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言葉と文化

昨夜は、寝る前に恩田陸の「蜜蜂と遠雷」の文庫本下巻を読み始めて、つい10時過ぎまで起きて最後まで読んだのだが、感想は「完璧性に欠ける大傑作」というものだ。これは、文章で音楽を描くという超難事業に挑んだ当然の結果であるが、単純に、雑誌掲載作品だったため、締め切りに追われて執筆に余裕が無かったためではないかと思う。具体的には、或る音楽の楽曲を長編小説にたとえて説明した部分で、ここはまったく説得力が無いと私は感じた。たとえば、ベートーベンの「田園」あるいは「戦争交響曲(ウェリントンの勝利)」、あるいはチャイコフスキーの「1812年」などは小説的な印象も持つだろうが、それは「田園風景」や「戦争の情景」を連想させるだけで、「長編小説」ではない。
それ以外の音楽描写は見事なもので、文章で音楽を描くということをここまで達成した例は稀有だろう。筆者自身が音楽演奏経験者だったことが大きいようだ。

で、この小説の中で、或る「音楽(ピアノ)コンテスト」での上位入賞者と言うか、第三次予選出場者の12人のうち4人が韓国人だったという記述があり、それはおそらく、この作品のモデルとなったコンテストの或る回の事実に即している面もあったのではないかと思う。ピアノを習うことができるというのは「上級国民」の特権であるとすれば、韓国には上級国民層が生まれて育っていたということになる。もちろん、最近の韓国の経済的退潮から見て、その状況が続くかどうかは分からない。(いちいち調べるのも面倒なので、ここに書いたことは、すべて記憶によって書いたいい加減なものである。)

で、今朝目覚めて、まだ早いので枕元に置いてあった、市民図書館から借りてきた「少女小説」とされて出版されたシュトルムの「三色すみれ」の冒頭部分を少し読んだが、文章がですます調の敬体で書かれていて、これは翻訳上の選択の結果だろうな、と思った。原文のドイツ語に常体と敬体の区別があるとは思えないからだ。

そして、ベッドから起きてコーヒーを淹れながら考えたのが、目覚めの時の思考の影響か、「韓国語」のハングル表記は、科学には向いていないのではないか、ということで、これは中国語の漢字表記にも同様のことが言える。つまり、科学は数字を扱う分野だが、オール漢字表記で数字(数学)は扱えないと断定していいかと思う。日本語の表記も同じで、これがアジアで科学が発達しなかった最大の理由だとも考えられるというのが私の説だ。
欧米的に横書き、左から右への表記にすることで、アラビア数字との一体性は出せるが、科学における欧米の「先行者特権」を揺るがすのはかなり困難だろう。植民地同様、文化の面でも「欧米植民地化」が地球全体に広がっているのである。

無理やりに冒頭の記述とつなげるならば、音楽は言語とはほとんど無関係だから、或る種の「世界共通文化」でもあるわけで、文化的後進国でも音楽では先進国と肩を並べられるわけである。ただし、そこには「文化にカネをかけることができる」特権階級(上級国民)の存在が必要になる。





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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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