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旧版「イエスは何を教えたか」

私は、「イエスは何を教えたか」、つまり、聖書の中でのキリストの言葉だけを頼りに、「キリスト教の本質は何か」を論じたいと思って、書きかけてはやめているが、古いフラッシュメモリーの中のものが、わりといい内容だと思うので、載せておく。もちろん、中断したものだが、書かれた内容だけでもキリスト教やキリストや旧約聖書や新約聖書の「神」の本質に迫っていると思う。
まあ、こんなのは杉田玄白がキリスト教宣教師との問答の中で喝破したもの(ユダヤ・キリスト教の矛盾)と同じだろうとは思うが、私はそれを読んでいないので、一応私の考えだけを書いておく。

(以下自己引用)


イエスは何を教えたか


 


序論


 


ここで扱う問題は、表題の通り、「イエスは何を教えたか」である。つまり、新約聖書の中の、イエスの教えを分析し、解釈してみようということだ。そんなことは、2000年にもわたって無数の人がやってきたことだと思われるだろうが、イエスの言葉には比喩が多く、また新約聖書にはイエスを荘厳するための粉飾が多くて、イエスの教えのエッセンスが何か、私にはわからないのである。そこで、もう一度、イエスの言葉を分析的に読んでみようということだ。そこから、イエス理解のための新しい地平が開けないとも限らない。


 


本論


 


ここでテキストとするのは「日本国際ギデオン教会」版の新約聖書である。その中の「マタイ福音書」を出典とするものを1グループ、「マルコ福音書」を出典とするものを2グループ、「ルカ福音書」を出典とするものを3グループ、「ヨハネ福音書」を出典とするものを4グループとする。


 


第一節   マタイ福音書より


 


1-1 (悪魔の、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」という誘いに対して)「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」。(マタイ第4章)


 


分析と解釈:


マタイ第3章までは、イエスの出自などの話で、第3章末尾になって、成人したイエスが登場する。まず、彼はバプテスマのヨハネ(「洗礼者ヨハネ」とでも言えばいいか。洗礼とは、清めの儀式だ。母の胎内から生まれる時の産湯の比喩で、水を頭から注ぐことで、これまでの汚れた生から、生まれ変わって新しい生を生きることを象徴するものだろう。)に洗礼を受ける。ヨハネは、「私こそあなたから洗礼を受けるべきだ」と言うが、イエスは「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」と言う。イエスのこの言葉が意味するのは、自分の生は預言の実現であるということだ。イエスの最初のこの発言は、自分がキリスト(救世主)であることの婉曲な表明だと言える。そして、新約聖書のすべての記述は、イエスが神の子であることと、イエスがキリストであることを読者に印象付ける意図が含まれている。


だが、現実のイエスの生涯には、当然ながら、神の子だのに、なぜこれができないのかという困った事実が多々あっただろう。フィクションとしての奇跡を幾つかイエスの伝記に挿入するにしても、イエスの生涯の「事実」の中には、福音書の書き手が弁明しようのないイエスの『人間の証明』があるはずだ。そこで、まずここで、福音書の書き手、マタイは予防線を張る。「イエスは奇跡ができないのではない。やらないのだ」と。では、なぜやらないのか。それは、同じ場面に続いて出てくるイエスの言葉の通り、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と聖書にはまた書いてある」からである。


イエスは、このように、常に旧約聖書の言葉を引用して、人々そして悪魔(――イエスを信じない連中の比喩とも言える。そもそも、荒野でのイエスと悪魔の対話を、誰が聞いていたというのだ。)の問いに答えるのである。これがイエスの最大の特徴であり、イエスとは、自分が神の子であるという妄想から聖書オタクになった人物だったと想像できる。


「主なるあなたの神を試みてはならない」これも神の実在を疑う人々に対しての見事な予防線だ。こう言われれば、神に対してその存在証明を要求できなくなる。つまり、理屈や証拠で納得するのではなく、頭から信じるか、信じないかの二つしかなくなるのである。もちろん、これが「信仰」の本質であり、証明されていないからこそ、あるいは理解できないからこそ「信仰」するのである。あなたは、自分の存在を信仰しているのではない。確信しているのである。「仰」とは何か。仰ぐことである。遥かな高みにある存在を仰ぐことである。それは遠く高い存在であるから、信仰するしかないのだ。1+1が2であることをあなたは信仰しているのではない。ただ知っているだけだ。そのような確信は、実は信仰ではないのである。不確かな存在と自分との間の深淵を、あえて飛び越える、その行為が、信仰の本質である。そして、私のような分析的人間には、当然、それはできない。


 


1-2(悪魔の、「あなたが私にひれふして拝むなら、この世の栄華をすべて与えよう」という言葉に対し、)「サタンよ退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」(マタイ第4章)


 


分析と解釈:


 ここでも、やはり旧約聖書からの引用で、相手の問いに答えている。イエスの言葉のほとんどは、旧約聖書に根拠があることを自らの言葉の権威の根拠としているのである。


 では、ここでの問題は何か。第一の問題は、悪魔とは何かという問題である。そもそも世界のすべてを神が作ったのなら、悪魔もその創造物であることになる。しかし、旧約聖書での「世界」とは全宇宙ではなく、天国と対比される「この世」である、という解釈もできる。それならば、悪魔は神と対等の存在として宇宙に最初から存在していたという解釈もできるのだが、キリスト教ではそこをどう説明するのだろうか。悪魔が神の創造物だとすれば、神の中にすでに悪が存在していることになるし、悪魔を神が作ったのではないとすれば、神が唯一の創造神だという設定が成り立たなくなる。悪魔というものは存在しないとすれば、聖書は信頼するに値しない書物だということになる。


 おそらく、そのすべての矛盾を説明する方法は、聖書に書かれたことはすべて比喩である、とすることである。しかし、そうなると、その解釈は誰が行うのか。誰の解釈に我々は従えばいいのか。


旧約聖書の中で悪魔が活躍する話が、「ヨブ記」である。神は、悪魔との話の行きがかりで、神の忠実な信者であるヨブに試練を与え、その信仰を試すのだが、問題は、繰り返しになるが、聖書が悪魔の存在を認めていることである。つまり、ユダヤ教ないしキリスト教を信じるなら、神の存在と同時に、悪魔の存在を信じることになる。ならば、人間の行為は、彼の心が悪魔に支配されて行ったものでないと、どうして分かろうか。旧約聖書の中には、神がイスラエルの民に敵対する族長の心を操る話がある。ならば、人間の自由意志など無いのであり、善も悪も無意味となる。神の言葉に従うことだけが善ならば、まず神の存在証明が必要だろう。


 もう一つの問題は、神に仕えることと、悪魔に仕えることとに、本質的な違いがあるのかどうかということだ。人間にとって神が絶対であることの根拠は、神が世界全体を創造した点にある。つまり、神の被造物である人間は神に逆らうべきではないという考えだ。(その考えの当否は保留しておこう。)神がすべてを創造したとすれば、悪魔自体も神の被造物なのか。それとも、悪魔は神と対等の存在として、最初から存在しているのか。後者ならば、ユダヤ教やキリスト教は一神教ではないということになる。そして、聖書の中における悪魔の存在は、どうやら後者のようなのである。悪魔を神としないのは、ただ、神とは善なる存在だと定義しているからだけにすぎない。しかし、旧約聖書の中の神は、人間の目からは悪にしか思えない行為をしばしば行っている。イスラエルに敵対する部族を殲滅せよという命令などは、「全人類の神」としては悪の行為だろう。


 とりあえず、我々不信仰な人間としては、旧約聖書に書いてあるからと言って、ユダヤの部族の神など、信じる義理は無い、とイエスには答えておこう。


 


 


1-3「私についてきなさい。あなたたちを人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ第4章)


 


分析と解釈:


 これはイエスが、漁師のペテロとアンデレを弟子としてスカウトした時の言葉だ。これだけで弟子になった人間の気が知れないが、イエスにはそれだけの人間的迫力があったのかもしれない。しかし、「人間をとる漁師」とは何か。多分、人間の中から、天国に行ける人間を選び出す係りにしてやろうとことだろう。イエスの言葉という投網を投げて、それに引っ掛かる人間を救ってやろうということか。駅前によくいる「アナタハ神ヲ信ジマースカ?」という、あれだ。投網に掛かった魚は、食われてしまうのが普通の運命だが、キリスト教の投網に掛かった人間どもの運命はどうだろうか。


 


1-4「心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである」(マタイ第5章)


 


分析と解釈:


 


 いわゆる「山上の垂訓」の最初の言葉で、ルカによる福音書では、「心の貧しい者」ではなく、「あなたがた貧しい人たちは幸いである。神の国はあなたがたのものである」となっている。この違いは大きい。そもそも、「心の貧しいもの」とは意味不明の言葉である。誰もがこの言葉を何となく「謙虚な者」の意味にとっているが、「貧しい」は「貧しい」でしかない。謙虚などという意味はない。大負けに負けても、「心の貧しさ」とは「貧困な精神」つまり、想像力も何も無い、砂漠のような精神しか意味しないだろう。しかし、案外と、そういう人間のほうが、天国に行けるのかも知れない。精神が貧困だから、神を疑うこともないというわけだ。世の宗教信者たち、特に新興宗教の信者というものには、「精神の貧困な者」が多いことは確かである。


 これ以外の「山上の垂訓」の大半は、神を信じ、それを行為に表すならば、この世では迫害されても、天国で報われるという趣旨のものである。では、その天国が存在しなければ? 親鸞のように、法然師匠に騙されて地獄に落ちても悔いはない、と言うか? 天国という空手形を信じて禁欲的に一生を送り、死ぬときになって、自分の一生は無意味だったと後悔する羽目にはならないか?

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