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頑迷人間の「恋愛論」

小谷野敦の「退屈論」は、まだ半分しか読んでいないが、それ自体退屈な内容で、書かれた内容のほとんどは平凡だし、小谷野敦の本らしい文章の面白さもあまり無い。読書に付随する、自分自身の思索の面白さというのもあまり生じないのは、退屈という題目自体があまり面白くないのだろう。
だが、一か所、面白いと思った部分があって、それを先に引用する。

(自分に経験の無い事柄、小谷野の場合は三角関係などの「特殊恋愛」について、自分は理解ができない、と書いた後で)「そりゃあおかしい、だってシェイクスピアの作品には王子とか国王とかが出てくるが、われわれはそういう人種ではない、と言う人がいるだろう。けれど、そういうのはいわば月や太陽であって、誰からも遠いけれども大きいから地球上のどこからでも見える。姦通する女というのは、そういう事柄から遠い者にとっては、いわば外国であって、太陽や月より近いけれども見えない、そういうものである。

これは、私がなぜ「アンナ・カレーニナ」や「ボヴァリー夫人」をまったく読む気にならないのか、ということの見事な説明になっている。あえて言えば、女性作家の書いた恋愛小説にほとんど興味が持てない(ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」を除く。これは大傑作。ユーモアの要素が大きいのが読みやすさの理由だろう。つまり、大きなくくりでは「ラブコメ」である。「嵐が丘」も恋愛小説とするなら、これも傑作。キチガイ同士の恋である。)のも同じだろう。私が女性作家で読む気になるのは、推理小説くらいのものだ。
ただし、少女漫画は、男の漫画家よりはるかに優れた作品が膨大にあると思っている。これは、漫画というジャンルでは、「絵で表現される」という特殊性がある(それに読者年齢がある程度想定されて描かれる)ため作家の主観垂れ流しにならないからだろう。だから、精神が子供の私は少女漫画は楽しく読めるが、私とは精神的に無縁(小谷野の言葉を借りれば「外国」)の成人女性向けの漫画はまったく読む気にならない。たとえば「ナナ」などがそれだ。

ところで、「男の浮気と女の姦通」は同じと見ていいのだろうか。世間的には前者は軽く見られ、後者は重大視される傾向が(文学に描かれたように)かつてはあったと思うが、現代日本では、特に若い男は「恋愛も結婚もいいや」と考える傾向があるようだ。そうなるとつまり、浮気も姦通も問題外で、セックスはするが、恋愛も結婚もしないという世代がこれからは主流になってきそうである。
これは富の極端な偏在の結果でもあるが、恋愛の幻想が失われた世界というのも、何だか索漠とした印象だ。少なくとも「セックスが恋愛の到達点」というのは大人の間では完全に幻想化というか、思想的にオワコン化したと思う。むしろ、セックスしたら(性愛は生まれても)恋愛は終わり、ではないかww 
結婚はまた別の話で、こちらは「人生設計」の問題だ。
恋愛はその成分のほぼ9割が幻想と妄想だろうが、だから無価値というわけではない。むしろ、その妄想性こそ価値があるので、某アニメソングで恋愛の名人は「片思いが一番」、と言っている。「葉隠」の「忍ぶ恋こそよけれ」である。

(6月27日追記)

読みかけの幸田露伴「風流仏」に、とある老人のこういう述懐がある。送り仮名は原文のまま。

爺の考では恐らく女に溺れる男も男に眩む女もなし、皆々手製の影法師に惚るらしい



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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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