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温かい言葉に支配された残酷な社会

私は、難病などのために自力で生きられなくなった人間には社会が自殺の便宜を図ってやるべきだという考えなのだが、「自殺幇助」は殺人との区別が困難なので(森鴎外の「高瀬舟」である)、医師に頼んでも毒薬は貰えないし、せめて苦痛を少なくしようと麻薬の処方を望んでも、それもなかなか難しいようだ。現代医学ならば、「副作用の無い麻薬」くらい開発してくれても良さそうなものだ。(「副作用の無い毒薬」が欲しい、というのは昔のボブ・ホープのコメディ映画の中のギャグだが)死ぬ時くらい、楽に死にたいではないか。
その気になれば自殺など簡単さ、と言うかもしれないが、それがそうでないから困るのである。時々見かける、インターネットで仲間を募って集団自殺をする、という奇妙な行動も、誰かと一緒なら、勢いで死ねるからである。
一人であっても、医師が毒薬を処方してくれれば、何となく「勇気を持って死ねる」ような気がするのだが、私はまだ自殺した経験は無いから、本当にそうかどうかは分からない。しかし、誰かが見守っていれば、落ち着いた気持ちで死ねそうな気がするのだ。ソクラテスなども、そんな気持ちではなかっただろうか。それに「死を従容として受け入れる俺ってカッケー」という気持ちもあっただろうから、それは是非誰かに見ていてほしいはずだ。
まあ、医者は患者を治すことで金を貰っているのであり、殺すことで金を貰うわけにはいかない、と堅いことを言う人もいるだろうが、なあに、患者の治療で恒常的に手に入る金の方が、毒薬一回だけの処方より儲けがある、という純粋に経済的な理由なのかもしれない。この世の問題の正体のほとんどは経済問題なのだから。
で、経済面から考えると、下記の記事は私の提唱する「自殺推進策」に次ぐ名案である。こちらは私のような素人ではなく、本物のお医者さんからの提案だが、私同様、世間の非難を受けそうな案である。
実際には、これは看護する側の手間と、看護される側の苦痛や不快感の両方を一気に片付ける人道的な解決案なのだが、外見的にそうは見えず、手術で肛門と膀胱を外部に作るというのが、「人間を人間扱いしていない」ように見えてしまう、という点で、おそらくもうアウトになってしまうと思う。世間、特に日本社会というものは、「うわべがきれいそうな言動」しか許容されないのである。
そして、現実に存在する非人道的な状況は、「うわべだけを飾るやり方」のために、根本的な解決が無く、不幸な人々の不幸は半永久的に続くのだ。
ところで、寝たままで排泄ができ、病人の体全体、あるいはその一部の洗浄ができるベッドなんて、簡単に作れると思うのだが、なぜ技術者たちは誰もそういうのを作らないのだろうか?


(以下「レジデント初期研修用資料」から引用)

介護と人工肛門

寝たきり老人が増えた。人生の最後の10年ぐらいをベッドの上で過ごす人は、半ば当たり前になってきた。
団塊世代の人達が、これから寝たきりになってくる。
介護の需要はいよいよ増えるはずだけれど、若い人は減ってしまうから、人手は間違いなく足りなくなる。 人手が足りない業界の給料は上がるはずなんだけれど、今はもうお金無いから、やっぱりたぶん、介護業界に投じられる予算は増えないのだと思う。
人間の「排泄」ラインは、あくまでも立って生活するのに特化していて、「寝たきり」の体位を想定していない。おむつを当てたところで、寝たままの排泄は苦痛だし、うまく出ないし、介護するほうは、だから1 日中、おむつ交換に忙殺される。
「人間らしい」介護が求められてるんだという。介護施設を外から観察する人達にとっての「人間らしさ」とは、食事の介助を付きっきりでやることだとか、日中は車いすで外を散歩することだとか、たとえ不隠のきつい人であっても、夜中も付き添って、縛ったりしないことだとか。
実際に療養病棟でやられていることは、「おむつ交換」と「体位交換」の繰り返し。 「人間らしい」お仕事は、もちろん介護を提供する側にとっても「人間らしい」お仕事だから、みんなそういうことしたいんだけれど、便汁と床ずれは待ってくれない。
見学に来る人は、食事の風景だとか、レクリエーションの時間なんかはチェックするけれど、スタッフが4 人がかりで便まみれのシーツ交換している風景だとか、茶色が染みた紙おむつの山を バケツに放り込んだ台車が廊下を何往復もしている風景だとか、あんまり見てくれない。
「おむつ」の問題が解決できれば、寝たままトイレに行ったり、排泄できたりするベッドが作れれば、 介護は画期的に楽になる。おむつ交換に回す人手が減らせれば、お互いもっと「人間らしい」ことができる。そこにはすごく大きな市場が在るはずだから、今はもちろん、世界中の寝具会社が開発に全力挙げてる はずなんだけれど、未だに何も出てこない。
寝たきりになった高齢者に「人工肛門」と「膀胱瘻」を作ってしまうと、問題は解決する。へその左右に、袋が一つずつつく形になる。
これをやると、肛門側からは何も出ないから、おむつ交換は理論上必要なくなる。 便とか尿が背中に漏れないから、シーツの交換頻度も減らせるし、お尻が便で汚染されないから、 床ずれも治りやすい。
介護の仕事は、食事の介助、体位交換、おむつ交換と便の始末がほとんど全てだから、 人工肛門を作った患者さんについては、食事の介助以外、ほとんど全ての作業が不要になる。 人的リソースが節約できるから、みんなが大好きな「人間らしい」仕事に、余力を割けるかもしれない。
これからは在宅介護が主流になるらしい。絶対無理だと思う。24時間、4時間おきに体位交換とおむつ交換とか、一人でそれをやり続けるのは無理だから。

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なぜ喫煙は迫害されるのか

「雇用問題と健康問題」あるいは「国内問題」や「日々の雑感」をこのブログでは扱おう、というのが大体の方針だが、私は方針を立てるのは好きだが守るのは嫌い、と言うより義務となると何でも嫌いなので、立てた方針もあまり意味が無い。
計画するのは大好きなのである。自分のことだけでなく、国家百年の大計、なんてのも考えるのは好きだ。まあ、「白昼夢」に耽るのが好きなのだろう。
そういう人間の夢想だから、私の文章に実証性や正確さを求めてもらっては困る。ただ、世間にはあまりに真面目すぎる人間が多すぎて息が詰まるので、私のようなルーズな人間もその毒消し効果くらいはあるだろう。真面目な人間の困ったところは、他人にまでその真面目さを強要するところで、それが日本の地獄化の一因だと私は思っている。
私は権威とか定説とか常識というものをほとんど信じていない。権威というのは他人を恐れ入らせるための芝居であるし、定説とは「現在有力な仮説」でしかないし、常識とはその地域でのみ有効な便宜的知識でしかない。進化論もビッグバン理論も私にとってはただの仮説だ。ところが、それが権威となり、社会的圧力になるから問題だ。
全世界的禁煙運動なども私が疑わしく思っているものの一つである。なぜ、これほど根拠の怪しげなものが、これほど全世界的な広がりを持って強制されているのか、と考えればここには何かの裏事情がある、と考えるのが私流の考え方だ。
それが何かは分からない。確かに喫煙は体に害はあるだろうが、「副流煙の被害」と言われると、それほどのものか、と思う。まあ、女性などが煙草の匂いがカーテンに付くのが嫌い、という気持ちは分かるが、煙草の精神的効用を考えれば、煙草呑みの権利は守るべきだと私は思っている。もっとも、煙草のもたらす鎮静効果はただの深呼吸の効果と煙草の匂いの効果なのかもしれない。煙草の匂いがいい匂いの一つだというのは確かだが、それも嫌な臭いと思う人もたくさんいるだろうから、強いて言い張る気はない。
煙草と肺癌の関係については、下の記事にあるように、(グラフのコピーができなかったが、喫煙人口がどんどん低下しているのに肺癌による死亡者数はどんどん上がってきているというグラフだ)どうも相関関係は無いようだが、まあ、肺の中にタールを付着させるのが体にいいはずはないだろう。大麻解禁になれば、煙草よりも健康的に瞑想的気分になれるかもしれないが、今のところは日本では大麻は吸えない。となれば、合法的に瞑想的気分になるには禅でもするのが一番だろうか。私の見る煙草の効用とは、「簡便に瞑想的気分を与えるもの」なのである。
昔から小説中の名探偵の多くがパイプ煙草などを嗜むのはその故である。



(以下引用)



2012/9/1


「科学者テスト・・・自分は科学者になれるか?:武田邦彦氏」  その他

科学者テスト・・・自分は科学者になれるか?:武田邦彦氏

「tabacowosuutosinanaitdyno.226-(7:35).mp3」をダウンロード

最近、ある若手の技術者を対象にした教育をしたときに、おもしろいことがありました。それは「タバコと肺がん死のグラフを見て、どのようにデータを解釈するか」という出題です。





グラフは単純でここに示したもので、データは紛れがない単純なもので、このグラフに載せた「肺がん死の数」も「喫煙率」もよく知られたもので反論はありません。このグラフを見て、次のどのような反応をするかで、自分が科学者になれるかが分かると私は教育を通じて感じました。

1) ムカッとくる、
2)変なデータだと思う、
3)ウソだと思う、
4)点線のところなどが気になる、
5)寿命が延びているから、その影響があると思う、
6)喫煙率が下がると肺がん死が増えると理解する。
7)タバコを止めると肺がんになるのだなと思う。
教育をした私の感じとしては、1)から3)のように感じる人は自然科学を選ばない方が良い人、4)の人は技術者になっても成功しない人、5)は何とか技術者になれる人、そして6)と7)は技術者として成功する人のようです。

ムカッとくる、つまり1)番の人は科学者には不向きです。学問というのは「心」が入らないようにして、確実な事実と明快な論理で構成されるものですから、そこに「心」や「先入観」が入っては成功しません。

タバコに関しては多くの人がいろいろな「感情」を持っています。煙が嫌い、火事の心配、汚らしい、図々しい、かっこいい、大人の雰囲気・・・などです。でも、データを見るときに「頭」と「心」を分離できるのが科学者ですから、どうしても感情が入るという人は科学の道は止めた方が良いでしょう。

また、「ウソだと思う」という3番ですが、これも不適切です。つまり、データを見るときにはまずは信頼できるデータを見ることですが、喫煙率と肺がん死の関係はこのデータしか日本には無いのですから、「ウソ」であると言うことになると、他にデータが無ければならないことになります。

このような時「ウソ」という感じを持つのは、「自分の先入観と違う」という事です。先入観の方がデータより重要であると考える人は技術者にはならない方が良いでしょう。科学は常により真実に近く、より新しいデータを求めるものです。そして科学者の辛いことはこれまで10年間以上の信じてきたデータでもある時点からそれが間違っていることを認めなければならないことがあります。その時に「自分を捨ててデータを採る」という苦痛を克服しなければならないからです。

・・・・・・・・・

科学の経験が深く、謙虚な気持ちで観察をしたいと思っている場合、データに接したときに、それまでのすべての知識、先入観をいったん横に置いて事実を見ます。それは「学問は進歩する」、あるいは「今、正しいと思っていることでも覆ることがある」という確信です。だから、たとえ「タバコを吸うと肺がんで死ぬ」と考えていても新しいデータをまずは素直に見る習慣がついています。

さて、このグラフはあまりにも傾向がハッキリしていて、「喫煙率が下がるほど、肺がん死が増える」ということですから、もし他の原因がなければ「タバコを吸うと肺がん死が防止できる」、あるいは「タバコを止めると肺がん死になる」ということを意味しています。でも、そこまで一気に行くことができる人も少ないと思います。

・・・・・・・・・

ところで、厚労省の報告などを見ると、「タバコを吸うと何倍、肺がんにやりやすい」などという数字が多く出てきます。それはどこのデータでしょうか。たとえば1990年に肺がんで死んだ人が4万人います。この時の喫煙率は約60%ですから、肺がんで死んだ人の内、タバコを吸っていた人が60%なら、タバコを吸っていても吸っていなくても肺がんになる比率は同じということになります。

しかし喫煙してすぐ肺がんで死ぬわけではなく、肺がんで死ぬ人の多くは20年ほどタバコを吸っていて、70才で肺がんになるというようなケースですから、20年前の喫煙率というと、1970年ですからほぼ80%となります。だから肺がんで無くなった人の80%がタバコを吸っていたとすると、「タバコと肺がんは関係がない」ということになります。

つまり、ここに示したような「真逆」なデータが有る限り、ある少数のデータで「タバコを吸うと肺がんで死ぬ」という結論を出すためには、全体の傾向を否定するような強力な証拠が必要ですし、なによりそれが公開されていることです。厚労省のデータは生データ、整理の仕方、判定基準などなにも書いていないのです。特に厚労省の天下り団体で「健康促進団体系統」のパンフレットなどには、結論だけが書いてあってまったく科学の判断ができません。

ある国の委員会で委員の一人が素データを求めたところ、「禁煙に反対する人にはデータを見せない」と言われたという有名な事件があります。反対する人にこそデータをよく説明し、納得してもらうのが学問の手順ですが、それをしないということは政治であって学問ではないということを証明しています。

「喫煙を禁じる」というのは日本国憲法で定められた「基本的人権」に抵触するのですから、かなり精密なデータと整理が公表されることが必要です。日本国は科学技術立国で技術者が250万人もいるのですから、充分な説明をして国民的な合意をえることが国の義務でもあります。

(平成24年8月28日)

武田邦彦

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初心者や新人、新規参入者に冷たい社会

西の京に帰ってきて、すぐにネット接続はできたのだが、NTTからの料金催促状が、ほとんどひと月留守にしていたのに7000円も請求されるという馬鹿な請求額が来ているので、電話契約もネット契約も打ち切ろうかと思案中である。
電話もネットも無ければ無いで私は生きていけるが、それをやめると家族から文句を言われそうなので、とりあえず格安のネット契約でも無いか、探すつもりだ。
まあ、こんな個人的な話などどうでもいいが、人によってはそういう話の方が面白いとか、参考になる、ということもあるかもしれない。
さて、ネット上での話題は相変わらず低調である。今の日本はTPPやACTAや人権救済法案やら何やらで危機的状況にあるが、あまりにそういう状態が長く続いているのでみんな徒労感や倦怠感に捉われているような感じだ。本当は原発事故による放射能汚染もまだ継続中であるのだが、もはや騒いでも無駄、という感じで日本国民は汚染食品を大人しく購入して食べて放射能を体内に蓄積している。乳酸菌やら何やらが放射能に効く、と言われてもイワシの頭を信心するような気にしかなれない。放射能へのあきらめは、日本国の政治的経済的崩壊へのあきらめにもつながり、ある種のニヒリズムが日本社会全体を覆っている気がする。
山科恭介(有名人なので敬称略)がブログをやめるとか言っていて、それも寂しい限りである。沢山のファンのためにも、やはり続けてほしいものだ。ブログなんて、架空の相手とのお喋りなのだから、書いたものに責任など感じなくてもいい、というのが私のスタンスだ。日常のお喋りにいちいち責任を持って発言する奴はいない。そういう気軽なものなのだから、書きたくなければやめればいいし、書きたくなったらまた書けばいい。

実は、下記の文章は昨日書いたものだが、わざわざブログに載せるような文章でもないなあ、と思って没にしかかっていた。しかし、「わざわざブログに載せるほどの文章」など、べつにこれまで書いてもいなかったのだから、書いた時間を無駄にしないために掲載することにする。

私は「考えること」自体が趣味だから、そういう「思考素材」を与えてくれるのなら、世界政治だろうが身近な出来事だろうが、題材としては何でもいいのである。
今日はネット上には面白い話題も無いので、少し足を延ばして、普段はあまり訪問しないブログを訪ねてみた。

「レジデント初期研修用資料」という妙な名前のブログから転載。
研修医のためのアドバイスや感想などを書いたブログで、普通の人が読んでも面白い。筆者は非常に合理的な頭を持っているので、問題の切り口がユニークであることが多く、世の中に罷り通る不合理に慣れ切った人間には新鮮な感じがあるかと思う。
この「オーダー」とは、つまり医者から看護師への「注文」「指示書」だと思うが、その書き方も教えないで「オーダー」を突き返す、というのは、昔の職人世界ではよくあったやり方で、職人世界よりは一見知的レベルが高そうに見える医療の世界でも同じようなものだったんだな、と思う。
そういう不合理、かつ、いじめに近いような行為はどの世界でもあるのだろう。そして、そうした職人世界的やり方をむしろ擁護し、称賛するのが世の常である。案外知られていないことだが、学校の生徒の間では「いじめ容認」の意見が実は多いのである。

学校の部活などでの「先輩への絶対服従」も似たような問題だ。「自分はそうやってきたから、後の者にも同じやり方をさせる」わけである。なぜ、自分はそれで酷い目に遭ってきたから後輩にはそれをやらせたくない、という気持ちになれないのだろうか。

元記事について一言だけ書いておけば、最初に出てきた「オーダー」については、「オーダー用紙」に必要事項を最初から印刷し、研修医が事項ごとに空欄に書き込めば、それで済む話だ。何が必要事項なのかを教えもせずに、それをいちいち突き返すというのは単なる初心者いじめであり、看護師たちのストレス解消手段の一つだったのではないだろうか。それを黙認したままで、改善しようともしない病院上層部の人間的レベルも想像がつく。


(以下引用)

歩きかたと登りかた

研修医だった大昔、患者さんが病棟に上がってきても、オーダーを出すのが大変だった。
ある病名を背負った人に何を行うべきなのか、知識としては一応持っていたのだけれど、それをどうすれば「オーダー」という記法に落とし込めるのか、思うところを書いても、病棟からは「これでは指示を受けられません」なんて突き返されたり、「ふつうに点滴をつないでおいてくれればいいから」と言われた患者さんがいて、じゃあ「ふつう」とは何なのか、ラクテックなのか、ソリタT3なのか、まずはそこから分からなかった。生まれて初めて処方した「ふつうの」輸液製剤は10% EL 3号で、それを書いたら「どうしてEL なの?」なんて、先輩の研修医から怒られた。
駆け出しの本当に最初のこの頃、けっこう長い期間途方に暮れて、たまたま集中治療室の患者さんを受け持つ機会があって、婦長からはじめて、「オーダーの書きかた」を教えてもらった。オーダー用紙には「病名、重症度、安静度、検温の回数、尿測とモニター、酸素の有無、食事、点滴、内服」を、この順番で書く。それだけのことを教わることで、各病棟から突き返された研修医の落書きは、ようやく「オーダー」として通じるようになった。

当たり前のことは難しい

今の研修病院なら、こうした「オーダーの書きかた」みたいなものを教えない施設はさすがにないだろうけれど、昔はこうした「当たり前」の知識については、研修医が各自で発見するものだと考えられていた。研修医が学ぶべきはもっと高度な知識であるべきで、当たり前のことは、わざわざ教えるまでもないからと。
知識の序列は立場が変わると異なってくる。慣れた人なら重要さが順番の要になるけれど、研修医は切実さで序列を付ける。もっとも切実な知識、オーダーの書きかたや「ふつうの点滴」の出しかたは、先輩の序列では「重要でない」ものだから教えてもらえなかったし、教科書に「ふつう」を求めて、答えを探すのは大変だった。
知っていることと、オーダーできることとの差異は本当にわずかなのだけれど、一度知った人間にとっては意識するまでもないことが、研修医には絶望的な壁に思える。一度聞いたら自分も壁の向こう側にいけるのに、どれだけ勉強しても、知識を「オーダー」へと落としこむその最後の半歩が超えられず、けっこう長い期間惨めな思いをする研修医はたぶんそれなりにいるのではないかと思う。

見えるものはずいぶん違う

カルテの書きかたには決まりがあって、最初の方に「主訴」が、患者さんの訴えを記載する欄がある。研修医はたいてい、主訴の欄に病名を書いて、「病名を自分でしゃべる患者さんがいるわけないだろう」なんて、上の先生から怒られる。
立場が異なると、風景はずいぶん変わる。外来を受け持つ上の先生にとっては、例えば肺炎の患者さんは咳や発熱、呼吸困難を訴えて病院に来る人だけれど、研修医にとっての肺炎は、上司から「肺炎みたいな患者さんを病棟にあげるから、先生見ておいて」と紹介される病気して認識される。病棟に来た段階で、患者さんの多くは自分の病名を聞いているし、「どうしましたか?」なんて今さら尋ねても、「外来で肺炎だから入院が必要だと言われました」なんて答えが返って、それをそのままカルテに書くと、あとからまた怒られる。
肺炎に関する知識なら、上司はたぶん、問診や聴診における肺炎の特徴や、肺炎に対して使われる抗生剤の理論的な背景を大切だと考える。研修医はたいてい、「肺炎」という病名が付けられた患者さんにどんな検査を予約すればいいのか、どんな食事を出せばいいのか、安静度をどうすれば怒られないのか、酸素はどうなったら使うべきなのか、そんな知識を切実だと考える。
教科書には大切な知識が沢山記載されているのだけれど、切実な何かが書かれていなかったり、そうした知識を探すのがやけに難しかったりする。

歩きかたと登りかた

山に登るのに必要なのは「歩くこと」であって、「登山とは何か」みたいな深いテーマを学ぶのは、歩き出してからのほうがいい。
成功するための哲学を教えてくれる人は多い。それが重要なことなのだろうし、教える側にも「教えがい」がある。「その業界でスタートするための方法」を教えてくれる人はあまりいない。事務手続きやお金の話みたいな、成功哲学に比べればあまり大切に見えない話が多いし、どうにも高級に遠いから、話す側も面倒だからなのだと思う。
そうした傾向が真実であったとして、結果としてたぶん、「成功できる知識があるのにスタートできない」新人が、世の中には増えていく。
そこで成功するために必要な知識と、そこで食べていく上で切実な知識とは大いに異なる。前者のほうが面白くて大切だけれど、最初に後者を習得しないと、スタートするための障壁がどんどん重たくなっていく。成功するための知識が増えていくほどに、スタートするための知識の欠落が相対的に大きくなって、結局その人は動けなくなる。
山に登ることは、実はそこまでものすごい知識が必要なわけではないのに、「頂上を目指すことの素晴らしさ」を熱心に説いた結果として、登山客を減らしている「山が好きな人」が、社会のいろんな場所にいるのではないかと思う。
スタートするためには何が必要なのか。それにはどんな手続きが必要で、たとえばどれだけのお金がかかるのか。困ったときには何が役に立つのか。誰に援助を求めればいいのか。オーダー用紙や契約書の文面の文面は、どんな型に従って書くのが無難なのか。若い人を教える機会なんてもうないんだけれど、そういうのをまとめてみたかった、あるいはそういうのがあれば、研修医の時の苦労は少しでも減らせただろうなと思う。

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私も台風も左巻きか

私は、言葉の誤用には割とうるさい方だが、知識そのものの正誤にはルーズだ。もともと、何かを事実であると判断すること自体が当人の主観なのだから、その主観を幾ら突き合わせても純粋な客観にはならない。昔は天動説が真理だったのだろうが、今は地動説が真理とされている。だが、シャーロック・ホームズの言葉を借りれば、それがどっちだろうが「そんなことは僕や僕らのやっていることに対して、なんらの相違も起こさせやしない」のである。
というわけで、私はそれが常識かどうかなど、まったく気にしていない。むしろ非常識な思想にこそ惹かれる方である。
しかし、そういう風に「世間の知識」を軽視していると、馬鹿な発言をして世間からは相手にされなくなるわけで、私もこのブログで何度も馬鹿な発言をしている。
昨日一昨日書いた台風の話の中で、「台風は北半球では時計回りだ」と書いたが、これは逆のようだ。調べもしないで物を書くからこういう馬鹿な間違いをする。
私の書く文章なんてその程度のものである。読む人はそういうつもりで読んでいただきたい。まあ、私が注意しなくても大丈夫だろうが。
台風が反時計回りだとすると、その進路についての私の理屈も成り立たなくなり、台風の進路は台風の渦の回転のためではなく、上空のジェット気流によるものだ、ということになるのだろう。しかし、ジェット気流は南西から北東方向に吹いている以上、台風の進路も原則的にそれに同調して進むはずである。実際、昔はそう進んでいたのだ。ならば、現在の台風の奇妙な進路は、やはり不自然であり、人為性が疑われる、という結論に変わりはない。
まあ、今日は記述の間違いのお詫びと言い訳と開き直りという、謙虚なのか傲慢なのか分からない文章であるが、とにかく「台風は反時計回り」のようだ。

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変化を恐れ、自ら不幸を選択するという愚かしさ

「マドモワゼル愛」さんの今日の記事(今日の日記)が実にいい内容なので、紹介する。最初と最後だけは別の話題なのでカットしてある。
実は、私が今日の分に掲載しようと思って書いてあった文章があるのだが、その内容と非常に近いものがあるので、それも続けて掲載する。
愛さんのこの文章の中でも特に気に入ったのは


「将来、空気中から、また真空から、有り余る電気が得られたとした、石油のために戦争していた時代は、一体何だったのか、、、と思うようになるだろう。

顔がまずいとか、給料が安いとか、人に遅れをとるとか、、、そういうことで人生を不幸だと思っていたことが、なんと勘違いだったかと、わかるようなものではないか。

そんなところに人間や命の意味があるのではない、もっと大きな仕掛けの中に人は生きている。誰でも。」

という部分だ。
私は、この「フリーエネルギー(無料エネルギー)」は確実に実現する、いや、もしかしたら原理はすでに発見されているのではないかと思っている。映画「スライヴ(「繁栄」か?)」では、そうほのめかしてもいる。
大企業の利益を守るために大事な発見が隠されたり葬られたりしている例は多いはずだ。企業の邪魔になる研究が妨害されるというのはありふれたことで、これは井口博士の新しい記事の中で大学の先生自身が証言している。
ともあれ、フリーエネルギーが出現したら、もはや世界の在り方はまったく変わるはずだ。富の異常な偏在という悪も抑止されるだろう。そして富の偏在から生じる悪もまた消えていくことになり、いわば地上の天国に近づくのである。
そうなった時に、20世紀から21世紀前半の人間が富を争ってお互いに殺し合い、いじめあっていたことが不思議に思われるようになるはずだ。
これが私の言う「人類幼年期の終わり」である。




(以下引用) 


これから色々な変化が起きてくると思いますが、最初は混乱にみえて、実は新たな秩序がそこから生まれているという形になると思う。

とにかく変化を恐れないことです。変化していくものには命が必ず伴うので、本当は心配は不要。

けっきょく、今変化を恐れているのは、これまでの既得権益的なものにしがみつく人がメインであり、多くの人は一見変化を恐れるように見えて、さすがにここまでインチキ社会となれば、もう壊れてしまったほうがいいのでは、、、、と受け入れる気持ちも逆に育っている。

変化の中に身を置くと、そう決めるだけで人生は楽になっていきます。

人生のあらゆる秘密を知っている人がもしいたとすると、私たちが日ごろ抱く不安や恐れが、いかに取るに足らないものかと思うはず。

すべてはよくなるために変化していくのだから、いやなことでも起きてしまった現実は、良い方に向かうための生涯(夢人注:「障害」の誤記だろう)の除去だったり、消失だったりして、次の展開をもたらしてくれる貴重なわざわいであることになる。

これは事実で、不幸な出来事があったとしても、それは決して不幸ではない。不幸とは、しがみつき、変化を恐れることなのだ。

青年期によく読んでいた本に荘子があるが、その中に、ある朝、自分が鳥になっていたら、その時は思い切り鳴いてみよう、、、というような文章がある。

運命の変化を受け入れることを言いたいのだが、荘子のすごさは、ただ受け入れるのではなくて、それを面白がっているところにある。

鳥になるのなら、鳴いてやる、、、、なんでもござれ、なんでも、どんな変化でも、オーケー。どんな運命が自分に訪れようとも、それを見事、楽しんでやるぞ、、、の凄味である。

それによれば、あらゆる不幸が消失してしまう。あくまで不幸にしがみつくのは、心ない田舎者の一部のバカ連中だけになってしまう。本当は不幸などない、、、変化を楽しむことで、こちらにもわからない大きなものが進展いていく、、、、

とんでもなく面白い劇が、まるで神芝居(夢人注:「紙芝居」の誤記だろう)がどんどん進展していってしまう、、、、

一見現実離れしているように見えて、それは事実なのではないか。

将来、空気中から、また真空から、有り余る電気が得られたとした、石油のために戦争していた時代は、一体何だったのか、、、と思うようになるだろう。

顔がまずいとか、給料が安いとか、人に遅れをとるとか、、、そういうことで人生を不幸だと思っていたことが、なんと勘違いだったかと、わかるようなものではないか。

そんなところに人間や命の意味があるのではない、もっと大きな仕掛けの中に人は生きている。誰でも。

それでもなを、自分を不幸だと思いたい人はいると思うし、客観的に見て、確かに大変だ、、、という状況はあるだろう。しかし、変化が重要という大きな原理の前では、私たちが感じる不幸は、やはり趣味程度のものでしかなくなる。

自分を不幸と思う人は、本当は趣味でそう思っているといったら怒られるだろうが、私が青年期の悩みに悩んで、あまりにまじめに悩みすぎた結果、ある日、私は不幸に飽きてしまったことがある。

それはウソでない感覚だった。むしろ不幸がウソだと分かった瞬間、私はそれに飽きてしまったのだ。

本当はこの世に不幸などないのだ。不当なことや、おかしなことや、苦しいことははっきり言ってたくさんあるが、それは不幸とは違う。

不幸は運命ではなくて、選択なのだ。不幸を選択するのも趣味としてはいいが、本気で趣味にしたら、実態が乏しいので、すぐに飽きるはずである。

不幸に飽きない人がいたとしたら、それは不安から不幸にしがみついているのだ。不幸よりも不安の方が怖いからに違いない。


しかし、人生が不安であるわけがない。大きな仕組みがあるからだ。

また人生はそんなに複雑なものでもない。戦争も本当は複雑なものではなく、金儲けや権力維持のために起こる単純な動機を持っている。

ただ、それだとばれてしまので、どうすれば戦争がなくなるのか、、、というようなまことしやかなウソを振りまいて逃げているに過ぎない。

不幸も戦争も単純。それを選択する人がいるというだけの話しなのだ。

なので、あなたは何を今、明日、選択しますか、、、を常に尋ねられているのが人生。よい気持ちで、楽しい気持ちで、変化を受け入れていく。

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目覚めよと呼ぶ声がする

「in deep」から転載。
実は、毎晩のようにほぼ同じ時刻に目が覚めるというのは、私もそうである。それはだいたい午前3時40分ころか午前2時40分ころだ。1時間のずれはあっても、40分ころというのは変わらない。で、一度目が覚めると、その後はほとんど眠れない、というのも下記記事と同じである。
眠りに入るのが特に難しいということは無い。それに、通常、夜の8時9時には眠くなるので、早寝することが多く、その分過度の睡眠不足にはなっていないが、日中でも急に睡魔に襲われて意識が途切れそうになるのは、やはり睡眠不足かもしれない。あるいはこれはただの老化現象か。
それより面白く思うのは、毎晩(毎朝か)同じような時刻に目が覚めるという点だ。この午前3時40分、あるいは午前2時40分というのは、私が生まれた時刻か、それとも死ぬ運命の時刻かもしれない。死ぬ時刻であれば、それは多分、床の中で死ぬということを示しているのだろうから、嬉しい話だ。
要するに、目覚めとはある意味では新しく生まれ変わることであり、我々が眠りの後で昨日と同じ意識や記憶を持った同一の自我として目覚められるのは、不思議と言えば不思議なのである。あまりに当たり前のようだから、誰も不思議がらないが、まあ「薔薇の木に薔薇の花咲く。何の不思議なけれども」(北原白秋)ということだ。
で、これが私だけのことならばわざわざ話題にすることでもないが、世界的現象だとなると、これにはもしかしたら重大な意味があるのかもしれない。すなわち、「全人類的覚醒の予兆」であったりして。
バッハに「目覚めよと呼ぶ声がする」という名曲があるが、我々は誰かから「目覚めよ」と呼ばれているのかもしれない。


(以下引用) *長いので、後半のニュース記事翻訳などを適宜省略。


2012年08月17日

睡眠障害が地球レベルで拡大していることがイングランドの大学の大規模な調査で判明



(訳者注) かつてウェブボットを読ませていただいていた時に、「世界的な睡眠障害が広がる」という内容の予測の記述がありました。
2009年の春頃のウェブボットです。

その記事に私は当時大変に興味を持ったのですが、その理由は、当時、私自身に深刻な睡眠障害が続いていたからでした。

今から3年以上前ですが、あれを睡眠障害と言っていいのかどうかわからないのですが、「何時に眠りについても、毎日同じ時間(深夜)に目覚めてしまう」ということになっていて、正直かなり疲れていました。

その頃書いていたブログ(クレアなひとときのこちらの記事など)にもちょっと書いたりしたこともあったのですが、今はもう忘れてしまいましたので、その記事(当時はコメント欄もありましたので、当時のコメントもそのままです)から、当時の私の様子を転載しますと、

(自分の睡眠の問題について)ここ数日の自分を観察していますと、漠然と「夜中に目が覚める」というより、1時55分に目が覚めて、そこでうまく再度眠れても、次は2時55分に目覚める、というように、目覚める時間がわりと決まっているようです。

2時55分の場合は少なくとも朝5時くらいまでは再び眠ることができません。周囲の他の睡眠障害の人たちもそのようですが、就寝の時間はあまり関係ありません。午後9時に寝ても夜1時に寝ても、大体同じ時間に目覚めます。


とありました。

この問題は、つまり、「場合によっては1日1時間くらいしか眠れない日が続いていた」ということになって、どのくらい続いたのか正確なところは覚えていませんが、数ヶ月とか半年とか、そういうレベルで続いていたように思います。うちの奥様などもやや心配げな感じでした。

まあ、私本人は疲れていることを除けば大した気にしてはいなかったのですけれど。

そこに、当時のウェブボットの「世界的な睡眠障害」についての予測記事があったので、とても興味を持ったということでした。

その部分を少し抜粋してみます。
2009年4月に配信されたものです。
ウェブボットは、書かれてある予測年代とか予測日時は気にしないで読むほうが良いです。
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ウェブボット 非対称型原語傾向分析報告書 1309 パート5
2009年4月11日配信

・世界的な規模で睡眠障害が発生する。最初は個人的な問題として見過ごされるが、多くの人々が同時に同じ問題に苦しんでいることが次第に明らかとなる。これは2009年の夏の終わりから秋にかけて明らかとなる。 この現象はこれから3年間継続するが、問題が発見されるのは2009年である。

・この現象は宇宙関連のカテゴリーに出てくる宇宙からの未知のエネルギーと関連の深い現象である。この現象はすでに始まっているが、今の時点でそれを体験しているのはもっとも敏感で繊細な人々に限定されている。その後、次第により繊細ではない多くの人々が同じ症状を体験するようになる。

・集団的な睡眠障害の現象は2009年秋の「病気」のキーワードとの関連でも現れているが、これはいわゆる病気ではなく、その原因は太陽系にある。 睡眠障害に対する薬物療法はほとんど役に立たない。むしろ睡眠障害を悪化させてしまう。

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というものでした。

まあ、これらは「予言・予測」ということで、オカルト的な意味合いが強いとはいえ、それを別にしても、この「睡眠障害」というのは、日本を含めてどこの国でも大きな問題ではあるはずです。

そんな中で、先日、イングランドにあるウォーリック大学で、いわゆる発展途上国といわれる国々での睡眠に関しての大規模な調査を、複数の研究機関と合同でおこないました。この調査はこれが初めてとなるものです。

その結果、発展途上国の睡眠障害の問題も、先進国とほぼ変わらないか、国によっては、さらにひどいことが判明したという報道です。かなりの大規模調査で、信頼度は高いものと思われます。


また、西側諸国ではすでに問題となっている睡眠障害による抑うつ(うつ状態のような気分)や、強い不安感、落ち込みといった問題の率も先進国と同じレベルだということが判明したというものです。

興味深かったのは、今回の調査は特に「地方に住む人々」を対象におこなわれたのですが、

・地方も都市部も睡眠障害の問題レベルは変わらない

ということがわかったりしています。

調査した国は8カ国の複数の地方で、国は、アフリカのガーナ、ケニヤ、タンザニア、南アフリカ、そして、アジアから、ベトナム、バングラデシュ、インドネシア、インドで、この中でケニヤだけは都市部の人を調査したようですが、他はすべて地方、つまり田舎です。

日本の田舎と違い、上の国々あたりの田舎となると、「本格的な田舎」のはずで、携帯もパソコンも、場合によっては、電話やテレビや街灯もないという場所も含まれるかもしれません。

つまり、人工的な光も騒音も、都市化によるストレスも、下手すると公害もあまりない。そんなところでも、「先進国と同じかそれ以上の率(ベトナムとバングラデシュは、特別に睡眠障害の率が高い)」で睡眠障害が存在しているという事実は大変に興味深かったです。


私たちが「なんとなく」不眠の原因と考えやすい都市部での生活というものは、実際には睡眠障害とはあまり関係がないのかもしれません。

考えられないほどの大自然の中で、東京等の都市部に住む人たちと同じような睡眠障害の発生率があり、それが引き起こす問題もほぼ同じだという現実。つまり、「地球の上ならどこでも同じ」という事実。上のウェブボットにある、「その原因は太陽系にある」というような感覚もあながち完全には否定できない面も感じないではないです。



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人生の中仕切りの弁

私の愛読するブログの一つに「がま仙人のブログ」というのがあって、その清貧の生活ぶりを私は尊敬しているのだが、収入がまったくゼロではいかに仙人であってもこの社会では生きてはいけないだろう。
それは私も同様だ。実は、私は今年会社を定年退職し、今は無職状態である。収入も今はゼロだから、金は出て行くばかりである。まあ、そのうちいい仕事に出会えるだろうと気楽に構えるようにしているが、やはり心の隅には常に近い将来への不安もあるわけだ。まあ、いざとなれば死ねばいいさ、という覚悟はあるけどね。
子供に関しては、私の持論として、義務教育までを終えれば親としての養育義務は果たしたと考えている。その後は、子供が自力で生きていけばいいのである。親などいないほうが子供は性格がしっかりし、立派に育つのではないか。親は早死にする方が子供のためかもしれない。
昔は40歳くらいで隠居して、後は遊んで暮らすというのがちょっとしたレベルの町人の暮らし方だったようだが、今では死ぬまで働くのが当たり前だという風潮である。40歳定年ならば、40歳で老齢年金を支給するのかと思えば大間違いで、年金支給年齢は逆にどんどん引き上げられて、大半の人間は年金を受け取る前にとっくに死んでいる、となりそうだ。
まあ、働くのがまったく嫌いというのでもないが、20歳から60歳まで40年間も働かされたのだから、定年退職を機に、しばらくは骨休めをさせてもらおう、というのが私の気持ちだが、他人が働いている時に、自分だけ働いていない、というのはやはり肩身が狭い気分だ。気が小さい、と言うべきか。
などとは言いながら、今の自由な状態を楽しんでいるのも確かである。とにかく、「予定が何一つ無い」というのが嬉しい。
自由な状態だと「勉強」も苦にならないから、今は高校生レベルのリライト版で「シャーロック・ホームズ」の英書などを読むのが娯楽の一つだ。多少意味不明の部分があっても、日本語で読むよりも面白い。日本語だと読むスピードが速すぎて、「筋を追うだけ」になるが、英書だと1行1行を味わいながら読める。
それに、今はユーチューブでいくらでも好きな音楽が聴けるから、読書と音楽を同時に楽しみ、それに昼ならコーヒー、夜なら安ワインを味わうという、実に安上がりの快楽である。
今日など、窓から気持ちのいい風が入るので、クーラーもつけずに一日中家の中にいたが、それで十分満足である。
田舎に帰ってきてから、兄弟たちに会った以外は、昔の知り合いにすら連絡もしていないのは少し気が咎めているのだが、それも実は「予定」を作るのがいやだから、という現代人にあるまじき我儘な理由からである。
まあ、自称「仙人」のすることだからと許してもらおう。

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