第29章(後半) 承前
モゥビィ・ディックは、やがて海上に姿を現した。しかも、そのままじっと浮かんでいるだけである。その姿は、何かを待ち受けているかのように、不気味であった。
エイハブは、船の操縦をマレー人の一人に任せ、自ら舳先に立って銛を構えた。この最後の一投に運命のすべてを賭ける決意である。
やがて、モゥビィ・ディックの側面に回り込んだ舟から、渾身の力を籠めて、エイハブは銛を投じた。銛は、見事に白鯨の目の下に刺さり、白鯨は苦悶の様子で体を揺さぶった。そして、自分にこの苦痛を与えた敵にその体をぶつけ、破壊を試みた。
大きな波で舟は大きく傾き、乗組員のうち三人が海に投げ出された。
白鯨は走り出した。幸い転覆を免れた舟の中でエイハブは「ロープを切られるな!」と叫んだがその瞬間に、ロープは白鯨の巨大な推進力でぷつりと切れてしまった。
「漕げ、漕げ、まだ追いつけるぞ!」
エイハブは半分絶望しながら、気が狂ったように叫んだが、白鯨の進む方向にピークォド号があるのを見て、その意図を察知した。「船だ。あいつはピークォド号を壊そうとしておるのだ! 漕げ、漕げ、本船を救うのだ!」
エイハブの叫びは本船には届かなかっただろうが、ずっとこの闘争を見守っていた本船の連中は、白鯨の矛先が自分たちに向けられたのを知って驚愕したに違いない。
私は、マストに上っているクィークェグとタシュテゴの顔が驚きの色を浮かべるのが見えた。そして舷側にいるスターバックとスタッブの口が動いて何かわめいているのも見えた。もはや、私たちは、この悲劇を見守ることしかできなかったのだ。
白鯨、この神の化身かとも思われる生き物は、小賢しい人間の作り上げた建造物に、激しい勢いでぶつかっていった。ピークォド号は、その衝撃で大きく傾き、白鯨の頭部のぶつかった所には、巨大な穴が開いていた。
「おお、わしの命、わしのすべて、わしの船!」
エイハブはうめいた。
白鯨は、ゆっくり沈んでいくピークォド号の側で向きを変え、大きく回り込んでしばらく走った後静止したが、それは私たちのボートからほんの数十フィートの所だった。
彼はそこに静かに待っている。
「そうか、このわしに最後の機会を与えようというのか。獣らしからぬ騎士道精神だ。だが、それがお前の命取りだ。さあ、獣め、人間の力を思い知れ!」
エイハブは銛を投じた。
銛の突き立った白鯨は、一度体を持ち上げ潜水を始めたが、その刹那、いかなる偶然によるものか、ロープは舳先に立つエイハブの首に巻き付き、海底深く彼を連れ去った。
索を入れる容器からロープの最後の端の輪が飛び出て、これも波間に消えていったが、それを押さえようとする者はいなかった。この時には、次の瞬間に我々を待ち受けている運命が明らかだったからである。
ゆっくりと沈んでいくピークォド号は、今や完全に船体が海中に没し、ただマストの先だけが見えていた。そして、そのマストの周りには巨大な渦ができ、我々のボートを飲み込もうとしていた。
やがて、その渦は、渦の原因であるピークォド号も、その周辺の物もすべて飲み込み、深淵の中へと連れ去っていった。
渦が消えた後の海面には、白昼の光の中に、永遠の沈黙が訪れたのである。
第30章 海の孤児
こうしてすべては終わった。
渦の中に飲み込まれた私は、その渦の中心から現れた不思議な物体に必死で取りすがり、その浮力で海面に浮き上がることができた。それは、クィークェグが自分の死体を納めるために作らせた棺桶であった。こうして私は、死の象徴たる物体によって生の世界へと引き戻されたのである。
嘆きと絶望の中で、まる一昼夜、私はかつてのピップのように海を漂った。
そして、二日目に一隻の船が私を拾い上げた。それは近海をさまよっていたレイチェル号である。彼女は失われた自分の子の代わりに他家の孤児を拾ったのであった。
(完)
モゥビィ・ディックは、やがて海上に姿を現した。しかも、そのままじっと浮かんでいるだけである。その姿は、何かを待ち受けているかのように、不気味であった。
エイハブは、船の操縦をマレー人の一人に任せ、自ら舳先に立って銛を構えた。この最後の一投に運命のすべてを賭ける決意である。
やがて、モゥビィ・ディックの側面に回り込んだ舟から、渾身の力を籠めて、エイハブは銛を投じた。銛は、見事に白鯨の目の下に刺さり、白鯨は苦悶の様子で体を揺さぶった。そして、自分にこの苦痛を与えた敵にその体をぶつけ、破壊を試みた。
大きな波で舟は大きく傾き、乗組員のうち三人が海に投げ出された。
白鯨は走り出した。幸い転覆を免れた舟の中でエイハブは「ロープを切られるな!」と叫んだがその瞬間に、ロープは白鯨の巨大な推進力でぷつりと切れてしまった。
「漕げ、漕げ、まだ追いつけるぞ!」
エイハブは半分絶望しながら、気が狂ったように叫んだが、白鯨の進む方向にピークォド号があるのを見て、その意図を察知した。「船だ。あいつはピークォド号を壊そうとしておるのだ! 漕げ、漕げ、本船を救うのだ!」
エイハブの叫びは本船には届かなかっただろうが、ずっとこの闘争を見守っていた本船の連中は、白鯨の矛先が自分たちに向けられたのを知って驚愕したに違いない。
私は、マストに上っているクィークェグとタシュテゴの顔が驚きの色を浮かべるのが見えた。そして舷側にいるスターバックとスタッブの口が動いて何かわめいているのも見えた。もはや、私たちは、この悲劇を見守ることしかできなかったのだ。
白鯨、この神の化身かとも思われる生き物は、小賢しい人間の作り上げた建造物に、激しい勢いでぶつかっていった。ピークォド号は、その衝撃で大きく傾き、白鯨の頭部のぶつかった所には、巨大な穴が開いていた。
「おお、わしの命、わしのすべて、わしの船!」
エイハブはうめいた。
白鯨は、ゆっくり沈んでいくピークォド号の側で向きを変え、大きく回り込んでしばらく走った後静止したが、それは私たちのボートからほんの数十フィートの所だった。
彼はそこに静かに待っている。
「そうか、このわしに最後の機会を与えようというのか。獣らしからぬ騎士道精神だ。だが、それがお前の命取りだ。さあ、獣め、人間の力を思い知れ!」
エイハブは銛を投じた。
銛の突き立った白鯨は、一度体を持ち上げ潜水を始めたが、その刹那、いかなる偶然によるものか、ロープは舳先に立つエイハブの首に巻き付き、海底深く彼を連れ去った。
索を入れる容器からロープの最後の端の輪が飛び出て、これも波間に消えていったが、それを押さえようとする者はいなかった。この時には、次の瞬間に我々を待ち受けている運命が明らかだったからである。
ゆっくりと沈んでいくピークォド号は、今や完全に船体が海中に没し、ただマストの先だけが見えていた。そして、そのマストの周りには巨大な渦ができ、我々のボートを飲み込もうとしていた。
やがて、その渦は、渦の原因であるピークォド号も、その周辺の物もすべて飲み込み、深淵の中へと連れ去っていった。
渦が消えた後の海面には、白昼の光の中に、永遠の沈黙が訪れたのである。
第30章 海の孤児
こうしてすべては終わった。
渦の中に飲み込まれた私は、その渦の中心から現れた不思議な物体に必死で取りすがり、その浮力で海面に浮き上がることができた。それは、クィークェグが自分の死体を納めるために作らせた棺桶であった。こうして私は、死の象徴たる物体によって生の世界へと引き戻されたのである。
嘆きと絶望の中で、まる一昼夜、私はかつてのピップのように海を漂った。
そして、二日目に一隻の船が私を拾い上げた。それは近海をさまよっていたレイチェル号である。彼女は失われた自分の子の代わりに他家の孤児を拾ったのであった。
(完)
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