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無知のヴェールと無私のヴェール

「バカ国民帝国日本の滅亡」記事の一節を考察ネタにしてみる。先に引用する。



ジョン・ロールズの『正義論』で論じられた…


 


「正義にかなう社会」とは、どういう原理に基づいて成り立つのか…


 


´は、1970年代以降、欧米では重要な学術的命題であった。


 


 


それを受けてのアヴァイシャリ・マルガリートの仕事が…


 


『品位ある社会<正義の理論>から<尊重の物語>へ』であった。




さて、問題は「正義とは何か」「品位とは何か」「品位は正義に代わる社会統一原理になるか」である。まあ、3番目の命題は、最初から無理だという気がするが、先に前2者を考察してみる。
ロールズの「正義論」は有名だが、私はもちろん未読である。しかし、その中の「無知のヴェール」については、面白い考えだと思ったことがある。それは、「正義かどうかを判定する基準」である。私は、「無私のヴェール」と言うほうが分かりやすいと思う。東洋人や仏教徒なら即座に分かる話だろう。

「けう」という、一般人の哲学オタク主婦の解説が分かりやすい。長いのでマルクス・ガブリエルとやらの説の部分は省略する。(けう氏のお気に入りらしいが)



無知のベールとは、思考実験です。


誰かが犠牲になっている社会の現状から、平等を話し合います。


どのような話し合いなのかを見ていきましょう。



ポイントは功利主義の弱点を克服するために出てきた思想
目次 

無知のベールとは

無知のベールとは、ジョン・ロールズ(1921~2002)によって唱えられた思考実験です
(これからの「正義」の話をしよう マイケル・サンデル 参照)


まず自分が誰かわからなくなる「無知のベール」を頭にかけます。


自分がどんな立場かわからなくなります。


性別も年齢もわかりません。


自分が教育を受けているのかも、身体が不自由かもわかりません。


その状態で、どのような社会原則を作ればいいのかをみんなで話し合います


「あなたならどんな原則を選びますか?」

無知のベールの具体例

話し合いが少人数でものを分ける場合だったら簡単です。


ケーキが一つあったとしたら、均一になるように分ければいいからです。


しかし、社会は複雑です。


社会ルールを立てると想像してみてください。


無知のベールをかぶっている人はみな、「自分は抑圧された少数派かもしれない」と考えるとロールズは言います。


もしかしたらホームレスかもしれない。


もしかしたら飢餓で苦しんでいるかもしれない。


「ならば底辺層を切り捨てるシステムは避けたほうが無難だ」と人は考えます。


決定した後で、無知のベールを取ります。



あ、私の立場だったらそっちのが良かった!

このようなことが起こらない原則を目指します。


その時に、3つの原理がでてくるとロールズは考えました。

  1. 基本的自由の原理
  2. 機会均等の原理
  3. 格差原理

具体的に見ていきます。

無知のベールの3原則

ロールズは社会正義のためには3つの原理を導き出せると考えました。(哲学用語図鑑 参照)

基本的自由の原則

良心、思想、言葉の自由は保障されなくてはならない


日本国憲法にもあります。

機会均等の原理

たとえ格差が生まれても競争の自由は保障されなくてはならない


競争を否定しません。


しかし、疑問がうまれます。


自分が恵まれない状況にいた場合、自由に競争に参加できるだろうか?と。


最も不遇な人々と裕福層の人々との差は、調整されるべきだとロールズは考えます。


そこから出てきた考えが3番目です。

格差原理

競争によって生まれた格差は最も不遇な人々の生活を改善することにつながるものでなければならない


この格差原理をさらに詳しくみていきます。


「これからの『正義』の話をしよう」(マイケル・サンデル 2010)から抜粋します。


格差原理とは、いわば個人に分配された天賦の才を全体の資産と見なし、それらの才能が生みだした利益を分かち合うことに関する同意だ。ー
天賦の才に恵まれたものは、才能があるという理由だけで利益を得てはならず、訓練や教育にかかったコストをまかない、自分よりも恵まれない人びとを助けるために才能を使うかぎりにおいて、みずからの才能から利益を得ることができる。ー
こうした偶然性が、最も不遇な立場にある人びとの利益になるような形で生かせる仕組みを社会のなかにつくればよいのだ。」


顔がいいから鼻眼鏡をかける。


足が速いから重りをつける。


頭がいいから騒がしいヘッドホンをかける。


そういうことではなく、能力や環境の差など人の多様性を認めます。


多様性によって所得格差がでるのは仕方がないことだ、と。


最も不利な立場にある人々の状況を改善するための所得格差を認めています。


自由もあって、競争もできて、生活に困らないという原則です。


なので、無知のベールをかぶっていれば受け入れたくなる3つの原理です。



無知のベールをかぶったからこそ出てきた原理なんだね

ロールズは無知のベールを政治から考えました。


政治家の役割の一つは、市民から得た税金を再配分することです


無知のベールの基本原理のように、福祉にも政治はお金を配分しています。

無知のベールの立場

無知のベールを唱えたロールズはリベラリズムと言われています。

リベラリズム⇒富の再分配などを通じて経済的な弱者を救済し、福祉国家的な政策を支持する立場。

リベラリズムは功利主義を批判する形ででてきました。

功利主義⇒社会全体の快楽の増大や苦痛の減少を基準にして、道徳や立法の判断をするべきだという考え方。
功利主義は、社会全体の幸せのために誰かが犠牲になっても仕方がないと考える立場でもあります。
それを批判する形で無知のベールという思考実験が唱えられました。
歴史を見ていくと、ある良い案がでてきたらその次にその欠点を埋める思想がでてきます。
では、リベラリズムの欠点は何でしょうか。

現代の哲学者マルクス・ガブリエルは言います。


「絶対的に見ると、下層にいる人の数がこれほど多くなったことは人類史上ありません。」


貧富の格差は広がっています。


政府が弱まり、企業が力を持ってきました。


つまり、今の社会に基づいて現実的な原則を打ち立てよう、という流れです。



抽象的すぎる思想を現実のものに、という観点からマルクス・ガブリエルの主張を見ていくよ!


無知のベールと「モラリティの資本主義」まとめ

無知のベールとは思考実験です


自分が何者かわからない状態で、社会の原則3つを導き出しました。

  1. 基本的自由の原理
  2. 機会均等の原理
  3. 格差原理

世界に制度がない当時、人々の全体の幸福度をあげればよいという功利主義が生まれました。


しかし、それは誰かの犠牲の上になりたっていました。


その犠牲をなくすのがリベラリズムによる「無知のベール」での話し合いです。


人々の自由や競争といった多様性は認めます


そして、その結果として生じた格差を補うことが前提になっています


ロールズは無知のベールを政治の視点から語りました。


しかし、貧富の格差は広がっています。


なので、マルクス・ガブリエルは無知のベールに倫理の視点で取り入れました。


モラリティの資本主義です


人々の「非人間化」や「無知」を防ぎます。



時代に合わせてよりよい社会を考えているんだね

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「総括」の意義

私は、思い付きだけで書く主義なので、前の記事にもいろいろ間違いがあるようだ。
下のブログ記事は当時の学生運動の冷静な総括として実に優れたものでもあるので、転載する。日本の社会運動や改革運動、あるいは組織の一大欠点は、失敗した時に、その主体による「失敗の総括」がなされないことである。だから、今回もまた政府は第二次大戦の過ちを繰り返そうとしている。そして、一見成功と見える日露戦争や日清戦争も「総括」すれば反省点と今後の懸念(失敗の可能性)が見えるはずだったのである。

(以下引用)

フランシーヌ・ルコントがパリで焼身自殺した日。反戦歌「フランシーヌの場合」が出来た。

2006-03-30 | 歴史
今日(3月30日)はフランシーヌ・ルコントがパリで焼身自殺した日。
1969(昭和44)年3月30日、日曜日の朝。パリの路上で30歳の女性が、シンナーを被って焼身自殺した。
AFP電として日本の新聞でも報道されたところによると、フランシーヌ・ルコントさんというこの女性はベトナム戦争、ナイジェリアに心をいため、自殺した時もビアフラの飢餓の切抜きを持っていたという。また、ウ・タント国連事務総長などに訴えの手紙も書いたこともあるといわれるが、家族の話では精神科にかかっていたこともあるという。(1969年3月31日付 朝日新聞夕刊)
1人の女性の焼身自殺で何が変わるわけでもない。家族の話のように、精神を病んでのことかもしれないが、いずれにしても、かなり思い詰めての行動であろう。
この事件に、心を動かされた日本人によって、一つのフォークソング(反戦歌)が作られた。いまいずみあきら作詞、郷伍郎作曲「フランシーヌの場合」である。
フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん
フランシーヌの場合は あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えた いのちひとつ
フランシーヌ
この歌は3ヵ月後の6月に発売された。新谷のり子さんのデビュー曲であるこの歌は80万枚を超える大ヒット作となった。以後、新谷のり子さんは反戦、反核、反差別をテーマにコンサートを続けておられるという。思えば、この曲が大ヒットした1969(昭和44)年は、学生運動がもっとも盛り上がったときであった。ベトナム戦争、沖縄闘争のうねりと共に時代の心を代表し、多くの人々の支持を得た。恐らく、今の50代以上の人には、忘れられない曲ではないだろうか。
1960年代は、後半、高度経済成長の裏で激化の一途をたどっていた学生による第二次反安保闘争。それと時を同じくして、全国の国公立・私立大学において授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学の全共闘や(新左翼)の学生が武力闘争を展開する学園紛争(学園闘争)が起こった。全共闘の学生達は大学当局との団体交渉(団交)で自分たちの主張を強硬に唱え、それが認められない場合大学構内バリケード封鎖という強硬手段に訴えた。そして、ついに、1969(昭和44)年1月、前年の東大医学部の無期限ストライキに端を発した、「東大・安田講堂事件」が起こった。全学共闘会議(全共闘)が占拠していた東京大学本郷キャンパスを警視庁が封鎖解除を行った事件である。18日早朝、守る学生は400人、攻める機動隊8500人。300台を超す放水車、投光車、防石車、そしてへりが投入される。東大・安田講堂の屋上からは何百本の火炎瓶が投げ落とされる。上空警視庁のヘリコプターからは、催涙弾、地上からも猛烈な放水とガス弾。空陸一体になっての攻撃が始まった。まるで戦争である。大学紛争のシンボル、東大・安田講堂をめぐる攻防戦は実に35時間。東大全共闘の最後の砦は落城した。逮捕者は、東大構内で633人、安田講堂で377人(東大生は20人)。(朝日クロニクル・週間20世紀より)。幸い、学生・機動隊とも負傷者は多かったが死者はなかった。この安田講堂(砦)の落城が、全共闘運動の分水嶺だった。この東大全共闘を支えたのは、団塊の世代であった。「出入り自由の柔軟な集合体」の全共闘は、セクト嫌いのノンポリをひきつける魅力があったが、この柔軟性が新左翼各派の付け入るところとなり、東大闘争を複雑にした。党派の思惑に振り回され、非妥協を競い合った挙句武装闘争というスタイルが前面に出てしまった。このあと、大学紛争は関西を中心に全国に飛び火する。その数はピーク時77校。だが、秋には、1校また、1校と正常化した。それは、安田講堂事件後、強行採決された大学臨時措置法が圧力となり、紛争が長引くことによる「閉校」を恐れる大学側が、積極的に機動隊を導入したからである。
安田講堂事件の終焉後、学生達の間ではシラケが進行していたが、一部のセクトは過激化、武装化への道を進み赤軍派など過激なグループが出てくる。そして、赤軍による「よど号」ハイジャック事件、連合赤軍によるリンチ事件、あさま山荘事件、へとつながっていくのである。
思えば、1969(昭和44)年のこの年は、経済が成長し、人々の生活と意識が大きな変化していた一方で、日本の政治・経済・社会はもちろん、水俣病に象徴される環境公害被害など、すべての面で大きな問題を抱えていて、その矛盾が噴出した年でもあった。この年を特徴づけるものは、何と言ってもデモと集会で、一番よく知られているのは、ベトナム反戦・反安保をかかげる集会やデモである。その先頭を走ったのは、青年労働者であり、学生だった。学生たちは街頭で政治的課題で行動しただけではなく、自分たちの問題である教育制度や中身の歪み、学歴中心社会の問題や旧態依然たる学問の現状に激しく厳しい批判を投げつけた。全国の大学や高校で学園紛争が生じた。その象徴的なものが、前年の日大紛争であり、この年の東大・安田講堂事件であった。この年、映画では、高倉健の任侠もの、藤純子のお竜さんが大流行。網走番外地の健さんも 緋牡丹のお竜さんも裏街道をゆくはぐれ者。はぐれものが受けた時代だった。安田講堂内の学生たちは、敗北を承知で機動隊と対決し、火炎びん、催涙ガス弾が飛び交うこととなった。当時の加藤一郎学長代行の最終提案は学生達の要求を大幅に取り入れたもので、受諾すれば一応の勝利になるものなのに、「東大紛砕」を叫ぶ学生達は恐怖と戦いながら安田砦にとどまった。そこには、玉砕の美意識見たいなものがあった。今の人の大勢や権力や高度成長や生き残り競争を支配する価値観からすればまことに、馬鹿な生き方に見えるだろう。しかし、任侠の封建的な世界と先鋭的な革命の理論をもつ若者の行動には、抑圧された者が止むに止まれず決起したときには、美しく負けようといった精神につながる面があっったように思われる。当時、東大全共闘を支えた、団塊の世代も同じ気持ちで、任侠ものの映画を観ていたのではないか。
今の時代は、これまでの価値観が崩壊し、すべてが行き詰まったあのころとよく似ているように思われる。いや、それ以上だろう。しかし、今の日本の若者からは、そのような社会に対して、何の反抗をする気概も見られないのが哀しい現実である。
以下の二木紘三のMIDI・歌声喫茶でフラシーヌの場合のMIDIが聞けます。
二木紘三のMIDI・歌声喫茶「フラシーヌの場合」
(画像はDENON(日本コロムビアCD、「フラシーヌの場合」新谷のり子)
参考:
東大安田講堂事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AE%89%E7%94%B0%E8%AC%9B%E5%A0%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
東大闘争(安田講堂攻防戦)事件
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage141.htm
雑感・戦後日本の世相と流行歌(26)
http://www.asahi.co.jp/call/diary/yamaken/essay_26.html
70年安保闘争史略年表
http://www.asahi-net.or.jp/~GR4T-YHR/zennen.htm
PICK UP 新谷のり子
http://event.sbrain.co.jp/pickup/sintani_noriko.html

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ゴミのポイ捨てと殺人の本質は同じ

私自身の別ブログからの転載の転載の転載という、面倒くさい話だが、まあ、特に書きたいこともないので、「落穂ひろい」である。

(以下引用)

悪の本質



私自身の別ブログの旧記事を転載。
冒頭が舌足らずだが、「このふたつ」とは、ゴミのポイ捨てと殺人である。
そして「最高の塔の歌」は私が前に持っていたブログだが、なぜか突然書き込みができなくなった(強制閉鎖された)ものである。「悪は量や大きさの問題ではない」は私自身の記事タイトル。


(以下自己引用)

悪が悪である理由

私の一生のテーマは、悪をこの世界から無くすことは可能か、ということを考えることであるが、その前提として、悪とは何か、なぜ悪を無くすことが必要なのか、ということを簡潔に示す言葉を「最高の塔の歌」というブログから引用しておく。
ただし、この世界では悪は現世的な「利」と結びつくことが多いので、悪は世界にとってほとんど不治の病になっている……。



(以下「最高の塔の歌」より引用)


悪は量や大きさの問題ではない


(下に引用した文章は)IT技術者で神秘思想家のKAYさんのブログの一節である。
この丹波哲郎の言葉は非常に面白いが、その意味は何か。
私なりに解釈すれば、この二つが同じなのは、それはどちらも「この世界を傷つける行為」だからだ。
そして、それは同時に、自分の精神の中の「神性」を傷つける行為だからだ。
ゴミを道に捨てる行為と、人を殺す行為は、どちらも、魂のダークサイドに身を委ねる行為だという点で同一なのである。
「悪」がなぜ禁ぜられるべきことなのか、という理由は、実はそれが世界毀損行為であり、世界破壊行為であり、世界汚染行為であると同時に、それが自己毀損行為だからである。

悪を為す人間は、この世界はもっと美しく生きることができるはずなのにそれを知らないという、ある意味では哀れな人間だろう。



(以下引用)

昔、「霊界の宣伝マン」と自称していた国際俳優の丹波哲郎さんは、「自動車の中からゴミを捨てる人がよくいるが、あれは殺人と同じなのだ」と言っていたことがあるが、歩き煙草なども、全くその通りなのである。

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自由と絆(繋縛)

前回記事のエリュアールの詩についての補足だが、私は「自由」というものを主義にも信仰にもしないが、心の底で希求しているのは確かだ。
だが、自由とは基本的に「何かからの自由(解放)」であり、究極の自由は、あらゆる関係からの解放、つまり、家族、友人、社会、国家すべてからの解放になり、絶対の孤独になるだろう。現代社会は、そういう人間(「家族からの自由」への隠れた願望が非婚化の原因のひとつだろう。)の集合になりつつあると思う。他者と利益でつながるか、愛情でつながるか、利益からも愛情からも「自由」でいたいのか。

Ah look at all the lonly people (「エリナー・リグビー」より) 

I am a rock, I am an island (「アイ・アム・ア・ロック」より)

(蛇足:「島」の英単語を忘れて、探すのに苦労した。発音しない「s」があるのが厄介なのである。「iceland」「ireland」と混同する。)

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自殺論

「大摩邇」から転載。緊急性や時事性があまり無いと思うのでこちらのブログに載せるが、興味深い内容で、自殺者の数の問題は本当は政治の問題でもあるだろう。しかし、自殺は最終的には個人の決断なので、政治の問題とするには無理があるわけだ。ある種の人々を窮迫させ自殺させやすい社会を作ったのは何か、という問いも大事だが、自殺はあくまで哲学の問題だろう。
そして、個人の思想の問題である以上は、それを家族の問題とするのも間違いであり、自殺によって自殺者の家族が蒙る迷惑(他者からの呵責)はあるべきでないのは当然である。
私自身は、むしろ「もっと自殺しやすい社会」であるべきだ、とすら思うが、「自殺に追い込む社会(自殺させやすい社会)」ではけっしてあってならないと思っている。この両者は完全に別なのである。
そして、自殺する人間は、親しい人間の受ける精神的衝撃を本当に考えて自殺しているのか、自分が抱えている問題は本当に自殺するほどの解決不可能な問題なのか、とことん考えてほしいと思っている。当たり前だが、自殺は一度しかできないのである。ただの「一時の気の迷い」で自殺した人間は膨大にいると思う。
「生きているだけでえらいんだよ」という生チョコぽん酢さんの言葉に半分は同意するが、自殺する人間はたいてい善良で気が弱い人間だと思う。悪党が自殺した例はほとんど無いのではないか。なぜなら、悪というのは我欲のためにするのであり、そういう強欲な人間が自殺するはずがないからだ。そういう人間が生きているだけで偉いはずがなく、生きていれば社会の迷惑で、死んでくれたら生きているよりもっと偉い。そして、世間で報道される自殺(大きな事件や問題の関係者の自殺)のかなりな割合は他殺だろう。

(以下引用)前半は省略。親しい人間に自殺された者としての記事筆者の思いである。


話題が少し変わりますが、自殺しても自殺にカウントされないって知っていますか?

このようなネット上の噂話を耳にしたことがある方も多いのでは無いでしょうか。


これは半分事実です。


例えば幼馴染のケースでは、飛び降りをしたのですが、自殺になりませんでした。

しかし密室で首を吊ったMちゃんは、自殺になりました。

理由は色々ありますが、国が自殺者を隠したいから、という陰謀めいたものでは一切ないと、私は感じています。


1)事件の可能性がゼロではないから。

基本的に1%でも事件事故の可能性があれば自殺にはなりません。

後から何らかの証拠が出てくる可能性もあるので警察も責任を取れないからです。

なので怪しい自殺は全て変死という扱いになります。

日本の変死は大体年間で10万人くらいでしょうか。

日本の自殺者は認定されているだけでも世界ぶっちぎりの最多なんですね。

しかし、実際には変死の半分くらいは自殺だと考えられますから(国際基準ではそのように計算されます)

つまり年間の自殺者はこの時点で年間8万人ということ(公表されている自殺者数の数倍)。

さらに、まだ裏があります。


2)遺族の精神的な問題
残された遺族は、体裁的にも心理的にも相当なダメージが残ります。

他者に話す際の体裁が保てるように、基本的に自殺では無い方が良いのです。


3)金銭的な問題
自殺は生命保険がおりない場合があります。

保険がおりないと、残された家族は、迷惑しか残りません。

自殺の際に他人に迷惑をかけてしまった場合の慰謝料やら修繕費も全額自費になる場合があり、残された遺族に多大な迷惑をかけてしまうのですね。

なので、基本的に計画的に自殺する人というのは、樹海等で消息不明になったり、事故に見せかけた方法を取る人が多いのでしょう。

(他にも心当たりがありますが内容的にここでは書けませんのでコミュニティの方で書きます)


もうここまで話せば察しがつくと思います。


 


まとめるとこうです。


 


日本の自殺者は認定されているだけでも世界ぶっちぎりの最多。

しかし実際には(1)のケースでは変死になるので、おそらく半分くらいの自殺は変死扱いになっている。

日本の変死者数は年間10万人なので、この時点で年間の自殺者は実質8万人ということ。

更に(3)の場合は、行方不明者や交通事故死等になりますから、それらをさらに加えると



日本の自殺者って、本当は年間何人いるの?ってね。


すごい話です。

日本の社会で生きるということは、常に死と隣り合わせ。

だから私は時々言ってますでしょ。

生きているだけで偉いんだよって。

自己肯定感が低い日本人には特に言えることですが、ついつい理想を追い求めたり、至らない自分を卑下したりしまいがちですけど、


 


本来は生きているだけで、実は凄い事なんじゃないのかなと思うのです。


 


日本人はもっと気楽に生きていいと思います。


 

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生と死、善と悪

知人から定期的に古本を貰うのだが、貰う本は私の好みで選ぶので、筒井康隆の初期短編集が多い。もちろん、昔読んだのが大半だが、私は速読の悪癖があり、理解困難な部分は昔はあまり考えないで飛ばし読みをしていた。だから、昔読んだ本でも、そういう部分をちゃんと考えながら読むと、十分に面白く、たくさんの発見があるのである。
たとえば、「東海道戦争」所収の「群猫」の中に、

「花の死体」

という表現がある。
この作品はかなり詩的な表現が多いのだが、地下深くの下水道の中に棲む群れ猫の「意識」まで書いてあり、難解な表現も出て来る。その中では「花の死体」というのは分かりやすいが、少しどきっとする表現だ。
実際、我々が目にする「切り花」は、あれは花の死体なのであり、床の間や玄関にきれいに飾られた生け花は「生け花」の名に反して「花の死体」の集まりなのである。
それを我々がなぜ「花の死体」と感じないのかと言えば、我々には花がいつ死んだのか、認識できないからである。実際には、切られた瞬間に花は死んで、後は枯れていくのだが、動物の死体のように腐敗せず、枯れるだけなので、我々は花の死を死だと感じないのである。

それから、

「彼はいま、願望に自我を強化させ、闇の中に意識を発散させている」

という表現があるが、「彼」とは、地下深い下水道に棲むめくら猫である。この一文の中の「願望に自我を強化させ」というのが興味深い。我々の自我は願望によって強化されるというのは、これまで誰も言っていないのではないだろうか。
我々が自分の自我を意識するのは願望が存在することによってではないか、という思考をこの一文はもたらす。別の言い方をすれば、願望(欲求)が無ければ自我も無いし、自我ゆえの苦悩も無い、ということで、それは仏教の思想に近いと思う。ただし、これを突き詰めると、欲望を捨てた人間は死体と同じ、となる。欲望はあらゆる悪の根源でもあるのだから、それが自我の根源でもあるなら、悪は人間存在の土台だ、というとんでもない結論になるが、まあ、それは言い過ぎで、いつもの私の「極限思考」の癖である。
要するに善とか悪とかいうのは便宜的な観念であり、社会秩序の土台として重要ではあるが、実は実存するものではない。まあ、商品の値札のようなものだ。値段をつけるのは売る側の勝手である。パリコレで売る(アピールする)ファッションをまったく無価値と思う者がいてもおかしくはない。犯罪者にとっては法律は悪の存在だろう。だが、善悪の観念(人間性の値札)の無い社会は野獣の世界になるわけである。社会の成立とモラルの成立はほぼ同期しているはずである。





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道徳の形骸化と「通俗道徳」

ブック・オフで買ってきた何冊かの漫画を楽しんで読んだのだが、以前にアニメでも見た「弱キャラ友崎くん」が、アニメにも劣らず面白かった。まあ、人間関係における演技力と演出力の重要さとその訓練の重要さをテーマとした作品だと私は理解したが、演技や演出と言うと、「本心ではない」つまり不正直な行為だ、と思う人が多いかもしれない。(主人公の友崎くんも最初はそういう思考をしていた。)特に私のように怠惰さから人間関係における演技を最初から放棄した人間はその種の思考をしがちだと思う。つまり、自分は正しい、世間は間違っていると思いたいナルシシズムの為せる業だ。
で、その正直さが、実は演技を面倒くさがることから来る怠惰さに他ならないわけだが、「正直さ」というのは道徳の最たるものと一般的には理解されている。正直さの意図やもたらすものが何かを考えず、ただ「正直」という概念が空虚なまま、つまり形骸化して肯定されている類のものを「通俗道徳」とするなら、これまで私がその使用を否定的に捉えていた「通俗道徳」という言葉の使用も肯定すべきかもしれない。だが、一般的な意味での「通俗道徳」とは明治以降の「立身出世」主義などを攻撃する言葉として使われていると思うが、それ自体、概念の形骸化ではないか。
要するに、「何のために立身出世をするか」が問題なのであり、立身出世それ自体が否定されるのはおかしいわけである。立身出世することでしか、世の中を良い方向に大きく変えることはできないから立身出世するならば、それは最高に道徳的な行為だろう。
大久保利通が薩摩藩主(というより藩主の後見人である父親で、薩摩の実際の最高権力者)に近づくために囲碁を習い、囲碁の相手をすることで相手と会話ができる仲になり、藩内でも出世したのは有名な話だが、彼は死んだ時に財産をほとんど持たなかったほど清廉潔白な人間で、その「立身出世」は、日本を良くしたいという目的からひたすら出たものだったわけだ。さて、そうすると、立身出世は否定されるべきものでないのは自明だろう。何のために立身出世し、何を為すかが問題であるだけだ。
「正直さ」も同じことであり、嘘をつくことで何万人の命が救える場合に、「自分は正直でありたい」ということで嘘を拒否して何万人が死ぬなら、その正直さは究極のエゴイズムだろう。

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それだけで人生は生きるに値します。

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