日本の未来を担う若者たちが、自分の地位や収入ばかりに関心を向けて、「正義」に強い関心を示さなくなっていることは、これまでも何回も指摘してきた。
 だが、「正義=合理性」を求める若者たちの意思だけが、歴史と未来を作り出してきたのだ。
 正義を求めないことは、未来を放棄していることに等しいと私は思う。
 社会を良くしたいと思わない人々が増えれば、間違いなく社会は悪くなるのだ。

 日本から人口増加が失われたのは2008年だ。だが、世帯数は、それでも増加している。つまり、大家族が減って、孤立した小家族が増えたということだ。
 人間社会にとって、もっとも大切なことは、助け合う連帯関係を持った集団がいるということだ。
 連帯のある国には未来がある。だが日本には連帯がない。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/902c09781864ff47765290e1362caee1c8119c8d

 今から半世紀以上前まで、日本社会には、たくさんの共同体互助会があった。
 家族ももっと規模が大きく、「大家族共同体」というべき互助会だった。
 これを「親族共同体」という血縁ネットワークが支えた。
 さらに、企業自体も「職場共同体」だった。それは「同じ釜の飯を食う互助会」でもあった。

 半世紀前、日本人は、今の何倍ものコミニュケーション環境に置かれ、人々の対話は桁違いに重い存在だった。
 これらの互助会が、「やっていいこと、悪いことの評価」 「困ったことを助け合う」社会を作り出していた。

 だから、互助共同体のネットワークにいれば、犯罪を犯すことも、窮乏に苦しむこともなかった。「みんなで、一緒に生きていた」からである。
 何か間違いがあったり、失敗したりすれば、家族・親族がすぐに親身になって助けてくれた。人々は、「助け合い」そのものを生き甲斐にしていた。
 人に対して優しくできることが、人生の意義そのものだった。

 親族共同体には、「おせっかいばばあ」という妖怪がいて、私のように結婚できない男が老人になるまで放置されることは許さなかった。他人の不幸を、寄ってたかって解決しようとしたのだ。
 「幸せは、みんなで享受するもの」だった。みんな、他人の幸せが嬉しくて仕方なかったのだ。

 そんな時代の、日本人の哲学、世界観、人生観、価値観をひとつの言葉で表すとすれば、それは「人情」と呼ぶのがふさわしいのではないかと思う。
 だから、古き良き時代の人情を求めて、人々は寅さん映画を見ようとした。
 人情を題材にしない映画やドラマなど見向きもされない時代だった。

 そんな共同体(互助会)社会が失われていったきっかけは、おそらくバブル経済だろう。70年代末から80年代にかけて、金儲けのチャンスに沸く時代がやってきた。
 大半が不動産バブルによるものだったが、そのボロ儲けを狙って、雨後の竹の子のように、組織詐欺師が沸いて出てきていた。
 まずは豊田商事、ネズミ講で有名な天下一家の会、法の華、アースウォルカー、ライブリイ、WAO、統一教会や創価学会の金集めも、ほとんど詐欺に類した手口だ。

 これは「人情より金儲け」という価値観の転換がもたらした時代の結実というしかない。詐欺に欺される人は、他人を助けるより、自分が金儲けで優位に立って他人を見下せるという願望を利用されたのではなかっただろうか?

 みんなが、人情などより、金儲けだけが人生最高の価値と信じる新自由主義の時代がやってきた。
 土台になったのは、私には学校教育における儒教的序列付け、学歴競争をもたらした競争主義ではなかったかと思う。
 人に序列をつける学校教育での価値観が、バブル時代になって金儲け競争の凄惨な社会を産み出したと考えているのは、私一人だろうか?

 やがて、序列付け価値観は、深刻な差別を生み出し、子供たちの間に陰湿なイジメをもたらした。私も暴力的なイジメを受けた世代ではあるが、それは在日朝鮮人問題と絡んでいた。だが、今のイジメは、学校教育の序列主義がもたらしている残酷なものに見える。
 あれほど「他人の喜びが自分の喜び」だった社会なのに、他人の苦しみが心地よいような荒んだ心情を子供たちにもたらしている。

 私も、相当にひどい誹謗中傷と嫌がらせを何十年も受け続けているのだが、私の場合は、反原発姿勢を嘲笑し侮蔑するものや、学歴問題を持ち出すものが多い。
 https://note.com/love2mac2002jp/
 いまどき、中卒という中傷を平気で行える神経は、たぶん、この人物の出自が韓国系であることを強く疑わせるものだ。

 精神のねじ曲がった、この人物も、おそらく陰湿なイジメの犠牲者だったことが窺えるが、この男は、自分へのイジメを、他人に転嫁することで、気分を晴らそうとする世にも矮小な人間性である。
 竹中平蔵が、和歌山市の下駄屋出身だったことに通じるものがある。

 問題の本質は、若者たちが「他人を見下す」ことが正義であるかのように洗脳されてしまっていることだ。
 他人を見下せる気分を味わうためには、大家族であっては困る。孤立した小家族で、美人妻、イケメン夫、高級車、豪邸というアイテムを得て、みんなが羨むライフスタイルを作りたい。人との助け合いなど、まったく興味がない。

 パレスチナで大虐殺があっても、ウクライナで民衆の苦難があっても、どこかで人々が飢えていても、何の関心も持てない。
 ただ、自分の生活を他人が羨むようなものにしたいことだけが、人生のモチベーションになっている。
 他人を見下せない人生に、何の価値もないと考えているのだ。
 「人間は、他人と連帯して生きている」真実を見失った若者たちばかりになった。

 この傾向が始まったのは、たぶん1980年代だと思われるので、すでに40年以上だ。
 こんな差別化の価値観に乗って、レクサスやロードスターというブランドが登場してきた。社会全体が消費税のために貧しくなった今では、たぶんジムニーとかNBOXになっているのかもしれないが。

 若者たちは、他人を見下すのに一生懸命で、自分たちがなぜ貧しくなっているのか、その本当の理由を知ろうとしないし、怒ろうともしない。
 日本社会の問題が消費税にあることを理解しようともしない。そして、若者たちの多くが、自分たちを苦しめている元凶の自民党や維新党を支持しているのだ。

 だから2024年になっても、消費税は廃止されないだろうし、若者たちの生活が向上することもないだろうし、生活苦から出産子育てを避ける風潮も止まらない。
 「人情社会」に回帰したいと願う若者は見当たらないし、ガザの大虐殺に憤る若者の姿も見ない。
 つまり、世界の人々に連帯して喜びを共有しようとする若者が見えない。

 こんなことでは、日本社会は、このまま崩壊に向かうしかないと確信するしかないのだ。日本人全体が、意図しない集団自殺に向かう運命しか残されていないように見える。
 何が正しくて、何が間違っているのか? どんな社会を目指さなければならないのか、ネット上を見ても、希望の持てるビジョンが、どこからも示されていない。

 何度も書くが、我々は、「人情社会」を復活させることしか、未来を生きることはできない。人々が連帯して、間違っていることを許さないと声を上げることしか、社会を変えることはできない。
 ガザやウクライナの現状に憤らなければ、我々自身が同じ運命に向かうしかないのだ。

 元旦、私は相変わらず一人で生きている。もっとも子供の頃、家族と一緒にいた以外は、ただの一度も、正月を他人と過ごしたことはない。
 まあ、落ちこぼれ人生だから仕方ないのだが、残念なことに、私は世間の女性たちから配偶者として選ばれないまま年老いてしまった。まあ婚活経験もゼロだが。
 だが、私にとって、正月は厳冬の山で過ごしていた方が快適だった。

 私には、わずかな超能力があって、ほんの少しだけ未来が見えるのだ。そして、今の私の耳には、日本が滅亡する跫音しか聞こえない。
 消費税廃止の機運が見えなければ、日本社会が元気を取り戻すこともできない。
 だが、未来を担う若者たちの誰からも、消費税をやめろという声が聞こえてこない。だから、日本社会は、このまま韓国とリンクして滅亡してゆくのだろう。

 今年か来年には、誰一人経験したことがない、恐ろしい天災がやってくると、たくさんの人が予言している。出口王仁三郎に至っては、日本人は3%も生き残るのが難しいと言った。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5967194.html

 2025年7月には、史上最悪の天災がやってくると竜樹諒が予言している。
 https://bunshun.jp/articles/-/58981

 日本が本当に良くなるのは、何もかも失って、1940年代のように助け合わなければ生きてゆけない社会になってからなのか、と私は思っている。
 高さ100mを超える津波が襲ってきて、何もかも破壊される。実は日本人は、そんな災厄を繰り返し受け続けてきた。
 だから、世界有数の優れた民族になったと考えている。
  
  このまま人口が増えなければ、地球社会の主役は、最大の人口を持つインドが担うことになるだろう。
 中国は確実に崩壊する。もしかしたら大半の人が死んでしまうかもしれない。
 もちろん、その前に、中国を脱出できる人々が大量に日本に移住してくる。韓国も同じだ。

 これから、我々は北朝鮮という国と民族が、この世から消滅するような事態を目撃することだろう。そして、中国は、自国崩壊の矛盾を台湾侵略に転嫁しようとする。
 そのとき、尖閣諸島で、戦後80年で初めての軍事衝突が起きる。その先は、日本本土への核攻撃も大きな可能性を持っている。
 2024年、中国共産党による尖閣侵略から日本社会は、動乱に叩き込まれると覚悟するべきだ。