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俳句という遊び

毎日毎日、寒さの余り家に閉じこもって、ほとんど冬眠状態だが、いったい地球温暖化はどこへ行ったのだ。はやく温暖化してほしいものである。
若いころには千葉や東京にも住んでいたのだが、12月初旬、いや、正確には11月末からこんなに寒かった記憶は無い。むしろ11月や12月初旬は、「清涼で爽やかな季節」という印象であった。
まあ、暖流が近くを流れる海岸部の関東と、盆地の京都では気候が違って当然だが、昔からこの土地に住んでいる人々は我慢強かったのだなあ、と感心する。平安時代の貴族の女性など、「冬なら」十二単など着ていたのも納得、である。しかし、トイレの時は十二単をいちいち脱いでいたのかね。
さて、政治関係の話は一服して、今日は風流関係の話で、書けば多分自分の底の浅さを知られてしまうような内容だ。なぜそんなのを書くのかと言えば、馬鹿でも無知・無教養でも堂々と自分自身を世間に公開していいのだ、という私の持論のためである。と言うより、本当は、ノートに書いておいてもどうせ見直すことも無いから、ブログを備忘録として使うだけである。私が馬鹿さをさらす事で、世間の人間は「年を取ってもああはなりたくないものだ」、と我が身を振り返る一助になるかもしれないし。

何の話かというと、俳句の話である。私はこれまで作った俳句が百に満たないというまったくの俳句素人だが、時々発作的に俳句を作ることがある。
で、昨日、近くの山を散歩して、俳句が次々に出来たので、それをここに書いておくわけである。
言い訳じみるが、私は「厭味な句よりは平凡な句、月並みな句の方がいい」という考えである。これは映画や小説などの好みもそうで、「後味がいい」かどうかが作品評価の大きなポイントになる。もっとも、ブニュエルの「アンダルシアの犬」など、後味がいいとはまったく言えないが、それが凄い作品であるとは評価する。逆に、世評が高くても、ゴダールの映画のように気どりまくった作品は大嫌いである。映画監督の中ではウィリアム・ワイラーなど、奇をてらったところがまったく無いので世間的評価はあまり高くないが、私の中では、「神様」スタンリー・キューブリックとほぼ同格である。
さて、話が俳句から逸れたが、俳句を作る人々の間では厭味な句、奇をてらった句が高い評価を得ることが多いと私は感じている。つまり、「自分には思いつかない」ものに人は感心するからである。だが、そうした奇をてらった句、作為がぷんぷん臭う句は厭味なものである。俳句に人生観をにじませるような深刻な句もだいたいが厭味なものだ。

俳句は、言葉によるスケッチである、というのが私の考えだ。

目の前の風景、ふと心の中をかすめる感慨を言葉で短くスケッチする。それが俳句の最高の機能であり、練りに練り上げて作り、歴史に名をとどめるような類の俳句は、芭蕉や蕪村などの天才が残したものだけで十分だ。凡人は、自分の平凡な感慨を、奇をてらうことなく平凡に詠めばそれでいい。要するに、俳句は万人に開かれた、日本の伝統的文化遺産である、ということだ。それをどのように利用しても誰も文句は言わない。

前置きがだいぶ長くなったが、私の持論がそうである以上、私の俳句は小学生レベルである。政治や社会を論じる時はいちおう中学生レベルはあるだろうと思っているが、俳句は小学生でも私よりうまく作る子はいるだろう。
だが、べつに人と競うためにやるのではないから、どんなヘボ句でもかまわないわけである。もちろん、それを公開するのがいいかどうかは別問題だが、私は、政治評論における「床屋政談」をもっと広げるべきだと主張するのと同様に、文芸でも「素人が文芸で遊ぶ」ことが広まってほしいと思う。特に俳句や短歌の裾野はもっと広がっていいのではないか。

さて、以下に私が昨日作った俳句を並べていく。ヘボ文芸作品に耐性の無い人は、ここで読むのをやめておくことだ。


1 下葉落ちて 視界広がる 林かな

(もうこれであきれてしまった人もいるだろう。「視界」というゴツゴツした言葉じゃなく、もっといい表現もあるだろうに、とは私自身も思うのだが、素人俳句で3分以上考えるのは無駄だ、と私は思っているので、そのままにする。)

2 空に舞う 落ち葉高々 鳥のごと

(初案は「風に舞ふ」だったが、どちらにしても月並みも月並み、あきれるほどだが、感じた通りなのだから仕方がない。「鳥のごと」は「鳥のごとく」とすると字余りなのでこうした。)

3 人も来ぬ 山に一本 紅葉かな

(「一本」は「ひともと」と読む。これでも子規の俳句の本くらいは読んでいるので、その程度の知識はあるわけだ。初案は「人も見ぬ」が初句であった。)

4 枯山に 鴉鳴きゐる 師走かな

(これは季重なりなので、最後の「師走かな」を変えたいが、面倒なのでそのまま書いておく。なお、「鳴きゐる」と旧仮名づかいにしたのは、ただの気分である。)

5 道に身を 乗り出したる 薄黄葉木

(少し厭味な句かもしれない。擬人法というのは厭味になりがちなものだし、「薄黄葉木」なんて無理な造語だろう。読みは「うすきばき」。実際に見た木の葉の色は、透明な黄色で、それが日に透けてきれいだったのだが、その色を俳句に詠むのは無理なようだ。「乗り出したる」は「のりいだしたる」と読む。)

6 昼にして 日の早傾くや 冬の山

(「早」は「はや」と読み、「早くも」の意。)

7 木隠れに 寺も見えけり 冬の山

(「木隠れ」は「こがくれ」と読む。)

8 宇多陵の 参道 冬の日を受けて

(これで私がどのあたりに住んでいるかが分かるかもしれない)


9 山越しに 京を見下ろす 師走かな


(別に末の句は「師走かな」でなくてもいいのだが、何も思いつかない時は、とりあえず今の季節がいつかを入れておく方針である。)

10 京囲む 山に幾筋 冬日の箭

(これも俗っぽい比喩だが、「箭(や)」を「矢」とするよりはまだ線状の光線のイメージがあるかと思う。初案は「遠山にレンブラントの光かな」という無季の句で、「レンブラント光線」がそのまま使われていた。「冬山に」としてもあまり変わり映えはしない。)


11 鳥騒ぐ 声も懐かし 冬の山

(「懐かし」は懐旧の情ではなく、「慕わしい」「孤独を慰めてくれる」意)

12 落葉の 山道行けば 風寂し

(本っ~当に、平凡そのものである。)

13 人も来ぬ 細山道や 風の音

(見たままの光景、風景である。)


14 暖かに 山の空き地を 日の照らす

(無季だし、平凡そのものだが、これも見たまま。)

15 道尽きて 戻る背中に 冬日かな

(本当は、道は尽きていなかったのだが、そろそろ家に帰ろうと思ってUターンしたのである。まあ、その程度の嘘は許容範囲だろう。)


以上、冬山散歩であった。

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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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