一方で、これといった特色もなく、国の農業補助金でなんとか長らえていた農業は、高齢化による、国家財政の急速な悪化で、補助金を打ち切られ、どんどん経営が苦しくなっていった。
そして、大量の中小企業の倒産、商店街の崩壊、企業プロセスの透明化による本来的な意味でのリストラクチャリングによる大量失業により、一時的に街は失業者であふれた。ホームレスであふれた。
しかし、膨大な借金を抱えた政府は、失業者対策を行おうにも、そのための予算がない。そこで、累進課税率を引き上げ、高度知識経済の恩恵を被ることになった高生産性の知識労働者たちから、膨大な税金を徴収することにした。すると、おそれていた副作用が生じた。もともと、ただでさえ、累進性が高く、やたらと高い税金を収めていた日本の高額所得者は、とうとう耐えきれなくなって、我先にと、税金の安い海外で居住を始めたのである。国籍を変えなくても、年の2/3以上を、国外で暮らせば、日本には税金を収めなくてよくなるからだ。そして、職場環境が、徹底的にオンライン化された現代においては、知識労働者は、基本的には、どこの国でも働けるのである。
こうして、累進税率の引き上げは、税収を増やすどころか、逆に大幅な税収減をもたらした。そして、その流れはやむどころか、ますます加速度的になると見た日本政府は、税率をもとに戻したが、時すでに遅し。海外でも、オンラインで十分に仕事ができるということを理解し始めた知識労働者は、もとの税率に戻ったとはいえやはり高額所得者の税率の高い日本へは戻ってこないどころか、その流れは止まらなかったのである。そして、とうとう、日本政府は、苦渋の決断をするに至った。なんと、高額所得者の累進税率を、実質的に下げることにしたのである。それは、所得税の大減税と、消費税の大増税という形で行われた。所得税には累進性はあるが、消費税には累進性はないのだ。
そうして、膨大な借金をかかえたまま、膨大な税収減まで抱え込むことになった日本政府に、もはや失業者対策をする財源など残っていなかった。この結果、またしても予想外なことが起こった。なんと、日本の失業率が、激減したのである。
いったい何が起こったのか?
起こったのは、日本のメキシコ化であった。前世紀末から今世紀初頭にかけて、日本に比べ、遙かに貧しく、生活の厳しい人の多いメキシコの失業率は、日本より遙かに低かった。なぜかというと、失業した人が、生活防衛のために、とにかく、屋台や露店をはじめ、自分で自分を雇用してしまうからだ。メキシコの道路は、そういう露店であふれかえっている。
しかし、日本の場合、すでに、日本中に百円ショップがあふれており、メキシコのように露店を開くわけにはいかない。そこで、日本の失業者たちは、過疎化の進む、山奥の農村へと向かった。
前世紀の末から、今世紀の初頭にかけて、何百年も続いた、日本の山々に散らばる無数の山村が、急速に進む過疎と高齢化で維持できなくなり、残ったわずかな老人たちは都会に住む子供たちの家族に引き取られ、懐かしい故郷の家々も、小学校も、幼い頃遊んだ田畑も、無人になり、放置され、藪に埋もれ、その長い歴史を閉じ、廃墟となっていった。こうしてたくさんの村がたくさんの思い出とともに哀しく消えていった。
ところが、日本の山村の崩壊と消滅が、ある時を境に、急激に少なくなった。都会で失業し、にっちもさっちも行かなくなった失業者たちが、山村を訪れ、自給自足の生活を開始したのだ。
山村では、それほど現金がなくても、暮らしていける。野菜は、自分の庭や家の周りの畑で育てる。山から薪をとってきて、煮炊きをする。タンパク源は、大豆と鶏の卵程度で十分だ。日本人は、そうして、何千年も生きてきたのだから。そもそも、日本人の体は、炭水化物と野菜中心の食生活に適応するように、最適化されている。
もちろん、楽な暮らしではない。自然に囲まれた生活とは、ベジタリアンが思い描くような、理想郷などではない。とにかく、食料の調達、衣服の修繕、畑の世話など、やることはたくさんある。しかし、極度に競争的な全世界的なスケールでの知識経済社会のすさまじいストレスが、山村での暮らしにはない。とくに、知識経済に十分適応しきることができなかった、ごく普通の能力の人々にとって、知識社会は、地獄のようにストレスフルな社会だった。鬱病や自律神経失調症など、精神に変調を来す人も、多かったし、異常に高い自殺率は、低下するどころか、ますますあがっていった。ストレスが原因と言われる、花粉症、喘息、アトピーは、ますます増えていった。だれもかれもが、ストレスに苦しんでいた。
ところが、都会を離れ、山村で自給自足の生活をはじめて半年もたたないうちに、鬱病、花粉症、喘息、アトピーがすっかりなくなる人がよくみられた。年収は、ほとんどないに等しいし、娯楽らしい娯楽もない。ときどき、自分たちでつくったどぶろくやつまみの漬け物や山で釣った魚の干物を持ち寄って、集まって呑んで騒ぐぐらいなものだ。夜は、耳鳴りがするほど静かで、山々のざわめきが聞こえる。電気もなく、松ヤニで作ったろうそくしかないので、早く眠り、早く起きる。しかし新しい村人たちの、表情はなぜか明るい。そんな不思議な生活だ。
ただ、ほとんどの人は、山村での暮らしを始めたわけではない。それは、にっちもさっちも行かなくなった失業者たちに限られていた。やはり、ほとんどの人は、「そこまで落ちる」のはいやだと思いこんでいたし、競争が過熱化するグローバル知識経済社会の中で、なんとか生き抜こうとしていた。もちろん、途上国を含めた、全世界の労働者との競争にさらされ、失業はしないまでも、収入はどんどん下がり、消費税はどんどん上がり、生活はどんどん苦しくなっていった。いままですんでいた部屋の家賃が払えなくなり、より家賃の安い部屋に引っ越す人は増えていった。都会に住みたければ、日当たりが悪く、極端に狭い部屋にすまなければならない。ある程度条件のよい部屋にすみたければ、郊外へ引っ越すしかない。
一方で、極めて生産性の高い部類に属する知識労働者たちは、所得がどんどん増えていった。なぜなら、「できる」知識労働者は、全世界的に見ても、その絶対数が少ないのにもかかわらず、社会と経済のシステムの高度化に伴い、ますます需要が増大していったからだ。また、途上国の「できる」知識労働者も、世界中から引く手あまたで、その年収はすさまじく高くなっており、日本の「できる」労働者たちは、価格競争にさらされるおそれがなかったためだ。
この結果、世界の消費者市場は、高所得者マーケットと低所得者マーケットに、明確に二分された。もちろん、低所得者マーケットの方が、人口ははるかに多い。従って、スケールメリットがとてもきく。しかし、トータルの経済規模は、高所得者マーケットの方が巨大だった。
そして、面白いことに、低所得者マーケットにしろ、高所得者マーケットにしろ、その供給者の中核は、どちらも高度知識労働者たちなのだ。百円ショップや、格安食堂、激安衣料品店の、店舗オペレーションシステムを徹底的に低コストで、効率的に設計するのも、「できる」知識労働者の高度な頭脳のなしえる技だからだ。凡庸な労働者を何万人集めたところで、少数精鋭の高度な知識労働者チームの足下にも及ばないのだ。
そもそも、監視カメラの値段や回線コストが劇的に下がったため、店舗には、無数の監視カメラが備え付けられており、その監視カメラは、海の向こうの、冗談みたいに安い労働者が監視している。さらに、無線ICタグも、劇的に値段が下がってきており、すべての商品が、無線タグで、精密に監視され、コントロールされている。このため、ほとんどの店舗が半ば無人だ。実際には、無人のように見えて、ネットワーク越しに監視されているわけだけれども。もちろん、なにかトラブルがあれば、すぐに警備員や修理要員がかけつけるようなシステムができているし、何しろ、すべてがネットに録画されているのだ。とても悪いことはできない。また、強盗に入ろうにも、ほとんどの店は、いまや電子マネーだ。前世紀のように、レジをこじ開けて現金をつかみ取ろうにも、そもそも現金がないのだ。
そういう、徹底的に無人化され、自動化された、スケールメリット追求型の格安店舗やサービスに比べ、高額所得者向け店舗には、比較的多くの従業員がいた。もちろん、前世紀のように、レジに長蛇の列ができ、従業員が現金を数えるというような、不効率は徹底的に排除されている。そうではなく、高額所得者の所得に比べると、低額所得者の人件費コストが相対的に低下したため、美しい受付嬢や、エレベータガールなどのように、花瓶に美しい花を飾って店舗を美しく飾って客をもてなすのと同じような感覚で人を配置するようになったのだ。
そして、やはり、前世紀末に、アメリカ合衆国で現れ始めた要塞町が、日本でも一般的になった。すなわち、高額所得者とその関係者のみが、立ち入ることのできる高い柵と、厳重な警備システムに守られた、要塞のような街である。その中には、たくさんの道路があるが、すべて私道である。その要塞町の住人のみが、通ることのできる道だ。その中の商店街も、その町の住人のためだけの商店街だし、そのなかにある学校も、その町の住人の子供しか入れない。
ただ、その町の住人のすべてが、高額所得者というわけではない。むしろ、どの要塞町も、単純に頭数から言えば、高額所得者よりも、その町を維持したり、各家庭の雑用をこなすために住み込みで働いている使用人の数の方が多い。所得格差が極端に大きくなったために、前世紀初頭に世界中で一般的だった使用人制度が復活したのだ。
ただ、前世紀初頭と異なるの点として、要塞町の使用人が、膨大な数の監視カメラと、無線タグとバイオメトリクス、そして、ネットワーク経由の警備会社により、徹底的に監視されマネージメントされているという点がある。
また、要塞町は、それぞれ特色があり、同じ価値観を持つ世帯同士で、それぞれの別の要塞町を形成している。最近ネット上で、女性団体にやり玉に挙げられ、非難を受けているのが、独身男性ばかりで形成される要塞町だ。その街では、各世帯に住み込みの使用人のほとんどが若い女性であり、性的サービスが前提とされるケースも多く、それが問題視されていたのだ。低所得者層の女性にしてみれば、狭くて汚くて日当たりの悪い部屋と百円ショップの安い雑貨と食品を食べてこのまま歳をとっていくくらいなら、まだ若くて美しくて自分を高く売れるうちに、高所得の男性に囲われて、要塞町の、清潔で、快適で豊かな暮らしを享受したいという打算があるのだろう。要するに、前世紀初頭の「おめかけさん」の復活である。
さらに言うと、結婚はしないものの、子供ができた場合、高額所得の男性は気前よく認知してくれるし、養育費も、気前よく払ってくれる。そして、優秀な男性の遺伝子を受け継ぎ、高度な教育を受けた子供が、将来高額所得者になってくれれば、自分の老後も安泰である。それは、ある意味、きわめて合理的で賢明な人生戦略であり、ビジョンである。彼女らおめかけさんにしてみれば、フェミニスト団体の主張する女性の尊厳など、くそくらえというところだろう。
そうこうするうち、なんと、長年低下傾向だった日本の出生率が上昇に転じた。ただし、結婚率は、劇的に低下している。もう、何が起こったかは、誰の目にも明らかだった。要するに、実質的な一夫多妻制になったのだ。高額所得者の男性の中から、要塞町の中で、たくさんの女性を囲い、たくさんの子供を生ませるというライフスタイルを持つ人が激増したのだ。
こうして、いまや、発展途上国が、先進国化するだけでなく、日本のような先進国が、発展途上国化することとなった。途上国だけでなく、先進国も、辺鄙な山村には、文明から隔絶された自給自足の農民が暮らしている。先進国において、近代文明の象徴であった男女平等の結婚制度は崩壊し、中世の一夫多妻制に逆行した。産業革命によって、労働者として独立した使用人たちは、またもとの使用人に戻っていった。
こうして、グローバリゼーションは、結果として、先進国と発展途上国の格差を埋めることになった。社会や文化の構造まで含めて、似たような構造に追いやったのだ。
しかし。。。。これは果たして、人類の勝利なのだろうか?はたして、インターネットとグローバリゼーションは、人類を幸福にしたのだろうか?そして、これはいつまで続くのだろうか。また、所得格差が縮まり、近代的な一夫一婦制が復活する時代がやってくることもあるのだろうか?少なくとも今は、その兆候は、まったく見られないのだけれども。