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ユダヤ的発想が、今のイスラエルの姿勢と結びつくわけ

引用文を書き起こすのが面倒だが、先にやっておく。山本七平「日本人的発想と政治文化」からの転載である。
まず、この文章全体を読んで、何か論理的違和感を覚えないだろうか。先に言っておけば、ヘブライ語そのもので論理的議論が可能かどうかと、その後に続く「日本人批判」との関連が妥当かどうかだ。

(以下引用)文中の(も)は私の補足。

ギリシア語は分析的であるのに対し、ヘブライ語は包括的である。たとえば「罪」という言葉(アオン)は「罰」という言葉で(も)ある。罪を犯すということ自体が罰であるという形に包括してしまう。日本語に訳す場合は、文脈で「罪」と訳したり「罰」と訳したりする。
ところが、ある文章が、たとえば「その罪は重過ぎて負いきれません」と訳すこともできるし、「その罰は重すぎて負いきれません」とも訳すことができる場合、意味が違ってくる。一方は、自分の罪は重すぎて、どんな罰を加えられても負いきれないの意味であるのに対し、一方は、大したことをやっていないのにそんな罰を下されては、重くて負いきれないという意味になる。一体どちらかなと迷う。
単語のひとつひとつはイデオロギーで、それだけ切り離してもどうにもならない。グレゴリー・クラーク氏がいうように、単語のひとつひとつがイデオロギーなのに、日本人は平気でそれを日本語のなかにまぜるから不思議だという発言も出てくる。ところが、日本では原意の何かを抜いて日本的イデオロギーに変質させてしまうから平気なのである。

(以上引用)

どうだろうか。私はこの連続する三つの段落の最初の二段落を読んで、ヘブライ語の非論理性と、ヘブライ語で議論をするのは不可能だという、ヘブライ語批判に帰結するのかな、と思っていたら、それが突然日本語(日本人)批判になって驚いたわけである。
どうだろう。ドストエフスキーの「罪と罰」をヘブライ語にして「と」だけ日本語にしたら「アモンとアモン」になるわけである。そういう言葉で議論が可能だろうか。
つまり、これは「議論はラビ(ユダヤ教の師父)の専権事項であり、民はそれに従うだけでいい」という高圧的姿勢以外になりようがあるだろうか。民衆支配の言葉としては使い勝手はいいだろうが、少なくとも、こうした言葉で論理的議論が可能だとは思えない。常に、「過去の解釈」を土台にして裁きは行われることになるのではないか。そしてそれは差配者の恣意的裁きにしかならないだろう。
とすると、ユダヤ人は頭がいいという「世間の常識」もかなり怪しくなってくる。単に、「ノーベル賞はユダヤ人が主にユダヤ人に与えるから、ユダヤ人からノーベル賞受賞者が大量に出る」という、当たり前の話と、偉大な科学的発見や文化的創造をした者は「あれはユダヤ人だった」と後付けしているだけではないのか。
そして、「言葉自体がイデオロギーである」という発想もユダヤ的、あるいは西洋的な「初めに決めつけがある」という、天地創造主的な発想ではないか。いかにして相手を圧伏するかが議論の目的になるのであり、お互いの協調や(より強い側の、人道に基づく)譲歩は最初から度外視されていないか。



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