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現代倫理学(4)


「道徳・倫理の発生機序」


「道徳・倫理の発生機序」

道徳や倫理(この違いは明確ではないが、「倫理」に「理」という字が入っている以上、「道徳」を「合理的なもの」として集成した体系が「倫理」だと思われる。)は「禁止の体系」だと言われる。そして明らかに部族や社会の秩序維持手段として発生し成長したと思われる。
その根幹となる「禁止」は何か、と言えば、総体的には「欲望の禁止」だろう。ほとんどすべての道徳や倫理、あるいは宗教で「欲望」は禁止対象となっている。
だが、欲望の充足こそは人間が最も求めるもので、人生の目的と言っていい。それが禁止されるのが道徳や倫理だから、普通人が道徳や倫理、あるいは宗教を敬遠し、嫌うのは当然であり、中で「意識の高い人間」たちが、「道徳や倫理や宗教のような『人間性の自然に反するもの』がこれほど歴史の中で重視されてきたからには、それには単なる欲望の満足以上の貴重な精神的価値、人生的価値、社会的価値があるのではないだろうか」と考え、深く考察してきたわけだ。私のこの小論もそのひとつだ。
幼児や小児は道徳や倫理を知らない。そこで、彼らは自分の欲望を満足させるために泣いたり喚いたりして大人を困らせる。この、「欲望の達成は他者の迷惑になる」ということが倫理や道徳の発生機序だろう。大人は幼児や小児が何かを求めて泣きわめくと、それを与えて黙らせるか、脅すか叩いて黙らせる。この「脅し」が宗教での「地獄」などである。「叩くこと」が一般社会の「法律」である。他人の物に手を出す(盗む、奪う)と刑法で罰せられる。これは小児を叩くのと同じである。言葉で説得して相手の行為を止める(黙らせる)のが「道徳」や「倫理」である。だから、基本的に幼児や小児には通用しない。ただ、幼児や小児が欲望の対象として求める物は高価なものではないから、通常はそれを与えるだけで済む。
道徳や倫理は法律より「運用が困難」である。法律の背後には政府があり、警察や軍隊という暴力装置がある。しかし、道徳は基本的に「自分自身が自分の法律であり、法秩序の維持者」なのである。誰の心の中にも「自分ルール」があるが、それは自分の知った大人の影響や、自分の読んだ本の影響でできている。そうした個々人のルールの平均的なものが社会秩序の維持に役立つ場合、それが社会道徳となる。(「公衆道徳」は、普通は公の場でのルールだから、社会道徳とは少し違う。社会道徳は、ひとりでいる時も、個人を規制していることが多い。)
たとえば、「他人に暴力をふるってはならない」というのは基本的な社会道徳だろう。だが、それを守らないどころか、あえて無視する人間もいる。つまり社会の中の野獣だ。学校という治外法権の小世界では、よく見られる人種である。また、刑務所の中などでは、「ルール」はあっても「道徳」は無いだろう。道徳とは自ら進んで服する自己規律なのである。刑務所のような下層社会でなく、逆に社会の上位者の世界には特殊な「自分たちに都合のいいルール」があるようだ。これも「道徳」ではない。道徳の大半は、「他人への肉体的精神的危害を禁じる」もので、それを厳しく守ると他人より上に行けないものなのである。戦争という殺人行為は明白に道徳に反するが、しかし国家の命令では兵士はその殺人行為に従事するしかない。戦争において「戦争反対」を叫んだ宗教者は驚くほど少ないのである。つまり、彼らの「殺すなかれ」は大嘘であるわけだ。
「道徳」は普通は「人生を良く生きるためのアドバイス」であることが多い。しかし、大多数の人にとっては、その背後に道徳の履行を強制する「創造主」のような絶対的存在が無いから、その道徳を守るかどうかは個人の選択に任されている。

まあ、まだ言い落としていることがあるかもしれないが、とりあえずここで筆を擱くことにする。

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