忍者ブログ

タイガー! タイガー!(5)



第八章  森の中(1)



 



グエンたちの一行がキダムの村を出てから三日が経った。キダムの村で荷車を買い、それを農耕馬に引かせて子供たちはそれに載せることにしたので旅ははかどるようになり、キダムからは100ピロほど東に来ていた。ここから先は森林地帯になり、民家はほとんど無くなるが、途中の村で食料を仕入れていたので特に食い物の心配は無い。ただ、国境をどこから越えるかが問題だが、それはその場の様子を見て決めればいいとフォックスは考えていた。



「ずいぶんはかどりましたね。あと少しで大森林です。大森林を抜ければエーデル川があり、その先がタイラス、その南がトゥーランです」



「タイラスの王妃さまが、私たちの叔母様ね?」



「そうです。エメラルド様とおっしゃって、とてもおきれいな方ですよ。まだ、とてもお若くて、おそらく22,3歳くらいだと思います。嫁がれたのがおととしですから、今頃は可愛い赤ちゃんをお産みになっているかも」



「赤ちゃん、見てみたいわ。可愛いでしょうね」



荷車の上のソフィにフォックスが馬上から話しかけると、さすがに女同士で話がはずむが、男の子のダンはすっかり退屈している。



「あーあ、早くタイラスにつかないかな。ぼく、車に乗るのはすっかり飽きちゃったよ」



宮廷を脱出した時の緊迫感も今は無い。それに、グエンという強い味方ができたもので、誰もが安心しきっていた。



 



大森林が目の前に見えた。樅の木がほとんどで、その森がどこまで続くのか、低い位置からではその範囲もわからない。その途中にエーデル川が流れる峡谷があるはずで、そこがサントネージュと他国の国境になっている。



針葉樹の爽やかな匂いがする。頭上を覆う木陰からは絶えず小鳥の声がする。木の葉を通して太陽の光が下に落ち、下を行く一行の顔をまだらにする。



 



彼らが通っているのは、古い街道である。今でも通商のために使われていて、馬車が通れる程度の幅はあるが、道の上には枯れ葉が深く積もっている。



グエンは馬を歩ませながら、物思いにふけっていた。ある思いが頭の中をぐるぐると回っている。それは、なぜ自分の頭はこのようになっているのか、ということと、なぜ自分の記憶は無いのか、ということ。一言で言えば、「自分は何者か」ということである。考えても答えの出ない問題を考えるのは空しいことだと分かってはいる。しかし、考えずにはいられない。



(俺の体は、通常の男より相当にたくましいらしい。また、体力も人並み以上で、剣をふるう技能もかなりある。ということは、やはり俺はこの世界のどこかで生れ、育ったが、ある時に記憶を失って、あの野原に倒れていたのだろうか。あの野原は、しかし、まったく見覚えは無かった。どこか別の場所で記憶を失わされて、あそこまで運ばれたのか。誰が、何のために? 俺は剣を扱うのに何一つ苦労はしなかった。考える前に体が動いていたという感じだ。そういう面での記憶、つまり体の記憶はあるようだ。それに、言葉を話すのは難しいが、他人の言葉は苦もなく理解できる。ならば、やはり俺はこの国の人間なのか? しかし、こんな頭の人間はほかにはいるまい。なぜか、そういう確信のようなものが俺にはある。俺は自分のこの頭に気づいた時、恐ろしい気持ちになった。それは、これが本来の自分の頭ではないと知っているからだろう。しかし、これが仮面などでないのも確かだ。それは何度も確かめた。無理にこの顔を剝がしても、他の顔など出てこないだろう。俺はいったいどうすればいい。この頭のままでこの世界に生きていくしかないのか?)



 



「ねえ、グエン、何を考えているの?」



フォックスが言った。



「俺は、何者か、という、ことだ」



たどたどしい口調だが、やっと文章になる会話ができるようにはなっている。



「どこかの宮廷に仕えていたんだと思うわ。あなたのあの剣の腕は、超一流の剣士だった。そういう剣士がどこの宮廷にも仕えていないということはありえない、と思う」



「あのう……」



控え目にソフィが口をはさんだ。彼女にしては珍しい行動である。



「なに? ソフィ」



他人のいない所でも、なるべくサファイアとは言わずにソフィと呼ぶようにしている。



「宮廷のお抱え剣士や騎士ではなく、もしかしたら王様だったのかも」



「えっ?」



この言葉はフォックスには盲点だった。何しろ、まっぱだかで出現した、虎の頭の男である。それがどこかの王様だという想像はまったく思い浮かばなかったのだ。



「ま、まさか。……でも、言われてみれば、どことなく威厳があるような……。でも、まさか」



「グエンは王さまだったの?」



ダンが遠慮なく聞いた。



「分から、ない。覚えて、いない」



「そのうち、虎の頭をした人がどこかから失踪したという噂でもないか、尋ねてみましょう。でも、それは私たちがタイラスについてからね」



 



突然、馬が足を止め、後ずさりをした。不安そうな嘶きを上げる。



「何か、前の方にいるわ」



フォックスが言った。



「確かめて、来る」



グエンは馬の腹を軽く踵で蹴って歩ませた。



森の中は静まり返り、鳥の声も今はやんでいた。



 





拍手

PR

タイガー! タイガー! (4)


第七章  アルト・ナルシス



 



ナルシス卿と呼ばれた男が謁見室から出て来ると、控えの間にいた黒衣の男が頭を下げた。



「御用はお済みで?」



「ああ」



大股に歩くナルシスの後から、黒衣の男はちょこちょこと歩いていく。ナルシスという男もそう大柄ではないが、黒衣の男ははっきりと小柄である。その黒衣は、この国では聖職者が主に着るものだが、魔道士、あるいは魔法使いと呼ばれる者たちも着る。



魔道士や魔法使いは職業ではなく、生き方である。通常の人間には無い能力を追い求める生き方のことだ。



普通の人間の持たない不思議な力を持つ彼らは、世間の人間からは恐れられ、敬遠され、時には仕事を依頼された。その仕事は、失せ物の捜索、病気の治療、結婚や仕事の吉凶判断から憎む相手への呪いの依頼まである。



また、中には広い知識と異能力のゆえに権力者に重用される者もいる。この男もその一人で、サクリフィシスと言う。



彼の仕えているアルト・ナルシスはサントネージュ国王アメジストの兄、故アノンの息子で、この国の第四王位継承者である。いや、第三王位継承者の王妃ルビーが死んだ今は、第三王位継承者だ。第一順位のダイヤと第二順位のサファイアが行方不明の現在、ユラリア国の支配下にあるサントネージュの国王に彼が指名される可能性は高い。



「まだサファイアたちの行方は知れないか?」



アルトの質問にサクリフィシスは答える。



「村村に置いてある間者の連絡によれば、二日前にキダムを出たのがサファイア姫とダイヤ王子であるのは間違いないようです。お付きの者のうち一人は近衛兵のフェードラ、通称フォックスと言う女です」



「あのはねっかえりか」



「もう一人は、身長が2マートルほどの大男で、顔を包帯で包んだ謎の男です」



「身長が2マートルほどというと、さて、誰がいたかな。バルバス、ケンリック、モルゲンの三人とも処刑されたはずだ。後は、2マートルまではいかないが、ウジェーヌ、マリオンくらいか。だが、この二人は俺の手下だからな」



「はい、彼らが宿舎を離れてないことは確かめてあります」



「ふむ。まあ、いずれにしても、できることならセザールの手の者たちより先に、サファィヤ姫を捕まえてくれ」



「ダイヤ王子はいかがいたします?」



「殺せ」



「はっ。殺した証拠はどうしましょうか」



「いらん。お前がそれを確認すれば、それでよい」



再び頭を下げて、サクリフィシスは歩み去った。



 



アルトは自分の居室に戻った。この屋敷は彼の家で、そこを彼はオパール総督府として提供しているのである。そのうちもっともいい部屋二つはセザール王子とグレゴリオ王子の居室にしてある。そして自分は客間の一つで暮らしているのである。



ベッドの横の小さなテーブルに置いてある真鍮製の鈴を鳴らして小間使いを呼ぶと、茶を持ってくるように命じる。



縦長の窓が開いていて、そこから初夏の風が入ってくる。



庭の木の梢を渡ってくる爽やかな匂いの風だ。白い薄織のカーテンが揺れている。日の光がレースを抜けて絨毯の上に落ち、縞模様を作る。



「さて、これからあの邪魔者たちをどうするか。……セザールとグレゴリオを毒殺するのは容易だが、かと言って、あいつらが引きつれてきた軍勢はすぐには掌握はできないだろう。さてさて、難しい問題だが、それを考えるのも面白い。次の一手はどうする? アルト・ナルシスよ」



お茶を持ってきた小間使いは、主人が笑みを浮かべて窓の外を眺めているのを見て、その邪魔をしないようにお茶をテーブルの上に置いて静かに退室した。






拍手

タイガー! タイガー! (3)






 


第五章  旅宿にて


 


村の入口近くにあるその旅宿は、一階の裏が馬小屋、建物の一階が食堂、二階が宿室になっていた。


四人は馬を馬小屋に入れ、その世話を宿の者に頼むと、食堂で遅い夜食を取った。グエンは顔を白い布で包んで隠している。


「あんた、変な病気じゃないだろうな」


でっぷりと肥った宿の主人は、グエンを見てそうは言ったが、深くは追求しなかった。


鍋にぶつ切りの鶏肉や玉ねぎやエンドウ豆や人参や蕪をたっぷりと入れ、牛乳で煮込んだシチューは、四人にとっては久し振りの食事らしい食事であった。宮廷で出されたら手もつけないようなこの食事が、王女と王子にも、何にもまさる御馳走である。


フォックスは安いワインも頼んだ。もちろん、酔うほどに飲むつもりはない。


「グエンもどう?」


グエンは陶製のジョッキに注がれたワインの匂いを嗅いで、うなずいた。


あの顔の構造でジョッキの酒が飲めるかな、とフォックスは見ていたが、案外器用に、こぼさずに飲んでいる。よく見ると、舌ですくい取るようにして口に入れているようだ。それも非常に素早い。だから、注意して見ないと、普通にジョッキのへりに口をつけて飲んでいるように見える。


鶏肉は骨のままばりばり食べている。


(剣が無くても、あの牙があれば十分な戦闘能力があるんじゃないだろうか)


とフォックスは思ったが、もちろんそんな失礼なことは言わない。


宿屋にはほかに客もいなかったので、四人は、周りに注意しながらではあるが、話をすることもできた。


「グエンはどこから来たの?」


ダンの遠慮の無い問いに、グエンは首を横に振った。


「分からないってこと?」


今度は頷く。


こういう具合で、時間はかかるが、知りたいことを知ることはできる。


どうやら、この奇妙な虎頭の男は、今日突然にあの野原にいる自分自身を発見したらしい。


それを嘘だともありえないことだとも他の三人は思わなかった。


「魔法にかけられて、ここに飛ばされたんだね」


ダンのその言葉が自分の今の状況をもっとも的確に表しているとグエンは思った。


グエンはこの旅の道連れの三人がどんどん好きになっていた。


 


たった一人でこの世に突然現れた自分に、こうして話のできる相手ができたことは幸運だったのではないだろうか、と彼は考えた。一方、自分が彼らの危難を救ったことについてはもうすっかり忘れていた。弱い者が苦難に遭おうとしている時にそれを救うのは当然の行為である、というのが彼の心の自然な声だったのだ。その一方で、自分があの兵士たちを殺したことへの自責の気持ちはまったくなかった。あの連中は、このか弱い人々に危害を加えようとした。それを防ぐために相手を殺すのも、まったく当然の行為だと思えたのである。


 


話をするうちに、グエンの発声能力の程度も分かってきた。今は簡単な「はい」「いいえ」以外はぶつぎりに単語を言うだけで、文章化して言うのはむずかしいが、まったく発音できないわけではない。とりあえずは、「はい」「いいえ」を重ねるだけでも意思の疎通はできる。


そうであるから、グエンが自分の側の話をすることはあまりできなかったが、他の三人の話を聞いているのは彼には楽しかった。


それに、この三人の容姿は見ていて快い。フォックス、いやフローラは日焼けこそしているが、とても整った顔立ちだし、化粧をしたら美女に化けることもできるだろう。そしてソフィはというと、これはまったくの美少女、金髪で色白でサファイア・ブルーの大きな瞳の目が長い睫に縁取られた、絵に描いたようなお姫様である。もちろん今は、旅をするために男装をしており、髪も王宮を脱出する時に男の子に化けるためにうんと短く切ってあるが、それでも顔立ちの美しさは、教会の天使像のようだ。


(教会の天使像? 俺はそんなものを見たことがあるのか?)


グエンは自分の想起した言葉につまずいて、物思いの世界に入り込む。


(いったい、俺は何者なのだ。記憶を失うまでの俺はどこにいて、どのような暮らしをしていたのだ? 俺は一人身なのか、それとも妻がいたのか? ははは、こんな顔の俺に妻などいたはずはないか。だが、俺のいた世界では、俺のような顔の人間がふつうなのかもしれない。……虎の顔をした妻か!……)


グエンは暗鬱な気分になり、二杯目のワインを飲んだ。


「グエン、どうしたの?」


グエンの気分を察したようにダンが聞いた。


グエンは何でもないというように首を横に振って、ダンの肩を軽くポンポンと叩いた。


「さあ、明日は早いから、今日はそろそろ寝ましょう」


フローラの言葉で四人は立ち上がり、寝室に向かった。


 


四つの寝台のある部屋に入った四人のうち、ダンは疲れたらしく粗末な寝藁の寝台に入るとすぐに寝息を立て始めたが、他の3人はもう少しお互いの話をした。


とは言っても、話したのは主にフローラである。ソフィはうまく事情を説明できるほどの年齢ではない。グエンは言うまでもなく言葉が不自由だ。


 


「このお二人はサントネージュ国の王女と王子であることは、先ほど言いましたが、私は近衛隊隊員のフェードラ、通称フォックスです。


つい五日前、この国の国王は同盟国ユラリア国王を招いて、親睦のために共に狩りをしました。その時、ユラリア国の国王からサファイア姫をユラリア国の第一王子の妃に迎えたいという話が出ましたが、我が国王アメジスト様はそれをお断りになりました。なにぶんにもサファイア様はまだ若すぎるという理由からですが、本心は、ユラリアの第一王子セザール様は残忍な方だという評判を聞いていたからです。申し出を断られたユラリア国王のマライスはその晩、アメジスト様を暗殺したのです。それと同時に、国境に待たせていた大軍がサントネージュとの国境を越えて侵入し、首都オパールに迫りました。国王を失っては、軍隊を統率することもままならず、王妃のルビー様はご自分の死を覚悟してこの私にお子様たちを逃すようにお命じになったのです」


「うう……どこに……行く?」


「タイラス国は我が国と縁戚関係にありますから、そこを頼ろうかと思ってます」


こんな見ず知らずの人間(いや、人間なのかどうかも分からないが)にすべてを打ち明けていいものかどうかと思わないでもなかったが、じぶんが信頼できると判断した人間には隠し事をしない方がいい、とフェードラは決心したのである。


「あなたはどうします?」


「分か……ら……ない。お前たち……と……行く……?」


ソフィは彼の首すじに飛びついて抱擁した。


「ありがとう。あなたが一緒に来てくれて嬉しい!」


ソフィは自分がこのようなあからさまな感情表現をしたことに自分で驚いた。彼女が受けたしつけには無い行動である。虎頭の男はこの無邪気な行動に戸惑いながらも嬉しそうだ。


「まあ、まあ、ソフィ様。でも、私も本当に嬉しいですわ。あなたのような強い人が一緒にいてくれるなら、何も怖いものはない、という気分です」


グエンは頷いた。べつに謙遜することもない。自分が馬鹿馬鹿しく強いことは、すでに確信していた。


 


何はともあれ、やるべき事ができたのは、自分にとってはいい事だろう。自分の正体については、今すぐには分かりそうもないから、当面はこの三人のお守りをしながら旅をし、この世についての知識をだんだんと増やしていくのが賢明なようだ、と眠りにつきながらグエンは考えた。眠りの中に沈みながら、ソフィが彼に抱きついた時の本当に嬉しそうな顔を最後に思い出し、彼は微笑を浮かべた。


 


 


第六章  セザールとグレゴリオ


 


「虎の頭をした男だと?」


セザール王子は報告を受けて眉根に皺を寄せた。年の頃20代後半の大兵肥満の男だが、顔は日焼けして精悍だ。顔の下半分は鬚に覆われていて、年よりもふけて見える。その目は小さく残忍な光がある。全体に、王子らしくもなく、熊か猪めいた野獣性を感じさせる男だ。


「それは仮面をかぶっているのか?」


「わかりません。宿屋の主人の言葉では、二日前に10歳くらいの女の子と8歳くらいの男の子を連れた夫婦ものが宿泊し、出がけにその男に男の子が抱きついた拍子に顔の包帯がはずれて、虎の顔が見えたということです」


「虎の仮面の上から、さらに包帯をするというのも理屈に合わんな。かといって、虎の頭をした男がこの世にいるなどとは聞いたこともない。まあ、神話の中には半人半獣という奴もいるにはいるが。で、そいつらはどこへ向かった?」


「東の方角ですから、タイラス国かと思われます。あるいはトゥーラン国かもしれません」


「ふむ。分かった。下がってよい」


東方面の報告を終え、間者は退出した。


続いて、捜索隊の隊長からの報告がある。


「最初の捜索隊の兵士たちの死体が見つかりました。20人全員です」


「すべて死体で見つかったのか?」


「はい」


「場所は?」


「サルガスの野の街道沿いの小川に皆、投げ込まれていました」


「サントネージュの残党がまだあちこちに残っているというわけだな。オパールの町の兵士や将校は皆処刑したはずだな?」


「はっ」


「だが、庶民に身を変えているとも考えられる。ならば町の成年男子は皆殺しにするしかあるまい」


「しかし、それは……」


「何だ?」


「いえ、何でもありません」


「不服そうだな。だが、お前らの仲間が20人も殺されたのだぞ。これもサントネージュの残党がこの世にいるからだ」


「兄者」


と声を掛けたのは、窓の傍に立って室内のことには興味もなさそうに外を眺めていた男である。こちらはセザールの弟だろうが、兄とはまったく似ていない。おそらく母親が違うのだろう。中背で細身、白皙の顔に長い黒髪がかかっている。美男と言ってもいい容貌だが、兄と同様にその灰色の瞳にはどこか冷酷なものがある。窓から室内に向き直って、上座の椅子に座っているセザールに言う。


「敵国の男どもとはいえ、奴隷として使えば貴重な労働力です。むだに殺すことには賛成しかねますな」


「俺の言葉に逆らう気か、グレゴリオ?」


威圧するようなセザールの言葉に、グレゴリオと呼ばれた男は平然として答える。


「べつにあんたは王ではない。たまたまオパール総督を命じられただけのことだ。俺の主君でもない」


「ほう、その言葉、覚えておくがいい。俺が王位についた後、俺に膝まづいて俺の靴を舐めることになるぞ」


「そうなるのがあんたでないとも限らないがな」


セザールは立ち上がって剣を抜いた。


「ならば、今、決めてやろう。剣を抜け」


「御免こうむる。ゴリラ相手に力で勝負をする気はない」


「腰抜けめ」


セザールは床に唾を吐いた。


「それよりも、早くしないとサファイア姫とダイヤ王子が国外に脱出するぞ」


「国境は兵士たちに固めさせてある。それに、あんな子供たちが逃げたところで大した問題ではない」


「子供はいつまでも子供ではないさ」


「1万人にも足らぬ軍勢に首都を奪われるような腰抜け国の王子や姫に何ができる」


「俺は、その虎の頭をした男が気になるな。もしかしたら、その男が追跡隊20人を殺したのかもしれんぞ」


「馬鹿な! いかに豪勇無双な人間でも一人で20人が倒せるものか」


「一人でではないだろうが、もしもサントネージュ王妃から遺児を託された人間なら、相当の勇士だろう。会ってみたいものだな」


「そのうち、首だけになったそいつと対面させてやるさ。おい、いつまでそこにいる。さっさとその虎頭の男と一緒だという大人の女、女の子、男の子の4人連れをとっつかまえて来い。キダムの村から東の方面だ。抵抗するなら大人は殺してかまわん」


怒鳴りつけられて捜索隊隊長は飛び上がり、一礼して出て行った。


部下からの報告を受ける用が済んだので、セザールも謁見室となっているこの部屋から出て行った。おそらく食堂に酒を飲みに行ったのだろう。自分の居室で飲むよりも台所や食堂で飲むのが手っ取り早いというわけだ。


グレゴリオは窓辺にまだ立っていた。


 


「グレゴリオ様……」


声をかけられて振り向くと、予期した顔がそこにあった。


「何だ。ナルシス卿」


「もしも捜索隊が首尾よくサファイア姫を捕まえることができましたら、サファイア姫を私にいただきたいのですが」


「もらってどうする」


「妻にいたします」


「まだ十歳だと聞いているぞ」


「もちろん、結婚はまだ先のことですが」


「先物買いか。将来それほどの美人になる見込みがあるわけかな」


「はあ。まあ、そういうわけで」


「お前が国を裏切って、アメジスト国王暗殺の手引きをしたと知ったら、サファイア姫はお前をどう思うかな」


「それも一興でしょう。愛し合うばかりが夫婦ではないでしょうから」


「そういう退廃的な趣味は俺には分らん。まあ、サファイアをどうするかは、俺ではなく、あのゴリラの一存だろう。幸い、あのゴリラはデブの女が好きで、子供には興味はない」


「では、よしなに」


ナルシス卿と呼ばれた男は一礼して去った。


グレゴリオはこれまでサファイア姫には何の関心もなかったが、今の会話で少し興味が湧いてきたようである。

 

拍手

タイガー! タイガー! (2)






 


第三章  殺戮


 


「このおじちゃん、裸だ」


ダイヤは、いや、今はダンという名になっているが、まだ8歳の子供らしく、相手の頭が虎であることよりも、相手がまっぱだかであることにまず興味が向いたらしく、そう言った。


ソフィ、つまりサファイヤは、顔を赤くして横を向いた。さすがに大人の男の裸を正視する勇気は無いし、品高い育ちの彼女にはそういうはしたなさも無い。


「うう……」


頭が虎の男はそう唸った。


「お願いです。どうか静かにしてください。ダン、ソフィ、あなたたちも声を立ててはいけません」


 


しかし、森や林の無い野原の街道を行く三人連れの姿は、獲物を追う追手たちの視界にすでに入っていた。


騎馬軍勢は馬の足音の地響きを立てながら街道から駆け降り、奇妙な遭遇をした4人の所に殺到し、その前に馬を止めた。その数は20名前後だろうか。


 


「サントネージュ国王女のサファイアとダイヤ王子だな。もはや逃れるところは無いぞ。大人しく捕まるがよい。そうすれば、死罪にだけはならずに済むだろう」


盤広で髭面の、下品な赤ら顔をした隊長らしい男が唇をゆがめるような笑いを浮かべて言った。言いながら、相手の二人の女(一人はまだ子供だが)を値踏みするような好色な目で見ている。(ほほう、これは上物だ)と言う無言の声がその表情に出ている。


「誰が大人しくつかまるものか」


フォックスは剣を抜いた。


「愚かな。こちらは20人もの軍勢だぞ。お前一人で何ができる。それともそこの妙な虎の仮面をつけた裸の男が加勢をするとでもいうのか。その男は剣さえも持っていないではないか」


「私一人でも十分だ。かなわぬまでも、お前たちのうち何人かは地獄の道連れにしてやる。さあ、かかってこい!」


フォックスは剣を構えようとした。その瞬間、あっと言う間にその剣が手からすべり抜けていた。


「何をする!」


彼女の手から剣を奪ったのは虎頭の男だった。


「お前はユラリア国の廻し物だったのか!」


虎頭は彼女の前を通って敵勢に向かって進み出たが、その時に彼女を振り返って見た。


虎が笑うということがあるなら、その顔は確かに笑い顔だった。


(虎が笑うところを初めて見た)フォックスは変に呑気な気分でそう考えた。


 


太陽はいっそう斜めに傾いて、影が深くなっている。


その夕方の光の中で全裸の大男が剣を持って立っている姿は異様なものだったが、しかもその頭が虎の頭であるのだから、世にこれほど奇妙な見物はない。


その大男のたくましい裸体は、油を注いだように夕日に輝いて、まるで古代の神々の姿のようだが、その頭は虎そのものである。そして、それがまた神話的な壮麗さを彼の姿に与えていた。


男はゆったりと剣を下げて、何の闘気も見せずにのっそりと立っているだけだが、敵の兵士たちはその姿に威圧されていた。


(美しい)


フォックスは、思わずその姿に見とれていた。


ソフィとダンは互いの手を握って抱きあい、固唾を呑んで、成り行きを見守った。


相手が抵抗する気だと見て取って、追手たちは馬から下りて剣を抜いた。少なくとも、体格だけで言えば、この虎頭の男は容易ならぬ力がありそうだ。


 


20人の人数を前にしても、この虎頭の男には何の恐怖も無いようだった。まあ、虎の顔では恐怖の表わしようもないだろうが、少なくとも、その動きは落ち着き払ったものだった。


「ええーいっ!」


敵勢の一人が気合を掛けながら斬ってかかった。その剣先を無造作にかわして、虎頭男の剣がひらめいた。兵士の頭が斬り飛ばされて宙に舞う。


続いて攻めかかった兵士も同様に頭を斬り飛ばされる。そして三人目も。頭を斬り飛ばすことにこだわるのは、相手兵士たちの鎧で剣を痛めないためだろうか。それにしても、一瞬のうちに頭だけを狙い、それを成功させるのは容易ではないだろう。


追手の軍勢は、相手の恐るべき剣の技量に恐怖心を感じ始めていた。


「ええい、同時にかかれ!」


隊長の下知に従って、兵士たちの中の3名が頷いてタイミングを計り、同時に斬りかかる。しかし、その一番右側の兵士の横を駆け抜けながら、虎頭男の剣はその兵士の頭を斬り飛ばし、次の瞬間には残る二人も、一人は胴を水平に斬られ、もう一人は肩から袈裟掛けに斬り下ろされて地面に倒れた。


「次、行け!」


次の3人も同じようなものであった。


これほど巨大な体格をしていながら、その動きはまさに虎のように柔軟で、虎のように速かった。速さのレベルが三段階ほど違うのである。これだけの人数を倒しながら、息一つ切らしてもいない。


「ええい、弓だ、弓で射ろ!」


兵士たちの背後に控えていた数名が弓を構えて引き絞ろうとした。


その瞬間、風が巻き起こった。いや、虎頭男が疾風のように兵士の群れに向って殺到したのである。


大殺戮であった。しかも、その殺戮はほぼ一瞬であった。見ていたフォックスの目には、ただ黒い嵐のような物が兵士たちの間を吹きぬけたように見えた。


数秒後、地上には20個の死体が転がっていた。


 


夕日の中に血刀を下げて静かに立つ虎頭の全裸の男の姿は恐ろしく、また、奇妙な美しさがあった。フォックスは恍惚となってこの殺戮の後の静謐な絵図を眺めていた。


 


 


第四章  旅の道連れ


 


「有難うございました。あなたがいなかったら、我々はきっと捕らえられていたでしょう」


そう礼を言いながら、フォックスは目のやり場に困っていた。相手の股間にどうしても目が行ってしまうのである。


「うう…」


虎頭男は、言葉を絞り出そうとしているようだ。


唖なのだろうか、とフォックスは考えた。


「どうも有難うございました」


思いがけずソフィがそう言ったので、フォックスは驚いた。この王女と身近に話すようになったのは二日前からだが、こういう高貴なお方たちは他人の奉仕に礼など言わないものだという思い込みが彼女にはあったからである。


「有難う。おじちゃん」


ダンも姉を見習って言った。


「その頭、お面?」


子供らしい遠慮無さでダンがそう聞く。


「うう……」


「お面なら、外せばいいのに。不便でしょう?」


男は悲しげに首を横に振った。


「外せないの?」


今度は頷く。


「そう、可哀そうだね。でも、すごくカッコいいよ、その頭」


ダンの言葉に、男の虎の顔にまた笑顔のようなかすかな表情が浮かんだ。


「とにかく、今はここをできるだけ早く離れましょう。次の追手が来るかもしれませんから」


男はあたりに転がった兵士の死体の間を歩いて、その一つの服を脱がし、それを着た。中に大柄な兵士がいたらしく、それが着られたようだ。フォックスに「借りた」剣を返し、地面に転がっている剣の一つを拾い、剣帯についた鞘に抜き身を差し込む。


「あっ、そうだ」


フォックスは、死体の懐を探し、財布を集めた。


「近衛隊隊員のフォックスが泥棒をするほど落ちぶれたと笑われそうだけど、今は変にプライドを持っていられる場合じゃないわ」


一番大きい財布に、かき集めた金を全部まとめて入れる。


「あなたも私たちと一緒に来たらどうかしら。ここにいると、さすがに他の兵士たちに追われることになると思うから」


虎頭の男は小首を傾げて少し考えたが、うなずいた。


「わあい、虎頭のおじちゃんも一緒だ。嬉しいな。こんな強い騎士は王宮にもいなかったよ」


「でも、いいんでしょうか。私たちは追われる身だし、かえってこの方にはご迷惑では?」


「さあ、それは本人の判断だけど、私たちにとっては、この人が一緒なら、こんなに心強いことは無いわね。少なくとも、私の知っているどの騎士にも、これほどの強さを持った人はいなかったことは確かね」


「ご一緒してもらえれば、こんなに嬉しいことは無いんですが」


ソフィの言葉に、虎頭の男は軽く頷いた。その顔は、なぜか笑顔に見える。


フォックスは虎頭の男に手伝ってもらい、兵士たちの死体を川に投げ込んだ。少なくとも、陸上にあるよりは発見に時間がかかるだろう。このあたりがフォックスのフォックスたる所以である。


追手の兵士たちの乗っていた馬が何匹か、近くで草を食んでいたので、それを捕まえて乗ることにする。


 


日はほとんど地平線に沈みかかっていた。


持っていた水筒代わりの革袋に小川から水を汲み、所持していたパンとチーズを食べると、4人は日の暮れた街道を馬に乗って出発した。馬は二頭で、虎頭の男の前にダンが乗り、フォックスの前にはソフィが乗る。馬を並べて歩ませる。


「ねえ、おじちゃんの名前は何と言うの?」


「うう……」


「だめよ、ダイヤ、いえ、ダン、おじちゃんはお口が不自由なの」


「うう……グ、グエン、……」


「あら? 今、グエンって言った? 言葉は話せるようね。少し口は回らないようだけど、唖というわけではないみたいね。では、あなたの名前はグエンということでいいかしら」


フォックスの言葉に虎頭男は頷いた。どこからそのグエンという名前が心に現れたのか、いぶかしみながら。


 


「疲れたア……ぼく、もうお尻が痛くて乗っていられないよ」


やがてダンが音を上げた。


「だめよ、ダン、もう少し頑張りなさい。できるだけ遠くまで行かないと」


「いえ、ソフィ、私の考えでは、このグエンがいる限り、多少の追手がまた現われても大丈夫だという気がします。今、頑張りすぎると、これからの旅がつらくなりますから、今夜はこの近くで泊まりましょう」


ちょうど、数百マートル先に宿場町の明かりらしいものがあるのを見つけ、フォックスは言った。


「あ、グエンさん、私の名前はフローラということにしておいてください。ソフィとダンもそう呼ぶのよ」


「フローラだって。変なの。まるで女の子の名前みたいだ」


「私は女ですよ。これでも子供の頃は可愛い娘だと言われていたんですから」


「嘘だい。こんなに真っ黒に日焼けしているくせに」


「うるさいわね。私はあなたのお姉さん、ということになっているのだから、うるさく言うとお尻をぶちますよ」


「ダン、言うことを聞くの」


「はあい」


 




拍手

タイガー! タイガー! (1)

別ブログに載せてあった未完の作品だが、今読むとわりと面白いので、ここにも載せておく。一番私が「グイン・サーガ」の中で好きなのが、「グインのふりをするグイン」の話なので、そこに相当する部分を書いたら、興味が薄れたのである。たぶん、続きを書くことは無いと思うが、二次創作のわりには設定は悪くないと思うので、興味を持った人がいたら、誰でもこの設定を使用していい。

(以下自己引用)17章くらいまで書いたと思う。掲載は1章だけだったり2章一緒だったりする。





「タイガー! タイガー!」  *『グイン・サーガ』の主題による変奏。


 


初めに


 


この小説は、栗本薫の大作『グイン・サーガ』のファンではあるが、その冗長な部分やセンチメンタルな部分、あるいは作者の一部の作中人物への偏愛ぶりにはいささか批判的な筆者が、『グイン・サーガ』の発想と一部のコンセプトを利用して作った作品である。一部の作中人物の変更には悪意も少々あるが、それ以外にはべつに原作をからかうような意図はないからパロディではなく、ただの二次創作である。


作中のさまざまな部分で原作に負う部分は多いが、原作では重視されているSF的部分はほとんどカットされ、魔術もその内容を変えてある。また、「新しい世界の創造」という点も、『グイン・サーガ』で達成されているので、それも重視していない。ただ一つ、「未知の場所から来た、獣の頭を持った主人公」というコンセプトと、一部登場人物の類似性だけが、原作と重なる部分である。原作では一つ一つの物産の名称まで特有の名前を与えているが、筆者はそんな面倒なことはしない。蜜柑は蜜柑でいいし、リンゴはリンゴでいい。馬も牛も猫もネズミも同様だ。いちいちトルク(鼠)、ガーガー(鴉)などと書く必要性は私には無い。「新世界の創造神」になる野望は無いからだ。


作品の設定は、この地球の中世初期、まあ西暦900年頃と思ってもらいたい。ただし、実際の歴史とはまったく無関係の騎士物語系統の異世界ファンタジーである。したがって、地名も国名も架空のものである。人物名などは英語系統の名前やらフランス語系統の名前、スペイン語系統の名前などが入り混じって、かなりいい加減だが、度量衡は現実を連想させる名称にしてある。たとえば10ピロと言えば、距離の10キロメートル、重さの10キログラムである。もちろん、中世にはメートル法は存在しないが、現代の人間に想像しやすくするための便宜である。金の単位も架空のもので、黄金100グラムが1マニ、その100分の1が1ミニで、1マニが庶民の1週間くらいの生活費になると思えばよい。作者自身がその設定を忘れなければの話だが。


言葉については、いくつかの国が出てはくるが、すべて共通の言葉が用いられ、ただその訛りや語彙の一部で時には人物の素性が分かるという程度である。人種の区別も無い。せいぜいが、北方の民族は金髪が多く、南方の民族は黒髪が多いという程度である。


作中人物の名前もいい加減で、宝石名を使ったため、サファイア姫などと『リボンの騎士』みたいな名前も出てくる。だが、それは後からソフィという名になるので、気にしないように。


 


 


第一章  覚醒


 


 


目覚めた時は真昼だった。頭上に高く太陽が輝き、彼をじりじりと焼いている。喉が渇く。体中に汗がにじむのが分かる。


彼は眼をすぼめて、太陽の光から眼を守った。自分の体がなぜこの地面に横たわっているのかわからない。しかし、体に異常は無さそうだ。


彼はゆっくりと体を起こしてみた。どこにも痛みは無い。ただ、喉の渇きは耐えがたい。


彼の横たわっていたのは柔らかく短い草の生えた地面である。


なぜ自分はここに寝ていたのだろう、と考えて、次の瞬間、「自分は誰だ」という問いが突然に心に生じ、彼は恐慌に陥った。


まったく自分についての記憶が無い。だが、言葉そのものの記憶が無いわけではない。空、地面、草、そして風、日光などといった言葉は、彼があたりを見回すにつれて次々に心に生まれる。季節……今はおそらく春の終わりか初夏だろう。暑いが、真夏の暑さではない。


 


だが、それにしても喉が渇いた。


彼は水を探す決心をして立ち上がった。それで、自分の背が高いことが分かった。かつての自分についての記憶は無いのに、自分の身長が他の「人間」にくらべて高いというかすかな記憶が蘇ったのである。


彼は裸だった。下帯さえもはいていない。激しい羞恥心が心に生まれたが、あきらめて歩き出す。自分の足や体を上から眺めた限りでは、彼は相当にたくましい体格の男であるようだ。しかも、すべてが見事な筋肉に包まれて、どこにも無駄な肉はない。股間を見て、彼はまた羞恥心を感じた。


裸であることを恥ずかしいと思うような文化の中に自分はいたのだという考えが生じる。


 


少し傾斜した地面を下に下にと降りていくと、小さな木の茂みと小川のせせらぎがあった。


彼はほっと安心して、その川に身をかがめ、両手で水をすくって飲んだ。


何という美味さだろう。喉を下りて行く清涼な水の爽快感。たちまちに癒えて行く喉の渇き。体全体に回復してくる気力と生命感。


彼は木陰を渡るそよ風に体を吹かれながら、生き返ったような感動を味わっていた。


もう喉の渇きは止まっていたが、水の美味さをもう一度味わうために彼は両手で水をすくった。その時、心に何かの違和感が起こった。先ほど、水を飲んだ時、なぜあんなに飲みづらかったのか。両手にすくった水に顔を近づける。その時、彼の眼は、自分の眼の下に突起した物がその水を覆い隠したのに気づいた。


(何だ、これは)


それが自分の顔の一部であることに気づいたのは、次の瞬間である。


彼はすくった水を捨てて、自分の顔をまさぐった。毛に覆われた皮膚。突起した口蓋部。


(何だ、これは!)


彼の心は悲鳴をあげた。


(これは人間の顔ではない。犬? それともほかの何かか?)


彼はあわてて水の淀みを探し、静かな水面に自分の顔を映した。


そこにあるのは、人間の顔ではなく、虎の顔だった。


彼は今度は声に出して恐怖の叫びをあげた。


 


 


第二章  逃走


 


フォックスと彼女は呼ばれていた。ある国での狐を意味する言葉だ。その国でもこの国でも、狐は狡猾な生き物だということにされている。


しかし、彼女はその自分の仇名が嫌いではなかった。それは彼女の剣士としての才能への称賛でもあったからだ。試合で彼女に敗れた相手は、相手が女だから油断したと一様に言った。そう言わない剣士も、彼女の試合ぶりは狡猾であり、男らしく堂々とした戦いではないと言った。そう言われても、彼女は平気である。女である自分が体格も体重もまるで違う相手に勝つには、相手の予測を外して勝つしかない。それが狡猾というなら、日常の剣の修行など、戦場での役には立たないだろう。


 


フォックスは今、危機にあった。


彼女が仕えていた国の国王が暗殺され、王妃の命令でその娘と息子を、姻戚関係のある別の国に送り届けるという使命を受けたのである。


その娘、つまり王女は10歳、息子、つまり王子は8歳の足手まといな年ごろだ。


王宮に敵兵が押し寄せる直前にフォックスは王女サファイアと王子ダイヤを連れて王宮を脱出した。


王宮を離れて数時間後、夕焼けの空を背景にして王宮に火と煙が上るのが見えた。王妃が自刃し、王宮に火をつけたのである。フォックスはある丘の上から、涙を眼ににじませながらそれを見たが、すぐに踵を返して王女と王子の所に戻り、声をかけた。


「これからあなたたちの叔母であるタイラス国の王妃のもとへ向かいます。これからしばらくは、あなたたちは、サントネージュ国の王女王子であることを他人に知られてはいけません。サファイア様はソフィ、ダイヤ様はダンです。いいですか」


恐怖を押し殺しながら、二人の子供は気丈にうなずいた。


 


それが二日前のことだった。幼い子供連れだから、どんなに急いでもそう早くは歩けない。王宮からはやっと20ピロほども離れただろうか。


日もかなり斜めに傾いてきている。


ある野原まで来た時、背後から近づく騎馬軍勢の足音が聞こえた。


あたりには林や森は無い。


フォックスは絶望を感じながら、子供たちの手を引いて近くの小さな茂みへ飛び込んだ。


何か柔らかいものを踏みつけたような気がしたが、気に留めている場合ではない。


「うっ……」


うめき声がした。自分の踏みつけたものが人間の体であることにフォックスは気づいた。


「あっ、済みません」


と言いながら相手を見てフォックスは「きゃっ!」と悲鳴をあげた。自分もこんな女らしい悲鳴をあげることができるんだ、と頭の隅で考えながら、彼女は相手を見つめた。


それは、虎の頭をした大男だった。


むっくりと体を起こして、彼女を見ている。


その黄色い眼ははっきりと虎の眼であり、その頭が仮面などではないことが彼女には分った。


「どうか、騒がないでください。悪い連中に追われて、姿を隠したところなのです」


相手の異様な姿に怯えながらも、フォックスはそう言った。今は、この相手の正体よりも、恐るべき追手から逃れることを考えるべきだ。


 


拍手

「僕のベッドの上の何か」(後半)

家に入ると、家人たちが、少年が部屋に誰も入れようとしないと口々に言った。
「中に入るな」少年は言っているらしい。「誰にも僕の持っているものを取らせない」
階段を上って部屋に入り、私は彼が、私が最後に見たときとまったく同じ姿勢と位置で、白い顔をし、しかし頬は熱で紅潮して、ベッドの足元の方をじっと見ているのを見た。
私は彼の体温を測った。
「何度なの?」
「100度くらいだ」私は言った。それは102度4分だった。
「102度だよね」彼は言った。
「誰がそう言った?」
「お医者さん」
「君の体温は大丈夫だ」私は言った。「何も心配することはない」
「心配してないよ」彼は言った。「ただ、考えるのをやめられないんだ」
「考えないようにしなさい」私は言った。「気を楽にして」
「僕は気楽にしているよ」彼は言って、真っすぐ前を見た。彼は明らかに、彼自身のことで何か思いつめている。
「この薬を水で飲みなさい」
「これ、何か役に立つと思っている?」
「もちろん役に立つさ」
私は座って海賊の本を開き、読み続けようとしたが、彼が聞いていないことに気づいて読むのをやめた。
「僕はいつ死ぬんだと思う?」
「何だって?」
「あとどれくらい、僕は生きられると思う?」
「お前は死なないよ。いったいどうしたんだ?」
「死ぬよ。僕はあの医者が102度と言うのを聞いたんだ」
「人間は102度の熱では死なないよ。馬鹿馬鹿しい」
「死ぬって、僕は知ってるよ。フランスの学校にいた時、友だちが、人間は44度の熱が出ると死ぬって言っていたんだ。僕は今102度だ」

彼は一日中、死を待っていたのだ。朝の9時から今まで。



「可哀そうなシャッツ」私は言った。「可哀そうなことをした。それは、マイルとキロメーターのようなものなんだ。お前は死なないよ。温度の単位、つまり決め方が違うんだ。フランスの単位だと37度が普通の体温で、こちらだとそれは98度なんだ」
「それ、確かなの?」
「絶対に確かだ」私は言った。「それはマイルとキロメーターの違いと同じようなことなんだ。知ってるだろ? 車で70マイルの速さが何キロメーターになるか」
「ああ、そうなんだ」彼は言った。
ゆっくりと、彼がベッドの足元を見る視線は和らいでいった。彼を包んでいた緊張も緩んでいき、翌日にはとてもリラックスして、些細なことに簡単に泣いたりしたが、それにはもう何の重要性も無かった。







(追記)無様な掲載の仕方になったのは、途中で、強調のために色字を使ったところ、残りのすべてが色字になり、その変更ができず見苦しいので編集画面そのものを変えたからである。まあ、そのために、強調したかったところが自然と強調されたから良しとする。
9歳の少年が死を目の前にするのは、大人と同じ、あるいはそれ以上の巨大な恐怖だろう。その原因が、摂氏と華氏の違いという、それだけだとコントのような話だが、死を目前にする恐怖は、たとえそれが誤解に基づいていても、本物の恐怖である。
ちなみに、摂氏と華氏の変換式を、この前アニメの「ピーナッツ(チャーリー・ブラウンとスヌーピー)」の中で見たが、あちら(米国)では小学低学年で習うようである。それはこんなものだ。

F=32+9/5C

たとえば摂氏40度だと、華氏104度になるわけである。(9/5は5分の9の意味)

拍手

「僕のベッドの上の何か」(前半)

別ブログに載せてあるものだが、ヘミングウェイの短編小説「A DAY'S WAIT」の翻訳をこちらにも載せておく。ただし、いきなりブログの編集画面で書いた記事で、操作ミスのために途中から文字の形が変えられなくなったので、最後の部分のフォントが違うという、変なものになっている。題は、あちらのブログでは「目の前の死」としたが、もちろん、原題とは違う。ここでは「僕のベッドの上の何か」とでもしておく。
一回だけで掲載できなければ、二回に分けて載せる。



「僕のベッドの上の何か」


彼は私たちがまだベッドの中にいた時に部屋に入ってきて窓を閉めたが、彼が病気であるのに私は気付いた。彼は震えていて、顔が白く、まるで動くことが苦痛であるかのようにゆっくりと歩いた。
「どうしたんだ、シャッツ」
「頭が痛い」
「ベッドに戻ったほうがいい」
「いいよ。大丈夫だから」
「ベッドに行きなさい。服を着てから、見てあげる」
しかし、私が階下に下りていくと、彼は服を着て暖炉の傍に座り、見るからに病気でみじめな9歳の子供の姿だった。彼の額に手をやると、熱を持っていた。
「上に行ってベッドに寝なさい」私は言った。「お前は病気なんだ」
「大丈夫だよ」彼は言った。
医者が来て、彼の熱を測った。
「どうですか?」私は尋ねた。
「102度だね」
医者は、服用上の注意書き付きの、三色のカプセルに入った三種類の薬を置いて行った。ひとつは熱を下げるもので、ひとつは下剤、三つめは体が酸性になるのを抑えるためのものらしい。インフルエンザの細菌は体内が酸性の状態でだけ存在すると医者は説明していた。彼はインフルエンザについては何でも知っていて、熱が104度にならないかぎり、何も心配はいらないと言った。息子のインフルエンザはごく普通のもので、肺炎にでもならない限り、何の危険もないと。
部屋に戻り、私は子供の体温をメモし、数種のカプセルを与える時刻を書いた。
「何か読んでほしいかい?」
「父さんが読みたいなら、読んで」少年は言った。彼の顔はとても白く、眼の下には隈ができていた。彼はベッドに横たわり、自分の置かれた状況から遊離しているように見えた。
私はハワード・パイルの「海賊の本」を読んで聞かせたが、子供が聞いていないのに気付いた。
「気分はどうだい、シャッツ」私は尋ねた。
「前と同じだよ」彼は言った。
私はベッドの足元に座り、次のカプセルを与えるまでの時間つぶしに本を読み続けた。子供はそのまま眠りに就くのが自然なはずだが、私が本から目を上げると、彼はベッドの足元の方を見ていて、とても奇妙な表情をしていた。
「どうして寝ないんだい? お薬の時間になったら起こすから」
「起きていたい」
しばらくして、彼は言った。「パパは無理にここにいなくてもいいよ」
「無理していないよ」
「ううん、お願い。パパに面倒かけたくないんだ」
私は、彼が少し頭がぼんやりしている状態なのだと思い、11時に処方通りのカプセルを彼に飲ませて、少しの間のつもりでそこを離れた。


良く晴れた寒い日で、地上はみぞれに覆われていたが、そのみぞれは既に凍っていたので、葉の落ちた木々や茂みはカットされたブラシのように見え、雑草や裸の地面は氷の中に消えていた。私はアイリッシュセッター種の若犬を連れ、道路や凍った溝沿いに軽い散歩に行くつもりだったが、ガラスのような地表では立っているのも歩くのも困難で、赤い毛色の犬は足を滑らせてつるつる滑っていき、私は二度もしたたかに転び、一度は、手にしていた銃を取り落として、それが氷の上をずいぶん遠くまで滑っていった。
私たちは、ブラシ状の木々の下の粘土の土手にいたつぐみを驚かせ、飛び立ったそれらのうちの2羽が土手の上を飛び去ろうとした間際に私は銃で撃ち落とした。群れのうちの幾らかは木の枝に止まっていたが、多くはブラシの堆積の中に集まっていたので、氷で覆われたブラシの小丘の上でジャンプして彼らを飛び立たせる必要があった。氷のスプリングのようなブラシの中から不定期に飛び立つうずらを撃つのは難しく、私は2羽を撃ち落とし、5羽を撃ち損ね、家の近くでうずらの群れを見つけたこと、そしてまた別の日に見つけることができるうずらがたくさん残っていることを喜びながら帰途についた。









拍手

カレンダー

03 2024/04 05
S M T W T F S
13
14 19
26 27
28 29 30

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析