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「宗教家」と「宗教者」

「大摩邇」所載の「in deep」記事(だったと思う。まあ、岡氏の記事だ。)の末尾の引用文で、私は宗教家というのが嫌いなのだが、下に引用するこの言葉は(現代では常識だが、それが本当には常識として機能していない。つまり、単なる頭の片隅の知識でしかない。)今の世界の最深奥の問題を明示していると思う。まあ、タラビッチという人物は「宗教家」ではなく「予言者」らしいが。
ついでに、なぜ「宗教家」が嫌いなのかを言えば、ある宗教に属するだけで、それはすでに「党派」の一部になるからである。「党派」とは「党派の利益」が最優先され、つまり自分の良心や理性に背く行為も行うようになることを意味するのである。(混沌堂主人の非論理性、愚論や同じ党派の人物への盲信や執着という根本的欠点もそこにあるだろう。)つまり、デカルト的な「人間としての根本的理性」から外れるからである。
ただし、個人的に心の中である宗教を信じるだけならば、その害悪性は低い、あるいはほとんど無くなり、むしろその「善行」が周囲に利益になるだろう。言い方を換えれば、私は「宗教家」は嫌いだが「宗教者」は好きだ、とも言える。

(以下引用)


19世紀のセルビアの予言者であるミタール・タラビッチ(1829 - 1899年)という人のクレナムの予言というものをよく思い出します。


そこから一部抜粋して締めさせていただきます。全文は、こちらの記事にあります。



ミタール・タラビッチ「クレナムの予言」から抜粋

人間の魂は悪魔にのっとられるのではない。もっと悪いものにのっとられるのだ。


その頃の人間の信じているものには真実などいっさいないのに、自分たちの信じる幻想こそが真実だと思い込むのである。


人々はきれいな空気を嫌い、神々しいさわやかさと美しさは、人間が作った上下関係の階層関係の中で見えなくなってしまう。


しかも、これは誰かから強制されてこのようになるわけではない。人間は自分の自由意思からこうしたことを行うのだ。


知識が増大するにつれて、この世の人間たちは互いを愛したり心配したりすることはなくなる。


彼ら相互の憎しみはあまりに大きく、彼らは自分の親戚のことよりも、自分たちのもっている所有物や小物のことを気にかける。


人々は、自分の隣人の人間よりも、自分がもっているいろいろな機械や装置のほうを信頼する。


その時代には、多くの数字が書かれた本を読んだり、あるいは書いたりする者たちが、もっともよく物事を知っていると考えられる。


これらの教育のある者たちは、自分の人生を計算に基づいて送ろうとし、数値の命ずるままに行動する。


こうした人々の中にも悪人と善人が存在する。悪人は悪行を平気で行う。たとえば、空気や水、そして河川や土地を汚染し、このため人々はさまざまな病気で死ぬようになる。


善人で賢いものたちは、数字から導かれた努力にはなんの価値もなく、それはただ世界を破壊するだけであることを悟るようになり、数字に答えを見いだすのではなく、瞑想を通して真実を発見しようとする。


しかし、時はすでに遅い。悪意をもつものたちが全世界を荒らし回っており、膨大な数の人々が死に始めるからである。

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