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タイガー! タイガー! (2)






 


第三章  殺戮


 


「このおじちゃん、裸だ」


ダイヤは、いや、今はダンという名になっているが、まだ8歳の子供らしく、相手の頭が虎であることよりも、相手がまっぱだかであることにまず興味が向いたらしく、そう言った。


ソフィ、つまりサファイヤは、顔を赤くして横を向いた。さすがに大人の男の裸を正視する勇気は無いし、品高い育ちの彼女にはそういうはしたなさも無い。


「うう……」


頭が虎の男はそう唸った。


「お願いです。どうか静かにしてください。ダン、ソフィ、あなたたちも声を立ててはいけません」


 


しかし、森や林の無い野原の街道を行く三人連れの姿は、獲物を追う追手たちの視界にすでに入っていた。


騎馬軍勢は馬の足音の地響きを立てながら街道から駆け降り、奇妙な遭遇をした4人の所に殺到し、その前に馬を止めた。その数は20名前後だろうか。


 


「サントネージュ国王女のサファイアとダイヤ王子だな。もはや逃れるところは無いぞ。大人しく捕まるがよい。そうすれば、死罪にだけはならずに済むだろう」


盤広で髭面の、下品な赤ら顔をした隊長らしい男が唇をゆがめるような笑いを浮かべて言った。言いながら、相手の二人の女(一人はまだ子供だが)を値踏みするような好色な目で見ている。(ほほう、これは上物だ)と言う無言の声がその表情に出ている。


「誰が大人しくつかまるものか」


フォックスは剣を抜いた。


「愚かな。こちらは20人もの軍勢だぞ。お前一人で何ができる。それともそこの妙な虎の仮面をつけた裸の男が加勢をするとでもいうのか。その男は剣さえも持っていないではないか」


「私一人でも十分だ。かなわぬまでも、お前たちのうち何人かは地獄の道連れにしてやる。さあ、かかってこい!」


フォックスは剣を構えようとした。その瞬間、あっと言う間にその剣が手からすべり抜けていた。


「何をする!」


彼女の手から剣を奪ったのは虎頭の男だった。


「お前はユラリア国の廻し物だったのか!」


虎頭は彼女の前を通って敵勢に向かって進み出たが、その時に彼女を振り返って見た。


虎が笑うということがあるなら、その顔は確かに笑い顔だった。


(虎が笑うところを初めて見た)フォックスは変に呑気な気分でそう考えた。


 


太陽はいっそう斜めに傾いて、影が深くなっている。


その夕方の光の中で全裸の大男が剣を持って立っている姿は異様なものだったが、しかもその頭が虎の頭であるのだから、世にこれほど奇妙な見物はない。


その大男のたくましい裸体は、油を注いだように夕日に輝いて、まるで古代の神々の姿のようだが、その頭は虎そのものである。そして、それがまた神話的な壮麗さを彼の姿に与えていた。


男はゆったりと剣を下げて、何の闘気も見せずにのっそりと立っているだけだが、敵の兵士たちはその姿に威圧されていた。


(美しい)


フォックスは、思わずその姿に見とれていた。


ソフィとダンは互いの手を握って抱きあい、固唾を呑んで、成り行きを見守った。


相手が抵抗する気だと見て取って、追手たちは馬から下りて剣を抜いた。少なくとも、体格だけで言えば、この虎頭の男は容易ならぬ力がありそうだ。


 


20人の人数を前にしても、この虎頭の男には何の恐怖も無いようだった。まあ、虎の顔では恐怖の表わしようもないだろうが、少なくとも、その動きは落ち着き払ったものだった。


「ええーいっ!」


敵勢の一人が気合を掛けながら斬ってかかった。その剣先を無造作にかわして、虎頭男の剣がひらめいた。兵士の頭が斬り飛ばされて宙に舞う。


続いて攻めかかった兵士も同様に頭を斬り飛ばされる。そして三人目も。頭を斬り飛ばすことにこだわるのは、相手兵士たちの鎧で剣を痛めないためだろうか。それにしても、一瞬のうちに頭だけを狙い、それを成功させるのは容易ではないだろう。


追手の軍勢は、相手の恐るべき剣の技量に恐怖心を感じ始めていた。


「ええい、同時にかかれ!」


隊長の下知に従って、兵士たちの中の3名が頷いてタイミングを計り、同時に斬りかかる。しかし、その一番右側の兵士の横を駆け抜けながら、虎頭男の剣はその兵士の頭を斬り飛ばし、次の瞬間には残る二人も、一人は胴を水平に斬られ、もう一人は肩から袈裟掛けに斬り下ろされて地面に倒れた。


「次、行け!」


次の3人も同じようなものであった。


これほど巨大な体格をしていながら、その動きはまさに虎のように柔軟で、虎のように速かった。速さのレベルが三段階ほど違うのである。これだけの人数を倒しながら、息一つ切らしてもいない。


「ええい、弓だ、弓で射ろ!」


兵士たちの背後に控えていた数名が弓を構えて引き絞ろうとした。


その瞬間、風が巻き起こった。いや、虎頭男が疾風のように兵士の群れに向って殺到したのである。


大殺戮であった。しかも、その殺戮はほぼ一瞬であった。見ていたフォックスの目には、ただ黒い嵐のような物が兵士たちの間を吹きぬけたように見えた。


数秒後、地上には20個の死体が転がっていた。


 


夕日の中に血刀を下げて静かに立つ虎頭の全裸の男の姿は恐ろしく、また、奇妙な美しさがあった。フォックスは恍惚となってこの殺戮の後の静謐な絵図を眺めていた。


 


 


第四章  旅の道連れ


 


「有難うございました。あなたがいなかったら、我々はきっと捕らえられていたでしょう」


そう礼を言いながら、フォックスは目のやり場に困っていた。相手の股間にどうしても目が行ってしまうのである。


「うう…」


虎頭男は、言葉を絞り出そうとしているようだ。


唖なのだろうか、とフォックスは考えた。


「どうも有難うございました」


思いがけずソフィがそう言ったので、フォックスは驚いた。この王女と身近に話すようになったのは二日前からだが、こういう高貴なお方たちは他人の奉仕に礼など言わないものだという思い込みが彼女にはあったからである。


「有難う。おじちゃん」


ダンも姉を見習って言った。


「その頭、お面?」


子供らしい遠慮無さでダンがそう聞く。


「うう……」


「お面なら、外せばいいのに。不便でしょう?」


男は悲しげに首を横に振った。


「外せないの?」


今度は頷く。


「そう、可哀そうだね。でも、すごくカッコいいよ、その頭」


ダンの言葉に、男の虎の顔にまた笑顔のようなかすかな表情が浮かんだ。


「とにかく、今はここをできるだけ早く離れましょう。次の追手が来るかもしれませんから」


男はあたりに転がった兵士の死体の間を歩いて、その一つの服を脱がし、それを着た。中に大柄な兵士がいたらしく、それが着られたようだ。フォックスに「借りた」剣を返し、地面に転がっている剣の一つを拾い、剣帯についた鞘に抜き身を差し込む。


「あっ、そうだ」


フォックスは、死体の懐を探し、財布を集めた。


「近衛隊隊員のフォックスが泥棒をするほど落ちぶれたと笑われそうだけど、今は変にプライドを持っていられる場合じゃないわ」


一番大きい財布に、かき集めた金を全部まとめて入れる。


「あなたも私たちと一緒に来たらどうかしら。ここにいると、さすがに他の兵士たちに追われることになると思うから」


虎頭の男は小首を傾げて少し考えたが、うなずいた。


「わあい、虎頭のおじちゃんも一緒だ。嬉しいな。こんな強い騎士は王宮にもいなかったよ」


「でも、いいんでしょうか。私たちは追われる身だし、かえってこの方にはご迷惑では?」


「さあ、それは本人の判断だけど、私たちにとっては、この人が一緒なら、こんなに心強いことは無いわね。少なくとも、私の知っているどの騎士にも、これほどの強さを持った人はいなかったことは確かね」


「ご一緒してもらえれば、こんなに嬉しいことは無いんですが」


ソフィの言葉に、虎頭の男は軽く頷いた。その顔は、なぜか笑顔に見える。


フォックスは虎頭の男に手伝ってもらい、兵士たちの死体を川に投げ込んだ。少なくとも、陸上にあるよりは発見に時間がかかるだろう。このあたりがフォックスのフォックスたる所以である。


追手の兵士たちの乗っていた馬が何匹か、近くで草を食んでいたので、それを捕まえて乗ることにする。


 


日はほとんど地平線に沈みかかっていた。


持っていた水筒代わりの革袋に小川から水を汲み、所持していたパンとチーズを食べると、4人は日の暮れた街道を馬に乗って出発した。馬は二頭で、虎頭の男の前にダンが乗り、フォックスの前にはソフィが乗る。馬を並べて歩ませる。


「ねえ、おじちゃんの名前は何と言うの?」


「うう……」


「だめよ、ダイヤ、いえ、ダン、おじちゃんはお口が不自由なの」


「うう……グ、グエン、……」


「あら? 今、グエンって言った? 言葉は話せるようね。少し口は回らないようだけど、唖というわけではないみたいね。では、あなたの名前はグエンということでいいかしら」


フォックスの言葉に虎頭男は頷いた。どこからそのグエンという名前が心に現れたのか、いぶかしみながら。


 


「疲れたア……ぼく、もうお尻が痛くて乗っていられないよ」


やがてダンが音を上げた。


「だめよ、ダン、もう少し頑張りなさい。できるだけ遠くまで行かないと」


「いえ、ソフィ、私の考えでは、このグエンがいる限り、多少の追手がまた現われても大丈夫だという気がします。今、頑張りすぎると、これからの旅がつらくなりますから、今夜はこの近くで泊まりましょう」


ちょうど、数百マートル先に宿場町の明かりらしいものがあるのを見つけ、フォックスは言った。


「あ、グエンさん、私の名前はフローラということにしておいてください。ソフィとダンもそう呼ぶのよ」


「フローラだって。変なの。まるで女の子の名前みたいだ」


「私は女ですよ。これでも子供の頃は可愛い娘だと言われていたんですから」


「嘘だい。こんなに真っ黒に日焼けしているくせに」


「うるさいわね。私はあなたのお姉さん、ということになっているのだから、うるさく言うとお尻をぶちますよ」


「ダン、言うことを聞くの」


「はあい」


 




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タイガー! タイガー! (1)

別ブログに載せてあった未完の作品だが、今読むとわりと面白いので、ここにも載せておく。一番私が「グイン・サーガ」の中で好きなのが、「グインのふりをするグイン」の話なので、そこに相当する部分を書いたら、興味が薄れたのである。たぶん、続きを書くことは無いと思うが、二次創作のわりには設定は悪くないと思うので、興味を持った人がいたら、誰でもこの設定を使用していい。

(以下自己引用)17章くらいまで書いたと思う。掲載は1章だけだったり2章一緒だったりする。





「タイガー! タイガー!」  *『グイン・サーガ』の主題による変奏。


 


初めに


 


この小説は、栗本薫の大作『グイン・サーガ』のファンではあるが、その冗長な部分やセンチメンタルな部分、あるいは作者の一部の作中人物への偏愛ぶりにはいささか批判的な筆者が、『グイン・サーガ』の発想と一部のコンセプトを利用して作った作品である。一部の作中人物の変更には悪意も少々あるが、それ以外にはべつに原作をからかうような意図はないからパロディではなく、ただの二次創作である。


作中のさまざまな部分で原作に負う部分は多いが、原作では重視されているSF的部分はほとんどカットされ、魔術もその内容を変えてある。また、「新しい世界の創造」という点も、『グイン・サーガ』で達成されているので、それも重視していない。ただ一つ、「未知の場所から来た、獣の頭を持った主人公」というコンセプトと、一部登場人物の類似性だけが、原作と重なる部分である。原作では一つ一つの物産の名称まで特有の名前を与えているが、筆者はそんな面倒なことはしない。蜜柑は蜜柑でいいし、リンゴはリンゴでいい。馬も牛も猫もネズミも同様だ。いちいちトルク(鼠)、ガーガー(鴉)などと書く必要性は私には無い。「新世界の創造神」になる野望は無いからだ。


作品の設定は、この地球の中世初期、まあ西暦900年頃と思ってもらいたい。ただし、実際の歴史とはまったく無関係の騎士物語系統の異世界ファンタジーである。したがって、地名も国名も架空のものである。人物名などは英語系統の名前やらフランス語系統の名前、スペイン語系統の名前などが入り混じって、かなりいい加減だが、度量衡は現実を連想させる名称にしてある。たとえば10ピロと言えば、距離の10キロメートル、重さの10キログラムである。もちろん、中世にはメートル法は存在しないが、現代の人間に想像しやすくするための便宜である。金の単位も架空のもので、黄金100グラムが1マニ、その100分の1が1ミニで、1マニが庶民の1週間くらいの生活費になると思えばよい。作者自身がその設定を忘れなければの話だが。


言葉については、いくつかの国が出てはくるが、すべて共通の言葉が用いられ、ただその訛りや語彙の一部で時には人物の素性が分かるという程度である。人種の区別も無い。せいぜいが、北方の民族は金髪が多く、南方の民族は黒髪が多いという程度である。


作中人物の名前もいい加減で、宝石名を使ったため、サファイア姫などと『リボンの騎士』みたいな名前も出てくる。だが、それは後からソフィという名になるので、気にしないように。


 


 


第一章  覚醒


 


 


目覚めた時は真昼だった。頭上に高く太陽が輝き、彼をじりじりと焼いている。喉が渇く。体中に汗がにじむのが分かる。


彼は眼をすぼめて、太陽の光から眼を守った。自分の体がなぜこの地面に横たわっているのかわからない。しかし、体に異常は無さそうだ。


彼はゆっくりと体を起こしてみた。どこにも痛みは無い。ただ、喉の渇きは耐えがたい。


彼の横たわっていたのは柔らかく短い草の生えた地面である。


なぜ自分はここに寝ていたのだろう、と考えて、次の瞬間、「自分は誰だ」という問いが突然に心に生じ、彼は恐慌に陥った。


まったく自分についての記憶が無い。だが、言葉そのものの記憶が無いわけではない。空、地面、草、そして風、日光などといった言葉は、彼があたりを見回すにつれて次々に心に生まれる。季節……今はおそらく春の終わりか初夏だろう。暑いが、真夏の暑さではない。


 


だが、それにしても喉が渇いた。


彼は水を探す決心をして立ち上がった。それで、自分の背が高いことが分かった。かつての自分についての記憶は無いのに、自分の身長が他の「人間」にくらべて高いというかすかな記憶が蘇ったのである。


彼は裸だった。下帯さえもはいていない。激しい羞恥心が心に生まれたが、あきらめて歩き出す。自分の足や体を上から眺めた限りでは、彼は相当にたくましい体格の男であるようだ。しかも、すべてが見事な筋肉に包まれて、どこにも無駄な肉はない。股間を見て、彼はまた羞恥心を感じた。


裸であることを恥ずかしいと思うような文化の中に自分はいたのだという考えが生じる。


 


少し傾斜した地面を下に下にと降りていくと、小さな木の茂みと小川のせせらぎがあった。


彼はほっと安心して、その川に身をかがめ、両手で水をすくって飲んだ。


何という美味さだろう。喉を下りて行く清涼な水の爽快感。たちまちに癒えて行く喉の渇き。体全体に回復してくる気力と生命感。


彼は木陰を渡るそよ風に体を吹かれながら、生き返ったような感動を味わっていた。


もう喉の渇きは止まっていたが、水の美味さをもう一度味わうために彼は両手で水をすくった。その時、心に何かの違和感が起こった。先ほど、水を飲んだ時、なぜあんなに飲みづらかったのか。両手にすくった水に顔を近づける。その時、彼の眼は、自分の眼の下に突起した物がその水を覆い隠したのに気づいた。


(何だ、これは)


それが自分の顔の一部であることに気づいたのは、次の瞬間である。


彼はすくった水を捨てて、自分の顔をまさぐった。毛に覆われた皮膚。突起した口蓋部。


(何だ、これは!)


彼の心は悲鳴をあげた。


(これは人間の顔ではない。犬? それともほかの何かか?)


彼はあわてて水の淀みを探し、静かな水面に自分の顔を映した。


そこにあるのは、人間の顔ではなく、虎の顔だった。


彼は今度は声に出して恐怖の叫びをあげた。


 


 


第二章  逃走


 


フォックスと彼女は呼ばれていた。ある国での狐を意味する言葉だ。その国でもこの国でも、狐は狡猾な生き物だということにされている。


しかし、彼女はその自分の仇名が嫌いではなかった。それは彼女の剣士としての才能への称賛でもあったからだ。試合で彼女に敗れた相手は、相手が女だから油断したと一様に言った。そう言わない剣士も、彼女の試合ぶりは狡猾であり、男らしく堂々とした戦いではないと言った。そう言われても、彼女は平気である。女である自分が体格も体重もまるで違う相手に勝つには、相手の予測を外して勝つしかない。それが狡猾というなら、日常の剣の修行など、戦場での役には立たないだろう。


 


フォックスは今、危機にあった。


彼女が仕えていた国の国王が暗殺され、王妃の命令でその娘と息子を、姻戚関係のある別の国に送り届けるという使命を受けたのである。


その娘、つまり王女は10歳、息子、つまり王子は8歳の足手まといな年ごろだ。


王宮に敵兵が押し寄せる直前にフォックスは王女サファイアと王子ダイヤを連れて王宮を脱出した。


王宮を離れて数時間後、夕焼けの空を背景にして王宮に火と煙が上るのが見えた。王妃が自刃し、王宮に火をつけたのである。フォックスはある丘の上から、涙を眼ににじませながらそれを見たが、すぐに踵を返して王女と王子の所に戻り、声をかけた。


「これからあなたたちの叔母であるタイラス国の王妃のもとへ向かいます。これからしばらくは、あなたたちは、サントネージュ国の王女王子であることを他人に知られてはいけません。サファイア様はソフィ、ダイヤ様はダンです。いいですか」


恐怖を押し殺しながら、二人の子供は気丈にうなずいた。


 


それが二日前のことだった。幼い子供連れだから、どんなに急いでもそう早くは歩けない。王宮からはやっと20ピロほども離れただろうか。


日もかなり斜めに傾いてきている。


ある野原まで来た時、背後から近づく騎馬軍勢の足音が聞こえた。


あたりには林や森は無い。


フォックスは絶望を感じながら、子供たちの手を引いて近くの小さな茂みへ飛び込んだ。


何か柔らかいものを踏みつけたような気がしたが、気に留めている場合ではない。


「うっ……」


うめき声がした。自分の踏みつけたものが人間の体であることにフォックスは気づいた。


「あっ、済みません」


と言いながら相手を見てフォックスは「きゃっ!」と悲鳴をあげた。自分もこんな女らしい悲鳴をあげることができるんだ、と頭の隅で考えながら、彼女は相手を見つめた。


それは、虎の頭をした大男だった。


むっくりと体を起こして、彼女を見ている。


その黄色い眼ははっきりと虎の眼であり、その頭が仮面などではないことが彼女には分った。


「どうか、騒がないでください。悪い連中に追われて、姿を隠したところなのです」


相手の異様な姿に怯えながらも、フォックスはそう言った。今は、この相手の正体よりも、恐るべき追手から逃れることを考えるべきだ。


 


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「僕のベッドの上の何か」(後半)

家に入ると、家人たちが、少年が部屋に誰も入れようとしないと口々に言った。
「中に入るな」少年は言っているらしい。「誰にも僕の持っているものを取らせない」
階段を上って部屋に入り、私は彼が、私が最後に見たときとまったく同じ姿勢と位置で、白い顔をし、しかし頬は熱で紅潮して、ベッドの足元の方をじっと見ているのを見た。
私は彼の体温を測った。
「何度なの?」
「100度くらいだ」私は言った。それは102度4分だった。
「102度だよね」彼は言った。
「誰がそう言った?」
「お医者さん」
「君の体温は大丈夫だ」私は言った。「何も心配することはない」
「心配してないよ」彼は言った。「ただ、考えるのをやめられないんだ」
「考えないようにしなさい」私は言った。「気を楽にして」
「僕は気楽にしているよ」彼は言って、真っすぐ前を見た。彼は明らかに、彼自身のことで何か思いつめている。
「この薬を水で飲みなさい」
「これ、何か役に立つと思っている?」
「もちろん役に立つさ」
私は座って海賊の本を開き、読み続けようとしたが、彼が聞いていないことに気づいて読むのをやめた。
「僕はいつ死ぬんだと思う?」
「何だって?」
「あとどれくらい、僕は生きられると思う?」
「お前は死なないよ。いったいどうしたんだ?」
「死ぬよ。僕はあの医者が102度と言うのを聞いたんだ」
「人間は102度の熱では死なないよ。馬鹿馬鹿しい」
「死ぬって、僕は知ってるよ。フランスの学校にいた時、友だちが、人間は44度の熱が出ると死ぬって言っていたんだ。僕は今102度だ」

彼は一日中、死を待っていたのだ。朝の9時から今まで。



「可哀そうなシャッツ」私は言った。「可哀そうなことをした。それは、マイルとキロメーターのようなものなんだ。お前は死なないよ。温度の単位、つまり決め方が違うんだ。フランスの単位だと37度が普通の体温で、こちらだとそれは98度なんだ」
「それ、確かなの?」
「絶対に確かだ」私は言った。「それはマイルとキロメーターの違いと同じようなことなんだ。知ってるだろ? 車で70マイルの速さが何キロメーターになるか」
「ああ、そうなんだ」彼は言った。
ゆっくりと、彼がベッドの足元を見る視線は和らいでいった。彼を包んでいた緊張も緩んでいき、翌日にはとてもリラックスして、些細なことに簡単に泣いたりしたが、それにはもう何の重要性も無かった。







(追記)無様な掲載の仕方になったのは、途中で、強調のために色字を使ったところ、残りのすべてが色字になり、その変更ができず見苦しいので編集画面そのものを変えたからである。まあ、そのために、強調したかったところが自然と強調されたから良しとする。
9歳の少年が死を目の前にするのは、大人と同じ、あるいはそれ以上の巨大な恐怖だろう。その原因が、摂氏と華氏の違いという、それだけだとコントのような話だが、死を目前にする恐怖は、たとえそれが誤解に基づいていても、本物の恐怖である。
ちなみに、摂氏と華氏の変換式を、この前アニメの「ピーナッツ(チャーリー・ブラウンとスヌーピー)」の中で見たが、あちら(米国)では小学低学年で習うようである。それはこんなものだ。

F=32+9/5C

たとえば摂氏40度だと、華氏104度になるわけである。(9/5は5分の9の意味)

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「僕のベッドの上の何か」(前半)

別ブログに載せてあるものだが、ヘミングウェイの短編小説「A DAY'S WAIT」の翻訳をこちらにも載せておく。ただし、いきなりブログの編集画面で書いた記事で、操作ミスのために途中から文字の形が変えられなくなったので、最後の部分のフォントが違うという、変なものになっている。題は、あちらのブログでは「目の前の死」としたが、もちろん、原題とは違う。ここでは「僕のベッドの上の何か」とでもしておく。
一回だけで掲載できなければ、二回に分けて載せる。



「僕のベッドの上の何か」


彼は私たちがまだベッドの中にいた時に部屋に入ってきて窓を閉めたが、彼が病気であるのに私は気付いた。彼は震えていて、顔が白く、まるで動くことが苦痛であるかのようにゆっくりと歩いた。
「どうしたんだ、シャッツ」
「頭が痛い」
「ベッドに戻ったほうがいい」
「いいよ。大丈夫だから」
「ベッドに行きなさい。服を着てから、見てあげる」
しかし、私が階下に下りていくと、彼は服を着て暖炉の傍に座り、見るからに病気でみじめな9歳の子供の姿だった。彼の額に手をやると、熱を持っていた。
「上に行ってベッドに寝なさい」私は言った。「お前は病気なんだ」
「大丈夫だよ」彼は言った。
医者が来て、彼の熱を測った。
「どうですか?」私は尋ねた。
「102度だね」
医者は、服用上の注意書き付きの、三色のカプセルに入った三種類の薬を置いて行った。ひとつは熱を下げるもので、ひとつは下剤、三つめは体が酸性になるのを抑えるためのものらしい。インフルエンザの細菌は体内が酸性の状態でだけ存在すると医者は説明していた。彼はインフルエンザについては何でも知っていて、熱が104度にならないかぎり、何も心配はいらないと言った。息子のインフルエンザはごく普通のもので、肺炎にでもならない限り、何の危険もないと。
部屋に戻り、私は子供の体温をメモし、数種のカプセルを与える時刻を書いた。
「何か読んでほしいかい?」
「父さんが読みたいなら、読んで」少年は言った。彼の顔はとても白く、眼の下には隈ができていた。彼はベッドに横たわり、自分の置かれた状況から遊離しているように見えた。
私はハワード・パイルの「海賊の本」を読んで聞かせたが、子供が聞いていないのに気付いた。
「気分はどうだい、シャッツ」私は尋ねた。
「前と同じだよ」彼は言った。
私はベッドの足元に座り、次のカプセルを与えるまでの時間つぶしに本を読み続けた。子供はそのまま眠りに就くのが自然なはずだが、私が本から目を上げると、彼はベッドの足元の方を見ていて、とても奇妙な表情をしていた。
「どうして寝ないんだい? お薬の時間になったら起こすから」
「起きていたい」
しばらくして、彼は言った。「パパは無理にここにいなくてもいいよ」
「無理していないよ」
「ううん、お願い。パパに面倒かけたくないんだ」
私は、彼が少し頭がぼんやりしている状態なのだと思い、11時に処方通りのカプセルを彼に飲ませて、少しの間のつもりでそこを離れた。


良く晴れた寒い日で、地上はみぞれに覆われていたが、そのみぞれは既に凍っていたので、葉の落ちた木々や茂みはカットされたブラシのように見え、雑草や裸の地面は氷の中に消えていた。私はアイリッシュセッター種の若犬を連れ、道路や凍った溝沿いに軽い散歩に行くつもりだったが、ガラスのような地表では立っているのも歩くのも困難で、赤い毛色の犬は足を滑らせてつるつる滑っていき、私は二度もしたたかに転び、一度は、手にしていた銃を取り落として、それが氷の上をずいぶん遠くまで滑っていった。
私たちは、ブラシ状の木々の下の粘土の土手にいたつぐみを驚かせ、飛び立ったそれらのうちの2羽が土手の上を飛び去ろうとした間際に私は銃で撃ち落とした。群れのうちの幾らかは木の枝に止まっていたが、多くはブラシの堆積の中に集まっていたので、氷で覆われたブラシの小丘の上でジャンプして彼らを飛び立たせる必要があった。氷のスプリングのようなブラシの中から不定期に飛び立つうずらを撃つのは難しく、私は2羽を撃ち落とし、5羽を撃ち損ね、家の近くでうずらの群れを見つけたこと、そしてまた別の日に見つけることができるうずらがたくさん残っていることを喜びながら帰途についた。









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「夏の終わり」(下)


「行けよ」彼の声は彼自身にも奇妙に響いた。彼は彼女を見た。彼女の唇の動くさま、彼女の頬骨の曲線、彼女の二つの眼、彼女の髪が額から耳に流れ、首筋にかかるさま。
「本気なの? そうよね。ああ、あなた何てやさしいの」彼女は言った。「あなたは私にはもったいないくらいいい人だわ」
「帰ってきたら、どんな具合だったか全部話してくれ」彼の声はとても奇妙に響いた。彼はそのことに気づかなかった。彼女は素早く彼を見た。彼は何かを考えこんでいた。
「あなた、私に行ってほしいと本当に思ってる?」彼女は真剣に聞いた。
「ああ」彼は真面目な調子で答えた。「すぐにな」彼の声は前とは変わっており、彼の唇は乾いていた。「今すぐに」彼は言った。
彼女は立ち上がり、そそくさと出て行った。彼女は彼を振り返らなかった。彼は彼女が行くのを見ていた。彼は、彼女に行けと言った時とはまったく見かけの違う人間になっていた。彼はテーブル席から立ち上がり、二枚の伝票を手にしてバーコーナーに向かった。
「僕は違う人間になったよ、ジェームズ」彼はバーテンに言った。「外側は同じだけど、中身が違うのが見えるかい」
「どういうことです?」ジェームスは言った。
「悪徳」日焼けした若者は言った。「悪徳というのは奇妙なものだ、ジェームズ」彼はドアの外を見やった。彼は彼女が通りを歩み去っていくのを見た。カウンターの向こうの鏡に映る自分の顔が、自分のまったく知らない別の男であるのを彼は見た。カウンター席にいた二人の客は彼に席を譲るために立ち上った。
「まあ、そこへおかけになったらどうです?」ジェームスは言った。
二人の客がさらに少し横に移動したので、彼は座りやすくなった。若者はカウンターの後ろの鏡に映る自分の顔を眺めた。「僕は、自分が違う人間になったと言ったんだよ、ジェームズ」彼は言った。鏡の中の顔は、その言葉が真実であることを示していた。
「いいお顔をしてます」ジェームスは言った。「とてもいい夏をお過ごしになったようですね」  

   

(了)

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「夏の終わり」(中)

「証明しろなんてこれまで言ったことないじゃない。そんなの、優しくないわ」
「君は面白い子だね」
「あなたは違うわ。あなたは立派な人で、私の心を粉々にし、あなたから離れてしまいたくさせる」
「ぜひ、そうすべきだな。当然だ」
「ええ」彼女は言った。「そうすべきね。あなたの言う通り」

彼は何も言わなかった。彼女は彼を見て、また相手を求めて腕を差し出した。バーテンはバーの中のずっと離れた隅にいた。彼の顔は白く、ジャケットも白かった。彼はこの二人を知っていて、若いきれいなカップルだと思っていた。そして、そうした若いきれいなカップルが別れ、新たな、さほどきれいでもないカップルが誕生するのを何度も見てきた。彼はこのカップルのことは考えておらず、ある競走馬のことを考えていた。もう半時間も、彼は前の通りを横切って、その馬がレースに勝ったかどうか見に行きたいと思っていた。

「私に優しくして、あそこに行かせてくれることはできないの?」
「君は、俺がどうするつもりだと思う?」

二人連れの客がドアから入ってきて、バーの方に行った。
「いらっしゃい」バーテンはオーダーを取った。

「すべてが分かっても、あなたは私を許さないの?」少女は尋ねた。
「いやだね」
「あなたと私のこれまでのすべての事も、お互いの理解に何も役立たないの?」
「『売淫は恐るべき容貌をした醜悪な怪物である』」若い男は苦い口調で言った。「『それは必要に応じて何者かに形を変えるが、目には見えない。そしてその何者かを、何者かを、我々は抱擁する』」彼はその後の言葉を思い出せない。「引用できないや」
「売淫なんて言わないで」彼女は言った。「不潔な言葉よ」
「売春」彼は言った。

「ジェームズ」客の一人がバーテンに言った。
「とても元気そうにみえるね」
「あなたもとてもお元気そうです」バーテンは言った。
「古い顔なじみのジェームズ」もう一人の客が言った。「あなた太ったわね」
「それはヤバイですね」バーテンは言った。「なんで脂肪がついたやら」
「ブランデーのこと、無視しないでくれよ」(訳者注:ここは意味不明)最初の客が言った。
「はい」バーテンは言った。「大丈夫ですよ」
バーの二人はテーブルの二人を見やって、再びバーテンに視線を戻した。バーテンに向かう姿勢の方が心地よかった。

「そんな風な言葉を使わないほうが私は好きだわ」少女が言った。「そんな言葉を使う必要など無いじゃない」
「君は、それをどんな言葉で言ってほしいんだ?」
「言う必要など無いわ。どんな名前も付ける必要など無いわ」
「さっきのあれが、そいつの名前さ」
「いいえ」彼女は言った。「私たちはいろんな関わりがある。あなたも知っているでしょ。自分でもたくさんあるでしょ」
「そのことは繰り返して言う必要は無いよ」
「あなたに説明するために言ってるの」
「分かった」彼は言った。「分かった」
「あなたの考えているのは全部間違い。私には分かる。全部間違い。でも、私は戻ってくるから。戻ってくると言ったでしょ。すぐに戻るから」
「いや、戻らないね」
「戻るわ」
「いや、戻らない。俺のところにはな」
「後で分かるわ」
「そうさ」彼は言った。「それが最悪なところだ。君は思う通りに行動するだろう」
「もちろんよ」
「それなら、行きな」
「本当?」彼女はその言葉を信じられなかったが、彼女の声は幸福そうだった。


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「夏の終わり」(上)

別ブログに書いた翻訳だが、書くのに使った2日の時間がもったいないので、ここにも載せておく。翻訳とは言っても、分からない言葉や意味の取りにくい文章は適当に訳しているので、いわゆる「超訳」であり、むしろ「二次創作」に近い。
作品はヘミングウェイの「THE SEA CHANGE」という短編で、リラダンの『残酷物語』の現代版という趣の、残酷さと詩情がミックスしたような作品である。あるいはケストナーの何とか言う大人向けの小説にも状況が少し似ている。まあ、恋人が「枕営業」をした(する)ことで絶望する若い男の話だ。と私は思っているが、まるで勘違いかもしれない。辞書などロクに引かないで訳したので、解釈自体間違っている可能性は大だ。だから「二次創作」と思ってくれればいい。短編だが容量の問題があるので念のために3回に分けて掲載する。題名も変更して「夏の終わり」とする。



   「夏の終わり」


「分かったよ」
若者が言った。「それでどうだい」
「いやよ」少女が言った。「できないわ」
「やる気が無いってことだろ」
「できないって言ったの」少女は言った。「そう言ったじゃない」
「そりゃあ、やる気が無いって意味だろ」
「いいわ」少女は言った。「何とでも好きなように取ればいいわ」
「そういう問題じゃない。俺はそうしてほしいんだ」
「しつこいわよ」少女は言った。

朝の早い時間で、カフェの中にはバーテンと、隅のテーブルで向かい合っている若い二人以外には人がいなかった。今は夏の終わりで、その二人は日に焼けており、パリの街では場違いに見えた。少女はツィードのスーツを着て、肌はなめらかな金褐色をし、そのブロンドの髪は短くカットされ、額の周りを美しく飾っていた。若者は少女を見た。

「あの女、殺してやる」彼は言った。
「お願い、やめて」少女は言った。彼女の腕はほっそりとし、日に焼けて美しかった。彼はその腕を見た。
「やってやる。神に誓ってな」
「あなたが不幸になるだけよ」
「ほかにやりようがあるか?」
「何も思いつかないけど、本気なの?」
「言っただろ」
「だめ、本当に、だめよ」
「自分でも分からないんだ。どうすればいいのか」彼は言った。少女は彼を見て、手を伸ばした。「可哀そうなフィル」彼女は言った。彼は彼女の腕を見たが、その腕に触れようとはしなかった。

「慰めてくれなくてもいいよ」彼は言った。
「御免なさい、って言っても無駄かしら」
「無駄だね」
「あの事が、どういうことなのか言っても?」
「聞きたくないね」
「あなたをとっても愛しているの」
「そうだな。君があそこに行くことでそれが証明されるさ」
「御免なさい」彼女は言った。「どうしても理解してもらえないのね」
「理解しているさ。理解しているのが問題なんだ」
「そう」彼女は言った。「もちろん、あなたには気分のいい事じゃないわね」
「確実にね」彼は、彼女を直視して言った。「これから先ずっと、俺は理解しているさ。昼も夜もずっとな。特に夜には一晩中考えるだろうよ。俺は理解しているよ。その点に関しては君の心配は要らないさ」
「御免なさい」彼女は言った。
「その相手がもし男ならーー」
「言わないで。男のはずが無いでしょ。私を信用しないの?」
「面白いな」彼は言った。「君を信用する? ほんっとうに面白い」
「御免なさい」彼女は言った。「私の言えることは全部言ったわ。でも、私たちが信頼し合っていたら、そうじゃないふりをするのは無意味よ」
「いや」彼は言った。「たぶん、信頼など無いと思うよ」
「あなたが私を望むなら、私は戻ってくるわ」
「いや、そうしなくていい」
それから二人はしばらく黙り込んだ。
「あなたを愛していると言っても、信じてくれないでしょうね」少女は聞いた。
「どうしてそれを自分で証明しないんだ?」


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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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