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合理性と豊かさ

サマセット・モームの「世界の十大小説」の中で、モームがメルヴィル(「白鯨」をモームは十大小説に入れ、その評論をしている)の文章の欠点として、古風で大袈裟な言葉を使いたがることを挙げているが、それは長所でもある、と論じている。つまり、ドラマチックな効果を生んでもいるわけだ。
そのメルヴィルの使った言葉の一例としてモームが挙げている言葉が面白い。モーム自身、辞書を引いて、その言葉に普通に知られていない意味があることを知ったらしい。

(以下引用)

たとえば、”redundant hair”といった言い回しを使っているのを見て、これを「余計な毛」の意味に解すると、同じ毛でも、それが若い娘の唇に生えているというのであれば、余計でもあろうが、頭に、しかも若者の頭に生えているというのでは、余計とは言えないのではないか、と思うかもしれない。ところが、辞書を調べてみると、"redundant"には「豊かな」という第二の意味があって、現にミルトンは

(以上引用)「ミルトンは」以下は省略。

若い娘の唇の上に生えている毛、というのは、まあ口ひげだが、実は「戦争と平和」の中で、トルストイは、そういう若い女性の口ひげを「可愛らしい」と書いているのである。
それはともかく、私が問題としたいのは、同じ言葉に「余計な」と「豊かな」の意味があることだ。これは哲学的な問題ではないだろうか。
つまり、同じ物事に対して「豊かな」と見ることも「余計な」と見ることも実は可能だ、ということである。こういうことは多くの事柄に言えるのではないか。
特に「合理的」という言葉である。
これはほぼ100%肯定的に使われている言葉だが、はたして完全に肯定できることなのだろうか。たとえば、経営者の言う「合理化」とは、実は「多くの人間の首を切ること」である。被雇用者から見れば、「殺戮」に等しい行為だ。
あるいは、馘首ではなくても、「一人の人間の仕事量を増やすこと」も経営者から見れば「合理化」である。ビジネス世界では、合理化とはほとんどが従業員を不幸にするようだ。

ビジネス以外でも、実は合理的というのは、「余計な要素を切り捨てる」ことであり、あるいは「脇道に逸れることをやめる」ことである。これは、それこそ「redundant」の反対方向に進むことではないか。つまり「豊かさ」や「可能性」を放棄した、愚かな方針である可能性が高い、と言ったら屁理屈に聞こえるだろうか。まあ、少なくとも、「合理性」にはそういう側面がある、ということ、そしてその種の「切り捨て」は多くの事柄(決定や判断)に付随している可能性があることをも、人は知るべきだろう。








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