忍者ブログ

白鯨#18

第22章 棺桶

私がピークォド号の運命について不吉な予感を抱いたのは、ピップの事だけのためではない。今や私の無二の親友となったクィークェグが、突然に熱病にかかり、生死の境をさまようことになったのは、船がシナ海を出て日本海近くにさしかかろうとした頃だった。
鯨の皮はいったん脂肉室に運び込まれた後、釜で煮られて油を取り、取った油は樽に詰められて船底に貯蔵されるわけだが、この獣肉のくさい臭いとむっとするような温気、湿気の籠る穴倉での労働は、さほど上品な人間でなくても御免蒙りたいと思うような仕事である。この栄えある仕事はなんと銛手の仕事の一つでもあるのだ。昨日は十字軍の騎士として雄々しく敵と戦った男が、翌日には畑で肥担ぎをするようなものではないか。
とにかく、この不潔な、悪疫の温床のような場所で連日働いているうちに、クィークェグは熱病にかかったのである。日を追って彼はやつれにやつれていった。
彼はほとんど物も言わず病苦に耐えていたが、ある日、傍にいた者に、船大工を呼んでくれと頼んだ。船大工とは、船中の何でも屋であり、ボートの修理からエイハブの義足の製作まで何でもやるが、彼がこの野蛮人に頼まれたのは、棺桶だった。つまり、死を覚悟したクィークェグは、あらかじめ自分の永遠の寝床を用意しておこうと考えたのである。で、実際にそれは寝床になったのだが、但し、それは彼が死んでからではなかった。
出来上がった棺桶を見たクィークェグは、自分をその中に寝かせてくれ、と周りの者に頼んだ。
「とてもいい。楽じゃ」
棺桶の中に横たわったクィークェグは満足そうに呟いて、自分の周りにビスケットの袋と真水の瓶を置かせ、彼の小さな守り神ヨジョを入れて、棺の蓋を閉じさせた。蓋は革の蝶番で棺にくっついていたが、蓋が閉じられると我々の前には無言の棺桶が横たわるだけであった。
やがて中から声がして、「出してくれ」とクィークェグは言った。
こうして死を迎える準備ができると、驚いたことにクィークェグの病状は逆に急速に快方に向かった。
後でクィークェグが説明したところによると、こうである。棺の中に横たわって、死のうと考えた時に、この世でやり残した事はないかどうか、彼は思いめぐらしてみた。そして、陸上で果たさねばならないちょっとした義務のあった事を思い出し、まだ死ぬわけにはいかぬ、と考え、死なないことにしたのだそうである。
聞いていた者たちは、不思議そうな顔で、いったい死ぬとか生きるとか、自分の勝手な気持ちや好みで出来るものかと聞いてみた。
「そうだ」とクィークェグは答えた。
彼の言葉では、鯨とか嵐とかいった人力を超えた大きな力で死ぬ以外は、病気くらいで人間は死ぬものではない、ということである。老衰で死ぬ連中も、「もうこれくらいでいいじゃろう」と思うから死ぬのであり、そう思わなければいつまでも生きているはずだ。……まあ、無知な野蛮人の事だから、眉唾物の話ではあるが、病気に及ぼす意思の力というものは、我々ひ弱な文明人が考えるより大きなものではあるらしい。
とにかく、こうしてクィークェグは死の淵から甦り、彼の棺桶は衣装その他の物入れになったが、後にそれは私が譲り受けることになるのである。もっとも、それは棺桶として使用するためではなかったが。

























拍手

PR

白鯨#17

第21章 ピップ

鯨捕りの危険性については、以上に述べただけでは十分ではない。鯨に銛を打ち込んだ時、舟が猛烈な勢いで鯨に引っ張られる事は先に書いた通りであるが、その際に、矢のように空中を走るロープは、場合によっては舟の中の者を共に地獄に引きずっていく首くくりの縄に変わるのである。しかも、舟の中には鯨に打ち込むための鋭い刃を持った数本の槍と銛が備わっており、それらにロープが絡まりでもしたら、絞首台はいきなりギロチンに変わるであろう。
私はここで哀れなピップの事を諸君に語ろう。
ピークォド号の雑役夫の黒人少年ピップは、給仕の団子小僧とは好一対であった。どちらものろま、間抜けと船中の者みんなにののしられながらけなげに自分の勤めを果たしていたが、ピップはのろまなどではちっともなかった。むしろ機敏で陽気な少年だったのだが、船乗りとしては致命的な欠点を持っていた。それは、彼のどうしようもない臆病さであった。
その臆病さも、彼が雑役の仕事をしている間は目に付かなかったが、運悪くスタッブの最後尾漕手が手をくじいて、ピップがその代わりに舟に乗り込まされた時、彼は鯨捕りとしては死刑にも相当するヘマをしでかしたのであった。
その時、タシュテゴが鯨に銛を打ち込み、例によって舟は猛烈な勢いで走り出した。その衝撃に驚いたピップは、あわてて立ち上がり、轆轤から繰り出されるロープに巻き込まれ、海に落ちたのであった。おそらく一瞬のうちに、彼の体は鯨の引く力で締め付けられ、窒息死するだろう。
タシュテゴは、ナイフを抜いてロープの上にかざし、スタッブを振り返った。
「切るか?」
その時、タシュテゴの目は、ピップへの憎悪に輝いていたに違いない。せっかくの高価な獲物を、この間抜けの小僧一人のために失うのである。
「畜生め、切れ!」
スタッブは怒鳴った。
こうしてピップは救われ、鯨は失われた。
舟に引き上げられたピップが乗組員全員から罵倒されたのは言うまでもない。
「なあ、ピップ、お前が水浴びでもしたい気分になったというのなら、俺は止めはせん。だが、この次にお前が海に飛び込んだらだな、俺たちはお前を放っといて鯨捕りに精出すことにするからな。覚えとけよ。鯨一頭は、お前がアラバマで売れる値段の三十倍も値が高いんだ」
スタッブの言葉は冗談などではなかった。
二度目に舟に乗らされた時、またしても同じ状況で、ピップは海に飛び込んだのだった。そして、スタッブは言葉通り、彼を海に放っといて、鯨を追いかけた。実際、スタッブの行為は責められない。臆病は、鯨捕りの世界では、場合によっては殺人以上の悪徳なのである。もちろん、スタッブは、後でピップを拾う気でいた。
だが、長い時間の後にやっと本船に救助された時、この黒人小僧は気が狂っていた。それも当然だろう。無限に広がる海面には、舟一つ、島影一つ無く、見えるものは、ただ空と波だけである。自分を救助するであろう舟は、もしかしたら自分を見失ったままあらぬ方向へ行ってしまったかもしれない。こうした状況では、よほど強い精神を持った者でない限り、気がおかしくなって不思議ではない。
その日から、この気のふれた黒人少年は、愛用のタンバリンを手に、訳の分からぬ事を言っては船内をうろつくようになった。
おそらく、その姿を見るたびに、スタッブの心には穏やかならぬ思いが浮かんだものと思われるが、それは他の者には伺い知れぬことである。確かに、スタッブは、警告し、その警告を実行しただけである。悪いのは警告を守らなかったピップの方だ。だが、法律の咎めぬことも、良心はより重い裁きを与えることもある。この気のふれた黒人小僧は、もとからピークォド号のマスコット的存在だったが、今では我々の運命の象徴のような姿で、船内を歩き回っては人々を気味悪がらせるのであった。
























拍手

白鯨#16


第20章 水中の産婆術


夜の間中、鮫どもは鯨を食い散らかし、そのままにしておけば朝までには鯨は見る影もない姿になっていただろう。だから、水夫達は交代で鯨に群がる鮫どもを追い払う役目をしなければならなかった。主にその役目をしたのはクィークェグ、タシュテゴ、ダグーの三人であった。というのは、舷側から下ろされた足場に乗って、鮫どもに槍を振り回し、威嚇するという作業は並大抵の仕事ではなかったからである。考えてもみるがいい。わずか1メートル下には悪鬼のような鮫どもが口を開けて待っており、足を滑らせれば鯨の代わりに自分が即座に鮫の餌になろうという仕事だ。
しかも、この三人には、翌日には鯨の解体という大作業が待っていたのである。前日死ぬほど舟を漕いで、徹夜で鮫を追い払った後でやる鯨の解体は、これがまた一瞬の油断もできない危険な作業であることを考えれば、この三人の野蛮人ほど献身的に働く人間はこの世に滅多にいないと思われる。
さて、鯨の解体というのは、脂身のたっぷり付いた鯨の皮膚をはぎ取る作業である。舷側に吊り下げられた鯨の皮の一部にクレーンの鈎をひっかけ、皮に切れ目を入れながら巻き上げていく。すると、リンゴの皮むき同然、鯨からリボンのように細長いが分厚い皮がくるくる巻き取られていく寸法である。その間、皮に切れ目を入れる役目の者は、回転する鯨の上で、危なっかしいダンスをしているわけだ。下の海面には相変わらず貪欲な鮫の群れが騒いでいることを考えると、この仕事を任務とするスターバックとスタッブの立場は、あまり嬉しいものではないはずだが、捕鯨船には、自分の与えられた任務について疑問を持ったり文句を言ったりする者などいない。
鯨から巻き取られた皮は、毛布皮と呼ばれるが、脂肉室に運び込まれ、後に油を取られることになる。
皮膚のはぎ取られた鯨の残りは、海に流されるが、その前に鯨の頭部だけは切り離されて次の作業を待つ。それは、鯨の頭部にのみ存在する、貴重な油の汲みだしである。この作業は、不注意にすると、高価な油が海に流れ出してしまうので、皮はぎが終わった後で、ゆっくり行われる。
事件が起こったのは、この脳油の汲みだしの最中だった。
事件の哀れな犠牲者は、タシュテゴである。彼は大マストの下の桁に乗って、そこから縄を伝って、鯨の頭部に下りた。鯨の頭部に開けられた穴から竿に付けたバケツを下ろし、彼は貴重な油を汲み上げていく。ところが、いかなる悪魔のいたずらか、彼は突然足を滑らせて、鯨の頭の中に落ちてしまったのである。
すぐに行動を起こしたのはダグーであった。彼はその巨体に似合わぬ敏捷な動作でマストに飛びついてよじ登り、タシュテゴの落ちた穴の上にロープで伝い下りて、上から竿を突っ込んで哀れなインディアンを救出しようとした。だが、ああ、何ということだろう。まさにその瞬間に、鯨の頭を吊っていたロープが切れて、鯨の頭は轟音とともに海面に落ちたのであった。ピークォド号は、その反動で激しく揺れ、水夫たちは転倒した。
この騒ぎの中で、海に落ちた鯨の頭はゆっくりと沈んでいき、タシュテゴの運命もこれまでかと思われたが、この時、甲板から槍を手にした裸身の者が海に飛び込んだ。クィークェグであった。
船上の者は、静まり返った海面をじっと見つめた。一分、二分と過ぎるにつれ、みんなの顔に絶望の表情が浮かんできた。
「はっ、はっ!」
マストの上に登っていたダグーの声に、みんなははっと上を見た。彼は船からかなり離れた海の上を手で示している。そこには、今しも一本の腕が波間から現れたところであった。クィークェグの腕であった。
「よし、よし、二人じゃ!」
ダグーの声に、船上は歓声で溢れた。
やがて船上に引き上げられたクィークェグとタシュテゴは、みんなから手厚い看護を受けた。しばらくして元気を取り戻したクィークェグから話を聞いてみると、彼はゆっくりと海底に向かって沈んでいく鯨の頭の適当なところに鋭い槍で切れ目を入れ、そこから手を突っ込んで、中で気絶しているタシュテゴの辮髪を探り当て、それを引っ張り出したのであった。
あのような状況の中で、このような冷静さを持ち、的確に行動できる人間がこの世にいようとは、まさに信じがたいことであるが、それが目に一丁字も無い蛮人の行為であることを考えると、いったい文明は人間を進歩させたのか退歩させたのか、にわかには決め難いものがあると私はつくづく思ったものである。






































拍手

白鯨#15


第19章 スタッブの晩餐

倒された鯨を見たエイハブは、そっけなく、鯨を船につないでおけ、と簡単な命令を下して自分の船室に引っ込んだ。義務として他の鯨も捕るが、彼の頭には憎っくき白鯨を倒すことしか無いのである。
既に夜になっていたので、鯨の解体は翌日ということになり、鯨の巨体は船に横付けにされてつながれたという次第だ。
自分の手で鯨を倒したスタッブは、有頂天になり、はしゃぎながらダグーに言った。
「おい、ダグー、船から下りて鯨の尻尾のところをちょっと切ってきな。寝る前にステーキをひとつやっつけるからな」
スタッブは、甲板の上の絞盤を食卓代わりに、豪勢な夜食に舌鼓を打ったのだが、同じ時に船の下の海面では鮫どもが思わぬ鯨のご馳走に舌鼓を打っていたのであった。
「料理人、料理人、おい、羊毛親爺、こっちへ来い!」
スタッブの喚き声に、老黒人の料理人は、暖かなベッドのまどろみから叩き起こされ、よろめきながら仏頂面で甲板に現れた。
「何ですかな、スタッブさん」
「うん、お前にひとつ言いたいことがあるんだが、その前に下の方ではしゃいでいる鮫どもを少し黙らせてくれ。うるさくて自分の声も聞こえやせん」
羊毛親爺はランタンを手に、しぶしぶ舷側に近づいた。
「なあ、あんた方、スタッブさんが話ができんちゅうとるんで、お願いだから、少し静かにしてくれんかな。これ、静かにせい、ちゅうとるんじゃ、この悪魔どもめ!」
「こらこら、罰当たりな事を言うな。罪人を悔い改めさせるにはな、穏やかに話すもんだぞ。教会の説教を聞いたことがないのか」
「なら、あんたが説教すりゃあええ」
「まあいい。で、お前に話というのはだな、このステーキの焼き具合のことだ。お前、こいつをどう思う」
フォークに刺して目の前に突き出された鯨の尾のステーキの一片を羊毛親爺は頬張って、しなびた口をもぐもぐさせた。
「どう思うって、こんなうめえステイクは、おら今まで食ったことがねえだよ」
「この大嘘つきの老いぼれの悪魔め! こいつがうまいだと? いいか、こんな焼きすぎの、消し炭みてえなステーキを食ったのは、俺は生まれて初めてだ。今晩は許してやるが、もう一度こんな焼肉を俺に出してみろ、お前をあの鮫どもの晩飯に海に放り込んでやるからな。覚えておけ。いいか、ステーキは絶対に焼きすぎちゃあいけねえんだ」
「分かっただ」
口の中で文句を言いながら去ろうとした老黒人を、スタッブはもう一度呼び止めた。
「待て、明日、俺たちが鯨をばらす時にはだな、お前は忘れんで、鯨の鰭のところを取って置くんだ。それで塩漬けを作るんだぞ」
うなり声で返事して船室に潜りこもうとする後ろから、また声が飛ぶ。
「まだ話は終わっとらん。明日の朝飯には、鯨団子、晩飯には鯨のカツレツだ。それから、行く前に敬礼だ!」
階段を下りながら、羊毛親爺はぶつぶつ言う。
「神様、あいつが鯨食うより、鯨があいつ食った方がようがす。あいつの方が、下の鮫どもよりまるで鮫みてえだよ」
こうしてやっと、哀れな老黒人は再び寝床に潜り込むことができたのであった。











































拍手

白鯨#14

第18章 最初の獲物

大烏賊を見た翌日、クィークェグは、愛用の銛を砥石で研ぐのに余念がなかった。
「イカの野郎が見えたらな、とたんにマッコウの野郎が出てくるんじゃ」
そう、彼は私に教えた。
我々が今航海しているインド洋は、鯨の漁場としては有名ではない。だから、私はクィークェグの言葉を話半分に聞いていたのだが、その日のうちに彼の言葉の真実が証明された。
真昼のインド洋は、凪いで蒸し暑く、マストの上の見張り台に立っていた私と他の二人の水夫は、ほとんど居眠り状態だったが、睡魔に襲われてあやうくマストから転げ落ちそうになった刹那、私が海面に見たのは、まさしく鯨の姿だった。
風下の、およそ四十尋ほどの距離に、のんびりと潮を噴いているそいつの黒い姿は、平和そのものを絵に描いたようなものだったが、私は自分の発見に動顛し、他の二人を揺すぶり起こした。
我々の叫び声に、船の乗員たちはたちまち船室から飛び出してきた。
海面に下ろされた四つの短艇は、相手を驚かせぬように、こっそりと鯨めに近づいていった。だが、やがて鯨は、歓迎すべからざる客たちに気づいて、水面下に潜り込んだ。
我々は、鯨がどこに現れるか、海面を注視して待った。
やがて、鯨は再びその巨大な姿を海上に現し、本格的な逃走に取り掛かった。
「追え、追え、稲妻みたいに追っかけろ!」
鯨にもっとも近かったスタッブは、わめいて乗員を励ました。
「ウッ、フゥ! ワッ、ヒィ!」
タシュテゴがインディアン特有の掛け声をわめく。
「キィ、ヒィ! キィ、ヒィ!」
フラスクの舟のダグーもそれに劣らぬ野蛮な声を上げている。
「カ、ラ! クゥ、ルゥ!」
クィークェグがうなり声を上げる。
もっとも早く銛の投擲距離に達したのは、やはりスタッブの舟だった。
「立て、タシュテゴ! やっつけろ!」
スタッブの怒鳴り声で、ゲイ岬のインディアンは弾かれたように立ち上がり、ほとんど鯨を見るまでもなく銛を投じた。
銛は見事に刺さり、鯨とスタッブの短艇との間は一条の縄でつながれた。次の瞬間、苦痛から鯨は速度をいっそう速め、スタッブの舟は鯨に引っ張られて猛烈な速さで海の上を走りだした。鯨に縄を切られないために、捕鯨索には十分な長さが準備してあるが、鯨に引っ張られて轆轤から恐ろしい勢いで繰り出されるその縄は煙を上げている。
「索を濡らせ、索を濡らせ!」
轆轤の側の水夫が、自分の帽子で海水を汲んで縄にかける。じゅっと水蒸気が立ち上る。
やがて鯨は、大きな荷物を引っ張って泳ぐのに疲れて力を失い、速度をゆるめた。
「たぐり込め、たぐり込め!」
スタッブは、そう命令して、タシュテゴと位置を代えて舳先に立った。
舟が鯨と平行する位置に来ると、スタッブは投げ槍を手にして、一擲、また一擲と鯨に槍をぶつけていった。
今や、鯨の体のあちこちからは血が噴き出し、鯨は急速に力を失っていっていた。
頃は良し、と見たスタッブは舟を鯨に横付けにさせ、一際長い槍を鯨に刺した。そして、鯨の生命の最後の一滴を搾り取ったのである。
鯨は断末魔の一暴れをして水夫たちを慌てさせたが、やがて完全に力尽きて海上に静かにその体を横たえた。
(もちろん、私は別の舟に乗っていたのだから、この一部始終を見ていたわけではないが、断片的見聞を総合すれば、詩人的想像力によって他の細部は明瞭に想像できるのである。そのあたりは、読者の諸君にも了解しておいてもらいたい。すべて、飛躍やご都合主義の無い文学とは、詩的精神の欠如した無味乾燥の別名でもあるのだから、あまり固いことは言わないで欲しいのである。)







































拍手

白鯨#13


第17章 大烏賊


船は、アフリカ大陸最南端の喜望峰を越えて、北東に進み、インド洋に向かう。喜望峰は、その輝かしい名前とはうらはらに、嵐の海であり、かつての呼び名であった苦難峰そのものの難所であった。ピークォド号は、この嵐にも幸い船体をぶっ壊すこともなく、穏やかな海域に歩を進めた。途中、捕鯨を終えて帰途に就く船の数々を我々は羨ましい思いで眺めたが、船倉の樽の一つとして油の入っていない状態では、我々の帰れる日はずいぶん先の事になるだろうと、覚悟したものである。
ある透明な朝、超自然的な静寂があたりを支配する中で、マストに上って見張りをしていたダグーが、大声を上げた。
「出たぞ、白鯨じゃ! 真っ白な化け物じゃあ!」
水夫たちは名高い怪物を見ようと、甲板に飛び出した。私も、その中の一人となって、ダグーが指さす方向を見た。確かに、はるか前方に、この世の物とも思われない、輝くばかりに真っ白で巨大な生物がゆるゆると海上を浮きつ沈みつしている。
しかし、エイハブは、甲板上に凝然と立っている。あれほど、白鯨への復讐に執念を燃やしていた男が、この時になっていったいどうしたのか。
「スターバックさん、どうしたのです? 白鯨が出たんですよ。どうして短艇を下ろさないのです?」
「あれは白鯨ではない」
スターバックの顔は青ざめていた。
「あいつに出逢うくらいなら、モゥビィ・ディックの口の中に飛び込んだ方がましだわい!」
「あれはいったい何なんです?」
「大烏賊だよ。あいつに出逢って、生きて港に戻った船は、まず無いという話だ」
我がピークォド号は、この生きた海の幽霊を遠くに眺めながら、触らぬ神に祟り無しとばかりに船足を速めて立ち去った。だが、この出来事は、ピークォド号の前途について、乗組員全体の気分に一抹の影を残したのであった。


















拍手

白鯨#12

第15章 追跡2


鯨は、海面下に潜ったらしく、見えなかった。
やがて暗い緑色の海面に白い泡が立ち、蒸気のようなものが見えた。
「そこだ! 漕げ、漕げ!」
スターバックの叫びに、漕ぎ手たちはここを先途とばかり、必死で漕ぐ。背骨が折れても不思議ではない。
実際のところ、我々漕ぎ手は、進行方向に背を向けて漕いでいるのであり、前方の様子はほとんど見られない。頼りにするのは、船尾で舵を操っている短艇長の指示だけであり、彼が我々をどこに導いているやらさっぱり分かりはしないのである。彼が我々を死神の口に向かって漕ぎ進ませていようとも、我々にはそれは分からないのだ。
「さあ、頑張った。疾風が来るぞ。だが、風が来る前に、あの鯨めにがつんと一発食らわせるんだ。漕げ、漕げ、死ぬ気で漕げ!」
スターバックの、静かだが熱気に溢れた声が、我々を駆り立て、力を奮い起させる。
「あそこだ、クィークェグ、立て!」
舳先にいて、必死に舟を漕いでいたクィークェグが、その声ですっくと立ち上がる。
「今だ、打て、一発ぶちこめ!」
その瞬間、大きな衝撃を受け、小舟は何かの大きな力で持ち上げられた。
我々は、今や舟を漕ぐどころではなく、舟にしがみついているだけである。
疾風であった。風は我々の舟を持ち上げ、海に叩きつけた。小舟は転覆し、乗組員は海の上に投げ出された。私はしたたか海水を飲んだが、他のみんなも同じだろう。
クィークェグの銛は、空しく鯨をかすっただけで、鯨は悠々と逃れ去った。そして我々は転覆した小舟の周りを泳ぎながら、それにしがみついていた。
もしも、ピークォド号が運良く我々を見つけてくれなければ、この広い海原で孤児となった我々は、そのままそこで命を終えていただろう。そして、ゴタムの賢人の童謡よろしく、この話もここでお終いになったわけである。
だが、我々は救われた。そして、水浸しの体をみじめに震わせながら本船に収容された後、この壮大な追跡で、たった一頭の獲物もなかったことを知らされたのであった。



第16章 遺言

「クィークェグよ」
私はつとめて平静な口調で言った。
「こんな事はしょっちゅう起こるもんかい。つまり、小舟が海の上でひっくり返って、乗っていた人間はあわやお陀仏になるなんてことがさ」
クィークェグは何の感情を表すでもなく、まあ、しょっちゅう起こるなあ、と言った。
私は降り出した雨の中で悠然とパイプを吸っている二等運転士に言った。
「スタッブさん、ぼくはあんたが、うちのスターバックくらい慎重な男はおらんと言ったのを覚えておるんですがね。風やら疾風やらの中で、鯨めがけて突進していくのを慎重な人間と言うんですかい」
スタッブは嘲笑うように煙をひとつ吐き出した。
「あたりきよ。じゃあ、お前、鯨が尻尾を振ってさよならするのを黙ってお見送りしろとでも言うんか」
私は近くに立っていたフラスクにも聞いてみた。
「フラスクさん、ぼくはこの道には新米だから、ひとつ、折り入ってお伺いしたいんですがね、この世界じゃあ、死神が口を開けて待ってるところへ、後ろ向きになって背骨が折れるくらいぐいぐい漕いでいくってのが、どうしても規則になってるんですかい?」
「もっとあっさり言ったらどうだい」とフラスク。
「そうさ、それが決まりだ。もっとも、漕ぎ手が前を向いたまま、鯨にぶつかっていったなら面白かろうとは思うぜ。そしたら、互いに見交わす顔と顔、とならあ。はっは」
私は、これらの証言を得て、得心し、クィークェグを呼んで言った。
「クィークェグ、来てくれ。お前を俺の顧問弁護士、兼、遺言執行人、兼、遺言引受人にしよう。下に行って遺言書を作るから、つき合ってくれ」
こうして私は、捕鯨船の乗組員となるということがどのようなものであるかということを学び、後顧の憂いなく、この儚い稼業に命を賭ける決意をしたのであった。




























拍手

カレンダー

03 2024/04 05
S M T W T F S
13
14 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析