トイレというのは大でも小でも滞在時間は基本的に短いので、身を入れた読書はできない。そこで、私は「論語」や「史記」などの中国古典を細切れで読んだりしていたが、「論語」は最近少し真面目に読んでいるので、ラインアップから外れ、そこに「新古今和歌集」が入った。それこそ一首なら数秒で読めるし、「どういう意味か」と考える娯楽性がある。つまり、推理小説と同じ類の読書だ。これを「読者参加型読書」と私は名付けている。
以上は前置きで、先ほど読んだ数首の中に、藤原清輔のこういう歌があった。
おのづから涼しくもあるか夏衣ひもゆふぐれの雨のなごりに
問題は「ひもゆふぐれの」である。ここが仮名書きになっているところが怪しい、というのが探偵の直観だ。で、すぐに気づくのが、その前の「夏衣」との関係で、「ひも」は「夏衣」の縁語ではないか、と分かる。つまり「紐」である。現代人は着物と無縁だから、衣服に紐が付き物だという知識がない。しかし、帯も、長く広い紐だとも言えるのである。したがって、ここは「紐を結う」の「結う」と「夕暮れ」の「夕」が掛け言葉である。
次に、そうすると、「ひも」とその次の「ゆふぐれ(夕暮れ)」とは「ゆう」以外は無関係か、というと、ここでさらに「ひも」は「日も」ではないか、と推理できる。「日も夕暮れの」で、「一日も夕暮れ時になり」の意味になる。
まあ、こういう技巧だけが見どころという印象の歌は、芸術的価値は低いと言う詩人もいそうな気がするが、面白ければいい、というのも和歌作者連の一派だったのではないか。だからこそ掛詞や縁語が和歌の基本技巧になったのである。
ちなみに、藤原清輔は清少納言の父か祖父だったと記憶しているが、機知に富んでいるところが血筋だな、と思える。まあ、機知好みの私は機知ガイかもしれないが。
ちなみに「チキチキバンバン」はOO7の作者イアン・フレミングが書いた童話だったと記憶している。
以上は前置きで、先ほど読んだ数首の中に、藤原清輔のこういう歌があった。
おのづから涼しくもあるか夏衣ひもゆふぐれの雨のなごりに
問題は「ひもゆふぐれの」である。ここが仮名書きになっているところが怪しい、というのが探偵の直観だ。で、すぐに気づくのが、その前の「夏衣」との関係で、「ひも」は「夏衣」の縁語ではないか、と分かる。つまり「紐」である。現代人は着物と無縁だから、衣服に紐が付き物だという知識がない。しかし、帯も、長く広い紐だとも言えるのである。したがって、ここは「紐を結う」の「結う」と「夕暮れ」の「夕」が掛け言葉である。
次に、そうすると、「ひも」とその次の「ゆふぐれ(夕暮れ)」とは「ゆう」以外は無関係か、というと、ここでさらに「ひも」は「日も」ではないか、と推理できる。「日も夕暮れの」で、「一日も夕暮れ時になり」の意味になる。
まあ、こういう技巧だけが見どころという印象の歌は、芸術的価値は低いと言う詩人もいそうな気がするが、面白ければいい、というのも和歌作者連の一派だったのではないか。だからこそ掛詞や縁語が和歌の基本技巧になったのである。
ちなみに、藤原清輔は清少納言の父か祖父だったと記憶しているが、機知に富んでいるところが血筋だな、と思える。まあ、機知好みの私は機知ガイかもしれないが。
ちなみに「チキチキバンバン」はOO7の作者イアン・フレミングが書いた童話だったと記憶している。
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