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クリスマスは人が少し優しくなれる日

このブログを読んでくださっている皆さんへのクリスマス・プレゼントである。
この前から、今後の世界のキーワードは「ほんの少しの優しさを」あるいは「ほんの少しだけでいい」ということにしようと勝手に決めているのだが、これは昔聞いたオーティス・レディングの「Try a little tenderness」が私の深層心理の中から浮かび上がってきたのだろう、というわけでその歌をユーチューブから拾って転載する。
最初にCMが入っているのがウザいが、ステージ版よりレコード版の方がこの歌に関しては優れているので、レコード版と思われるこの動画にした。
ディケンズの『クリスマス・カロル』も、いわば「ほんの少しの優しさで世界は変わるよ」、という話と読めないこともない。クリスマスは、世界中がそうした優しさに包まれる日だと考えれば、無神論者でも大いにクリスマスを祝っていい。
なお、後でもう一つ動画を追加する予定である。







「ポップス名詞撰30」より(解説文章および訳は夢人による)


22 「少しの優しさを」(「トライ・ア・リトル・テンダーネス」)

Try a little tenderness

She may be weary
Woman do get weary
Wearing thethe same shabby dress
And when she is weary
Try a little tenderness
(彼女は疲れている
女は本当に疲れるものだ
いつも同じ着古したドレスを着て
そして彼女が疲れている時には
少し優しくしてあげなさい)

You know she is waiting
Just anticipating
Things she may never passes
While she‘s without them
Try a little tenderness
(彼女が待っているのは分かるだろう
期待しているんだ
それ無しではいられない物を
彼女が持たない時には
少しの優しさを見せてやりなさい)

It‘s not just sentimental
She has her greef and care
And a word that‘s soft and gentle
Makes it easier to bear
(それはただセンチメンタルなことじゃない
彼女には自分の苦悩や心配事がある
そして優しく親切な一つの言葉は
それらを耐え易くする)

You won‘t regret it
Woman don‘t forget it
Love is their whole happiness
It‘s all so easy
Try a little tenderness
(君はそれを後悔はしないさ
女は君がしてくれたことを忘れない
愛は彼女たちの幸福のすべて
それは本当に簡単なことなんだ
少しの優しさを試してごらん)


1933年のテッド・ルイスとかいう歌手のヒット曲だが、ほとんどの人は知らない歌だろう。ただし、オーティス・レディングのカバー曲で知っている人もいるかもしれない。
オーティス・レディング版では、第二連の意味不明の「thethe same」が「that same old」となっていたような気がする。辞書を引いても「thethe」なんて語は出てこないから、これはこの歌詞を拾ったインターネットサイトの誤記だろう。
ポップスの歌詞としては珍しく、男女の恋愛ではなく、一種の博愛をテーマとしている。
それも、仰々しい博愛行為ではなく、「少しの優しさを」というところがいい。我々の社会生活の軋轢のほとんどは、この「少しの優しさ」で解決できるところを、それぞれの「少しの強欲」が逆に増幅している気がする。歌に社会改革の力を求めるつもりはないが、案外と、こうした歌が心に残って、何かの影響を社会に及ぼすこともあるのではないだろうか。




その2

「小さな」「少しの」つながりで、バート・バカラックの「Pray a little prayer for you」がうまく使われた「My best friend's wedding」中の私の好きな場面を、同じくユーチューブから拾って転載する。この映画は音楽の使い方が実に私好みで、楽しい映画であった。ジェローム・カーンの「今宵のあなた」が出てきた時には、驚いたものである。まあ、主人公の女の自己中ぶりがうんざり、という人も多いだろうが、そういう話なのだから、これでジュリア・ロバーツを嫌っては可哀想である。なお、ネタバレだが、ジュリア・ロバーツとダンスをしている男は、実はホモであり、彼女とは友情関係なのである。彼女の暴走を引き止め、救う役柄だ。ここでも「少しの優しさ」がすべてを救うということである。
もしもクリスマスに見る映画に迷っているなら、ディズニーの実写・アニメ融合映画の『魔法にかけられて』などがお勧めである。あの中の公園での楽しい群舞シーンだけでも、見る価値はある。もちろん、全体に楽しい映画であり、クリスマスは感動映画か楽しい映画に限る。

*動画そのものを貼る予定だったが、指定の場所に動画が来ないので、動画のアドレスだけ貼っておく。

http://www.youtube.com/watch?v=4Jjedn__Wxk&feature=player_detailpage




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希望は希望に満ちている

徽宗皇帝のブログにも書いたが、選挙期間内のネットでの選挙活動を禁じた公職選挙法のために、しばらくは選挙関係の記事は自粛である。そういうように自粛させ、国民を萎縮(おっ、「自粛」と「萎縮」で洒落になった!)させるのが政治権力の狙いであり、たとえば国政選挙の供託金制度によって貧乏人が最初から政治に関与できないようにされているように、日本は様々な手段で国民が政治から遠ざけられているのである。

私の持論は、国民が日常的に政治について快活に語れるようになった時に、政治自体の次元上昇が起こる、というものである。つまり、党派や思想の違う人間同士が政治論争をしても、それで人間関係が壊れることは無く、むしろそれで楽しい時間を過ごせた、という快さが政治議論に欲しいということだ。
これも何度か書いているが、「床屋政談」でいいのである。床屋政談こそ民主主義の土台であり、政治が専門家やインテリだけの専有物では民主主義の真の実現など永遠に不可能だ。
私の理想は、これも何度か書いているのだが、子供のころに読んだ『小公子』の世界である。この中に、アメリカの初期民主主義の理想的状態が描かれている。無学な雑貨店店主の老人(中年か?)と、まだ10歳かそこらのセドリックが大真面目に政治を論じるのである。
私には、これが政治の理想像だと思える。
その逆の例が「鼓腹撃壌」の話だ。ここでは、平和な世の中に満足した庶民が、それが為政者のお陰であることにも気づかず、「政治など俺に何の関係がある」と嘯き、それを見た為政者が、それで良い、と微笑むのだが、これは「民は依らしむべし。知らしむべからず」を象徴しており、国民が主体的に政治を決めていく民主主義の対極である。
国民主権や民主主義は実現不可能なファンタジーである、という考えもあるが、私はそういうペシミズムは採らない。

これも何度も書いているように、「絶望の虚妄なること、希望に相同じい」(魯迅)なのであり、希望も実は虚妄ではあるかもしれないが、同じ虚妄でも絶望よりは生産的で、「希望は希望に満ちている」(笑)のである。
まあ、それでうまいことを言ったつもりか、という幻聴も聞こえるが、「最後まで耐え抜いた者は救われる」(ドストエフスキー)と信じたい。もっとも、この言葉も「最後まで耐え抜いたならば、それが救われていることは自明ではないか」と言われればそうなのだが、言葉というものは意味や論理だけに価値があるのではない、ということもしばしば言ってきたことである。






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日本政界の今後と易

今朝の記事「水を得たオリーブの木」の補足と訂正をしておく。
私が易で占って「木」と「水」がキーワードだ、と出たのは去年後半の日本の政治について占ったものだった。だが、まあ、「日本の政治の今後」という卦として出たといい加減に解釈しておこう。卦は「風水渙」で、易では風は木をも意味する。つまり、「木と水」である。
再掲載しておこう。
もう一つ、現在の状況とつなげて言えば、「王中に在るなり」が、小沢が「日本未来の党」で黒子になることを意味していると解釈できる。
まあ、すべてこじつけだが、なかなか面白いのではないか?



(以下、昨年6月末の記事)


今年後半の日本を占う


私は趣味で易占をやっているので、未曽有の大危機にある日本の今年後半を占ってみた。

卦は「風水渙・三爻」と出た。

「渙」とは水が風に吹き散らされる様子だが、そのように大きく物事が変化していくことだ。
卦の言葉は「渙は亨る。王有廟に仮(至)る。大川を渡るに利あり。貞(正)しきに利あり」となっている。
仮の字を「いたる」ではなく「借る」と読めば、まさしく「菅」総理が総理の座を仮に拝借しているという今の状況そのものである。つまり「渙=菅」。有廟とは朝廷のこと。
卦の爻というのがあって、補足的な説明になっているが、爻は六三で、その言葉は「その身を渙す。悔無し」というもの。
ここで「渙=換」と考えれば、菅総理が本来の総理となるべき人物に自らの地位を譲り渡せば、すべてが適正に治まる、ということになる。
彖という説明文によれば「王有廟に至るは、王すなわち中に在るなり。大川を渡るに利あるは、木に乗りて功あるなり」とある。
水に関係のあるのは「小沢」だろうが、「木」に関係のある人物がこれからのキーパーソンになるかもしれない。
いずれにしても、日本はこれから良い方向に変わっていきそうだ。
良かった良かった。
まあ、私というへぼ易者の占いによればだが。

易で遊ぶというのは、こういうふうにこじつけを楽しむということで、おおげさなものではない。



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黎明への挨拶

なぜかしら、昔読んだ詩の一節を思い出したのだが、その正確な内容をネットで調べると、これがデール・カーネギーの本に引用されたものであったことが分かった。もちろん、私自身デール・カーネギーのその本で読んだのだろうが、訳し方が私の記憶の中のものとは少し違う。
詩はインドの作家カリダサ(カーリダーサ)の「黎明への挨拶」である。その後半部分が特に好きなのだが、現在の訳は今一つ好きになれない。
もうほとんど覚えていないので、現在の訳を元に、私が少し変更したものを先に書き、その元になったものを後に転載することにする。





「黎明への挨拶」後半


昨日は夢にすぎない。
明日は幻でしかない。

だが精一杯に生きた今日は
すべての昨日を幸せな夢に変え
すべての明日を希望に満ちた幻とする。

だから、今日という日を見つめよう。
これが私の黎明への挨拶である。












(参考とした訳)


昨日は夢にすぎず
明日は幻でしかない
精一杯に生きた今日は
すべての昨日を幸せな夢に変え
すべての明日を希望の幻と化す
だから目を開こう、今日に向かって!
黎明への挨拶はこれだ。




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月に刺さるロケットと自動書記人形

たまたま娘が借りてきたDVDが家にあったので、『ヒューゴの不思議な発明』を見たが、何とも微妙な作品である。面白いか、と言われれば首をひねるし、感動作かと言えば、まったく感動はできない。ところが、演出はそう悪くはないし、映像技術はある意味驚異的なレベルなのである。完全に、脚本の弱さだろう。私の見間違いでなければジョニー・デップがプロデュースに加わっていたはずなので、原作には映画人を牽きつける要素が強いのだと思うが、脚本段階で「この程度の脚本で大丈夫か」という見直しが必要だったと思う。
何より、登場人物に魅力が無さ過ぎる。主人公の少年は最近の洋画に多い自己中人間で、物語の真の中心人物であるメリエス老人は途中まではただの意地悪爺ィだ。こういうところが脚本の下手なところであり、話の最初の段階で主人公的登場人物に嫌悪感を持たせると、その作品はほぼ失敗するのである。人物の境遇によって情状酌量の余地があるだろう、と作り手側は考えるだろうが、観客の生理(感情)はそう簡単に変化はできないのだ。
最後のスタッフ紹介画面で、クロエ・グレース・モレッツが出ていたことを知ってびっくりしたが、あの「ヒット・ガール」がどこにいたんだ。まあ、その年齢の少女は一人しかいないので、あの子に決まっているのだが、あの普通の女の子が「ヒット・ガール」だとはねえ。やはり彼女はバンバン人を殺しまくらないと彼女じゃないよ。もっとも、『キック・アス』の時の彼女はほとんど仮面(アイマスク)をかぶっていたから、歯並びが悪いこと以外には顔の印象は無かった。今回の映画で初めて顔をちゃんと見たのだが、まあ、普通に可愛い。平凡と言えば平凡な顔だ。大昔の『小さな恋のメロディ』のジャック・ワイルドを女の子にしたような顔だ。トレイシー・ハイドの方ではないよ。
それよりも驚きはジュード・ロウが出ていたことにまったく気づかなかったことだ。主人公の父親役で回想シーンに出てきたようだが、ジュード・ロウのような特徴的な顔でも、メガネをかけて出たらまったく別人である。変装というものは案外簡単なもののようだ。
その他、クリストファー・リーも出ていたようだが、こちらもかなりの老齢で、もはや見分けはつかない。たぶん、本屋のオヤジがそれだろう。(後でウィキペディアを見ると、ムッシュ・ラビスとか書いてある。誰だ?)
脚本段階で登場人物に魅力が無い場合、俳優に怪優をつかう手がある。ジョニー・デップも、どうせなら出演すれば良かったのである。
マーチン・スコセッシはこういうファンタジー風味が大事な作品には向いていないようだ。何より、ユーモア感覚が乏しいので、よほど脚本に人を得ないと失敗する。一番の問題は、彼は達者な監督なので、その失敗が失敗に見えない点ではないか、と私は思う。はっきりとした失敗なら反省もできる。だが、失敗に見えない失敗には改善の可能性は無いのである。
蛇足だが、私はジャンゴ・ラインハルトの音楽が好きだったのだが、この映画の中でなぜか鉄道施設内で演奏をしている音楽家たちの一人がジャンゴ・ラインハルトであるという設定らしい。そんなことを言われても、観客には分かるはずはない、と思う。まあ、遊び心のあるところをそういう部分で見せているのだろうが、それよりは、脚本をもっと楽しい、わくわくするようなものにしてほしかったよ。
これも蛇足だが、映画の中で主人公は「ヒューゴ」と呼ばれていたが、フランス語ではたしか語頭のhは発音されないと思うので、「ウーゴ」と呼ぶべきではないだろうか。「ウーゴ・モンテネグロ」という軽音楽の音楽家もいることだし。
もう一つ蛇足だが、作中で「ヒューゴ」君は「発明」はしません。したがってこの日本語タイトルは嘘です。まあ、嘘によって何かのメリットがあるなら、興業の世界での嘘は無問題だが、この場合はべつに何のメリットもないと思う。それでタイトルが魅力的になったのなら、「ストレンジラブ博士」を「博士の異常な愛情」とするような大誤訳も悪いとは限らない。ストレンジラブ博士は石原閣下と同様に、確かに原爆に対する異常な愛情を持っていたが、ヒューゴ君がいつ発明をするかと待っていた観客はお気の毒である。


(以下「ウィキペディア」より引用)

ヒューゴの不思議な発明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヒューゴの不思議な発明

Hugo

監督 マーティン・スコセッシ

脚本 ジョン・ローガン

原作 ブライアン・ セルズニック
『ユゴーの不思議な発明』

製作 グレアム・キング
ティム・ヘディントン
マーティン・スコセッシ
ジョニー・デップ

製作総指揮 エマ・ティリンガー・コスコフ
デイヴィッド・クロケット
ジョージア・カカンデス
クリスティ・デムロウスキ
バーバラ・デフィーナ

音楽 ハワード・ショア

撮影 ロバート・リチャードソン

編集 セルマ・スクーンメイカー

製作会社 GKフィルムズ
インフィニタム・ニヒル

配給 パラマウント映画

公開 2011年11月23日
2011年12月2日
2012年3月1日

上映時間 126分

製作国 イギリス
アメリカ合衆国

言語 英語

製作費 $170,000,000[1][2]

興行収入 $73,864,507
$184,707,636 [3]



『ヒューゴの不思議な発明』(原題: Hugo)は、2011年のアメリカのドラマ映画。ブライアン・ セルズニックの小説『ユゴーの不思議な発明』を原作とする、マーティン・スコセッシ初の3D映画である。第84回アカデミー賞では同年最多の11部門にノミネートされ、5部門で受賞を果たした。


ストーリー [編集]


1930年代のフランス。パリのリヨン駅の時計台に隠れて暮らす孤児ヒューゴ・カブレは、父親が遺した機械人形と手帳を心の支えとしていた少年だった。機械人形の修理に必要な部品を集めるため、盗みを働くこともあったヒューゴはある日、駅の玩具店の主人であるジョルジュ・メリエスに盗みを見つかってしまう…。
メリエスの養女で読書好きな不思議な少女イザベルや、花屋のリゼットに恋する足が不自由な鉄道公安官を取り巻き、ヒューゴは父が遺した謎の追究を始める。

キャスト [編集]

役名 俳優 日本語吹替

ジョルジュ・メリエス
ベン・キングズレー
坂口芳貞

ヒューゴ・カブレ エイサ・バターフィールド
橘敏輝

イザベル クロエ・グレース・モレッツ
山口愛

鉄道公安官 サシャ・バロン・コーエン
村治学

クロードおじさん レイ・ウィンストン
辻親八

リゼット エミリー・モーティマー
高橋理恵子

ママ・ジャンヌ
ヘレン・マックロリー
野沢由香里

ムッシュ・ラビス クリストファー・リー
長克巳

ルネ・タバール マイケル・スタールバーグ
大川透

エミーユ夫人 フランシス・デ・ラ・トゥーア
立石涼子

ムッシュ・フリック リチャード・グリフィス
村松康雄

ヒューゴの父 ジュード・ロウ
加瀬康之

フーツ警官 ケヴィン•エルドン
谷昌樹

浮浪児 ショーン・アイルウォード
ラヴェルヌ拓海

映画館の支配人 アンガス・バーネット
塾一久

動く写真の呼び込み 真田五郎

機関士① マックス・ロッテスリー
樋口智透

ジャグリングの呼び込み 町田政則

助監督 玉野井直樹

ブース席の女性 慶長佑香

驚く女性① 笹田依里

本の納入業者 荻沢俊彦

ジャンゴ・ラインハルト
エミル・ラジェ

撮影技師 エドマンド・キングズレー

バグダッドの盗賊(映像) ダグラス・フェアバンクス
(ノンクレジット)
トランプ(映像) チャールズ・チャップリン
(ノンクレジット)
ジョニー・グレイ(映像) バスター・キートン
(ノンクレジット)
ボーイ(映像) ハロルド・ロイド
(ノンクレジット)
カメラマン マーティン・スコセッシ
(ノンクレジット)

製作 [編集]

2007年2月、『ディパーテッド』のアカデミー作品賞受賞直前、同作を製作したワーナー・ブラザーズとグレアム・キングはスコセッシの監督を想定して刊行されたばかりの『ユゴーの不思議な発明』の映画化権を購入し、『アビエイター』でスコセッシ、キングと組んだジョン・ローガンに脚本化を依頼した[4]。撮影はデジタル3DカメラArri Alexaを用い[5]、2010年6月29日にロンドンで開始され、以降ロンドンとパリで行われた[6]。
2011年3月、フランスの新聞『ル・パリジャン』が「ルーロー氏 (M. Rouleau) 役のジョニー・デップ」という付記とともに、くちひげを生やした男が写った映画のセット写真を掲載した[7]。しかしパラマウントは、写真の男はデップではなく、またデップは映画に一切出演していないとした[8]。

公開 [編集]

映画は当初ソニー・ピクチャーズ エンタテインメントによって2011年12月9日に公開される予定だったが、キング側が感謝祭の公開を強く望んだ結果、感謝祭に『アーサー・クリスマスの大冒険』を抱えるソニーは配給を退き、代わってパラマウントが2011年11月23日の公開を決めた[9]。映画は原作の原題『The Invention of Hugo Cabret』に反し単に『Hugo Cabret』と呼ばれていたが、のちに『Hugo』とさらに縮められた[10]。
2011年10月10日、本作はニューヨーク映画祭(英語版) (NYFF) において編集が中途段階の状態で上映された。NYFFにおける未完成の映画の上映は1991年の『美女と野獣』以来であった[11]。

評価 [編集]

ジェームズ・キャメロンは2011年11月6日、全米監督協会がロサンゼルスで開いた試写の後で質疑に応え、本作を「傑作」("masterpiece")、「ようやくできた子供たちを連れて行けるスコセッシ映画」と称え[12]、また、3D技術を用いたことに関して、「今まで見た中で間違いなく最高の3D映像。それは君 (スコセッシ) の美術的表現に常に効果的に使われていて、決して邪魔になっていない」と述べた[13]。
本作は批評家から絶大な支持を集めている。映画のレビューを集積するウェブサイトRotten Tomatoesによると、集計されたレビュー98件のうち95件、97%が作品に対し好意的な評価を寄せており、評価の平均は8.4/10、批評家の総意は「『ヒューゴの不思議な発明』は、近頃の子供向け映画の多くが欠く純粋さをもつ、贅沢で洗練されたファンタジーであり、映画のマジックに対する大胆な愛を発するものでもある」であった[14]。有力媒体の批評から100点満点の加重平均値を導くMetacriticは36件の批評を基に85という「全面的支持」の値を示している[15]。
『シカゴ・サンタイムズ』のロジャー・イーバートは4個満点の星をつけ、「『ヒューゴの不思議な発明』はこれまでのどのマーティン・スコセッシの映画とも異なっており、しかもおそらく彼の心に最も近い。ビッグバジェット、家族向け、3Dの大作で、かつある意味においては彼自身の人生の鏡である。我々は偉大なアーティストが必要なツールとリソースの権限を与えられたと感じる—映画についての映画を作るために」と書いた[16]。

興行収入 [編集]

批評家から高い支持を集めた本作だが、制作費が1億8000万ドル以上という巨額を投じているのに対し興行収入は伸び悩んでいる。日本では興収10億円を超えるヒット作となったが、本国アメリカやその他世界規模では結果は芳しくなく、世界興行収入は1億8200万ドルに達したが、配給手数料などのコストが差し引かれるため、GKフィルムは8000万ドルほどの負債を抱える見込みだという[17]。

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「登場人物は全員悪人」ではなく、「登場人物はあなたや私」

「ライブドアニュース」で拾った記事である。
NHK朝ドラの「純と愛」は、雑用に紛れてうっかり見逃すことも多いのだが、面白いドラマであることは何度か書いてきた。NHKらしい朝ドラとは正反対の「人間の本性がどんどんあばかれていく」という、まさしく「女王の教室」「家政婦のミタ」で見せた遊川和彦ドラマであるので、正統的(うっかり「正当的」と書いて、気づかなかった。ワードのワープロ変換は怖いものだ。日本人なら「正当的」などという単語は最初から想定しない。毛唐がいい加減に作った単語集がワードの土台である)NHK朝ドラファンが嫌うのは当然である。
そりゃあ、朝から重いドラマ、ダークなドラマは見たくない、という気持ちは分かるし、私もその部分は同じ気持ちである。だが、この「純と愛」はコメディ的味付けでそのダークさやハードさが十分に和らげられているので、見た後味はけっして悪くない。遊川和彦を起用した時点で、そうした正統的朝ドラから逸脱することは作る側も覚悟の上だっただろう。幸いに、視聴率も安定してきたようだし、ファンも増えてきたようだ。
下記記事にあるテレビライター(脚本家のことか? それともテレビ評論家か? こういう意味不明の国産英語はやめてほしいものである。)田幸和歌子の表現は、なかなか的を射ている。(毎度言うが、的を得る、ではない。的を手に入れてどうする。)その一方、町山智浩の「NHK朝のアウトレイジ」(つまり「全員悪人」)という言葉はやや的外れだろう。登場人物には一人も悪人はいない。もしもこれが悪人に見えるとすれば、それは日本という国では偽善が社会の常識、空気となっているからだ。
遊川和彦の脚本が、常にそうした偽善や「常識」をひっくり返すドラマであったことを忘れてはいけない。「純と愛」の登場人物は全員、「普通の人間」なのである。ただ、そこに「思った通りにそのまま行動する」純と、「他人の考えや本性が見える」愛という二人の「異常な人間」が存在したらどうなるのか、という、言わばこれは「偽善的な人間社会に、その正体をさらけ出させる化学的触媒を投入してみる」という実験のドラマなのである。

なお、「純と愛」のあらすじをほとんど毎回まとめてくれているサイトもあるので、興味を持った人は今からでもそれを読んでみるのもいいだろう。そのまとめの後の短い感想も面白くて、楽しいサイトである。「NHKドラマ 純と愛あらすじ」というサイトだ。



(以下引用)



ダークなNHK朝ドラ「純と愛」の賛否…ネットで熱い議論




ZAKZAK(夕刊フジ)
2012年11月19日17時09分






 世紀の傑作となるのか、それとも…。NHK大阪制作の連続テレビ小説「純と愛」が始まって1カ月半が過ぎた。「梅ちゃん先生」とは打って変わって濃密な人間関係のドロドロドラマが展開され、「好きvs嫌い」でアツい議論がわき起こっている。

 夏菜(23)が演じる、理想のホテルを追い求めて奮闘するヒロイン・純と、風間俊介(29)扮する、人の本性が見える不思議な能力を持つ愛(いとし)を軸に展開するストーリー。今週は、ウエディング担当として働く純にストーカーが現れ、ピンチに追い込まれるというダークな展開だ。「家政婦のミタ」を手掛けた人気脚本家、遊川和彦氏(57)らしい刺激的なストーリーだ。

 視聴率は好調だった「梅ちゃん先生」から受け継いだ直後、初回の10月1日が19・8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区、以下同)。その後、20%を超えることはなく、11月3日土曜日は15・0%となったが、その後ジワジワと盛り返し、最近は17~18%台をキープしている。

 ネットをみると「ヒロインの落ち着きの無さについていけない」「登場人物の腹黒さについていけない」といったダメ出しの書き込みが目につく。その一方で、「適材適所の配役がいい」「展開が読めないのが面白い」など、視聴率の数字だけでは計れない、熱心なファンもジワジワ増えている。

 テレビライターの田幸和歌子さんは「遊川脚本らしく、極端でリアリティーが全くないストーリーと設定、大げさな演出。これについていけない人が続出しているが、ドラマにリアリティーを求める人たちを挑発しているようにすら見える」と分析。従来の朝ドラ視聴者層の批判を覚悟の上で、徹底的にエンターテインメントとして作っている、とみる。

 さらに、映画評論家の町山智浩氏が自身のツイッターで「NHK朝のアウトレイジ」と書き込み、“登場人物全員悪人”をうたった北野武監督の映画「アウトレイジ」になぞらえると、ますますネット上の賛同者が増えている。

 田幸さんも「とにかく風間が良く、時折見せる猟奇的な表情で本領発揮。ヒロインは夏菜より、(女性っぽい)風間なのではないかと思うぐらい。明るく、健やかなものを描くよりも、闇を描くほうが風間の輝きを放つ気がする」と、ダークな朝ドラを評価する。

 「家政婦のミタ」も「女王の教室」も、後半になるにつれ視聴率は急上昇した。社会を挑発してきた遊川氏脚本のドラマはどこに行き着くか。

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秋刀魚苦いかしょっぱいか

秋と言えばやっぱりサンマの塩焼きだよねえ。今どき、七輪でサンマを焼くと隣家から苦情が出かねないが、そういうコセコセした風潮が世の中を息苦しくしているのである。
下の記事は「2ちゃんねる」まとめサイトからの転載だが、太宰治の「死のうと思っていたけど夏物の着物か何かを貰ったんで夏までは生きようと思った」みたいな書き出しの小説を思い出した。
まあ、美味いものを食うのも、気に入りの服を着るのも、何であれ、生きる気力のもとにはなる。お勧めは、散歩と空を見上げることだな。飯山一郎老人みたいに日光浴もいい。
そもそも、我々の悩み(特に失恋など)は大半が自分で勝手に作りだした幻想みたいなものである。自殺という問題解決方法は、そう悪い方法ではないが、一度しか使えないのが難点だ。



(以下引用)





死のうと思って練炭を買った。安かったからサンマも買った。






1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:44:16.55 ID:KNm7uo6h0

人生も悪くないと思えた。



4:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:45:09.12 ID:Ve+nXPYT0

いい話だなあ

5:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:45:09.27 ID:4mBoDpFI0

いいね


25:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:48:17.76 ID:rHwC83aI0

安かったからさんまも買ったでワロタwwww

36:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:49:59.85 ID:2L/HZWiQ0

なんとなく気持ちが綻んだ

15:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:46:39.54 ID:PwQgAOrtO

なんか考えさせられるスレだな

52: 忍法帖【Lv=11,xxxPT】(1+0:15) :2012/11/18(日) 22:52:11.74 ID:eJ4+X3to0

いい話だ
さんまくいてえ

114:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 23:15:55.55 ID:J9sCdVxO0

サンマは美味いからな

18:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:46:54.45 ID:HF0DGvGU0

そんなもんだよな

11:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:46:10.97 ID:uzo4OyUOO

ビールは何にしたんだ
もちろん一番搾りだよな?

12:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:46:13.77 ID:W8YV+gOE0

ライムと大根も買ってパァーっと食おうぜ

37:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:50:12.30 ID:/RoxbsHs0

数の子食べた
世の中、なーんにも変わらない

ってCM昔あったの思い出した

43:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:50:49.02 ID:ymodtsA+0 >>37

なっつwwwwwwwww

46:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:51:25.36 ID:EUBMwhgL0

結局人間美味しいものさえありゃなんとかなるもんだよ
特に冬は死ねないよね何せ鍋の季節だから

75:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:57:54.19 ID:H8HYHOyG0

生きる理由なんてその程度なんだよな

95:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 23:05:46.64 ID:h94Iort90

何か知らんが良い文章だなw

124:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 23:21:37.41 ID:J9sCdVxO0

そこで大根をつけるのを忘れてたと鬱になるのか今度は大根も買おうと思えるのかが人生の分れ目だな

39:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:50:32.61 ID:K7Y8Zo870

なんか希望が湧いてきた

32:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:49:24.44 ID:gnOLHX4FO

このスレみて人生も悪くないと思った

41:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/18(日) 22:50:46.42 ID:rHwC83aI0

炭火で焼いたさんまに白飯とビールwwww
人生って素晴らしいwwww


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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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