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町の名は (2)-2

刑士郎は東城長官の私設オフィスに電話をした。用心のためにホテルから離れたところの電話ボックスの電話を使う。
「北**市の旭組はたしかに一心会の傘下の組だが、あんたの足がついたという話は無いな。別件だろう。旭組は今、叶組傘下の明治会と抗争中だから、その応援の者とでも間違われたのではないかな。警官とヤクザは兄弟みたいに似ているからな、ハハハ。そうだ、ついでと言っては何だが、あんたに仕事を頼もう。旭組と明治会が今、潰し合っているところだから、うまくその中に入って、双方の被害をできるだけ大きくしてくれないか。理想は、双方全員死亡だが、まあ、できるかぎりでいい。あんたの好きそうな仕事だから、楽しいだろう。支払いは、組員一人につき10万円、若頭クラスなら50万円でどうだ」
「それぞれの組の構成員の人数は」
「旭組が80人くらい、明治会が60人くらいかな。使い走りの高校生やチンピラなどは除いてだ」
「一人で140人を相手ですか。命が幾つあっても足りませんな」
「バックアップはする。北**署の池島署長は私の息のかかった人間だ。旭組と明治会には長年手を焼いている。そいつらを一掃するのは彼の悲願だ。北**市の大掃除のためならたいていのことには目をつぶるし、武器も融通してくれるだろう」
「あのねえ、黒澤の映画じゃないんだから、一人の人間がヤクザ組織をぶっ潰せるわけがないでしょう」
「そうでもないさ。現代の戦争に人数は関係ない。原爆一つで100万人が殺せるんだからな。相手が兵士でも同じさ。連中が争い合っているのがこっちにとってはもっけの幸いだ。相手以外のものに注意を向ける余裕が無いからな。それから、役に立つ人間を一人見つけた。そのうち応援に行かせる。二人でなら、仕事もしやすいだろう。名前は大石大悟。若いが使える男だ。ではな」
「ちょっと、ちょっと、こっちはまだ引き受けるとは言ってませんよ」
しかし、電話は既に切れていた。

刑士郎は北**市の市街地図を眺めながら部屋で酒を飲んでいた。ホテルは元のままだ。他のホテルに移っても同じことである。一度調べて懲りただろうから、かえって妙な連中は来なくなるかもしれない。
カウンター係は刑士郎と顔を合わせるときまり悪そうにするが、刑士郎からは、あれから特に何も言っていない。
旭組と明治会の本部所在地は昼の間に調べてある。北**市を流れるS河をはさんで2キロほど間が離れている。北**駅近くにあるのが旭組で、中心街から離れた閑静な住宅街にあるのが明治会だ。いつからそこにいるのかは知らないが、さぞ、その住宅街の地価は下落しただろう。
旭組の本部は、表向きは普通の雑居ビルだが、入り口周辺にはいつも目つきの悪い男たちが数人いる。侵入は難しそうだ。
明治会のほうは、まるで要塞である。コンクリート打ちっ放しの二階建ての無愛想な住宅ビルに、鉄格子のはまった窓が四方にある。その建物を囲んで2メートル少しの高さのコンクリート塀があり、ご丁寧にその上には鉄条網がある。まさか、電気まで流してはいないだろうが、刑務所並みのものものしさだ。門は鉄の扉で閉ざされている。
刑務所に送られる前から自分で自分を刑務所に閉じ込めていやがる、と考えて刑士郎はニヤリとした。
だが、思わずため息も出る。
「こりゃあ、戦車かミサイルでも無いと無理だな」
刑士郎は呟いた。

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町の名は (2)-1

(2)


目を覚ました時はまだ夜明け少し前だった。口の中が昨夜の煙草と酒で不快だ。トイレで糞をして体の中の残留アルコールを外に出した後、熱い湯を溜めた風呂に体を浸け、体に血が回るのを待つ。
すっかり生き返った気分になったところで一服目の煙草をつける。肺の中に浸み込む煙を味わいながら窓のカーテンを開けると朝日が部屋の中に差し込んだ。「朝日のように爽やかに」というジャズソングのフレーズが心に浮かぶ。

softly as is the morning sunrise

「朝日がそうであるように柔らかく」とでも訳すのだろうか。何が柔らかくなのだろう。

ホテルの食堂で貧弱な朝食を食べながら新聞を読む。全国紙ではなく地方紙を選ぶ。一面の政治記事よりも第三面(というのも古い言い方で、本当は裏から二面目だが。)の犯罪記事に先に目が行くのは習性だろう。市職員の汚職疑惑、公共工事に関する土建屋の談合、チンピラの強姦事件、高校生のオートバイ事故、どこの地方都市にもつきものの事件ばかりだ。

近くの公園までの散歩から帰ってきた刑士郎は、ホテルの入り口を入ったところで足を止めた。
カウンターで二人の男がフロントマンに何かを尋ねている。明らかにヤクザ者だ。フロントの男が二人にキーを渡したのを見て刑士郎は、まずいな、と考えた。そのキーはおそらく彼の部屋のものだろう。
二人の男が二階に上がっていった後、ホールの椅子にさりげなく腰を下ろしていた刑士郎は立ち上がってカウンターに近づいて行った。
「203号室の鍵を貰えるかな」
「あ、今ちょっと清掃中なんで、少しその辺で待っててもらえますか」
「こんな朝早くに清掃かい。もしかして、その掃除のオバさんはさっきの二人かな」
刑士郎はこわばった顔のカウンター係に笑顔を見せて大股に階段へ向かった。
階段を上って203号室の前に来てノブを静かに回してみると、部屋のドアの錠は閉まっていないようだ。自動で錠のかかるドアではないのが幸いした。
そっと覗き込むと、二人の男は刑士郎のトランクをこじ開けようとしているところだった。
「泥棒っ、泥棒だーっ」
刑士郎は大声を上げた。
二人は慌ててトランクを放り出し、戸口にいる刑士郎を突き飛ばすようにして部屋を飛び出した。そのまま階段の方へ逃げ去って行く。
刑士郎はニヤニヤしながら部屋に入って行った。
トランクは幸い、まだ開けられてはいなかったが、いずれにしてもこのトランクの中には見られてヤバイものは入っていない。まあ、金がけっこう入っているのがヤバイと言えばヤバイのだが、本当に見られてヤバイものと言えば、刑士郎の背広の下のホルスターに吊った拳銃、ワルサーPPKと、背広の内ポケットの中の大型ナイフくらいのものである。刑士郎にとってはヤクザよりも警察官の不審尋問がよっぽど怖い。
それにしても、あの二人はどういう素性のヤクザなのか。ホテルのフロントマンと顔見知りのようだから、地元のヤクザだと思うが、地元のヤクザが何を嗅ぎまわっているのか。まさか、一心会の手がここまで回っているとはとても思えないのだが。

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町の名は (1)-2





男の名は冬木刑士郎。仕事は二年前までは警察官だったが、ある事件で免職になった後、しばらくして東城の下で働くようになった。
東城の命じる仕事は、簡単に言えば殺し屋である。だいたいは企業の依頼を受けて、企業に不利な活動をしている人間(中には組合活動をしている人間などもいる。産業スパイもいる。単なる企業内部の権力闘争もある。基本的にその理非は問わない。)を殺す仕事である。野党政治家を殺したこともある。行政府の役人を殺したこともある。すべて、時の政権中枢部に不利益な活動をした、あるいはすることが判明した人間だ。彼が殺した人間の中には小島のような、ヤクザの舎弟である総会屋などもいる。こういうのが、殺しても一番後腐れが無い。警察もマスコミも本気では調べないからだ。
これまで冬木が殺した人間は5人。貰った金は2000万円くらいだろう。野党政治家を殺した時が一番高く、1000万円の報酬があり、その時は1年間ハワイに逃げてほとぼりをさました。
その時の金は内閣調査費という、「領収書不要」の金から出た。これは年間数億の予算がある。
誰を殺そうが、冬木の心が痛むことはない。無邪気な子供でも殺すなら別だが、汚れきった大人の寿命を数年か数十年縮めることに彼は何の痛痒も感じなかった。

刑士郎の脳裏に妻の面影が浮かんだ。「汚れきった大人」という言葉に心が反応したのだ。汚れたのは誰なのか。
刑士郎はテーブルの上のワイルドターキーをグラスに注ぎ、それを一息で飲んだ。焼けるように熱い液体が喉を通って胃の中に落ちていく。

刑士郎の妻は二年前、刑士郎の留守中に、自宅アパートで、ある男に犯された。
相手は、刑士郎が以前に検挙したチンピラだった。刑士郎はその若者のマンションに乗り込み、両腕をへし折った後、恐怖で縮こまっているその陰茎を台所の包丁で切り落とした。
その事件のために刑士郎は警察を免職になったのである。
妻とは、妻の方からの申し出で、半年後に離婚した。まだ二十代の若いきれいな妻だった。今はアメリカに行き、そこで暮らしているという話を、妻の実家の者から刑士郎は後で聞いた。

刑士郎が今の仕事をしているのは、妻の事件が理由というわけではない。その事件の前から彼の犯罪者への憎悪は異常なものだった。だが、二年の間に、彼の憎悪は犯罪者から人間全体へと対象が広がったのかもしれない。それは、自分がしていることを正当化する心的機制だったのだろう。
もちろん、今でも彼が一番憎んでいるのは犯罪者である。当の彼自身が犯罪者であることを考えれば、これは少々滑稽ではあったが、警察官であった時代の名残で、彼はヤクザや犯罪者を心の底から憎悪していたのである。それは妻の事件で永遠に心に刻印されたのだ。
(連中は人間じゃない。連中を人間扱いすること自体が間違いなんだ。)
警察官であったころ、様々な事件に出遭うたびに彼の胸の中にはそういう思いが高まっていった。特に、犯罪被害者やその家族の再起不能の状態を後目(しりめ)に、加害者が証拠不十分で釈放されたり、あるいは刑期を終えて世の中に復帰し、大手を振って歩いている姿を目にする度に、彼の憎悪と怒りは高まっていった。そして妻へのレイプ事件で彼の怒りは爆発したのであった。

妻を犯したチンピラの陰茎を切断した時の快感を刑士郎は思い出していた。チンピラの恐怖にゆがんだ顔。哀願する声。左手で握った情けないほど縮んだ陰茎を右手の包丁で切った時の感覚を彼は一生忘れないだろう。その汚らしい一物を彼が足で踏みつぶした時の、相手のあの絶望した顔。これこそ復讐の快感であった。彼は、妻のためにではなく、その快感のためにこの行為をやったのかもしれない。心の奥底を見れば、その時の彼の心には妻を思う気持ちは無かったのだから。
その後の裁判の間も、刑士郎は一瞬も自分のやった行為を後悔しなかった。むしろ、それをやらなければ、どんなに後悔しただろう。
バーボンの酔いが次第に回ってきて、刑士郎はやがてベッドに倒れ込み、そのまま眠りの中に落ちて行った。


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町の名は (1)-1

別ブログに載せてあった、昔書いた短編小説だが、今読むとわりと面白いので、こちらにも載せておく。国家間の問題解決法としては「絶対非戦論者」の私だが、実は悪を滅ぼすには暴力は許される、と思っているのだwww





何か書きたい気持ちはあるが、アイデアを掘り下げる気力が無いので、昔書いた作品を「清書」しておく。書いたのは1998年なので、(ノートによると1月3日の1日で書いたもので、推敲も何もしていない。)18年も前の作品である。中学生か高校生の書いたような下手なハードボイルド小説だが、ゴミにするのもつまらないから、ここに上げておく。
題名の「町の名は」は、ダシール・ハメットの「町の名はコークスクリュー」から取ったもので、内容も同作品から、というより、同作品を下敷きにした黒澤明の映画『用心棒』をモデルにしている。ハメットの作品は読む機会が無かったが、題名の「町の名はコークスクリュー」というのはいい題名だなあ、とかねがね思っていたのである。
手元に何の資料も無しで書いたので、警察組織や武器などについての記述はひどくいい加減である。それ以外にも妙な記述はたくさんあるだろうが、下手なりに面白いところが少しでもあればそれでいいと思っている。


「町の名は」



(1)

男はラッキー・ストライクを箱から1本取り出し、口にくわえて火をつけた。一息深く吸い込んで煙を吐き出した後、煙草をくわえたままソファに身を沈める。いつも通りの安ホテル、いつも通りの煙草の味だ。
部屋のベッドサイドの小テーブルに置いたポータブルの薄いCDプレイヤーから、コルトレーンの「say it」が流れている。旅のお友としていつも持ち歩いているプレイヤーと、数枚のCDの一つだ。
窓の外にはけばけばしい赤いネオンがまたたくのが見える。
男は目を閉じて物思いに耽った。年の頃は四十前後の中年男である。疲れた表情だが、日に焼けた顔の作りは青銅を彫ったように端正だ。髪は長めで、黒々としている。ソファから投げ出した足は長い。筋肉質の体で、身長は180くらいだろう。

「小島の件で一心会がどう動くかは、こちらでも調査中だ。あんたの事だから足は着いていないと思うが、しばらくここを離れて身を隠しておくのがいいな」
警察庁長官東城一矢は、まだ四十代前半でありながら警察庁のトップに上りつめた切れ者らしい鋭い顔を男に向けながら言った。
「残念ながら、小島に渡った金は回収不能だ。しかし、これ以上せびり取られないだけでもマシだろう。まったく、日本の大企業という奴は、どこもかしこも脛に傷を持っているから、あんな総会屋ごときにつけ入れられるんだ。問題はあいつのバックの一心会だな。小島の金の大部分は一心会に上納されていたという話だから、小島を殺(や)られた一心会は必死で下手人を探しているはずだ」
東城はデスクの引き出しを開け、紙包みを取り出して、それをデスクの上に置いた。
「200万ある。これで特に不満は無いと思うが……」
男は、不満は無い、というように軽く肩をすくめた。
「リスクを負うのはそっちも同じでしょう。むしろそっちは社会的な地位も高いだけに、やっていることがバレた時に失うものも多い。私は、せいぜい自分の命だけだ。幸い、家族もいないのでね。その自分の命もたいして惜しくもない」
「君のような人間があと二、三人いるとこっちも助かるんだがな」
「世直し団ですか。時代劇か漫画の見過ぎですよ。私は自分で使うカネが欲しいだけだ。正義感のために人殺しをする奴はいない」
「動機はどうでもいい。私は、自分がしたいことをするのに手足になってくれる人間が欲しいんだ。私の本当に知りたいことを教えてくれる人間、私に代わって人を殺してくれる人間がね」
「確かに警察庁のトップ自ら人を殺したんではまずいでしょうな。私はカネを貰い、あんたは自分の欲求不満を解消する、というわけだ」
「欲求不満か。確かにその通りだ。私は今の立場にいるかぎり、本当の欲求を満たそうとすれば、手足を縛られているようなものだ。正義の執行者が悪を為すことは表向きには不可能だからな。しかも、その『悪』が自分が本当に望む正義なのだから。信じて貰えるかどうか分からんが、私がこの世界に入ったのは『悪い奴』をやっつけたいという、それだけだったんだよ」
「少年の夢ですな。ところが、いざ警察のトップになってみると、悪い奴に対して何一つ手出しができない。それでこういう行動に出たわけだ。でも、いずれバレますよ。これでも日本は一応法治国家らしいですからね」
「そうならないように気をつけるよ。もし助けが必要な時は、この番号に電話してくれ。私の私設オフィスだ。オフィス名と番号は覚えて、この名刺は処分してくれ。秘書が電話に出るはずだから、名前と連絡先を言っておいてくれればいい。そうすれば、後でこちらから連絡する」

男は3本目の煙草に火をつけ、曲の終わったCDを再びプレイにした。東城との会談が昨日で、そのまま夜行列車に乗って、今朝この町に着いたのだった。
町の名前は北**市。東北地方の大都市の一つだ。冬の初めの肌寒い気候の中を一日歩き回り、町の様子を見た後、このホテルに投宿した。特に警戒を要するような気配も無かったので、近くのレストランで夕飯を食った後、ホテルに戻ってきたのである。




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白鯨#25

第29章(後半) 承前


モゥビィ・ディックは、やがて海上に姿を現した。しかも、そのままじっと浮かんでいるだけである。その姿は、何かを待ち受けているかのように、不気味であった。
エイハブは、船の操縦をマレー人の一人に任せ、自ら舳先に立って銛を構えた。この最後の一投に運命のすべてを賭ける決意である。
やがて、モゥビィ・ディックの側面に回り込んだ舟から、渾身の力を籠めて、エイハブは銛を投じた。銛は、見事に白鯨の目の下に刺さり、白鯨は苦悶の様子で体を揺さぶった。そして、自分にこの苦痛を与えた敵にその体をぶつけ、破壊を試みた。
大きな波で舟は大きく傾き、乗組員のうち三人が海に投げ出された。
白鯨は走り出した。幸い転覆を免れた舟の中でエイハブは「ロープを切られるな!」と叫んだがその瞬間に、ロープは白鯨の巨大な推進力でぷつりと切れてしまった。
「漕げ、漕げ、まだ追いつけるぞ!」
エイハブは半分絶望しながら、気が狂ったように叫んだが、白鯨の進む方向にピークォド号があるのを見て、その意図を察知した。「船だ。あいつはピークォド号を壊そうとしておるのだ! 漕げ、漕げ、本船を救うのだ!」
エイハブの叫びは本船には届かなかっただろうが、ずっとこの闘争を見守っていた本船の連中は、白鯨の矛先が自分たちに向けられたのを知って驚愕したに違いない。
私は、マストに上っているクィークェグとタシュテゴの顔が驚きの色を浮かべるのが見えた。そして舷側にいるスターバックとスタッブの口が動いて何かわめいているのも見えた。もはや、私たちは、この悲劇を見守ることしかできなかったのだ。
白鯨、この神の化身かとも思われる生き物は、小賢しい人間の作り上げた建造物に、激しい勢いでぶつかっていった。ピークォド号は、その衝撃で大きく傾き、白鯨の頭部のぶつかった所には、巨大な穴が開いていた。
「おお、わしの命、わしのすべて、わしの船!」
エイハブはうめいた。
白鯨は、ゆっくり沈んでいくピークォド号の側で向きを変え、大きく回り込んでしばらく走った後静止したが、それは私たちのボートからほんの数十フィートの所だった。
彼はそこに静かに待っている。
「そうか、このわしに最後の機会を与えようというのか。獣らしからぬ騎士道精神だ。だが、それがお前の命取りだ。さあ、獣め、人間の力を思い知れ!」
エイハブは銛を投じた。
銛の突き立った白鯨は、一度体を持ち上げ潜水を始めたが、その刹那、いかなる偶然によるものか、ロープは舳先に立つエイハブの首に巻き付き、海底深く彼を連れ去った。
索を入れる容器からロープの最後の端の輪が飛び出て、これも波間に消えていったが、それを押さえようとする者はいなかった。この時には、次の瞬間に我々を待ち受けている運命が明らかだったからである。
ゆっくりと沈んでいくピークォド号は、今や完全に船体が海中に没し、ただマストの先だけが見えていた。そして、そのマストの周りには巨大な渦ができ、我々のボートを飲み込もうとしていた。
やがて、その渦は、渦の原因であるピークォド号も、その周辺の物もすべて飲み込み、深淵の中へと連れ去っていった。
渦が消えた後の海面には、白昼の光の中に、永遠の沈黙が訪れたのである。



第30章 海の孤児


こうしてすべては終わった。
渦の中に飲み込まれた私は、その渦の中心から現れた不思議な物体に必死で取りすがり、その浮力で海面に浮き上がることができた。それは、クィークェグが自分の死体を納めるために作らせた棺桶であった。こうして私は、死の象徴たる物体によって生の世界へと引き戻されたのである。
嘆きと絶望の中で、まる一昼夜、私はかつてのピップのように海を漂った。
そして、二日目に一隻の船が私を拾い上げた。それは近海をさまよっていたレイチェル号である。彼女は失われた自分の子の代わりに他家の孤児を拾ったのであった。





                   (完)





































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白鯨#24 

第29章(前半) 最後の戦い

フェデラーを失ったエイハブの短艇に、最後尾の漕ぎ手として指名されたのは、私だった。他の四人のマレー人漕ぎ手の黄色い顔は、私には何とも薄気味悪く感じられたが、それにもまして恐ろしいのは、エイハブ船長だった。彼は、白鯨が死ぬか、自分が死ぬまで追跡をやめないだろう。そして、前の二日の追跡の結果は、死ぬ運命にあるのはエイハブの方である事を明らかに知らせている。エイハブの死とは、その乗組員全員の死、すなわち私自身の死である。私が、本船に残った人々をいかに羨ましく思ったか、想像できるだろう。
だが、運命の奇妙さは、この話の結末をそれほど単純なものにはしなかった。
翌日、ピークォド号が再び白鯨を見つけたのは、日が高く昇るころだった。エイハブの怒鳴り声で三つの使用可能な短艇が下ろされ、私たちは白鯨に最後の決戦を挑んだ。
ああ、あの青い空を私は永遠に忘れないだろう。波を切って走るボートの前方に待ち構えているのは、白鯨ではなく、死そのものである。そもそも、我々の生とは、死に向かって後ろ向きでひたすらボートを漕いでいくようなものではないか? 誰が死の顔を真正面から見ただろうか。それができるのは、エイハブのような異常な人間だけである。
彼には、ナンタケットに残した若い妻があり、子供たちがいた。それらの優しい腕を振り切って彼を恐ろしい死に立ち向かわせるものは何か。ピークォド号の乗組員全員を死の危険に曝させる事を敢えてさせるのは何のためか。私には、分からない。
私は、ボートの後方に飛んでいく波の飛沫を見ながら、必死でオールを動かした。
モゥビィ・ディックは、このしつこい追跡者の姿を認めて、こちらに向かってきた。一度海面下に体を沈めた彼が再び姿を現した時、他の二隻の舟が彼の前にあった。
私は、体から滝のように海水を振りこぼしながらせりあがるモゥビィ・ディックの偉容に、恐怖と同時に美しさを感じていた。それは、雪に包まれた白い山脈であり、古代の王の作った白い巨石の壁であった。
彼は、スタッブとフラスクの舟のちょうど中間に現れ、その恐ろしい尾を二つの小舟に叩きつけた。二隻のボートは、その一部を壊されたが、幸いに転覆は免れた。
モゥビィ・ディックが向きを変えた時、私の舟の乗組員たちから恐怖の声が上がった。
彼の横腹には無数の槍や銛が刺さっていたが、その中でも一際新しいそれは、昨日の死闘の際にエイハブが投げたものである。その銛には、ロープが付いていたが、そのロープによって白鯨の体に幾重にも縛り付けられていたのは、フェデラーの半ば千切れかかった体であった。
彼は、膨れ上がった目でエイハブを見ていた。そして、波で上下するその腕は、まるでエイハブを招いているかのようであった。
エイハブは手にした銛を落とした。
「そうか、貴様、また現れおったな。あくまでわしとの約束を守って地獄への供をしようというのか。よしよし、待っておれ、わしももうすぐお前の所へ行こう」
彼は、落ちた銛を拾い上げ、漕ぎ手たちに怒鳴った。
「白鯨めはどこへ行った?」
他の二隻の舟は、破損したためそれ以上鯨を追うことができず、本船に戻っていた。今や白鯨に立ち向かうのは、このエイハブの舟だけであった。
















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白鯨#23


第28章 追跡・第二日


翌日、白鯨を再び発見するまでのエイハブの焦燥は、いかばかりのものだっただろう。もしかして、このまま白鯨を見失い、この一年の労苦が無駄になるとしたら?
しかし、神への、あるいは悪魔への祈りが通じたのか、白鯨はやがて我々の前に再びその純白の姿を現した。

今や、エイハブの執念を我が物としているピークォド号の乗組員たちは皆、歓声を上げた。
一マイルの彼方に姿を現した白鯨は、まるでその姿を我々にもっとよく見せてやろうとでもいうかのように、雄大な跳躍をしてみせた。あの巨体が、完全に海上十フィート以上の高さに離れ、その全身が見えたのである。
「よしよし、わしをからかっておるな。だが、貴様の悪ふざけもこれまでだ。今日こそは、貴様がこの世とおさらばする日だぞ」
忌々しげに、エイハブは呟いた。
エイハブの命令で、予備の短艇も含め、三つの短艇が下ろされた。
だが、ピークォド号の姿を認めた白鯨は、何と、自分からその三つの短艇に向かって進んできたのである。
三つの短艇からは、銛と槍が雨あられと投げられた。そして、その中の数本は、確かに白鯨の体に刺さった。しかし、モゥビィ・ディックは、何の痛痒も感じないかのように、自らに刺さった銛のロープを引っ張って、逆に三つの短艇を引きずり回したのである。
エイハブは、三つの小舟が衝突する危険を感じ、もつれにもつれたロープを咄嗟にナイフで切って難を逃れた。だが、残る二つの舟は、白鯨の巧みな動きによって、ぶつけ合わされたのであった。
スタッブもフラスクも、舟を木っ端みじんにされて、海に落ちた。
海に潜り込んだ白鯨は、海面に上昇しながら、残るエイハブの舟を突き上げ、これも転覆させた。
かくして、二度目の戦いも人間の完全な敗北に終わり、本船は海に漂う水夫たちを救助した。
本船に救い上げられたエイハブは、船の乗員全員を呼び集め、いない者がないかどうか確かめた。
「フェデラーがいません」
スターバックの言葉に、エイハブはうろたえた表情になった。
「何を? 馬鹿な、そんなはずはない。よく探してみろ!」
エイハブの命令で、船じゅうが捜索されたが、やはりフェデラーの姿は見当たらなかった。
「ねえ、船長。あんたの舟の索に絡まっちまって、奴が吹っ飛んでいくのを、俺、見たような気がするんですがね」
スタッブの言葉に、老人は黙り込んだ。
「奴が死んだだと? そうか、わしの地獄行きの水先案内をしようというのだな? よかろう、だが、少し待ってろ、お前に会う前に、わしは白鯨を倒さねばならんからな……」
エイハブの言葉に、スターバックが青ざめた顔で進み出た。
「船長、もうこんな事はやめましょう。これは神意に背いているのです。二日追って、二度とも舟を粉々に打ち砕かれた。あなたは、これ以上何を望むのです? この船の全員を破滅させるまで、この復讐劇をやめないのですか?」
「スターバックよ、他の事なら何でも君の言うことを聞こう。だが、白鯨に関する限り、わしに何を言っても無駄だ。このわしの心はな、あいつに痛めつけられれば痛めつけられるほど、憎しみで燃え上がるのだ。もしも、わしをやめさせようと思うなら、わしを殺すしかない。……だが、あと一日、あと一日わしに貸してくれ。あいつも決して無傷ではない。もう一太刀くれれば、あいつを倒せる、わしにはそう思えるのだ」
スターバックは口をつぐんだ。
その夜、水夫たちはほとんで徹夜で予備短艇の艤装をし、道具を整えた。
そして、エイハブは白鯨の姿を見つけんものと、昇降口に立って、夜明けの光が射すのを待っていた。







































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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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