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電気(的)宇宙モデル

「ものセラ」から転載。
いや、半分も理解できないが、非常に面白い。要するに、「重力は引力だけ」という従来の定説に反して、「重力には引力と斥力がある」という理論を提出しているわけだ。なぜ重力には引力しかないと従来思われてきたかというと、それは地表でしか重力を体験していなかったからで、天体と天体との間には斥力が働き、だからこそお互いに衝突することが稀なわけだ。特に、太陽系の惑星内部では、それが歴然と分かる。(もちろん、基本的には、太陽引力に対する各恒星の遠心力の吊り合いの結果、恒星の周回運動が一定になるわけだが。)彗星などは動きそのものが直線運動だから、当然衝突が起こる。つまり、恒星の恒常的位置関係とは別の話になる。
とにかく、「重力には引力と斥力がある」という理論は、非常に面白い。ただ、物質(磁石を除く)自身の持つ斥力の存在が実験で証明されないと、この理論は成立しないだろう。もちろん、個々の天体を大きな磁石だと仮定することもできる。つまり、重力は磁力の一種だと定義するわけだ。
ただし、「電気宇宙モデル」という言い方は、あまり感心しない。「電気的宇宙モデル」とすべきだろう。


(以下引用)

何が重力を引き起こすのか? 重力は反発する


2022年1月9日電気宇宙,ウォル・ソーンヒル

数学は物理学ではない

重力とか物理の話を始めると、私の個人的な印象として、”男”の世界での話と思われているような気がします。これまで紹介してきた電気宇宙論にしても、どちらかというと女性より男性が興味を持つ話題といえるような気がします。
しかし実は、私は男性よりも女性に知ってもらいたいという気持ちの方が強いのです。なぜなら、女性の方が本当は賢いと思っているからです。ある意味、男性は理屈で”理論武装”しないと自らを保てない存在なのかもしれません。しかし理屈なんて、それこそ星の数ほど掃いて捨てるほどあります。もっともらしい学問的なものを始め、個々人の「正しさ」を主張する理屈まで、いくらでもあります。コロナ騒動や温暖化詐欺はその典型です。理屈はお金で転びます。理屈は生命いのちにしっかりと根ざした感覚には最終的には簡単に崩れ去ってしまいます。母の一言には弱いです。


さて、本題に入ります。
私たちが住んでいる地球とある星、銀河との距離は何百光年離れているという表現はよく耳にすることがあると思います。その距離を測る根拠となる”赤方偏移”に疑問を呈したホルトン・アープは「何年もの間、私は質量が互いに引き合うという明白な事実に疑問を抱くことはなかった。”引力”はあまりにもあからさまで、考える必要がなかったのだ」といいました。

ですが、引力は引っ張る力だけで反発する力はないのでしょうか? ウィキには「重力(万有引力)は、引力だけが確認されており、斥力としての重力は確認されていない」と説明されています。

ウォル・ソーンヒルは「電気力は反対側の電荷の間では引きつけ、似たような電荷の間では反発し、重力は引きつけるだけに見えます。なぜなのでしょうか?」と問いかけます。電気の流れ、普段使っている電気のコードの中の電気は見ることはできませんが、磁石だとN極とN極が反発しN極とS極が引き付けあうのは、見えるので子どもでも知っています。


そして「ニュートンは、力=重力定数”G”という方程式で説明しましたが、これに2つの物体の質量を乗じても、疑問は解決しません。この質量はあの質量のことをどうやって知っているのか、どうしてそうなるのか。この方程式では、2つの物体の間の距離を2乗して割ると、うまくいきます。NASAはこの方程式を使って、太陽系をナビゲートしています。電気力と同じ力であることにお気づきでしょう。質量を2つの電荷に置き換えただけなのです。……この力は重力に比べれば非常に大きなものです。つまり、質量は電気的に理解できるかもしれないということです」と、物質の質量だけで重力を説明しようとする科学の常識に、まったく別の観点から理解できるかもしれないという可能性を示してくれます。
ですから「電気宇宙モデルは重力を捨てないということです。ファラデーが望んでいたように、重力を電気的な用語で説明するのです」


重力を理解する最初のステップとして
「重力と同じように、”ロンドン力”は常に引力であり、電気的に中性な原子や分子の間で非常によく働くので、物質や質量について話すことができるのです」とロンドン力というものに注目します。


※ ロンドン分散力(ロンドンぶんさんりょく、英語: London dispersion force)は、極性分子などが恒常的に持つ電荷や多極子ではなく、分子や原子などに量子論的に生じる一時的な電気双極子間の引力によって生じる弱い分子間力である。フリッツ・ロンドンにより示された。単に分散力、ロンドン力と呼ばれたり、瞬間双極子-誘起双極子相互作用とも呼ばれる。また、ファンデルワールス力は、狭義にはロンドン分散力を指す。
無極性分子は、巨視的には電気的に中性だが、実際には、極性を持つ複数の電子状態重ね合わせによって構成されており、電気双極子が内在していると考えることができる。このように量子論的に存在する電気双極子同士が相互作用し、分子間力としてはたらく。


重力を理解する2番目のステップとして、
「まず必要なことは、質量とは何かを定義すること」が前提だと言います。質量の定義は曖昧です。
「ラルフ・サンズベリーは、この電子構造というアイデアを発表し、この構造から磁力[言い換えれば、電気力の一種です]と重力[電気力の別の弱い形態です]を実際に導き出すことができることを示しました」
原子の中の電子は構造を持たないと主流科学では言われていますが、そこから
「ラルフ・サンスベリーは、電子の内部を周回する小さな亜粒子の速度を計算すると、光速よりも驚異的に速くなると言っています」
そこから
「ここからアンドロメダ銀河の向こう側まで1秒で移動できるだろうと計算しました」
つまり
「これは、時間を伴わないニュートンの法則に帰結します。言い換えれば、瞬時であると言うことです」
その意味で「ニュートンは正しく、重力は事実上瞬間的であり、アインシュタインは情報伝達の最大速度として光速を仮定して、発見の道から外れてしまったのです」といいます。これは量子論の人気のある不思議な理論を説明できます。


そして、肝心な、何が、重力を引き起こすのか? ですが、
「重力という非常に弱い力を生み出しているのは、整列したすべての素粒子双極子の総和なのです。そして重力は電気的に遮蔽することができません」


では、3番目のステップとして、なぜ重力が常に引きつけるのか?
「重力は棒磁石のように2つの極を持っています。これは、なぜ重力が常に引きつけるのかという質問に対する答えです。それは、私たちが地球の表面に立っているからです。
重力によって引き起こされた原子双極子は、弱い反発力を持つ内部重力場を形成します。地球内部では、これらの双極子のプラス端がすべて向き合っているのです。ですから、星や惑星では、原子間の引力は、この小さな双極子を所定の位置に保持するのに十分な強さを持っています」


そこから
「宇宙のすべての星や惑星は互いに反発し合っている」
「私たちは、私たちに誘導された双極子によって、地球と”結合”しているのです。磁気を帯びていない鉄の玉に磁石を当てたような効果です。したがって、重力は常に引力であると仮定し、また、地球上で測定される重力が普遍的な定数であると仮定するのは誤りです」


この「重力が反発する、これは奇妙な考えですが、新しいことではありません」といいます。
「物体の質量は、表面の電荷によって変化」するからです。
というのは、化石として残されている恐竜を想像してみてください。あれほどのデカい図体は現在の地球の重力の元では立つことさえ満足にできません。そういう素朴な疑問は不思議なことに無視され、問題にされません。つまり、重力が変わったかもしれないということです。巨人伝説や巨木の痕跡について知っている方は多いかもしれません。しかし、そういう情報について事実が隠されているという指摘はされていたとしても、なぜ?は疑問のままです。ここにその理由が隠されているのかもしれません。

また「ニュートンの法則を使って、太陽が月に及ぼす力と地球が月に及ぼす力を計算すると、月が地球と太陽の間にある新月では、太陽は地球の2倍の力で月を引っ張っている」そうです。
また、あの土星が水に浮くという話を聞いた事があるかもしれません。そういう記事が不思議物語として記事になっています。それは「地球で測定される”G”を用いると、水に浮く可能性が」あるからです。

ソーンヒル氏は「私たちは地球中心主義の過ちを繰り返しました。つまり、地球でGを測定し、それを宇宙全体に適用してしまった」
「”G”は普遍でも定数でもなく、実際、それは物理学で最悪の定義済みの定数です。測定するたびに違うし、同じ装置を使っていても違う」と指摘します。つまり、重力を電気的に理解すれば、重力が変わるということは不思議でもなんでもなくなるのです。


つまり「天文学は大問題を抱えている」のです。
「反発する重力があれば、衝突は回避される傾向にあります。しかし、天文学の問題は、引力のある重力の場合は、引力と衝突と爆発しかないことです。だから、最初にビッグバンが必要だったのです」


ですから「科学はシンプルでなければなりません。原子内の異なるスケールの荷電粒子の共鳴軌道系は、核力、磁気、重力を説明することができます」
「電気宇宙は、電気的な力が非常にさまざまなスケールで物質を組織化するパターンが繰り返されていることを示唆しています」
「何十億もの星に匹敵する見かけ上の重力を生み出しているのは、銀河の中心部にある電磁力と電磁エネルギーの集中です」
「従って、膨張しない電気宇宙の複雑な美しさは、電気的な物質の共振と、非常に異なるスケールでの電気的引力と斥力のバランスの結果であると言えるのです」


最後に、以前から「次元」という言葉の使い方に違和感を感じていました。それについて、ソーンヒル氏が指摘してくれました。
「ここで”次元”という言葉が使われると混乱が生じ、あらゆる種類の神秘的な話に巻き込まれることになります。実際、余剰(超)次元などというニューエイジ的な考えを始めたのは科学だと私は思います
電気宇宙では、その必要はありません。宇宙は私たちが持つ3つの物理的次元で観察するのと同じくらい素晴らしく神秘的であることができます。しかしそれはもっと深いところにあるのです

「次元」という言葉が幾何学的な概念を言っているのか、何か意識のレベルとして言っているのか、ごっちゃになっているんじゃないかと思っていました。特に量子論を引き合いに出したスピ系の記事に多く、本来の”科学”と神秘的なものが融合して、それなりに面白い解説がされているようです。ですが、この混乱は主流の科学が作り出した混乱だという気がします。結局、なんにも説明できないから最後は”神”頼みなのです。


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アインシュタイン理論の嘘

「ものセラ」から転載。私の苦手な理系記事なので、唯一理解できた(気がする)部分だけ転載する。
ついでに言えば、光を超える速さはない、という相対性理論の原則も嘘であるようだ。例えば、重力などは、「今、その場で相互干渉している」のである。つまり、光速を越える「今」「即時」という速さがあるわけだ。重力が「即時」以下の伝達速度なら、太陽と地球の位置関係は必ず変化してくるので、地球などとっくの昔に太陽からはるか離れた距離に消えているか、太陽に飲み込まれていたわけだ。
先に、同ブログから、上記の部分に関係する部分を引用する。「8分後」は重力が(仮に)光速で太陽と地球をつなぐ(往復する? たぶん、重力は往復はしない。)場合の時間だろう。

観測によれば、地球は太陽の瞬間的な位置に引き寄せられるのであって、8分後に空に見える位置に引き寄せられるのではありません。イギリスの著名な天体物理学者であるアーサー・エディントン卿は『空間、時間、重力』という本の中で、この問題について論じています。彼は、もし重力が有限の速度で伝播するならば、太陽の周りの惑星の運動は、惑星に働くトルクのために不安定になると指摘しています。


トルク英語torque)とは、力学において、ある固定された回転軸を中心にはたらく、回転軸の周りの力のモーメントである。一般的には「ねじりの強さ」として表される。力矩ねじりモーメントとも言う。

(以下引用)


彼は、光は光子と呼ばれる質量のない小さな粒子(量子)から構成され、光の周波数に比例したエネルギーを持つことを提唱しました。







光電効果◆物質が光を吸収して自由電子を発生する現象
光電効果(物質が光を吸収して自由電子を発生する現象)

ここでもまた、E=mc²に反して、エネルギーを運ぶ質量ゼロの粒子を導入するという、物理的に不可能な神秘主義にふけってしまったのです。これによって、電磁気学に不条理な波動・粒子の二重性が導入されました。

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「頑張れ」は呪いの言葉

先ほど、ぼんやりとあれこれ考えているうちに、かなり大事なことを思いついた気がする。
それは「頑張れ」が呪いの言葉である理由だ。

精神を病んでいる人間に「頑張れ」が禁句であることはよく知られている。
しかし、それがなぜか、ということを明確に言語化した人はいないのではないか。
それを簡潔に説明する。それは、英語との対比によって説明できる。

「頑張れ」を英語に訳するなら、ほぼ100%の人が「Do your best」と訳すだろう。
しかし、この両者には断崖のような差があるのである。

それは、「Do your best」には限界が示されているのに対し、「頑張れ」には示されていないということだ。「Do your best」は、自分ができる最善を尽くせば、そこが努力の終点だ。それ以上を求めるのは、酷だ、という了解が存在する。しかし、「頑張れ」には、その限界が示されていない。

つまり、どこまでやれば頑張ったことになるのか、分からないということである。当人がいくら頑張ったつもりでも、上の人間や周囲の人間には「頑張った」と認められない可能性が常にあるのである。これで心を病まないでいるのは、よほど図々しい人間だろう。大多数の人間は、この「無限の叱咤」に耐えられない。

以上が「頑張れ」が呪いの言葉である所以である。まあ、たいていの人は深く考えもせず、善意から「頑張れ」と他者を励ますのだが、その結果、相手を自殺に追い込んだりする。

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「左右完全対立思想」の愚かしさ

「東海アマ」ブログ記事の一節で、冒頭の「子供たち」は、ポルポト時代の子供たちのこと。
先にアマ氏の文章を載せてから批判的に考察する。

(以下引用)

子供達は、自分の両親でさえ平然と殺害するほど洗脳されてしまった。だから、若者たちを利権のために操作しようとするとき、どうやって洗脳するのか? がわかれば、世の中を自分たちの思い通りに操作できることになる。

 人情味豊かな思いやりのある人間にするためには、子供のうちに宮沢賢治の詩を暗誦させておけばよく、結果として犯罪の少ない素晴らしい社会になる。
 陰謀によって世界を支配するような人間性を育てるには、旧約聖書を暗誦させればよい。こんなことに気づいた日本の支配者たちがいた。
 それが岸信介・正力松太郎・笹川良一・中曽根康弘といった戦後日本を影から支配しようとした人たちで、彼らは国際勝共連合という組織を、韓国の文鮮明と協力して作った。
 それは、やがて「日本会議」という右翼思想統一組織に発展した。

(引用終わり)

この後に文鮮明のことなども出て来るが、それは置いておく。
「陰謀によって世界を支配するような人間性」の子供を育てる、という言葉自体が大きく的を外れているとも思うが(洗脳対象は、ただのロボットや奴隷的存在であり、「世界を支配するような」存在ではない)、それも置いておく。
問題は、右翼という存在を十把ひとからげにしていることだ。
私の認識では、笹川良一は一種の「国士」であり、「愛国者」であって、単なる「戦後日本を影から支配しようとした」人間ではない。日本の「左傾化」を憂えたという意味では右翼だが、右翼イコール悪党という認識は大間違いだろう。右翼にも左翼にもチンピラもいれば偉人もおり、悪人もおれば善人もいるわけだ。ただ、その行動の結果が「権力の集中」を呼び、それが日本に好結果をもたらすか、悪結果をもたらすかの違いだけだろう。
つまり、政治を「右左だけで単純に分ける」という思考そのものがアホなのである。
実際、戦後日本はアメリカ輸入の民主主義と自由主義で発展し、その結果、精神的に堕落して、社会は上級国民と下級国民に分裂した。前半は左翼的思考(社会主義的思考)による成功だし、後半は左翼的思考(自由主義)の暴走による倫理的破綻と「社会主義の放棄と社会の階級化」である。そのどこにも「右翼思想」は関係していない。当然、天皇とは何の関係もない。
ついでに言えば、社会主義と共産主義を混同すると、すべてが混乱する。つまり、「共産主義=悪」だから「左翼=悪」となってしまうのである。これもついでに言えば「左翼=リベラル」ではない。共産主義はリベラルの対極物である。つまり、全員が「共産(財産を共有する)」というルールに絶対的に従う意味では、桎梏の世界(非リベラル)なのである。一部の人間が世界の財産を独占するNWOは共産主義でも何でもない。強いて言えば広域奴隷制度思想だ。それに対して社会主義とは社会資本の一部を社会全体の福祉に使う(極端な資産の偏りの是正をする)という「自由性の高い」ルールなのだ。世間の大半の人が、この区別がついていない。まあ、初期社会主義の歴史を少し読めばいい。マルクスが否定した「空想的社会主義」こそが社会主義の本質なのであって、共産主義など害悪である以前に、まったく実現不可能な御伽噺なのである。一部の保守主義者による「リベラル=共産主義」というレッテル貼りが、すべてを混乱させている。(私自身は共産主義も「今の」リベラルも大嫌いである。)
右翼の話に戻る。笹川良一は、果たして「戦後日本を影から支配する」ことを望んだのか。では、彼の行なったあらゆる社会福祉事業は単なる宣伝で、その行為自体が悪辣で無価値だったと言うのか。そして、アニメ「一休さん」で子供に道徳や善行の大切さを教えたことも、「邪悪な洗脳行為」だったとでも言うのだろうか。競艇で金儲けしたのが悪い、と言うほど我々はギャンブル行為を完全に否定して生活を清らかに送っているのか。台風の夜に家族を集めて花札をした私の母は、子供を洗脳し、子供から金集めをしたかったのかwww








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忠と義が相克する時、どうするか(足利尊氏小論)

よく、「忠義」と簡単に言うが、忠が必ずしも義と一致しないことはよくあることである。簡単な話、自分の主人や上役が悪人で、悪行を部下に命じる時、その命令に従うのは、絶対に「義」であるはずがない。しかし、組織論的には忠と義は常に一致すると部下や下級国民に教えておくのが、上の人間には大きなメリットがあるわけだ。そう教え込まれた下の人間は「忠=義」というドグマに精神が侵されることになる。

なぜ、こういう話をするかというと、市民図書館から借りてきた「太平記」を読んでいて、もしかしたら、世間の人々の足利尊氏に対するイメージは、まったく間違っているのではないか、と思うようになってきたからだ。まだ、全体の3分の2くらいしか読んでいないのだが、ここまで、足利尊氏という人間がどういう人物だったのか、まったく顔が見えてこない。彼の個人的な言動がひとつも書かれておらず、誰と戦って、負けたとか勝ったとかいう話しか出て来ないのである。
で、世間のイメージはおそらく、「楠木正成=忠義の代表的人物」したがって、正成と敵対した「足利尊氏=悪人」、というものではないか。で、尊氏は、最初鎌倉幕府を「裏切って」後鳥羽天皇(後醍醐天皇)方につき、後鳥羽天皇(後醍醐天皇)が天下を取った後、反旗を翻して、楠木正成や新田義貞らを擁する天皇方に勝利して室町幕府を建てることになる。つまり、「二度も主君を裏切った」大悪党だ、というのが世間のイメージではないだろうか。だが、問題は、実は、彼が裏切った相手(主君)は、けっして正義の存在ではなかったことだ。これが、この文章の冒頭で言った「忠=義」とは限らない、ということだ。仕える相手が悪(人間性の話ではなく、たとえば後鳥羽天皇なら、建武の新政という無能極まる悪政、愚行のこと)なら、それに「従わない」こと、つまり「不忠」こそが「義」なのである。
もちろん、ここまで「太平記」を読んできて、まだ「顔が見えない」足利尊氏を「正義の人」と断定するつもりはまったくないが、実は、私が尊氏はその可能性があると思ったのは、図書館から借りてきた「太平記」の最初の方に載っていた尊氏の清水寺への願文の毛筆の筆致と、その内容からである。
私はもちろん書の素人であり、書を見る目もあるとは言えないが、書を見るのは好きである。
で、尊氏の書は、実に「品がいい」書だと思ったわけだ。書家の石川九楊は、「実用本位の武家の書」とけなして(?)いるが、私には、実に品のいい書に思える。
そして、内容が素晴らしい。私流に訳してみると、こういう内容だ。
「この世は夢のようなものでございます。尊氏に道心をお与えくださって、後生をお助けください。私は早く遁世いたしたく存じます。道心をお与えください。ただ今生の果報に換えて、後生をお助けください。ただ今生の果報は直義にお与えなさって、直義を安穏にお守りください」
直義は、尊氏が政治の実務を預けた弟で、この建武2年に足利幕府が始まるのである。
で、私がこの願文から読み取るのは、これがまったく本気であり、尊氏は現世の果報はまったく要らないと思っていた、無欲の人であり、無私の人でもあったのではないか、ということだ。歴史的な人物で言えば、実在しないという説が最近はかまびすしいが、聖徳太子、あるいは明治維新の大久保利通に近い人間性だと感じる。
そういう人物が歴史上の悪党ナンバーワンとされてきたのは、もちろん、太平記での楠木正成神格化のためであり、その思想の明治政府による拡大のためだろう。


(追記)今読み直して「あれ、後鳥羽天皇ではなく後醍醐天皇かな?」と思って確認したら、やはり後鳥羽は間違いだった。天皇の名前は混同しやすい。というか、私は暗記が非常に苦手なのである。覚えるのが嫌いで、考える方が好きだ。「建武の親政」も、「建武の新政」が正しいようで、先に漢字変換で出て来た「親政」をうっかり書いてしまった。もっとも、「建武の新政」は、ある意味では「天皇親政」だったのではないか。「親政」とは「自ら政治を執る」意味。だが、実際は、周囲の狡猾な公卿や僧侶たちの意見に動かされて、倒幕に貢献した武士たちの利益をまったく無視したので、武士たちに造反されたのである。そこが「親政」の難しさであり、私は「天皇は象徴的存在であるべきで、政治に関与するべきではない」という考えである。ある意味「天皇親政」だった明治から昭和は、巨大な発展も生んだが、最終的にはあの戦争を招いてしまった。まあ、帝国主義の時代に流された運命だったとも言える。

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「頭の良さ」と学歴

私の別ブログの過去記事から転載。学歴でしか頭の良さを測れない人間はかなり馬鹿だと思う。
ついでに言えば、「理屈の言える人間」の理屈は、その場の人間の大半に理解できないから「頭がいい」と錯覚されるのだと思うwww


(以下引用)


これは冗談抜きで、「頭が良いとはどういうことか」という大きなテーマを示唆している。日常的な言動では頭がいいのに、学校の勉強はまったくできないという人もいるし、その逆もいるのではないか。少なくとも、学校秀才が頭がいいと思った経験は私にはあまり無い。(まあ、あまり接触したこともないが。)その逆に、日常生活の上では頭がいいなあ、と思う人間が多いのだが、彼らはたいてい学校の勉強は苦手だった。
これは、考察する価値がある問題だと思う。
学校の成績の悪い人は、本当は頭が悪くはない。ただ、「理詰めで考える能力が低い」だけで、瞬間の判断や身近なことを記憶する能力は高いのではないか。で、理詰めで考える能力というのは頭の良さのひとつでしかないと思うわけだ。つまり、直感的に正解が出せる問題なら、理屈は不要であるわけで、そちらのほうがむしろ高度な頭の良さだと見ることもできる。ただ、不特定多数の人に「説明する」段になると、理屈抜きでは説明が説得力を持たないから、理屈の言える人間が「頭がいい」と多くの人に思われるのだろう。


借金玉
@syakkin_dama
「その学歴でなんでオーダー5つくらい覚えられないの?」という怒られはわりと人生で発生しましたが、「なんで作業しながら雑談しつつオーダー覚えられて、おまえ俺より学歴低いのか完全に意味不明」って返したらマジギレされたことある。





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「生きる」

まあ、簡単に言えば、サラリーマンというのは、会社(仕事)のためにすべての時間が使われるということである。退社後の時間も、翌日の出社のために計画的に使わないと仕事に差し支えるわけだ。食事、入浴、洗濯、睡眠、すべて計画的に使わないといけない。私は、会社勤務していた期間、読書時間がほとんど持てなかった。特に文学関係の本など読む精神的余裕は無かった。サラリーマンを引退してやっと毎日何時間も読書ができるようになったわけである。
そうして改めて思うのが、真の生活は頭の中にある、ということで、読書や外界の事象はその糧である。本を読む余裕も、外界の自然や出来事を静かに眺める余裕も無い生活とは、はたして生活なのだろうか。

(以下引用)

無職ニート状態から就職したけど、社会人時間感覚に驚いた

無職ニート状態から働き始めたのが、その時と比べて時間が過ぎるのが早いのに加えて、自分自由時間がかなり少なくなった。


感覚としては、仕事から帰って日常生活でやらないといけないことをしてたら、もう寝る時間になり起きたら仕事


このような感覚になっている。


まだ就職してから1ヶ月くらいなので、この生活に慣れていないのもあるだろうが、精神、体力共にかなり苦しい。


社会人の人は皆こんな感じで生活をしているのだろうか?


無職ニートの頃の時間感覚生活していくのは難しく、時間の使い方を相当上手くしないと生活を送るのは厳しく感じた。


少なくとも自分就職してから、あの時と同じ感覚生活していたが、かなり苦しかった。


そんな中おなじ社会人でも他の人を見ると、働きながらでもプライベートで、何かしら行動していたり知らない間に何か物事を進めている人がいたりして驚くことがある。


これは自分と違い、他の人は上手く時間を使っているからできるのだろうか?


だとしたら自分時間感覚を一気に変えないといけないように思った。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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