そこから、どういう経路でか、「宗教というのも、我々の間で吹き荒れている慰安なのではないか」という思考に至ったのだが、つまりはそれが宗教の「現世利益」であり、それは決して馬鹿にできるものではない。来世に天国に行けるかどうかではなく、その宗教を信じることによる慰安こそが宗教の価値なのだ、というわけだ。
というのは、キリスト教には「死んで天国(神の国)に行けるかどうかは最初から定められている」という恐ろしい思想の宗派があるからだ。とすると、現世で善行をしようが悪行をしようが、無関係だ、ということになる。あるいは、我々の行為は最初から決定されており、自由意志などない、という思想になる。そのどちらも現世の道徳を無化する恐ろしい思想だが、案外、平気で悪行をする宗教者や宗教信者はそういう思想かもしれない。
つまり、宗教が道徳的かどうかは、その宗教と無関係だ、という思想になり、たとえばオウム真理教も、信者に「生きる意味」を与えたとすれば、宗教としての存在意義はあった、となるかもしれない。
「予定説」について、ウィキペディアから引用する。
予定説(預定説、よていせつ、英語: Predestination)は、聖書からジャン・カルヴァンによって提唱されたキリスト教の神学思想。カルヴァンによれば、神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとする(二重予定説)。神学的にはより広い聖定論に含まれ、その中の個人の救済に関わる事柄を指す。全的堕落と共にカルヴァン主義の根幹を成す。
予定説を支持する立場からは、予定説は聖書の教えであり正統教理とされるが、全キリスト教諸教派が予定説を認めている訳ではなく、予定説を認める教派の方がむしろ少数派である(後述)。
内容
[編集]予定説に従えば、その人が神の救済にあずかれるかどうかはあらかじめ決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないとされる。例えば、教会にいくら寄進をしても救済されるかどうかには全く関係がない。神の意思を個人の意思や行動で左右することはできない、ということである。これは、条件的救いに対し、無条件救いと呼ばれる。神は条件ではなく、無条件に人を選ばれる。神の一方的な恩寵である。
救済されるのは特定の選ばれた人に限定され、一度救済にあずかれた者は、罪を犯しても必ず神に立ち返るとされる[1]。これは、聖徒の堅忍と信仰後退者の教理である。[2][3]