今朝は、ブログネタを探しても、なかなかインパクトのある問題が目にとまらない。
 だから、ひさびさに、自分について書くことにした。
 ろくでもない落ちこぼれの、孤独な年寄りのことを語っても、不快感しか残らない方も多いかもと心配しているが、それでも、亀の甲羅のコケの効用でもあれば、残しておきたい。

 私は、名古屋市中村区で育った。徒歩10分ほどのところには、大門という旧赤線の歓楽街があったが、それはそんな街特有のヤクザの属性を持っているということを意味する。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828448.html

 私の住む町に惣兵衛用水というのがあって、我が家から数百メートルだが、用水の両側には貧しいバラックがあって、いつでもホルモンを焼く良い匂いが漂っていた。
 このあたりには、ちょっと怖い地名が残っている。

 例えば、近鉄線の烏森駅、これはカラスの森であって、東京の鈴ヶ森と同じ意味で、処刑場を意味することが多い。
 江戸時代には、風水で城から南西方向を裏鬼門といい、ここに処刑場のような不浄が置かれたと書かれている。まさに、我が家を含むこの土地は裏鬼門に相当した。

 そして、処刑場の近くには、必ず、処刑や遺体処理のため穢多といわれる被差別者たちの集落ができていた。これが惣兵衛用水の住民たちだった。
 (今は全員が移住しているので、公開しても問題ないと判断した)
 我が家の土地も、もしかしたら処刑場そのものだった可能性がある。図書館で江戸時代の地名を調べていたら、我が家の地名だけ、理由なくすっぽり抜けていたのだ。

 そして、我が家には極めて深刻な「霊障」があった。
 家族全員が何かの深刻な病気にかかったので、母が心配して霊能者として知られる山伏を呼んで視てもらったら、「白髪の老婆がいて、恐ろしい顔で睨んでいる、私でもとても鎮められない」と言って去ったそうだ。

 この土地は、戦後、半世紀近く経ても、なぜか開発が進まなかった。だから名古屋駅から徒歩十数分という好条件なのに、なぜかひどく土地が安価だったのだ。
 父は、国鉄のSL機関士の安月給だったので、この土地しか手に入れることができなかった。同僚に手伝ってもらって、田んぼだった土地にSL石炭殻を大量に入れて、少しだけ嵩上げして、家を建てた。

 親戚に井村勇という優れた宮大工がいたので、しっかりした素晴らしい家が建ち、石炭殻のおかげで伊勢湾台風の浸水にも耐えた。
 しかし、石炭殻には大量のヒ素が含まれているので、水道が敷設されるまで、我が家の井戸の水質は最悪で、家族全員が病気に見舞われたのは、そのせいだったと思う。埋め立てに石炭殻を使ってはいけなかったのだ。
 その家も、今では取り壊され、他人の家に変わっている。

 少し離れているが、同じ方位に、「万場」という地名があり、これも「よろず場」といい、不浄の作業を意味していたという。
 また八田地区には、名古屋地区最大の畜産加工場(屠殺場)が置かれていた。
 つまり、風水や昔の差別体制に詳しい人が見れば、どのような土地か一目瞭然だった。

 私の通った学校に来る児童たちは、たぶん半数近くが在日系ではなかっただろうか?
 同級生には、正村会館の娘がいた。パチンコ創始者の親族だ。もちろん在日朝鮮人だった。中村区は、いたるところにパチンコ産業があった。

 また、ヤクザの子供は掃いて捨てるくらいいた。みんな親を反映して、とてつもなく傲慢で暴力的だった。今、イジメが教育上問題になっているが、当時は、まだイジメなど、ありふれた日常の一コマにすぎず、教師が鉄拳制裁したり、露骨な嫌がらせをしても、それを問題視されることさえ滅多になかった。

 今の陰湿なイジメと違って、当時のイジメは暴力的だった。私が小中学校に行った思い出は、そんなヤクザの子弟に毎日殴られに行ったという印象しか残っていない。
 だから、小中学校の生活にはトラウマしかないので、同窓会も行ったことがない。

 だが、殴っていじめる子供そのものが、家に帰れば親兄弟に毎日殴られていたのだ。
 ただ、カミソリで切ったり、火傷させたりなどの凶悪で残酷なイジメは、ほとんど記憶がない。もっぱら殴り倒しがイジメだった。
 ただ、教師が家庭訪問すると、ヤクザのパシリが出てきて教師を脅したり、女子中学生が強姦されるなんてことも、それほど珍しいことではなかったと思う。
 そんな荒廃した土地柄だったのだ。

 いじめっ子たちは、私のことを「四つ」と呼ぶことが多かった。
 四つ足のことで、未解放部落民を意味していた。移り住んだ土地は、そういう地域だった。実際には無関係だが、いじめっ子にとっては実に手頃なイジメ理由になった。

 いじめっ子のなかには優秀な子もいて、一級下だが鬼木組の息子は、文武両道、スポーツ万能で女生徒に人気があり、中学の生徒会長にまでなった。
 彼は野球が得意だったので中京高に行ったはずだが、、中京高は、金田正一以来、在日者の子弟が多かった。

 私が大門のタクシー会社で勤務したとき、得意先に弘道会があった。当時の組長、司忍氏もたまに乗せた。
 ある幹部に鬼木のことを尋ねると、彼は「二丁拳銃の鬼木」という名で呼ばれるほど、名古屋で著名なヤクザとなったが、ある人妻に道ならぬ恋をしてしまい、自暴自棄になて陸橋から飛び降り自殺したと教えてもらった。
 「根は純粋だったんだな」と私は思った。

 司組長は、後に山口組六代目に就任したが、実は、彼は冬山登山が好きなストイックな人間性で、私と厳冬の中央アルプスで何度も遭遇していたことが、後に分かった。
 彼は「筋が通る」という厳しい倫理性を持っていて、きちんと挨拶をすること、筋を通すことさえ守れば、とても誠実で優しい人間性であることが分かった。

 私は中津川市に移住した2003年まで、かなり長期間、中村区役所の上にある公団アパートに一人で住んでいた。
 ここも、かなりひどい霊障がある建物で、昔は中村区でもっとも高い建物だったので、たくさんの飛び降り自殺者を出していた。
 私は、母親譲りで霊感の強い体質だったのでかなり苦しんだが、残念ながらエピソードを書き残すことができない。書いても、誰も理解できないだろうから。

 また、私は、ある種のギフテッドだったので、精神的に暴走することが多いのだ。若い頃から単独登山を続けたのも、他人との協調性が極度に低かったせいだ。
 他人と話していると、自分の過去の問題が思い出されて、自分の欠陥が浮き彫りになるため、苦しくて仕方がなく、だから孤独にならざるをえなかった。
 私は長い間、ノイローゼ状態だった。

 また父親との仲もかなり悪かった。父は国労や総評の役員をしていたが、やたらに名誉欲というか、コンプレックスの強い人間で、私を学歴自慢の種にしたがった。
 だから私は、自分の優越性を誇るような人生を拒絶しながら、一方で、父の期待に答えようとする精神分裂のような状態になってしまった。
 この矛盾から抜け出せたのは、ごく最近のことだ。

 こんな精神分裂のような私にとって、中津川市の山岳地帯の土地は、孤独を癒やすのにとても素晴らしい土地だった。
 だが、その土地の近所の先住者は、想像もつなかいほど、とんでもない人物だった。 これは、いずれ出版したいと思い、忘れないようたくさん書きためたものがある。
 問題が、まだ決着がついていないので公開を控えるが、いずれ公開するつもりだ。それを読めば、どれほど人を驚愕させるような、ひどく特殊な人物か分かると思う。

 中津川に住んで、もっとも良かったと思ったことは、何よりも、たくさんの自然とふれあえる場所があるということ。そして馬篭や妻籠、苗木城のような旧跡名所が多く、現在も多くの外国人観光客を惹きつける観光資源があるということだ。
 馬篭から妻籠の8Kmある中山道コースは、いつ歩いても魅力たっぷりだ。

 私は、2012年頃から今でも原因不明のアレルギー性肺疾患(間質性肺炎)に罹患し、症状から2014年に肺線維症であることを確信した。ユスリカアレルギーだけでなく、若い頃、トラックで石綿運搬に従事したことが問題だったかもしれない。
 当時、ネットで検索しても、肺線維症(IPF)の最大余命は5年程度だった。

 私は2019年までの命と絶望したが、症例を調べてゆくうちに、十分な呼吸トレーニングによって10年の延命が確認されていることを知った。
 私は医療思想を信頼できなかったので、医療プロトコルを拒否して、自力で延命に取り組んだ。信頼できるものはホメオステーシスだけ、というのが私の信念なのだ。
 それは、中津川のたくさんのハイキングコースを、毎日7000~10000歩、歩くというものだった。

 呼吸力が半分以下に落ちていたので、最初は、坂道にくると息が上がって動けなくなり、とても苦しいものだったが、徐々に慣れてゆき、普通の人の半分程度以下の速度しか出せないが、のろのろと歩き続けることができるようになった。
 「もしかしたら肺胞細胞が回復するかも」
 という期待はあったが、残念ながら10年近く歩き続けても、呼吸能力の回復はほぼなかった。しかし、半分以下のスピードなら、コースを歩けるのだ。

 来年、いよいよ10年目を迎え、それ以上の延命データは確認できていないのだが、残念なことに、ほんとうにわずかずつだが、回復とは逆に、呼吸能力は悪化の一途だ。
 とりわけ今年はひどく、3月と9月に自分の死を覚悟するほど悪化した。
 悪化の理由は、どうも中国からの有毒黄砂の可能性が考えられた。ひどいときは、トイレに行っても激しく回復呼吸し、苦痛で眠れなかった。

 しかし、11月ころから、再び回復があり、また元通り歩けるようになった。それでも以前に比べれば呼吸能力は劣化しているように思う。
 「やはり10年が限度なのか」と思う毎日なのだが、せめて、中国共産党とロシア、北朝鮮の完全崩壊を、生身の目で確認してから死にたいと思っている。
 ついでに竹中平蔵の駆除を確認できれば、とても幸せだ。

 また話は変わるが、甲羅のコケが増えてくると、嗜好がうるさくなる。
 私は、毎朝のコーヒーが欠かせないのだが、インスタントでは満足できず、オーガニックの生豆を5Kgずつ購入して、自分で焙煎している。最近、使っているのは東チモール産が多い。

  東ティモール レテフォホ産で、約1万円と以前の倍近く高価なのだが、今のところは、満足している。
 私は、ドリップのとき、饅頭が成立しない豆が許せないのだ。コーヒー饅頭だけが独特の切れを保証してくれるからだ。
焙煎時間は、その日の気温や風によって大きく変わるが、おおむね40~100分程度だ。約500gを半月も持たずに使い切る。
 やや深めのフルシティが一番のどごしが良い気がする。

 また、一人暮らしで完全自炊なので、おかずも自分で作る。米は地元米を炊飯器で炊くだけだが、おかずは自家製漬物を主体にし、あとは野菜炒め程度だ。
 肉類は痛風体質なので食べられない。
 漬物は、ナスと赤カブは、1K150円の味噌に大量に漬けておく。これが実にうまい。赤カブの最高にうまい食べ方は味噌漬けだと確信している。もう数年も繰り返している。
 ナスは二年ものが素晴らしい香りだ。ただし、塩辛いので高血圧には向かないかも。

 それから大根は漬物用を買ってきて、十日ほど干してから醤油とみりんに漬け込み、冷蔵庫に一ヶ月保管して炉端漬けにして食べている。
 こうした自家製漬物を食べていると、サッカリンを使ったような市販漬物なんか食べられたものじゃない。市販品を置いているような食堂に行きたいとも思わない。

 肉魚が食べられないので、タンパク質は、主に豆から摂っている。
 近所のめぐりーんという産直店で、大豆かひよこ豆を買ってきて、一晩水浸して圧力釜で炊いてからカレーにして食べる。
  ダシはシャンタンと昆布と豆だ。これに馬鈴薯とタマネギ、人参、リンゴなんかを炒めてぶっこみ、トマトペーストを入れて、カレールーで仕上げるが、これもカレー粉とバターの自作だ。

 シャンタンを使うので準ビーガン食というところだが、豆食はもっと見直されるべきだと感じている。
 なお、畑で大根やタマネギ、馬鈴薯は原則自作している。大根があれば、緑色野菜は十分なのだ。可能なら豆類も作りたいが、とにかくキジバトなどに狙われてうまくいかない。

  これが70歳の落ちこぼれ老人の食生活なのだが、もしかしたら私は恵まれている方かもなどと思うこともある。
 いわゆる加工市販食品は、できるだけ使いたくない。年金暮らしでなければ、こんな手間のかかる食生活は無理だろう。

 私も大型二種免を利用してバス運転手くらいしたいのだが、病気の都合があって控えている。バスは、呼吸器感染病の確率が高いからだ。
 それに今はアルバイト運行が不可能になってしまった。無意味な規制を増やさなければ、運転手不足もこれほど深刻にならないと思うのだが……。

 私は、「ポツンと一軒家」をTVerで視聴していて、他人の生活が面白いことに気づいた。だから読者の関心は、もしかしたら具体的な生活実態にあるのかもしれないと思い、今回は自分の生活ぶりを紹介してみた。
 まだ、たくさん書きたいことがあるので、今度またトライしてみたい。