記事タイトルを書いた後で、ところで、fancyとはどういう意味かと気になって調べたら、大きく分けてふたつの意味があり、「装飾的な」「空想、幻想、奇想」などの意味のようだ。
で、fantasticは、英語の意味はともかく、日本人としては「空想的、幻想的で素晴らしい」ニュアンスの言葉だろう。当然、fantasyに我々が期待するのもそれで、それは基本的にはfun(面白み、楽しみ)であると思う。
なぜこういうことを書いているのかというと、先ほどまで、寝覚めに読んでいた小野不由美の短編集の冒頭の作品が、面白さ、楽しさとは対極にあるものだったからだ。もちろん、彼女の代表作である「十二国記」自体が「ダークファンタジー」の部類に入るものだろうと私は思っているし、彼女がホラー小説作家としても高く評価されていることは知っている。
では、ダークファンタジーはファンタジーの同類なのか、と言えば、それは「空想的内容」つまり、現実の世界にはありえない話だ、という点で同類というだけで、ファンタジーの特長を「現実から遊離することの『楽しさ』」にある、とすれば、それはファンタジーとは別種のジャンルになるのではないか。そういう点では先ほど読んだ小野不由美の作品は(「十二国記」もたぶんそうだろうが)「指輪物語」の同類で、つまり「空想力によって緻密に構築された、現実とは別の物語世界」であるわけだ。で、その種の作品によくみられる欠点は、「楽しくない」つまりfunなところが無いことだろう。たいていの場合、その種の作品にはユーモアの要素が欠けている。ほとんどゼロなのではないか。笑いは緻密に作られた「真面目な」構築物を破壊する可能性があるわけだ。
だが、私はユーモアの要素の無いフィクションは体質的に「読めない」のである。「十二国記」は最初の数行で投げ出した記憶がある。文章自体が、明らかにユーモアの欠如を示していたからだ。いや、難解な哲学の文章でも読むことはあるが、私が小説に求めるのは慰安と娯楽と「自分の内的世界が広がること」なのだ。単なる作り物(細工物)で世界は広がらない。
ついでに言えば、ドストエフスキーもバルザックもユーモアの要素がある。ドストエフスキーなど、ユーモア満載と言っていい。カフカですらある種のユーモアはあるだろう。「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」のナンセンスユーモアの偉大さは言うまでもない。
そして、女性作家には、その種のユーモア、特にナンセンスユーモアが欠如した作家が多いと感じる。私は女性にユーモアが欠如していると言うのではない。ただ、そのユーモアは、キャラの失敗や特殊な個性による言動(たいていはその失敗)から来るもので、世界そのものの不条理性を笑いにするというナンセンスユーモアは女性には少ないのではないか、と思っているわけだ。(「赤毛のアン」の中で、一番ナンセンスユーモアに近いのは「物語クラブ」の話の中でダイアナが物語のストーリー作りに難渋して、登場人物をどんどん「殺してしまう」話ではないか。物語の作中人物は筆者の恣意で簡単に殺される不条理世界を生きているわけだ。)それだけ女性は現実主義的なのだろう。(女性は男性より「現実観察眼」があり、些細なことも見逃さない繊細さがあるので、それが一種の笑いや詩情を作品に添えることが多いのだが。)(笑いとは何か、という哲学的問題については、私の宿題にしておく。)
で、fantasticは、英語の意味はともかく、日本人としては「空想的、幻想的で素晴らしい」ニュアンスの言葉だろう。当然、fantasyに我々が期待するのもそれで、それは基本的にはfun(面白み、楽しみ)であると思う。
なぜこういうことを書いているのかというと、先ほどまで、寝覚めに読んでいた小野不由美の短編集の冒頭の作品が、面白さ、楽しさとは対極にあるものだったからだ。もちろん、彼女の代表作である「十二国記」自体が「ダークファンタジー」の部類に入るものだろうと私は思っているし、彼女がホラー小説作家としても高く評価されていることは知っている。
では、ダークファンタジーはファンタジーの同類なのか、と言えば、それは「空想的内容」つまり、現実の世界にはありえない話だ、という点で同類というだけで、ファンタジーの特長を「現実から遊離することの『楽しさ』」にある、とすれば、それはファンタジーとは別種のジャンルになるのではないか。そういう点では先ほど読んだ小野不由美の作品は(「十二国記」もたぶんそうだろうが)「指輪物語」の同類で、つまり「空想力によって緻密に構築された、現実とは別の物語世界」であるわけだ。で、その種の作品によくみられる欠点は、「楽しくない」つまりfunなところが無いことだろう。たいていの場合、その種の作品にはユーモアの要素が欠けている。ほとんどゼロなのではないか。笑いは緻密に作られた「真面目な」構築物を破壊する可能性があるわけだ。
だが、私はユーモアの要素の無いフィクションは体質的に「読めない」のである。「十二国記」は最初の数行で投げ出した記憶がある。文章自体が、明らかにユーモアの欠如を示していたからだ。いや、難解な哲学の文章でも読むことはあるが、私が小説に求めるのは慰安と娯楽と「自分の内的世界が広がること」なのだ。単なる作り物(細工物)で世界は広がらない。
ついでに言えば、ドストエフスキーもバルザックもユーモアの要素がある。ドストエフスキーなど、ユーモア満載と言っていい。カフカですらある種のユーモアはあるだろう。「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」のナンセンスユーモアの偉大さは言うまでもない。
そして、女性作家には、その種のユーモア、特にナンセンスユーモアが欠如した作家が多いと感じる。私は女性にユーモアが欠如していると言うのではない。ただ、そのユーモアは、キャラの失敗や特殊な個性による言動(たいていはその失敗)から来るもので、世界そのものの不条理性を笑いにするというナンセンスユーモアは女性には少ないのではないか、と思っているわけだ。(「赤毛のアン」の中で、一番ナンセンスユーモアに近いのは「物語クラブ」の話の中でダイアナが物語のストーリー作りに難渋して、登場人物をどんどん「殺してしまう」話ではないか。物語の作中人物は筆者の恣意で簡単に殺される不条理世界を生きているわけだ。)それだけ女性は現実主義的なのだろう。(女性は男性より「現実観察眼」があり、些細なことも見逃さない繊細さがあるので、それが一種の笑いや詩情を作品に添えることが多いのだが。)(笑いとは何か、という哲学的問題については、私の宿題にしておく。)
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