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希望は希望に満ちている

徽宗皇帝のブログにも書いたが、選挙期間内のネットでの選挙活動を禁じた公職選挙法のために、しばらくは選挙関係の記事は自粛である。そういうように自粛させ、国民を萎縮(おっ、「自粛」と「萎縮」で洒落になった!)させるのが政治権力の狙いであり、たとえば国政選挙の供託金制度によって貧乏人が最初から政治に関与できないようにされているように、日本は様々な手段で国民が政治から遠ざけられているのである。

私の持論は、国民が日常的に政治について快活に語れるようになった時に、政治自体の次元上昇が起こる、というものである。つまり、党派や思想の違う人間同士が政治論争をしても、それで人間関係が壊れることは無く、むしろそれで楽しい時間を過ごせた、という快さが政治議論に欲しいということだ。
これも何度か書いているが、「床屋政談」でいいのである。床屋政談こそ民主主義の土台であり、政治が専門家やインテリだけの専有物では民主主義の真の実現など永遠に不可能だ。
私の理想は、これも何度か書いているのだが、子供のころに読んだ『小公子』の世界である。この中に、アメリカの初期民主主義の理想的状態が描かれている。無学な雑貨店店主の老人(中年か?)と、まだ10歳かそこらのセドリックが大真面目に政治を論じるのである。
私には、これが政治の理想像だと思える。
その逆の例が「鼓腹撃壌」の話だ。ここでは、平和な世の中に満足した庶民が、それが為政者のお陰であることにも気づかず、「政治など俺に何の関係がある」と嘯き、それを見た為政者が、それで良い、と微笑むのだが、これは「民は依らしむべし。知らしむべからず」を象徴しており、国民が主体的に政治を決めていく民主主義の対極である。
国民主権や民主主義は実現不可能なファンタジーである、という考えもあるが、私はそういうペシミズムは採らない。

これも何度も書いているように、「絶望の虚妄なること、希望に相同じい」(魯迅)なのであり、希望も実は虚妄ではあるかもしれないが、同じ虚妄でも絶望よりは生産的で、「希望は希望に満ちている」(笑)のである。
まあ、それでうまいことを言ったつもりか、という幻聴も聞こえるが、「最後まで耐え抜いた者は救われる」(ドストエフスキー)と信じたい。もっとも、この言葉も「最後まで耐え抜いたならば、それが救われていることは自明ではないか」と言われればそうなのだが、言葉というものは意味や論理だけに価値があるのではない、ということもしばしば言ってきたことである。






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酔生夢人
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仙人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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