康なども学ぶ。流産、中絶、早産、低体重児など、母親や胎児のことをきちんと学ぶ。その他、家族について、思春期の心の変化、恋人との関係性などについて学ぶ。

ドイツ 性教育は親の務め。学校は家庭の教育を補完することが目的

年代別できごと

1977年 性教育を行うことが合法だとされる。
1992年 中絶が合法化

国の雰囲気

性教育は親の務めであり、協力する義務を負うとされている。学校の性教育は、親の性教育を補完することである。早い段階で、性教育や性の多様性(LGBT)を学んだほうがいいという運動が起こっている。これは、性に関する重要なことをポルノから得ている25歳までの女子が16%、男子が49%になるというデータがあるからである。性暴力も5人に1人の割合で起きている。

学校で学ぶ内容

学校では、性教育は教育全体の一部であるとし、特定の教科においてではなく、「さまざまな授業科目や授業外の学校行事」で行うことになっている。小学校3・4年生では、「育ちゆく体とわたし」という単元で、避妊具について、実際に産婦人科に行って聞いてくるなどの活動がある。小学校5.6年生では、生殖器についてや、避妊や性交、出産、パートナーシップなど男女の身体を詳細に学ぶ。


中学校1・2年では、思春期や性感染症などについて学ぶ。思春期では、気分や感情のゆれがおこあったり、反抗して自分で決めようとすることなどを学ぶ。性感染症では、梅毒、淋菌、クラミジア、エイズなどについて患者数のグラフをもとに考える授業がある。

スウェーデン 世界でも有数の性教育先進国。男女平等な国の一つ

15歳での性交経験率

女子26%、男子24%(WHO 2013~2014年調査)

年代別できごと

1955年 性教育がカリキュラムに導入

国の雰囲気

ここ20年ほどで特に性教育の関心が高まる。キリスト教の価値観もあり、導入は、反発の声も大きかった。今では、性病の検査は無料であり、コンドームは無料配布されていて学校にも置いてある。緊急避妊薬も安く手に入る。
親からは、積極的に推進する派と、慎重派に意見がわかれている。高校生の性のイメージは「楽しい」・「きれい」・「恥ずかしいものではない」という肯定的なイメージが多数ある。

学校で学ぶ内容

8歳~10歳で、生理や、性行為、妊娠や出産について男女一緒に学ぶ。コンドームのつけかたなども、学校で学び、親に聞いてさらに深めていくので、親との性に関する会話のタブーがない。

フィンランド  性教育が盛んな国。包括的なアプローチを大切にする

15歳での性交経験率

女子24%、男子25%(WHO 2013~2014年調査)

年代別できごと

1970年 法律で性教育が必修となる。
1990年代 選択科目となるが、2000年代に再び必修化となる

国の雰囲気

性の話をするのは当たり前。女性は産婦人科、男性は泌尿器科にかかりつけがある。何もなくても受診する。家族の形もさまざまで、同性カップルの家庭もある。フィンランドもかつては、性教育はネガティブなことととらえられていた。今では、シングルマザーや男性同士のカップルといった家族の多様さも未就園児の段階から学ぶ。

学校で学ぶ内容

幼児期から、多様性・平等・自分の体を尊重することなどを学び、避妊方法は小学校5年生で行う。中学校ではコンドームの使い方や、思春期の変化、セックスのこと、予防や感染症などを学び、避妊について、ロールプレイングなどを行うこともある。

アメリカ  州ごとに異なる性教育。日本人が想像しているよりも保守的で真面目な面も

15歳での性交経験率

女子39.2%、男子43.2%(2015年)

年代別できごと

1980年代 セクシュアリティは人間生活で重要なものであることが認識され、男女混合で性教育が教えられるようになる
1990年頃 HIV感染予防と人権の尊重及び思いやりを基本とする「性の節制教育」プログラムが開発される
2009年~ 無料で避妊器具を提供(コロラド州)
2019年  性教育カリキュラム実施(カリフォルニア州)

国の雰囲気

州や学校の方針でも異なる。多様性を理解しようという雰囲気があり、性的マイノリティとよばれる人々への理解について学ぶ機会が多い。一時期、性は開放したほうがいいという流行があり、性感染症や10代の妊娠が相次いだ。性の節制教育が行われるようになり、一時期は50%近くあった高校生での性交経験率が徐々に下がってきている。(ニューメキシコ州では、10代の半分以上が妊娠したことがあるという記録もある)
日本のアニメの一部が規制されるなど、性に関して真面目で保守的な側面もある。キリスト教の影響が強く、結婚前のセックスを禁じる家庭もある。
学校での性教育について、「親と話すいいきっかけになる」という意見もあれば、「学校が性行為に対してOKしてるようなものだ」という賛否両論ある。性に対し、開放派、保守派、包括的性教育推進派にわかれる。

学校で学ぶ内容

10代での性的虐待、性的暴行、妊娠が問題となっていて、ビデオで考える授業も展開されている。避妊、自慰、同性愛など偏見のない議論がなされている。近年のSNSやネットなどの問題から、セックスやデートDV、いじめ、性的虐待、LGBTQ、同性カップル、人身売買などにも向き合う

(追記)現代の性道徳やそのルールなど、どこかの誰かが適当に作るだけだろう。


フランス、性交同意年齢を15歳に設定 法相「歴史的」

 発信地:パリ/フランス [ フランス ヨーロッパ ]



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【4月16日 AFP】フランスの国民議会(下院)は15日、性交同意年齢を15歳とする法案を全会一致で可決し、同法が成立した。エリック・デュポンモレティ(Eric Dupond-Moretti)法相は、伝統的に性に寛容な同国において「歴史的」な一歩だと述べた。


 法案を提出した上院議員は、同意年齢を欧州で最も低い水準の13歳とするよう主張していたが、エマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)政権が引き上げを求め、修正が加えられた。



 新法は15歳未満との性行為について、両者の年齢差がわずかでない限りレイプとみなし、20年以下の禁錮刑を科すもの。近親相姦(そうかん)の場合、同意年齢は18歳とされる。


 同意年齢の設定によって、フランスも多くの欧米諸国と足並みをそろえることになった。


 これまでは、未成年者との性交をレイプまたは性的暴行で起訴するためには、未成年者が強制または脅迫、偽計によって性交させられたことを検察側が証明しなければならなかった。


 デュポンモレティ法相は、「いかなる成人の加害者も、15歳未満の未成年者の同意に頼ることはできない」とし、同意年齢の設定は「歴史的な一歩」だと述べた。


 新法は、15歳未満の子どもと5歳年上までの相手との性行為は認めている。この年齢差について大きすぎると批判する議員もいるが、デュポンモレティ法相は擁護している。(c)AFP




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「オーバーロード」と「組織悪」

まだ、帰着点のはっきりしない未熟な思想というか、浮遊思考だが、私がいずれ書きたいと思っている「組織悪」の原点のひとつとしての「組織と自分の同一化」ということに関係するかと思うので、書いてみる。
ちなみに、ここで言う「組織」とは、自分と他者の結合体で、小は夫婦や家族や友人から、大は学校や会社、さらには国家まで含む。極端に言えば人類全体も入れてもいいが、さすがに人類は組織化されていない。(NWOが究極の組織で、そこで組織悪も最大になるかと思う。つまり、個々人が単なる細胞の小部分、末端、あるいは分子となり、意思と意志を失う、いや、持つことを許されなくなるのである。)

最初に気楽な話から書いてみる。
私が最近再視聴しているアニメに「オーバーロード」という作品がある。なかなか面白いアニメだが、見る人によってはこの上なく不愉快なアニメだろう。これが欧米で受け入れられない(人気にならない)のは、これが「キリスト的人類愛」の対極にあるからだろう。つまり、「人類否定」思想と言えそうな作品なのである。まあ、簡単に言えば、「世界は設定がすべて」という、ゲーム的人生観だ。つまり、「弱者がいくら道徳や倫理を振り回しても、力の前には無意味である。そして、その『力』は最初の設定で決まっている」という思想だ。ある意味では資本主義の「カネがすべて」あるいは封建社会の「身分がすべて」という思想に近く、人間の尊厳や人間愛という「お題目」など馬鹿にした思想ではないか、と私は見ている。
ストーリーや絵作りや音楽などは非常に優れた作品の部類だと私は思っているが、その根底にある「ゲーム的人生観」というのは、非常な危険性を持っており、それは、その思想が「ヒューマニズム」の対極にあると思うからだ。(私自身、テレビゲームが大好きだが、それが「人生観」になるのは非常に危険だと思うわけだ。)
これが「組織悪」とどう結びつくかというと、主人公の青年はブラック企業に勤め、ブラック労働に疲労困憊した人間として最初に登場するが、彼が「自分が最愛するゲーム内世界」に転生し、「オーバーロード(上主)」となった時、彼は自分の組織防衛のために、あらゆるものを問答無用で踏みにじるのである。それが顕著なのは、彼の居城を単なる廃墟だと思って侵入した盗賊(下級冒険者)一味の人間像を、素晴らしい人間性として描きながら、主人公のアインズは、問答無用で殺戮する、その描写の「人間性の完全否定」「人類憎悪」にある。
つまり、ブラック企業という組織の「組織悪」に疲労困憊しながら、いざ、自分が組織の長になると、その組織の防衛のために他者を殺戮するという、その有様に、まさに組織悪の本性が顕現しており、組織悪とは「自分の悪を拡大したもの」でもあるというわけだ。

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墨子の「兼愛」「非攻」の思想

「櫻井ジャーナル」の櫻井春彦氏が、ブログの冒頭に置いた墨子の言葉だが、私も墨子が大好きで、彼(墨子)の主張の根本である「兼愛・非攻」こそが政治のアルファでありオメガであると思っている。
「兼愛」とは「博愛」と同じ。「非攻」は「自分から攻めないこと。完全防御の戦争のみ肯定」。すべての国がこの「兼愛・非攻」を政治の鉄則として遵守したら、地上の天国が実現するだろう。しかし、冨への欲がそれを不可能にする。そこで、墨子は「清廉」をも教えに入れた。つまり、資本主義という、戦争と不可分の思想を最初から否定したのである。物欲の極限の肥大は、他者からの略奪となるのは理の当然だ。

天下兼相愛則治、交相惡則亂(墨子、巻之四)
順天意者、義政也。反天意者、力政也。(墨子、巻之七)
天下有義則治、無義則亂。(墨子、巻之七)

天下は人々が相愛すれば治まり、互いに憎しみあえば乱れる
天意に従う者は義に従って正す。天意に背く者は強制する
天下に義があれば治まり、義がなければ乱れる



ただし、上の訳文には私には少し不満がある。「順天意者、義政也。反天意者、力政也」は、文字通り「天意に従(順)うは義政である。天意に背くは力政である」と読むべきだろう。「者」という字は、「は」という助詞として読めるというのは漢文の初歩であるが、もちろん、「者(もの)」と読んでもいい。しかし、「義政」を「義によって正す」と読むのはかなり無理がある。「政」は「政治」の意味で十分だろう。「力政」もそのまま、暴力による支配の意味でいい。
私にとっての「社会主義(マルクス以前の社会主義)」が「兼愛」思想であり、「憲法9条」が「非攻」思想である。

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Silent Night

「イスラエル・パレスチナ問題」の深層には、宗教的暗闘があるのではないか。いや、下の記事を見れば、それは暗闘ではなく、明らかにユダヤ教徒による他宗(キリスト教)排斥である。
今のユダヤ人は本来のユダヤ人ではない、とはよく言われるが、実は「ユダヤ人とはユダヤ教を信じる者である」という定義もあり、それが現実に近いだろう。そして、古代ユダヤ教がいかに残忍で非人道的なものであったかは旧約聖書を読めばよく分かる。我々非ユダヤ人から見れば、ユダヤ教の神とはほとんど悪魔である。もちろん選民(笑)ユダヤ人だけは特別扱いだ。
そして、キリスト教の神も、ユダヤ教と同一である(実はイスラム教の神も同じであり、キリストはイスラム教の聖者のひとりである。エホバと言うかアラーの神と言うかは信徒の勝手な都合であり、神は名前を持たないし、人間がつけた名前を呼ぶのは不敬とされている。)のが、今、パレスチナで起こっている悲劇を喜劇にしている。神は「沈黙」している。

(以下引用)

2023年のクリスマスが中止されたベツレヘムの暗闇

マスコミに載らない海外記事さんのサイトより
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2023/12/post-1f1b03.html
<転載開始>

スティーブン・サヒオニー
2023年12月16日
Strategic Culture Foundation


 今年のクリスマス、ベツレヘムのホテルの部屋は空っぽで、益々戦場の様相を呈している地域にキリスト教徒巡礼者が旅行したがらなかったため地元企業は苦しんでいる。


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お問い合わせ:info@strategic-culture.su


 イエス生誕の地ベツレヘムは今年のクリスマスを中止した。現代の祝祭が始まって以来初めて、イエス生誕の地が飼い葉桶広場の木を飾らない。


 最初のクリスマスの物語では、ヨセフとマリヤは宿屋から追い出され、全ての部屋が満室だった。今年のクリスマス、ベツレヘム全ホテルの部屋は空っぽで、ジェニンなどの被占領西岸地区をイスラエル国防軍が絶えず襲撃する中、益々戦場の様相を呈している地域にアメリカやヨーロッパからのキリスト教巡礼者が旅行したがらなかったため、地元企業は苦しんでいる。


 「家では祝えるが、心の中では苦しんでいる」とギリシャ正教の司祭イブラヒム・ダブールは述べた。「クリスマスツリーを飾るにはどうしたら良いでしょう?」


 イスラエル政府は、オリーブ山のキリスト教遺跡を国立公園に変える計画を立てている。イスラエルがキリスト教徒を追い払った後、最終的にそれら全てを金儲けのための観光名所に変えたいと考えているため、古代の教会や聖書の遺跡の将来は不確かだ。



 ガザでの戦争とヨルダン川西岸地区の空襲


その後の逮捕も含め、以前から続いていたが、10月7日のハマスによるイスラエル攻撃で1,000人以上のイスラエル人が死亡した後、被占領ヨルダン川西岸地区でのイスラエル国防軍襲撃と攻撃は激しさを増している。


 エルサレム、被占領ヨルダン川西岸地区、ヨルダンの様々な教会の長たちは、ガザのパレスチナ人の苦しみとイスラエルのガザに対する戦争で現在17,000人を超え日々増加している死者数に連帯して今年のクリスマスを暗いクリスマスにする集団的決定を下した。


 イスラム教徒が大半を占めるヨルダンでは、クリスマスは祝日で、街の広場やショッピングモールの多くが季節の飾り付けで飾られている。しかし全国の集会は、公共ツリーの点灯、クリスマ市場、スカウトパレード、子どもへのプレゼント配布などの伝統的なお祭りを見送る。


 アメリカの福音派シオニスト


 「私たちには、西側諸国の友人たちに語りかける役割があります」とヨルダン・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会の理事長兼総監督のデビッド・リハニ氏は述べた。「闇雲に誰かの味方をせよとはイエスは教えませんでした。」


 ガザを「駐車場」に変え、岩のドームを爆破して第三神殿のための場所を作り、イエスの再臨を告げるようテネシー州を拠点とするグレッグ・ロック牧師がイスラエルに呼びかけている有名な映像に彼は言及した。そのようなキリスト教シオニズムと関わるのを聖地現地の福音派は拒否しているとリハニ氏は言った。


 エルサレムのパレスチナ人で、小さなパレスチナ福音主義教会に所属するジョン・ムナイヤーは、キリスト教徒への嫌がらせが特に過去6カ月増加しており、国際的影響を及ぼしていると述べた。


 「国際的キリスト教世界には、イスラエルを熱烈に支持する人々や占領に反対するパレスチナ人の闘争に共感する人々や、その中間にいる人々が大勢います」とムナイヤーは述べた。「国際会議やコミュニティを回っています。暴力的な出来事は目立った変化をもたらし、イスラエルとユダヤ人に対する正しい態度は一体何かという疑問を多くの人々に抱かせます。」


 イスラエル人に攻撃されているパレスチナのキリスト教徒


 2002年4月2日から5月10日にかけて、ヨルダン川西岸地区のベツレヘムにあるキリスト降誕教会がイスラエル国防軍(IDF)に包囲された。2002年4月7日、イスラエルに対し、国際的義務に則り、宗教施設を尊重するようバチカン市国が警告した。2002年4月20日、エルサレムのギリシャ正教会が、来る日曜日を教会の人々と教会自体の「連帯の日」にするよう世界中のキリスト教徒に呼びかけ「人々と教会に対する非人道的措置」と呼ぶものを止めるための即時介入を求めた。


 2018年のクリスマスに先立ちガザ地区に住む少数派キリスト教徒がクリスマスを祝うためヨルダン川西岸地区やエルサレムのキリスト教聖地や教会を訪れるのをイスラエルは禁じた


 イスラエルとパレスチナ解放機構が1994年にオスロ和平協定に署名するまで約5,000人のキリスト教徒(ほとんどがギリシャ正教徒)はガザ地区に住んでいた。しかし、イスラエル人とパレスチナ人の紛争が続いているため、その数は劇的に減少した。


 パレスチナ人200万人が暮らすガザ地区のキリスト教徒は、毎年ヨルダン川西岸地区のベツレヘムとエルサレムを訪れ、そこでパレスチナのキリスト教徒と合流しクリスマスと新年を祝っていた。


 2017年の復活祭に先立ち、エルサレムに入ろうとするキリスト教パレスチナ人はイスラエル国防省占領地政府活動調整官組織(COGAT)調整官による承認が必要だった


 2023年1月26日、エルサレム旧市街にあるタブーン・アンド・ワイン・バーのアルメニア人オーナー、ミラン・クリコリアンは、イスラエル人入植者の暴徒がクリスチャン地区にある彼のバーを襲撃し「アラブ人に死を...キリスト教徒に死を」と叫んでいるという電話を受けた。


 彼が警察に行くと、犯罪を報告して手を煩わせたことを警官が叱った。


 数日後、アルメニア人地区で告別式を終えたアルメニア人が棒を持ったイスラエル人入植者に襲われた。入植者がアルメニア人修道院の壁をよじ登り、十字架が描かれた旗を降ろそうとした際、アルメニア人は唐辛子スプレーを浴びせられた。アルメニア人が彼らを追い払うと、入植者たちは「テロ攻撃だ」と叫び始め、警察はアルメニア人に銃を向け、被害者の一人を殴打して逮捕した。


 エルサレムのキリスト教社会に対するユダヤ人の敵意は根強く、あらゆる宗派に及んでいる。2005年以降、聖週間、特に聖なる火の土曜前後のキリスト教祝祭は、軍のバリケードと兵士やユダヤ人入植者からの過酷な扱いを受け、聖墳墓教会に入場できる礼拝者の数は、聖なる火の儀式中11,000人ほどだったが、昨年からわずか1,800人へと大幅に制限されている。


 イスラエルで現在のユダヤ過激派政権が権力を握って以来、エルサレムのキリスト教徒に対する事件は、より暴力的で日常茶飯事になったと報じられている。今年初め、プロテスタントのシオンの山墓地にあるキリスト教徒の墓が30基冒涜された。


 鞭打ち教会(Flagellation church)では、イエス像をユダヤ人入植者がハンマーで攻撃し、日曜礼拝中、ゲッセマネ教会にイスラエル人がやってきて、鉄棒で司祭を攻撃しようとした。イスラエル人に唾を吐きかけられたり怒鳴られたりするのは、キリスト教徒にとって「日常茶飯事」になっている。攻撃者を捕まえたり罰したりするために警察はほとんど何もしていないと、これら事件の被害者は報告している。


 「私が恐れているのは、これらの加害者が知られているのに、彼らが無処罰を享受していることです」と福音ルーテル教会の名誉司教ムニブ・ユーナンは述べた。「それが、彼らがこういうことをしている理由です」


 フランシスコ会は聖地の隅々にカメラを設置しているが、執拗な攻撃のため一般の人々に対して益々閉ざされつつある。


 イデオロギー的には、キリスト教徒とその聖地を標的にした主な原因は、過激派ユダヤ教集団から来ると共同体や教会の指導者は言っている。


 彼らの心は『メシアニック・シンドローム』に取り憑かれている。彼らは全土を乗っ取ろうとしている」と、ギリシャ正教のエルサレム総主教テオフィロス3世は言った。


 自分たちは法の適用を受けないのをユダヤ人は知っており、銃によってさえキリスト教徒に嫌がらせをし、それで咎められずに済むのを知っている。キリスト教徒を彼らは「異教徒」や「偶像崇拝者」と呼んでいる。」


 「国家安全保障大臣はキリスト教施設などを攻撃する過激派ユダヤ人を弁護していた弁護士だ」と、イタマール・ベン・グヴィルに言及して1月に襲撃されたアルメニア人青年の一人が言った。「最高位の役人が最過激主義者だったら一体何を期待できますか?」


 キリスト教徒に唾を吐きかけるユダヤ人


 10月5日、イスラエルのユダヤ人がキリスト教徒に唾を吐くのは犯罪ではないとイスラエルの犯罪・治安担当大臣イタマール・ベン・グヴィルは述べた。少数派の宗教を信仰する人々に唾を吐くのは、ほとんどの国で憎悪犯罪と見なされるだろうが、イスラエル政府にとって、それは単に「古いユダヤ教の伝統」に過ぎない。


 2023年7月、カトリックのペンテコステ儀式中に、約20人の超正統派ユダヤ教徒がラッパを吹き大声で罵声を浴びせて式典を妨害した。「エルサレム・キリスト教徒の信教の自由を我々は非常に懸念している」と式典に出席したアメリカ国務省代表は述べた。


 最後の晩餐が行われたとされる「二階の広間」は6月のミサの舞台となったが、ユダヤ人が外でスピーカで騒音を流し、催しを台無しにし、その2週間後、ユダヤ人の男が「二階の広間」の窓を割った。


 2023年初頭以降、エルサレム旧市街では「娼婦マリアの子イエス」と書かれた落書きなどキリスト教徒に対するヘイトクライム20件を含む多数の破壊行為が記録されている。


 6月に「なぜユダヤ人は非ユダヤ人に唾を吐くのか」と題する会議が旧市街で開かれたが、イスラエル外務省はボイコットした。


 イスラエルのユダヤ人ツアー・ガイド、ロビー・バーマンは唾吐き事件を二件目撃しており、キリスト教徒に対する嫌がらせの取り締まりがないことに憤慨していると語った。ある土曜の朝、ヤッファ門でギリシャ正教の司祭に唾を吐きかける2人の少年を目撃した後、側に立っていた2人のイスラエル警官に注意したが彼らは行動するのを拒否した。


 バーマン自身、ヴィア・ドロローサでパレスチナ人警備員おしゃべりしていた際、唾吐き攻撃の犠牲者だった。彼らが話していた際、非ユダヤ人に間違えられた。「現代の超正統派の家族が通り過ぎた。父親、母親、若い夫婦、そして子どもが沢山いた。青年は私の足に唾を吐きかけた」とバーマンは言った。


 個々の寄稿者の見解は必ずしもStrategic Culture Foundationのものでない。


記事原文のurl:https://strategic-culture.su/news/2023/12/16/darkness-in-bethlehem-as-christmas-2023-is-cancelled/


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時間を「ムダに」使うという贅沢

まあ、正論だろう。ファスト視聴で小津安二郎の映画を見たら、1秒しかかからないというか、タイトルだけ映して終わりだろうwww そして、小津安二郎の映画は世界の評論家が絶賛するものだ。世界の名作映画の第一位と長く評価されていた「市民ケーン」だと、最初の「薔薇のつぼみ」という、ケーンの臨終のつぶやきと、ケーンが両親から引き離されるシーンの遠景の橇のアップと、最後の橇が燃えるシーンで3分程度か。
私が朝の散歩が好きなのは、朝空、特に日の出前後の空の姿が好きだからだが、散歩の間に頭に浮かぶよしなし事(由無し事)を妄想するのが楽しいからで、健康のためというのは二義的三義的だ。これは、部屋の中での妄想とはまた別種のものになる。あるいは、テレビゲームをするのも読書も「時間の無駄遣い」という贅沢であり、別にコマンドを達成したり敵を倒すだけ、本の筋を追う事だけが楽しいのではない。要するに、「自分が自由である」という感覚は、そういう「時間の無駄遣い」にこそ、あるいは主に頭脳生活の中にあるのではないか。

まあ、頭の中の生活こそが本当の生活だ、という私の思想は世捨て人の思想だろうが、その世捨て人も世界の人類の遺産である歴史と伝統と文化の中で頭脳生活は送っているのである。本を読まず映画も漫画も見ない王侯や富豪がいるなら、その誰よりも贅沢だろう。彼らは50年か60年の人生、それも自分の手に入る限界の中でしか生きていないのに、本を読み映画や漫画を見れば、人類3000年(文字で記録された限り)の歴史と伝統と、偉大な人々の思想や天才たちの空想と共に生きることも、頭脳生活の中では可能なのだ。
ファスト視聴をやっている人は、たけしの「あの夏、いちばん静かな海」を見てみるといい。これは、まったく何も起こらない映画である(聾啞者、あるいは聾者か唖者の映画なので、台詞すらない)が、淀川長治も激賞した傑作である。毒舌家として売り出したたけしという人間の根底にヒューマニズムと抒情性があることがよく分かる。

(以下引用)

ビートたけし「『時間をムダに使う贅沢』を知らない若者は可哀想」「映画の見どころはシーンの『間』」


転載元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1703126659/


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1: ネギうどん ★ 2023/12/21(木) 11:44:19.67 ID:xJuovG/99
 国語辞典などを手がける出版社・三省堂が発表する、「今年の新語 2022」で大賞に選ばれた「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉。近年、ネットやスマホの普及とともに情報が流れる速度は急速に上がっている。だが、一度立ち止まって時間の使い方や生き方に余裕を持つべきではないか──そう主張するのが、映画監督・タレントのビートたけし氏(76)だ。

 新刊『ニッポンが壊れる』を上梓したたけし氏は、『週刊ポスト』の取材のなかで「ファスト映画」への見解や、11月24日に亡くなった友人・伊集院静さんの生き様について明かした。【前後編の後編。前編から読む】

 オイラはこの前、久しぶりに『首』という時代劇の映画を作った。映画の話で言えば、映画を「早送り」で観る若者が増えているんだって?

 それどころか起承転結の要所だけをつまんで繋げて、10分や15分にまとめた「ファスト映画」というのを配信する違法業者が増えているらしい。「タイパ(タイムパフォーマンス)」が何より大事で、1本の映画をじっくり観るより「早送りしてさっさと結末を知りたい」というニーズが増えたんだろう。

 こういう若者を「教養がない」「我慢ができない」と問題視してるみたいだけど、それは作品が面白くないことの言い訳だよ。そもそも映画は、ある人物の人生やらを何十倍も早回しして、「たった2時間」にまとめたものだからね。それすら「観ていられない」というのは、単純に面白くないってことでしかない。

 ただ、オイラからすると「時間をムダに使う贅沢」を知らない若者を可哀想だと思ってしまう。良い作品を観て、思考を巡らせながら時間をゆっくり浪費することは最高にリッチなことだからね。

 今は情報が溢れすぎて、「早くて効率的」であることが美徳とされるようになった。でも、“贅沢”というのは効率とは対極のところにある。

 映画で言えば「見どころ」は、大ドンデン返しや衝撃的なラストじゃない。何気ないシーンの情景やセリフのないシーンの「間」が魅力なんだよ。それはファスト映画じゃきっと飛ばされている部分だろう。そこを楽しめなければ、作品のあらすじをなぞったところでピンと来るはずがない。

 これは食事にも同じことが言えるよ。「ファストフード」なんて言葉が定着して、どこにでもハンバーガー屋や牛丼屋ができたことで、「安くて早い」ことが美徳だと考える人が増えた。浅草の旨いうなぎ屋に行けば、注文を受けてから捌き始めるから30〜40分は平気でかかる。だけど、タレの香りをアテにチビチビ酒を飲んだり、そういう「待つ時間」も含めて贅沢なんだよ。

続きはソースで
https://news.infoseek.co.jp/article/postseven_1928656/

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なぜ資本主義社会の最底辺層の人間が社会主義・共産主義を憎悪するのか

東海アマ氏の最新記事

2023年12月19日

は、思想的ゴミ溜めと評価するしかない、汚物のような記事だが、まあ、それは私の判断だから、自分で読んでみればいい。
問題は、資本主義社会の最底辺にいる、そしてネットをよく利用しているアマ氏のような人間がなぜ社会主義、あるいは共産主義をこれほど激しく憎悪するのか、ということだ。もちろん、それは氏の依拠する情報源が西側マスコミ発の(中国発と自称する「大紀元」なども含め)「加工され、捏造された情報」がほとんどだからだろうが、それだけではない、「精神分析学」的な理由がありそうだ。

実は、資本主義社会の最底辺にいる人間で、共産主義(あるいは社会主義)を激しく憎悪する人間はかなりいるようで、私の周辺でも、長い間の友人がそれであることをこの前初めて知った。
つまり、「奪われる物は鎖しかないプロレタリアート」そのものが、共産主義や社会主義を憎悪する、という例はかなり多いというか、むしろそれが普通であるようだ。それがマルキシズムの「悪影響」だというのが私の意見だが、それは置いておく。

で、その原因を私なりに考えてみると、それは「共産主義(社会主義)」は自由の無い社会だ、という思想、あるいは思い込みによるのではないだろうか。つまり、社会の最底辺の乞食であっても、自由なほうがいい、という思想である。(乞食が自由だとは私は思わないが)
「自由絶対論」は、それはそれで思想としては自然というか、人間性の本能に基づくというか、社会にはびこる思想ではあるが、果たしてロシアや中国が「奴隷社会」なのかどうか、資本主義国家の人間がどうしてわかるだろうか。西側マスコミも資本主義擁護前提の記事しか書かないし、それに反する論は「陰謀論」扱いされるのに。
ちなみに、中国もロシアも「資本主義」国家であり、社会主義でも共産主義でもない。中国の場合は共産党の一党支配という特殊な政治体制だが、経済的には資本主義であり、ただし、行き過ぎた「経済的犯罪行為」には政府からの指導や抑制がかかるというところが「社会主義的」であるだけだ。

結論を書いておく。精神分析的に言えば、「資本主義社会の最底辺層が共産主義や社会主義を憎悪する理由」は、一種のダンディズム、あるいは「酸っぱいブドウ」的な発想だろう。つまり、「俺が敗残者であるのは俺自身の責任であり、それを社会のせいにするほど俺は女々しくない。」「社会主義というブドウは酸っぱいに決まっている。それを知っている俺は賢い」というわけだ。つまり、何が何でも自分を肯定したいという自己愛のなせる業(わざ)だ。まあ、マチズモ(マッチョ主義・筋肉主義)と言ってもいい。だが、そういう虚勢が、社会の腐敗を延々と続け、あるいはほぼ永遠に腐敗社会を存続させるのではないか。





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日本人とロシア人の精神性の類似

「混沌堂主人雑記(旧題)」に転載されていた「ジェーニャブログ」(筆者は在日ロシア人女性だろう)の記事の一部で、強固な反天皇主義者の混沌堂主人氏には珍しい、「天皇肯定」思想を含んだ文章である。
混沌堂氏の「天皇否定論」は、対象となる天皇が、実は明治維新後に明治政府(薩長政府、主に長州)に利用されてきた「神格化天皇」であり、長い歴史の中の天皇としては異常な在り方だということ、そして敗戦後の「人間宣言」し、「政治的行動が不可能になった」、つまり政治権力とは無縁な後期昭和天皇以降の天皇にはまったく当てはまらない理屈だのに、執拗に、あるいは異常なまでに「天皇権力を打倒しろ」「天皇一族を殺し尽くせ」というのは、親か祖父母の恨みでもあるのだろうか。
そのブログに引用する記事と無関係に「すべて天皇に責任がある」と結論する、その異常性にはかなり呆れるが、まあ、いろいろなブログを渉猟し、有益な記事もたくさん引用するので、私はかなり恩恵を蒙ってはいる。何しろ、「ネットゲリラ」氏が亡くなった今は、まともな政治ブログ、政治サイトは少ないのである。

(以下引用)個々人も神の一部である、という思想は私も前に書いたような気がする。神とは「上(かみ)」つまり、すべての存在の上質な部分だ、と屁理屈を書いておくwww ただし、「お上」や富裕層のような社会上層部が上質部分なのではない。農民でもエタ非人でも、精神性が高ければ、「カミ」である。精神性だけでなく、美的な、あるいは魅力におけるカミもある。幼児や小動物の可愛さの類だ。

さて今日は
『日本人とロシア人の精神性』について話したいと思います。
 
ご存知の通り少し前のロシアは
ソビエト連邦、共産主義国家でした。
信仰の自由がなかったのです。
 
これは私の勝手な解釈と妄想ですが
人の本質とは神なるもの
私はそう思っています。
 
信仰を禁じたソビエトは、だから滅びた
と言っていた近所のオジサンの言葉を思い出しました。
 
日本の言葉でもありますよね?
「お天道様がみている、だから悪い事はできないよ」
 
私たちは生まれながらにして
霊性と言いますが、一人ひとりに
自分の内なる神がいると思います。
 
キリスト教などは、神は対外的なものとし
イエスを神の子として偶像崇拝をしますが
私は幼いころから、その考え方がしっくりこず
宗教の本を読んでいた時
日本の神道の考え方が、
いちばんしっくりと来ています
 
神は分け御霊
あなたも神の一部であり私も神の一部である
 
集合意識という言葉があるように
魂の次元では皆が繋がってますから
他人の悪口を言えば、
そのまま自分の悪口となって返ってしまい
同様に自分で自分を拒否すれば
周囲からも拒否されることになります。
 
モノ・金・情報の奴隷となり
「今だけ金だけ自分だけ」の力づくの生活ばかりしてると
自分も含め周りもそうなります。
自分だけ、力づくの心を持った人間が減らない限り
誰一人、幸にはなりません。
 
私の読者の方がコメントで教えて下さいました。
 
世の中は鏡の法則
カガミからガ(我)を取れば
カミ(神)だから
神社には鏡を置いてある
 
このような国民と精神性だからこそ
和を以て貴しとなす
争いがなく自然と調和の文化が生まれたと
 
私はロシアがここまで復活できたのは
プーチンがこの精神を学んだのだと思っている。
柔道の黒帯のプーチンだが
当然、武術を通して
『柔よく剛を制す』また、
この考え方を学んで来たのだと思っている
この考え方の根本には神道かた来てると聞いたことがる
 
欧米列強の伝統的な考え方だが
その基本的な構造は
王がいて民がいる
王が権力をもって民衆を支配するやり方
王様と奴隷と言ってもいい
 
いっぽう日本の統治の在り方は面白く
天皇=王ではなく
国民の象徴として
 
武力や権力で「力の支配」を行うのではなく、
国を"家"・国民を"家族"と捉え、
天皇が国と民に深い関心を持って広く知り、
国民一丸となって稲(富)を利することで
幸せな国を作るようにと
天皇が「臣に権力を与える」
そういう形を取っています。
 
実はロシアでプーチンが支持されているのも
プーチンがロシア正教を上にして
政治を行ってきたことにあると思っています
プーチン大統領が哲学的支柱にするアレクサンドル・ソルジェニーツィンの言葉。
ロシア人文化は帝国の強大さではなく⛪️正教への信仰により形作られており、ロシア人団結の源は『人種』では無く『精神』であり、心や慣習、行動の中に自然に生きている正教である。
その為、領土、国家#山鹿素行 pic.twitter.com/i6bg4PXDPc
— taka (@0_fighter_taka) November 3, 2022
 
プーチンの私利私欲の為であれば
ロシア人は従わない。
あれだけの強大な国家、所々で反乱して分裂してるだろう。
・・・・・中略・・・・・
ロシア人もペレストロイカで貧しかった経験もあるが
物の豊かさを羨む時期もあったが
人々との繋がり助け合い
信念にはウクライナがとかロシアがといった
人種としてではなく
信仰としての『精神』がある
 
残念なことにロシアにはもう皇帝という
体制の喪失があるが
『正教の信仰と、そこから生まれる崇高な感情』
それはロシア人から失われる事は無いと思う。
ロシア正教はロシア人の精神的支柱になっていますが
その精神性が、今のロシア国家を作り直したと思っています。
 
人の精神は生まれ育った環境・風土で自然に形作られます。
 
それを理念・思想・イデオロギーだけで無理やり形作ろうとするのが、
欧米左派・進歩主義者達です。
 
そして私はその流れに対してこう思います。
 
自分の為(私利私欲の為)だけに生きる人間は
いずれ狂ってくると思います
 
他人の為、世の為人の為に生きる人間は狂う事なく
次の時代へ進める人達だとも思います。
 
かつてロシアは東のヨーロッパとして
ヨーロッパの一員として
ヨーロッパの枠になりたがっていた時期があった
 
しかし
 
現在ではロシア人のDNAにはアジア系が多いことで
ロシア人はアジア人との混血民族=ユーロエイジアンと規定し呼び、
 
欧米の経済制裁は、
ロシア人がユーロエイジアンと自覚する
良い機会になったと言います。
 
また、経済的に衰退していく
欧米よりも、経済成長がめざましい
インドや中東、アジアをメインとして動いています
 
日本もかつてのスローガンは脱亜入欧と
読んでいた時期があったそうですが
これからは、脱欧入亜
これをスローガンに掲げると良いかも知れません(笑)
 

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