まず、なぜ「朱子学は存在しない」と言うかというと、朱子は自分自身のオリジナルな思想があるのではなく、それまでの儒学を体系化し、「四書五経」を選定し、「四書」を「五経」の上に位置づけ、さらに、「論語」を四書のひとつと位置づけることで孔子や「論語」を格下げし、「四書」の順序を「大学」「中庸」「論語」「孟子」とすることで、「大学」や「中庸」は「論語」以上の価値があるという「無意識を操作した」のである。
そういう意味では朱子は孔子の「敵」とも言えるだろう。
ただし、「大学」や「中庸」の持つ、一種の見かけの「論理性」は、こけ脅かしには最適のもので、それだけに「政治教科書」や「公務員教科書」としては使用しやすかったわけだ。
その「論理性」が見せかけのものだ、ということを「格物致知」を例にして説明する。
最初に、その「格物致知」がどういうように登場するかを引用する。
「古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は、まずその身を修(おさ)む」
「その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。知を致すは物に格(いた)るにあり」(大学・経一章)
まあ、セールスマンの早口トークを聞いているように催眠術にかけられそうなセリフだが、このどこにも論理性は無い。
念のために、どこでもいいから「なぜ?」という言葉をはさんでみるがいい。「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む」「なぜ?」
国を治めるという「君主にしか通用しない話」を、なぜ「公務員」が学ぶのだ?
つまり、ここですでに「朱子学」の欺瞞性が見えるのだが、末尾の「格物致知」が気になる人のために説明をする。
「格物致知」を「物に格(いた)り、知を致す」と読ませる漢学者が多いと思うが、それは習った通りに言っているだけだろう。この「格」は「いたる」ではなく「きわめる」と読むべきである。ちゃんと漢和辞書に「格:きわめる」の意味が載っている。そもそも、「物に至る」では意味不明だろう。「物」とは何か。
この「物」とは「あらゆる物」である。あらゆる物の性質や特質を「極める」のが「格物」なのである。だから、その作業によって「知を致す(知に至る)」わけだ。
だが、その結果が、国を治め、明徳を明らかにすることとどう結びつくのか。物理学者や科学者でないと君主になるべきではないのか。それとも公務員すら学者でなければならないのか。
ここに「公務員教科書」としての朱子学のインチキさがあるわけだ。この公務員を「士大夫」としても「武士」としても同じことだ。要は、「小人閑居して不善を為す」から、「道徳的で難解な教科書でも勉強させておけ」と言う話である。
私なら「その国を治めんと欲する者は、先ずその知を致す」でこの長々しい文章を一文にするところである。そうすれば「君主用教科書」にはなる。だが、あまりにも当たり前の言葉なので、誰も感心しないだろう。それを長々と尻取り文を続けることで、聞いている方は意味が分からなくなり、深遠な思想だ、と思い込むわけである。
そういう意味では朱子は孔子の「敵」とも言えるだろう。
ただし、「大学」や「中庸」の持つ、一種の見かけの「論理性」は、こけ脅かしには最適のもので、それだけに「政治教科書」や「公務員教科書」としては使用しやすかったわけだ。
その「論理性」が見せかけのものだ、ということを「格物致知」を例にして説明する。
最初に、その「格物致知」がどういうように登場するかを引用する。
「古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は、まずその身を修(おさ)む」
「その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。知を致すは物に格(いた)るにあり」(大学・経一章)
まあ、セールスマンの早口トークを聞いているように催眠術にかけられそうなセリフだが、このどこにも論理性は無い。
念のために、どこでもいいから「なぜ?」という言葉をはさんでみるがいい。「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む」「なぜ?」
国を治めるという「君主にしか通用しない話」を、なぜ「公務員」が学ぶのだ?
つまり、ここですでに「朱子学」の欺瞞性が見えるのだが、末尾の「格物致知」が気になる人のために説明をする。
「格物致知」を「物に格(いた)り、知を致す」と読ませる漢学者が多いと思うが、それは習った通りに言っているだけだろう。この「格」は「いたる」ではなく「きわめる」と読むべきである。ちゃんと漢和辞書に「格:きわめる」の意味が載っている。そもそも、「物に至る」では意味不明だろう。「物」とは何か。
この「物」とは「あらゆる物」である。あらゆる物の性質や特質を「極める」のが「格物」なのである。だから、その作業によって「知を致す(知に至る)」わけだ。
だが、その結果が、国を治め、明徳を明らかにすることとどう結びつくのか。物理学者や科学者でないと君主になるべきではないのか。それとも公務員すら学者でなければならないのか。
ここに「公務員教科書」としての朱子学のインチキさがあるわけだ。この公務員を「士大夫」としても「武士」としても同じことだ。要は、「小人閑居して不善を為す」から、「道徳的で難解な教科書でも勉強させておけ」と言う話である。
私なら「その国を治めんと欲する者は、先ずその知を致す」でこの長々しい文章を一文にするところである。そうすれば「君主用教科書」にはなる。だが、あまりにも当たり前の言葉なので、誰も感心しないだろう。それを長々と尻取り文を続けることで、聞いている方は意味が分からなくなり、深遠な思想だ、と思い込むわけである。
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