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「純と愛」はNHK視聴者には合わないだけ

「日刊ゲンダイ」電子版から転載。
まあ、NHKの朝ドラなどどうでもいい、と思っている人も多いだろうし、見ていない人の方が圧倒的に多いとは思う。しかし、ドラマとしては前作の低能ドラマ「梅ちゃん先生」の数段上であるのに、NHK視聴者の好みには合わない、ということで視聴率が取れていないのは気の毒なので、擁護論を書いておく。
もちろん、「遊川和彦作品」としては最上位の作ではないと思う。NHK放映作品という限界もあるだろう。だが、腐っても遊川和彦作品、というレベルはキープしており、「見て気持ちがいい」かどうかは別だが、面白いことは確かだ。
その「見て気持ちいい」かどうか、というのが実はNHK朝ドラとしては大事なポイントで、それも芸術観賞力の低い善男善女のレベルで受けるかどうかが問題なのである。
まあ、電通の「B層」発言みたいな差別意識丸出しの意見で済まないが、芸術(と言うとお高くとまった感じだが)を理解する能力にはもの凄い個人差があるのである。で、NHK視聴者の、その最大公約数は、偏差値で言えば35くらいだろう。NHKに限らず、そのレベルに相当する作品が大衆受けし、ベストセラー、ヒット作品になる、と一般的には言える。
では、遊川和彦の「家政婦のミタ」があの視聴率を取ったのはどうなる、と言われるかもしれないが、あれは「雪崩現象」である。その面白さの情報が回を追うごとに広まり、最終回でちょうどピークに達したわけだ。
だが、NHKの朝ドラ視聴者層は、ふだん漫画も見ないような層である。そこに漫画的面白さを持った作品を提供しても、口に合わないのは当然だ。
言わば、戦略的ミスであり、そのミスの危険性は、あるいは作者は最初から分かっていて賭けに出たのかもしれない、と私は思うのである。
この「失敗」(まだ結論は出ていないが)が、遊川和彦のキャリアの傷にならないでほしいものである。
ついでに言うと、夏菜なんてタレントは、その存在すら私は知らなかった。潰れるも何も、それほどのキャリアも無いのだから、これで潰れるようならその程度の才能だ、というだけのことである。



(以下引用)



「ミタ」脚本家に潰される夏菜


【芸能】



2012年11月7日 掲載


NHK朝ドラ「純と愛」でヒロインに抜擢されたものの…

 NHKの朝ドラヒロインが批判の矢面に立たされている。「純と愛」で熱演中の夏菜(23)だ。
 初回視聴率19.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)とまずまずの出だしだったが、最近は16%台の回もあるなど下降気味。が、数字以上に朝ドラ愛好家の“ヒロイン批判”が加速し、「口の利き方がひどい」「ギャーギャー騒々しい」「イライラする」と一般紙の読者欄でも取り上げられ、散々なのだ。
“生みの親”は脚本家の遊川和彦(57)。最終回で40.0%の視聴率をたたき出した「家政婦のミタ」(日本テレビ)や、「さとうきび畑の唄」(TBS)で文化庁芸術祭大賞、「女王の教室」(日テレ)で向田邦子賞を受賞した自他ともに認める実力派だ。
 その辣腕をNHKが2年越しで口説き落とし、実現したのが今作。だが、放送評論家の松尾羊一氏は、「意気込む制作側とお茶の間に、大きな温度差を感じる」と語る。
「ド根性が売りの異色ヒロインが主役の『カーネーション』は広く共感された。それに続き、大阪放送局が遊川氏の手腕をもって“朝ドラの伝統をブッ壊してやろう”と意気込んだのでしょう。でもいかんせん、朝ドラが長年作り上げてきたヒロイン像とかけ離れ過ぎている。素直で清純でけなげという王道路線だった『梅ちゃん先生』の後だけに、ギャップも大きい。予定調和を好む朝ドラファンには刺激が強いのでは」
 遊川は週1ペースで現場へ足を運び、夏菜の演技指導にも当たっている。「たらたら(セリフを)言いやがって」「技術がない」「苦労すればいい」と容赦なくダメ出しする様子が、NHKのドキュメンタリー番組で取り上げられていた。
 前出の松尾氏は「朝ドラの歴史を覆したいという遊川氏の本気度がうかがえます」と言うが、矢面に立たされるのは夏菜だ。保守的な朝ドラファンとスパルタ脚本家にはさまれて、潰れなければいいが……。


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抽象と捨象

「山科恭介のブログ」から転載。


「有」 は、消されていった 「無」 を立脚点としている。


なんて、いい言葉だねえ。
抽象と捨象は二つで一つなのであり、捨象されたものが存在しないかのように抽象のみに重きを置き過ぎた結果が、現代の、人間を人間とも思わないこの非人間的状況なのかもしれない。人間をただの労働力としか見ず、人の命も統計的数字としか見ない人間が抽象的操作に優れた「頭のいい人間」として社会の上部にいることが、この世界を索漠たるものにしているのではないだろうか。
さて、捨象されるものとは「不要なもの」に決まっているが、それは操作を行う人間の主観でしか判断されない。社会的弱者や貧乏人、有色人種などはロスチャイルドやロックフェラー、ビル・ゲイツなどのような人間から見れば捨象すべきものであり、世界人口のうち9割5分までが不要な存在なのだろう。
もちろん、山科恭介氏は、もっと人間存在の本質的なものについて述べているのだが、その議論から「捨象」された部分を私が補ったつもりである。
なお、抽象とは「象(形あるもの、つまり現実的存在)」からその本質部分(らしきもの)を「抽き出す」ことであり、その残りは捨象される、つまり捨てられる、ということだ。

我々は常に、「有は無に支えられている」あるいは「見えるものは見えないものに支えられている」ことを心に銘記しておくべきだろう。



(以下引用)




この世は、自分自身が取るべき責任の100%を超えて、他の責任をも幾分か取らされてしまう。
その 「淡く理不尽なる責任」 の分だけが、<搾取>なのだ。
これが搾取ということの本当の意味なのだが、社会学者も経済学者も、あるいは政治を語り世の中の何たるかを偉そうに語っている者のすべては、そんなことすら解っていない。
実際に苦痛と苦悩をこの身で味わい、その本源を見た人間でなければ、こんな簡単で単純なことすら解らないのが人間だ。

有力な進化論のひとつに、オランダの植物学者ユーゴー・ド・フリースが提唱した突然変異説というのがあって、これは、通常は種の衰退へと繋がるDNAの変異が、時として生存に有利に働く場合、進化の要因と成り得るとするものである。
突然変異という言葉自体、彼が命名したとされているのだが、ダーウィンの自然淘汰説に反し、初期メンデル遺伝学者達は、変異の不連続性の観点から劇的な質的突然変異が進化の主要な原動力であると見なしていた。

その突然変異に至る弁証法的展開として、
多くの苦悩を伴った人間精神が歴史の中に埋没していく。
その捨象された数々の精神にこそ、事の本質が存在している。
「有」 は、消されていった 「無」 を立脚点としている。

人々が苦しんだその苦悩の集合体が、<存在>の意味である。
多くの無能なる人間が、<進化>ということに寄せる想いとは、全く逆だ。

それに気づかなければ、我々人類に課せられた 「不幸」 はいつまでも続くだろう。



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読めない文体

「夏目房之介の『で?』」というブログから転載。
「読めない文体がある」というのは私もまさしくその通りで、断片的に目にする村上春樹の文章だけで、もう彼の作品は私には読めないのである。「ライ麦畑でつかまえて」のホ-ルデン少年の精神を持った主人公に、1行ごとに比喩が散りばめられるフィッツジェラルドの文体、描かれるものは「この世界のあらゆるものは日々転落していく」というプルースト的喪失感、というのが、私の、村上春樹を読まずに推定している村上春樹的世界なのである。つまり基本的に「青春期の作家」だ。的外れだろうが何だろうが、我々はそういう予測に基づいて小説本を購入したりしなかったりするわけで、今の私には彼は縁遠い作家である。
文体とは、作品そのものの顔、象徴である。


(以下引用)


それほど寄り添った感じで読んでいた彼の小説に、次第に「何か違ってきたな」という感じを持ち始めた。多分、89年に出た『ダンス・ダンス・ダンス』が最初だったと思う。その違う感じは、92年の『ねじまき鳥クロニクル』で決定的な印象になった。それで僕は読むのをやめた。昔の小説を読み直そうとしたが、読めなかった。文体そのものを受け付けなくなっていた。

僕には、読めない文体、というものがある。フランス現代思想などの翻訳ものやその系列は、ほとんど読めないし、無理に読んでも意味がわからない。三島由紀夫も全然読めない。若い頃読めない文体で、その後読めるようになるものもあるが、逆のパターンはおそらく初めてだと思う。

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「天皇の書」展 (書で分かる皇統の断絶)

私は今年の春から京都という観光地の郊外の町(一応京都市内だが)に住んでいるのだが、財政的問題で、京都の寺社の見物はほとんどやっていない。神社は拝観料は取らないのでまだましだが、寺は普通、500円の入場料を取る。まあ、境内の庭や建物の維持費も必要だろうから、500円が相場だというのはむしろ良心的だが、それでも貧乏人には痛い出費なのだ。拝観料の回数券割引でもほしいところだ。
移動にバスの一日乗車券を使えば、それも500円、後は市内だと昼飯代にどうしても800円以上かかるから、1日の観光費用はおよそ2000円になる。見る場所が一つとした場合である。
というわけで、私は京都の名所旧跡をまだほとんど見ていないのだが、昨日はどういう悪魔の囁きが聞こえたのか、秋の好天のせいか、博物館か美術館に行ってみようと考えた。どちらでもよかったのだが、京都国立近代美術館と京都国立博物館は近い場所にあるので適当にその場で決めることにした。
市バスを三十三間堂前で降りると、すぐに国立博物館があったので、そこに決めた。ちょうど「天皇の書」という、少し興味のあった展示をやっているのも、ここに決めた理由の一つだ。
料金1200円と高いのには驚いたが、ここまで来たら仕方がない。泣く泣く支払って中に入る。
私は書の見方など分からないが、好きな書と嫌いな書はある。概して端正な書が好きなので、良寛の枯れ芦のような書など、何がいいのかさっぱり分からない。まあ、きちんとした書にしか興味が無いなら、活字でも眺めていろ、と言われそうだが。
でまあ、歴代天皇の書が膨大に展示されているのを延々と眺めて、最後には頭がくらくらしてきたのだが、どの書もどの書もあまりに見事なのである。いや、私は書は分からないのだが、下手な書と達筆な書の区別くらいはつく。特に伏見天皇が小野道風の書を臨書をしたものなど、人間技とは思えなかった。書道の本で、明治時代の有名書家が古典の有名作品を臨書したものを見たことがあるが、レベルが全然違う。まあ、その書家たちの後継者たちは、伏見天皇のものは「形臨」で、明治の有名書家のは「意臨」だ、などと言うかもしれないが、それは言い訳、口実にしかならないだろう。
すべての技術の基本は模倣である、と言えると思うが、この天皇たちがこれほどの書技を身につけるために臨書に払った努力と時間は、どれほどのものだったのだろうか。

さて、最後に、本題の話をする。
実は、歴代天皇の書の中で、もの凄く下手なものが一つだけあったのだ。いや、私よりはマシですよ。でも、他の天皇の書の中に入ると、明らかに異質な下手さなのだ。
それは誰でしょう。
正確に言えば、この人に続く二人もあまり上手くない。プロスポーツの世界に小学生が入っている、という雰囲気である。
さて、先の問題の答え。
それは、「明治天皇」でした。続く大正天皇、昭和天皇も、それ以前の天皇のレベルとは明らかに違っている。つまり、明治天皇の時に、それ以前との断絶があったのだ。
ここから、私は、巷間に言われる「明治天皇すり替え説」が真実であることを確信した。
書は誤魔化せない。明治天皇の書は、あれは天皇たる教育を受けた人の書ではない。
明治天皇をすり替えた連中も、そこまでの教養がなかったから、明治天皇の書まで偽造する必要を認めず、「すり替え天皇」の書がそのまま後世に残ったのだろう。
明治天皇の和歌の腕前は認めるが、おそらくこれは天皇側近の学者による代作だろう。
というわけで、思わぬところで、明治維新の闇に光の当たった博物館見学であった。



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重曹でシャンプー

今日の「つむじ風」ブログに洗浄剤の土台になっている成分は重曹である、みたいな事が書いてあったので、ならば重曹でシャンプーはできないかな、と思って検索してみると、下のブログを見つけた。これで見ると、普通のシャンプーを使うより、ずっと良さそうである。
私は子供の頃から、頭を洗うことが面倒でたまらなかった。しかし洗わないと次の日にはもう頭が痒くなるので、仕方なしにほとんど毎日頭を洗いながら何十年も生きてきたわけだ。一度洗えば一週間、一か月は頭を洗わなくても痒みが起こらないシャンプーを発明すれば、ノーベル賞ものだよなあ、とかその間ずっと思っていたのだが、そういう発明は21世紀の間にはできそうもない。
下の記事は今見つけたばかりなので、まだ試してはいない。
とりあえず、備忘の意味も兼ねて、ついでに今日のブログネタにしたわけである。




(以下引用)


ゆるゆる田舎暮らし




October 02, 2009


石けんやめて重曹でシャンプーしたら頭痒いのが治った

久々にシャンプーをしました。

数年前から いつも髪は湯船にもぐってガーーって手でこするだけ。お湯洗いです。
ちなみに体もあんま洗わない。湯船につかって手でなでなでするだけです。

石けんを使わないことについての詳しくは↓
 シャンプーとリンスと石鹸は使わない方がいい
が参考になりそうです。

昨日の皿洗いの話と一緒だけど お湯だけで洗うことにしたらすごく楽になった。


ただ、うちは五右衛門風呂です。結構風呂わかすのがめんどくさい。
しかも風呂入るたびに髪洗うってわけでもない。
洗いたい日は洗うし気にならなきゃ洗わない。理由は多分、めんどくさいからです。

あまりにもベタベタして気持ち悪くなったら、お湯に石けん溶かして洗ったりしてたんだけど、実は石けんで洗うのあんまり好きじゃない。
皮脂はありったけ持って行くくせに石けんの成分が頭皮に残るような なんかヘンな感じがするので必死になってすすぐんだけど、
石けんシャンプーの時って髪ガッシガシでからまりまくって、こんなんすすげるわけねーだろって毎回思う。

でもまぁそれなりに洗ったぞって感じはするしたまにの事なのであんまり気にしてなかったんだけど、最近ついに頭がかゆくなってきた。かゆいからマメに洗うとまたすぐかゆくなる。
皮膚がかゆくなるっていうのはたいてい菌です。
皮膚にはいつもいろんな菌が住んでて、バランスをとりながらいろんな刺激から皮膚を守ってくれる。
だけど何かの原因でそのバランスが崩れると荒れたりかゆくなったりする。
多分今回の原因は石けんです。石けんというかすすいでも頭皮に残る石けんカス。

それでなんとかしたいなーって思いながら過ごしてたんですが
今日ふと思いついて 洗濯機の横で忘れ去られている重曹でシャンプーしてみた。
すんごい気持ちよくてあらびっくり。指の腹でガシガシしたらいっぺんにかゆみが消えた。

しかも石けんみたいにヌルヌルしない。水に重曹溶かしただけだから感触は水だし
余分なものだけサラッと流す感じで最高に気持ちよい洗い心地です。
しかも石けんみたいに必死にすすがなくていいのですごく楽です。あっという間に流れてすっきり。
お湯使う量がいつもの半分以下ですんだよ。

分量は大体洗面器一杯に対して大さじ1くらいでやってみた。 まぁ適当です
好きなだけ頭にバシャバシャかけながら洗って、お湯で流したら、リンス。
たまにしか使わないからずっと風呂場におるポッカレモン。
ちょっと前からなんかふわふわが浮いて酢酸発酵してるのは知ってたけど
今日匂ったらレモンワインみたいないいにおいがした。まぁ別にヘンなにおいしないからまだ使えるさー。
最後に湯船にもぐって(やっぱもぐるのか)終了。

洗いあがりは石けんの時みたいに髪の毛がからむ感じは全然なくて、タオルドライ → 自然乾燥 で わりとすぐ乾いた。
しかもサラサラヘアー。くせ毛の私の髪が風になびきそうなくらいでなんかめちゃくちゃかわいくなったような気がする。

ということで これからはお湯洗いと重曹洗いの組み合わせで生きていこうと思います。




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着るだけで痩せて見える服

最近はいつも不愉快なニュースばかりなので、今日は明るいニュースを紹介する。
太めの女性の皆さんへの朗報である。
苦しいダイエットや運動などしなくても、「痩せて見える」服ができるそうだ。
服の柄を3D加工し、胸を大きく見せたり、体形を痩せて見せたりできるとかいうような話だが、これが商品化されるのが待ち遠しい人も多いだろう。
記事タイトルが「怠け者と軍人のための洋服」というから何か、と思ったが、この服は「迷彩服」としてまず実用化されるらしい。べつに「怠け者」と「軍人」が同類という意味ではなさそうだ。



(「ロシアの声」から転載。)



怠け者と軍人のための洋服


タグ: サイエンス, 解説, 国内
ゴンチャロワ・ユリヤ 24.10.2012, 17:04

Photo: SXC

ロシア・サンクトペテルブルグの学者たちは、3Dの特性を持つ新たな布を製造した。この布でつくられた衣服は、体型の短所を隠し、長所を際立たせるという。
新たな布の製造で重要な役割を演じたのは、サンクトペテルブルグ国立電子工学大学のニコライ・サフィヤニコフ職員。

これまで、立体的な柄が描かれた布はなかった。サフィヤニコフ職員は、多くの実験を行った。そして、布を形成している糸の網目を「対角線」にするという方法を見つけた。加えて、布の表面に高低がつけられた。これらの効果と人間の視覚特性によって、柄は立体的なものとして認識される。

3D布の柄は、サフィヤニコフ職員が開発した特別プログラムによって作られるが、製造するのは一般的な機械だ。

サフィヤニコフ職員はこれまでにも布を使った実験を行っている。サフィヤニコフ職員は、電磁波、太陽フレア、電磁嵐などから「遮断」する布の特許を持っているほか、特別プログラムを使ってコード化された糸でつくられた布の特許も取得している。これにより偽物の流通を防ぐことができる。

 サフィヤニコフ職員が3D布の開発を始めたのは2008年。3D布の特許は、サフィヤニコフ職員にとって「特許コレクション」の33番目の作品となった。

 3D布は、軽工業とファッション業界のための新たな展望を開いている。サフィヤニコフ職員は、「立体的な柄が描かれたTシャツ、ブラウス、あるいはネクタイがあったら、どれほど効果的に見えるか想像してみてください!見る角度によって、立体的になったり平面的になったり、あるいは柄の一部が変化します。人間が動くと、この布の特質は特に効果を表します。3D布は、たとえ柄が描かれていなくても、デザイナーたちの関心をひくはずです。なぜなら、この布をつかって作られた洋服は、体型を細く見せることができるからです」と語っている。

 このように、外科手術に頼らなくても、3D布でつくられたジャケット着ると、胸が大きく見せることもできる。またスポーツジムに通わなくても、この布で作られたワンピースを着れば、ウエストが細く見える。

 ロシア・イワノワ州の工場は、すでに新たな布の見本を製作した。現在、大量生産に向けて準備中だ。3D布を使って最初に大量生産されるのは、軍人のための迷彩服になる予定。

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「純愛」ならば、やはり「愛と誠」ってか

最近、朝食の時間が変わったために、NHKの朝ドラを連続して見ることが無くなったのだが、「純と愛」やっぱり面白いね。
最初のあたりを断片的に見ただけだと、主人公の純が梅子以上にウザい性格でげんなりしたのだが、最近のを見ると、やはり脚本が素晴らしい。視聴者の期待通りになる楽しさと、期待を裏切って興味を引き付ける、そのバランスが絶妙である。
脚本がいいと演出も冴えてくる、というものだ。
主人公の単細胞ぶりとけたたましさ、独善性がまだ鼻につくが、こういう駄目主人公がドラマの進展とともに成長するなら、それも面白いかもしれない。
他の登場人物は、まあ主人公の家族が駄目ダメなのは、宮古出身である(実はそうなのである)私には少々イラッと来ないでもないが、その一家を除けばみな面白い。
ただし、色悪らしい設定の城田優は、少し残念だ。これがただの色悪(色魔的悪役。たいていは美男)で終わらないことを願いたい。彼は、日本の役者としては稀有な「殺気のある美男子」であり、昔の仲代達矢の後を襲う(ったって、ホモの話じゃないよ。襲名の「襲う」である)俳優だ、と私は見ているのである。
一見脳天気なホテル社長の舘ひろしや厭味な上役連中、一癖ある同僚女性や家政婦の三田さんを少し思わせる「サイボーグ」的女性上司など、面白い人物が揃って、これからどんどん面白くなりそうな予感がある。
しかし、一番の収穫は愛役の風間俊介クンだろう。これは名優である。若いのに、すでに名優だ。あるいはブレイクした頃の松山ケンイチ以上ではないか。日本のダスティン・ホフマンだ。「卒業」や「真夜中のカーボーイ」の頃のね。
さて、話はその愛(「いとし」と読むが、通称は「あい」)の過去に関わる人物らしい「マコト」という若い女性の登場で、いよいよ佳境に入ってきたようだ。「愛と誠」ねえ。脚本の遊川和彦の精神形成史が何となく想像できて面白い。


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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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