武道論として、私のようにブドウを食うしか能の無い人間でも納得できる内容である。ただし、宗教に関しては、私は現代においては効用よりも有害性が大きいのではないかと思っている。まあ、これもオワコンだろう。そこで、「神を前提としない道徳(誰でも納得できる、という意味での通俗道徳)が必要だ」と言うのである。公共の利益を個人利益(強欲)より優先するという点では、それが社会主義の本当の本質だと思っている。(「公共の利益=一部特権階級の利益」では絶対にない。)
(以下引用)
朴先生からこんな質問を頂いた。韓国のYuYu出版社から出す本のためのQ&Aの一つ。今回は「武道的思考」についてだった。
-内田先生がお書きになった『 武道的思考 (ちくま文庫) 』と、『 武道論: これからの心身の構え( 河出書房新社)』そして『私の身体は頭がいい (文春文庫)』という本をとても面白く拝読いたしました。
こういう素晴らしい論考を僕一人だけで読むのがもったいないと思い、先生が考えていらっしゃる「武道的思考の真骨頂」を韓国の読者にぜひお伝えいしたいと思ったことがありました。
それでいくつかの出版社に翻訳出版の提案をしてみましたが「武道的思考ってなんですか」と言われてキッパリ断れてしましました。たぶん韓国人にとっては「武道的思考」ってなじみの薄い言葉だからなんでしょうね。
このエピソードを奇貨として韓国の読者に「武道的思考の神髄」についてぜひ教えていただければ幸いです。
それから、その「武道的思考」が先生の生き方に及ぼした影響についても聞かせてくださればと思います。
なんと、そうなんですか。「武道的思考」って韓国では日常語彙に登録されていないんですか。なるほど。そうかも知れないですね。日本の武道は宗教的なものとの関係が深いんですけれども、それはなかなか理解されにくいかも知れません。せっかくですので、この機会に日本の武道の「精神性」についてちょっと解説をしてみたいと思います。
日本の武道の最大の特徴は、武道の術技の向上と宗教的成熟との間には相関関係があるという仮説を採用していることだと思います。つまり、武道の技量が向上してゆくと、宗教的な深みを獲得する。逆に、宗教的な修行を積むと、武道の術技に上達する。この二つは一つの人間的成長の二つの現れである、と。
スポーツの場合はそんなことは言われません。たしかに高度のパフォーマンスを達成できるアスリートは総じて自制心が強く、あまり感情的にならず、政治イデオロギーであれ信仰であれ、あまりのめり込むことがない傾向にあります。当然だと思います。というのは、そういう要素はすべて「対人関係のトラブル」を引き起こす要因になるからです。あちこちで人と喧嘩したり、批判したりされたり、恨んだり恨まれたりするリスクを適切に回避できるアスリートは、すぐに感情的になって人を怒鳴りつけたり、政治イデオロギーやカルトを宣布したりするアスリートよりは、高いパフォーマンスを発揮する確率が高い。
と言ってすぐに前言撤回してしまうのも申し訳ないのですが、そのような「市民的な抑制」が身体的パフォーマンスの発揮にとってプラスになることということは、スポーツの世界では必ずしも常識ではありません。むしろ、天才的なアスリートの中には、市民的な常識を平気でふみにじるようなタイプの「型破り」の人がたくさんいます。
自分は例外的な存在なのだ。「ふつうじゃない」んだということを誇示することはアスリートだけでなく、俳優やミュージシャンにも見られます。「オレはただものではないよ」という印象を進んで広めることによって、「ただものではない自分」を創り上げてゆく。
デビュー直後のビートルズや、ソニー・リストンとの対戦前のカシアス・クレイのインタビュー映像見ると、彼らが「オレたちは世間の常識なんかぜんぜん気にしないぜ」ということをアピールするために必死であることがわかります。もちろん、それが有効だと直感しているからそうするのです。「とんでもなく傲慢な態度」をとれば、失敗したときにめちゃくちゃに叩かれるに決まっている。だから、絶対に失敗できない。そうやって自分を追い込んで、爆発的なパフォーマンスを達成する。その機制は理解できると思います。
だから、スポーツにおいては、すべてのアスリートに「紳士たれ」とか「市民的に成熟しろ」とか「宗教的深みを求めろ」というようなことは、あまり推奨されることはありません。もちろんアスリートの中にも、ディセントな人や、「成熟した大人」や、篤信の人はいます。でも、「そういう人だったからアスリートとして大成した」というふうに相関関係を見ることをふつうはしません。それは「犬が好き」だとか「料理が上手」とかと同じような個人的エピソードに過ぎない。
武道はその点が違います。武道では、術技の向上と宗教的成熟がリンクしている。術技が高まれば武道家は必ず宗教的な深みを獲得する。宗教的な研鑽を重ねれば、術技においてめざましい進歩が見られる。そういう完全な相関関係が想定されている。これはたぶん世界でも日本の武道だけに見られる「民族誌的偏り」と申し上げてよろしいかと思います(似た傾向がイスラームのスーフィズムにも見られるということをイスラーム研究者の山本直輝さんからうかがったことがあります。でも、日本とトルコだけじゃ「世界標準」にはなりません)。
日本の武道家であればおそらく誰でも知っている澤庵禅師の言葉があります。
「蓋(けだ)し兵法者は勝負を争わず、強弱に拘(こだわ)らず、一歩を出(い)でず、一歩を退(しりぞ)かず、敵我を見ず、我敵を見ず、天地(てんち)未分(みぶん)陰陽(いんよう)不到(ふとう)の処(ところ)に徹して直(ただ)ちに功を得べし。」
現代語訳すれば「武道家は勝負を争わない。強弱を競わない。一歩前に出ることもないし、一歩後ろに退くこともない。敵は私を見ないし、私も敵を見ない。そうして、天地が未だ分かれず、陰陽の別もない境位において、ただちに果たすべきことを果たす」ということになります。
澤庵禅師は江戸時代初期の禅宗の僧侶です。柳生新陰流の宗家である柳生宗矩に武道の要諦を説いた『不動智神妙論』を与えた人です。この『太阿記』も剣客に向けて武道の神髄を説いたものです。
澤庵自身は武道家ではありません。禅僧です。でも、禅の奥義は剣の奥義と相通じるということについては、この時代には宗教家と武道家の間に完全な合意があった。
それは一言で言えば「我執を去る」ということをめざすということです。「勝敗を争う」「強弱を競う」「巧拙を論じる」といったことは、すべて向かい合う二人の間の相対的な優劣を比較することですけれども、日本の宗教と武道はこの「相対的な優劣を比較するマインド」をどうやって解除するか、ということを修行上の目標に掲げてきました。
奇妙な話ですけれども、「勝とうと思うと負ける」「強くなろうとすると弱くなる」「うまくやろうとすると下手になる」という逆説は、修行者にとっては共通の了解でした。
修行の妨げになるのは「自我」とか「主体」とか「アイデンティティー」とかいうものである。おのれを他と比較して、「勝者」であるとか「強者」であるとか「上手」であるとか見なすことは「我執」であり、それがある限り、修行の道は先に進めない。そんなものは振り捨てなければならない。
これは前に「論破」の話をしたときに書いたので、そのことの繰り返しになりますけれど、「勝つ」というのは決してよいことではありません。勝つとそれが「成功体験」になるからです。人は成功体験に「居着く」。「成功したパターン」を繰り返そうとする。でも、それでは「連続的な自己刷新」は果たせない。勝ったことを喜ぶ人間は、そのときの自分を手離すことに強い心理的抵抗を感じるようになる。
激しい論争をして、論敵を完膚なきまでに論破したあとになって、自分の理論に間違いがあったことに気づいたら、すごく困ったことになります。「すみませんでした。僕が間違ってました」と謝罪することは、論争での勝利が華々しければ華々しいほど困難になる。もう取返しがつきません。ですから、論争が好きな人は、「自分の理論に間違いがあったことに気づく機会」を無意識のうちに忌避するようになる。無意識のうちですから、どうしようもない。でも、自分の間違いにできるだけ早く気づいて、それをただちに補正する以外に、学術的知性が進歩するチャンスはありません。「論破する人」はそのチャンスを自分でつぶしているのです。
武道修行は、学術における「仮説の書き換え」と構造的には同じです。連続的な自己刷新です。昨日までの自分とは違う自分になる、昨日までとは違う心と体の使い方をする、それが修行です。
でも、試合に勝ったり、人より強くなるということが気になると、その自己刷新が困難になる。だから、「一歩を出でず、一歩を退かず、敵我を見ず、我敵を見ず」という境地に至る必要がある。相対的な優劣を意に介さない。そして「天地未分陰陽不到の処」に立つ。言葉は難しいですけれども、「未だ記号的に分節されていない世界、未だなんらかの価値のシステムによって秩序づけられていない、アモルファスな、星雲状態の境位」に立つということです。そこで果たすべきことを果たす。
「直ちに功を得べし」の「功を得る」は「みごとな成果をあげる」ということですけれど、重要なのは「直ちに」という副詞の方です。「直ちに」というのは「間髪を容れず」ということです。「何が正しいのか、どうすれば効果的か、どうすれば自分の利益になるのか」というような賢しらをすべて去って、無心に対処するという意味です。
この「無心の境地」を武道は重く見ます。武道的状況では、ふつう相手が自分に向かって攻撃を加えてくるという設定がなされます。ぼおっとしていると殺傷されるリスクがあるので、「何か」をしなければならない。でも、そのときに「敵を見て」、その攻撃について予測を立てて、それに「最適解」を以て応じるという仕組みで対処していると間に合いません。必ず負ける。「直ちに」対処するためには、何も考えないで動かなければならない。「攻撃に適切に対処する」ではなく、「不意にあることがしたくなる」。「不意に」というのが「直ちに」ということです。無文脈的に、ということです。
日本のJRという鉄道会社の卓越した観光ポスターのコピーに「そうだ、京都へ行こう」というものがあります。非常によくできたコピーで、最初に見てから、数年経つのにまだ使われていますから、とても集客上効果的だったのでしょう。
この宣伝コピーの「そうだ」というのが「無心」「無文脈的」ということです。あれこれと旅行の行く先を考えて、資料を取り寄せて、日程を考えて、それで「それでは、最適解として、京都に行くことにしよう」ではないんです。街を歩いていて、あるいはご飯を食べていて、仕事の手をふと止めたときに、急に「そうだ、京都へ行こう」と思い立った。これは武道における「機」に通じるものです。前段がない。いきなり生起する。
武道的な「無心」「無文脈的」な動きというのは、そのことです。不意にある動作がしたくなる。そして、それが結果的には、攻撃に対する最適の対応になっていた。結果的には、です。それをめざしたわけではないんです。「何となくそのような動作がしたくなった」だけなんです。「応じた」わけではない。だから、決して「相手に遅れる」ということがない。
「応じる」というのは「後手に回る」ということです。攻撃という「問題」を出されたので「正解」で応じようとするというスキームだと、攻撃してくる「敵」が作問者・出題者で、「我」は受験生です。出題するのも、採点するのも、「敵」です。「難問に最適解で応じる」というマインドで動くと、いきなり圧倒的に不利なスキームに巻き込まれてしまう。
ですから、「困難な状況に投じられたので、これを何とか切り抜ける」という考え方をしてはいけない。絶対にしてはいけない。それは「困難な状況」を設定した者に対して「後手に回る」ことになるからです。だから「無心」になることで「先手/後手」「出題者/受験生」「難問/正解」という枠組みそのものを無効にする。
「無心」というのは、「そうだ、これをしよう」という自発だけがあって、達成すべき目的がないということです。何のために「そんなこと」をしたくなったのか、自分でもよくわからない。
よく大記録を打ち立てたアスリートがインタビューに「これはただの通過点ですから」というコメントをすることがありますね。周りが「すごいですね、すごいですね」と囃し立てるのを気にしないで、「ただの通過点です」と気のないコメントをするのは、このアスリートが「成功体験に居着く」ことを怖れているからです。自分の達成を「成功だ」とみなし、他の競争相手に「勝った」というふうに総括すると、そこで進歩が止まってしまうリスクがあるということを彼らはその経験から知っているのです。
でも、「これはただの通過点です」というような気のないコメントをできるのは、トップアスリートに限られています。昨日今日、そのスポーツを始めた人が、試合に勝ったときに「これはただの通過点ですから」というような気のないコメントを口にしたら、コーチから「何を生意気なことをほざいているのだ。素直に喜べ、バカやろう」と叱られると思います。気の毒です。
でも、武道の場合は、昨日今日始めた人こそ、何ができるようになっても、術技のレベルが周りの人と比べて相対的に上位になったとしても(ほんとうはそんなことを気にしてはいけないんですけれど)「これはただの通過点ですから」と絶対に言わなければならない。
「道」というのは「その全行程が通過点であるような運動」を意味します。最初の一歩から、息を引き取る寸前にかろうじて踏み出した一歩まで、そのすべてが「通過点」であって、どこにも「完成」や「最終勝利」や「終点」がない。それが「道を歩む」ということであり、それが「修行」ということです。
「無心」とは「目的がないこと」だと上に書きましたけれど、そういうことです。ただ「道を歩む」ことだけが重要で、「この道の最終目標はどこか」「今、私は全行程のどの辺まで来たのか」「他の人たちと比べて、自分はどれくらいと道をたくさん踏破したのか」というような問いは何の意味も持たない。
その長い修行の旅のどこかで、誰かに勝っても、誰かより強くなっても、誰かより巧みになっても、あるいは誰かに敗けても、誰かより弱くても、誰かより下手でも、そんな相対的優劣を論じることには何の意味もない。その勝敗に意味があると思うと、そこに「居着いて」しまうからです。決して居着いてはならない。それが武道の最もたいせつな教えです。決して「できた」とか「わかった」と思わないこと。おのれを「永遠の初心者」とみなして、ひたすら歩み続けること。
こういう精神的な態度が宗教と親和性が高いことはお分かり頂けると思います。
宗教もまた「超越」と向き合うことで連続的な自己刷新を果たす「行」です。
どんな宗教でも、ほんとうに信仰を持つ人は「私は神意を完全に理解した」とか「私は摂理のすべてがわかった」というようなことを口にしません(時々そういうことを口走る人がいますけれど、まず間違いなく詐欺師です)。「神意は図りがたい」のです。でも、「図りがたい」から、「神意について考えるのは無駄だから止めよう」と言う人はいません。決して埋められない欠如がそこにあるがゆえに活発に欠如を埋めようとするというのが宗教の逆説です。
これもよく引く喩えですけれど、ユダヤ教の過ぎ越しの祭りでは、食卓に一人分だけ空席が設けてあります。そこに皿やカトラリーを並べます。それは預言者エリアのための席です。エリアはメシアの前触れですので、そこにエリアが着席する時についに待ちに待ったメシアが到来するのです。でも、この席は過去数千年にわたってずっと空席のままでした。帰納法的に推理すれば、過去数千年にわたって空席である場合は、今年も空席である蓋然性が高いので、「もうこの席に食器を並べるのは止めない?」ということになりますけれど、ユダヤ人はそうしなかった。エリアのための席が空席であることは、ユダヤ人たちのメシア信仰を少しも傷つけるものではなかったからです。メシアはまさにその不在を通じて、「メシアを待望する」という彼らの信仰の原点を生気づけていたのです。
人知を以ては図りがたい境位をひたすら求め続ける人と、一生をかけて修行しても達成できない目標(「天下無敵」)をめざして歩み続ける人の精神は同型的です。
自分が卑小な存在であることを少しも恥じない。自分が未熟であると感じることをむしろ喜びとする。これから踏破すべき終わりなき道を望んで、「ああ、まだまだ歩き続けなければいけないのか。つらいなあ。疲れるなあ」とは考えずに、そのような「終わりなき道」を歩む者であることをおのれの光栄と感じること。それが修行者のマインドです。
こういうマインドは、資本主義の市場原理や競争原理とはたいへんに相性が悪いことはお分かりになると思います。だって、「株の時価総額を最大化する」とか「競合他社にマーケットシェアで勝つ」とか「ライバルを蹴落とす」とか、そういう相対的な優劣に居着くふるまいは全部「ダメ」なんですから。
僕は資本主義はもう命脈が尽きかけた経済システムだと思っています。そろそろ、世界中の人は「相対的な優劣」を競い合って、勝った者に資源を排他的に配分し、負けた者には何もやらないという残酷な仕組みを捨ててもよい頃だと思います。
「武道的思考」というのは、僕にとっては、資本主義システムから離脱して、それとは違うもっと深みのある、豊かな「空間」をこの社会の中に現実に創出してゆくための手引きとなるものです。そうい話なら韓国の読者にも共感してくれる人がいると思うんですけどね。どうでしょう?
(2023-12-28 12:26)