第三章 殺戮
「このおじちゃん、裸だ」
ダイヤは、いや、今はダンという名になっているが、まだ8歳の子供らしく、相手の頭が虎であることよりも、相手がまっぱだかであることにまず興味が向いたらしく、そう言った。
ソフィ、つまりサファイヤは、顔を赤くして横を向いた。さすがに大人の男の裸を正視する勇気は無いし、品高い育ちの彼女にはそういうはしたなさも無い。
「うう……」
頭が虎の男はそう唸った。
「お願いです。どうか静かにしてください。ダン、ソフィ、あなたたちも声を立ててはいけません」
しかし、森や林の無い野原の街道を行く三人連れの姿は、獲物を追う追手たちの視界にすでに入っていた。
騎馬軍勢は馬の足音の地響きを立てながら街道から駆け降り、奇妙な遭遇をした4人の所に殺到し、その前に馬を止めた。その数は20名前後だろうか。
「サントネージュ国王女のサファイアとダイヤ王子だな。もはや逃れるところは無いぞ。大人しく捕まるがよい。そうすれば、死罪にだけはならずに済むだろう」
盤広で髭面の、下品な赤ら顔をした隊長らしい男が唇をゆがめるような笑いを浮かべて言った。言いながら、相手の二人の女(一人はまだ子供だが)を値踏みするような好色な目で見ている。(ほほう、これは上物だ)と言う無言の声がその表情に出ている。
「誰が大人しくつかまるものか」
フォックスは剣を抜いた。
「愚かな。こちらは20人もの軍勢だぞ。お前一人で何ができる。それともそこの妙な虎の仮面をつけた裸の男が加勢をするとでもいうのか。その男は剣さえも持っていないではないか」
「私一人でも十分だ。かなわぬまでも、お前たちのうち何人かは地獄の道連れにしてやる。さあ、かかってこい!」
フォックスは剣を構えようとした。その瞬間、あっと言う間にその剣が手からすべり抜けていた。
「何をする!」
彼女の手から剣を奪ったのは虎頭の男だった。
「お前はユラリア国の廻し物だったのか!」
虎頭は彼女の前を通って敵勢に向かって進み出たが、その時に彼女を振り返って見た。
虎が笑うということがあるなら、その顔は確かに笑い顔だった。
(虎が笑うところを初めて見た)フォックスは変に呑気な気分でそう考えた。
太陽はいっそう斜めに傾いて、影が深くなっている。
その夕方の光の中で全裸の大男が剣を持って立っている姿は異様なものだったが、しかもその頭が虎の頭であるのだから、世にこれほど奇妙な見物はない。
その大男のたくましい裸体は、油を注いだように夕日に輝いて、まるで古代の神々の姿のようだが、その頭は虎そのものである。そして、それがまた神話的な壮麗さを彼の姿に与えていた。
男はゆったりと剣を下げて、何の闘気も見せずにのっそりと立っているだけだが、敵の兵士たちはその姿に威圧されていた。
(美しい)
フォックスは、思わずその姿に見とれていた。
ソフィとダンは互いの手を握って抱きあい、固唾を呑んで、成り行きを見守った。
相手が抵抗する気だと見て取って、追手たちは馬から下りて剣を抜いた。少なくとも、体格だけで言えば、この虎頭の男は容易ならぬ力がありそうだ。
20人の人数を前にしても、この虎頭の男には何の恐怖も無いようだった。まあ、虎の顔では恐怖の表わしようもないだろうが、少なくとも、その動きは落ち着き払ったものだった。
「ええーいっ!」
敵勢の一人が気合を掛けながら斬ってかかった。その剣先を無造作にかわして、虎頭男の剣がひらめいた。兵士の頭が斬り飛ばされて宙に舞う。
続いて攻めかかった兵士も同様に頭を斬り飛ばされる。そして三人目も。頭を斬り飛ばすことにこだわるのは、相手兵士たちの鎧で剣を痛めないためだろうか。それにしても、一瞬のうちに頭だけを狙い、それを成功させるのは容易ではないだろう。
追手の軍勢は、相手の恐るべき剣の技量に恐怖心を感じ始めていた。
「ええい、同時にかかれ!」
隊長の下知に従って、兵士たちの中の3名が頷いてタイミングを計り、同時に斬りかかる。しかし、その一番右側の兵士の横を駆け抜けながら、虎頭男の剣はその兵士の頭を斬り飛ばし、次の瞬間には残る二人も、一人は胴を水平に斬られ、もう一人は肩から袈裟掛けに斬り下ろされて地面に倒れた。
「次、行け!」
次の3人も同じようなものであった。
これほど巨大な体格をしていながら、その動きはまさに虎のように柔軟で、虎のように速かった。速さのレベルが三段階ほど違うのである。これだけの人数を倒しながら、息一つ切らしてもいない。
「ええい、弓だ、弓で射ろ!」
兵士たちの背後に控えていた数名が弓を構えて引き絞ろうとした。
その瞬間、風が巻き起こった。いや、虎頭男が疾風のように兵士の群れに向って殺到したのである。
大殺戮であった。しかも、その殺戮はほぼ一瞬であった。見ていたフォックスの目には、ただ黒い嵐のような物が兵士たちの間を吹きぬけたように見えた。
数秒後、地上には20個の死体が転がっていた。
夕日の中に血刀を下げて静かに立つ虎頭の全裸の男の姿は恐ろしく、また、奇妙な美しさがあった。フォックスは恍惚となってこの殺戮の後の静謐な絵図を眺めていた。
第四章 旅の道連れ
「有難うございました。あなたがいなかったら、我々はきっと捕らえられていたでしょう」
そう礼を言いながら、フォックスは目のやり場に困っていた。相手の股間にどうしても目が行ってしまうのである。
「うう…」
虎頭男は、言葉を絞り出そうとしているようだ。
唖なのだろうか、とフォックスは考えた。
「どうも有難うございました」
思いがけずソフィがそう言ったので、フォックスは驚いた。この王女と身近に話すようになったのは二日前からだが、こういう高貴なお方たちは他人の奉仕に礼など言わないものだという思い込みが彼女にはあったからである。
「有難う。おじちゃん」
ダンも姉を見習って言った。
「その頭、お面?」
子供らしい遠慮無さでダンがそう聞く。
「うう……」
「お面なら、外せばいいのに。不便でしょう?」
男は悲しげに首を横に振った。
「外せないの?」
今度は頷く。
「そう、可哀そうだね。でも、すごくカッコいいよ、その頭」
ダンの言葉に、男の虎の顔にまた笑顔のようなかすかな表情が浮かんだ。
「とにかく、今はここをできるだけ早く離れましょう。次の追手が来るかもしれませんから」
男はあたりに転がった兵士の死体の間を歩いて、その一つの服を脱がし、それを着た。中に大柄な兵士がいたらしく、それが着られたようだ。フォックスに「借りた」剣を返し、地面に転がっている剣の一つを拾い、剣帯についた鞘に抜き身を差し込む。
「あっ、そうだ」
フォックスは、死体の懐を探し、財布を集めた。
「近衛隊隊員のフォックスが泥棒をするほど落ちぶれたと笑われそうだけど、今は変にプライドを持っていられる場合じゃないわ」
一番大きい財布に、かき集めた金を全部まとめて入れる。
「あなたも私たちと一緒に来たらどうかしら。ここにいると、さすがに他の兵士たちに追われることになると思うから」
虎頭の男は小首を傾げて少し考えたが、うなずいた。
「わあい、虎頭のおじちゃんも一緒だ。嬉しいな。こんな強い騎士は王宮にもいなかったよ」
「でも、いいんでしょうか。私たちは追われる身だし、かえってこの方にはご迷惑では?」
「さあ、それは本人の判断だけど、私たちにとっては、この人が一緒なら、こんなに心強いことは無いわね。少なくとも、私の知っているどの騎士にも、これほどの強さを持った人はいなかったことは確かね」
「ご一緒してもらえれば、こんなに嬉しいことは無いんですが」
ソフィの言葉に、虎頭の男は軽く頷いた。その顔は、なぜか笑顔に見える。
フォックスは虎頭の男に手伝ってもらい、兵士たちの死体を川に投げ込んだ。少なくとも、陸上にあるよりは発見に時間がかかるだろう。このあたりがフォックスのフォックスたる所以である。
追手の兵士たちの乗っていた馬が何匹か、近くで草を食んでいたので、それを捕まえて乗ることにする。
日はほとんど地平線に沈みかかっていた。
持っていた水筒代わりの革袋に小川から水を汲み、所持していたパンとチーズを食べると、4人は日の暮れた街道を馬に乗って出発した。馬は二頭で、虎頭の男の前にダンが乗り、フォックスの前にはソフィが乗る。馬を並べて歩ませる。
「ねえ、おじちゃんの名前は何と言うの?」
「うう……」
「だめよ、ダイヤ、いえ、ダン、おじちゃんはお口が不自由なの」
「うう……グ、グエン、……」
「あら? 今、グエンって言った? 言葉は話せるようね。少し口は回らないようだけど、唖というわけではないみたいね。では、あなたの名前はグエンということでいいかしら」
フォックスの言葉に虎頭男は頷いた。どこからそのグエンという名前が心に現れたのか、いぶかしみながら。
「疲れたア……ぼく、もうお尻が痛くて乗っていられないよ」
やがてダンが音を上げた。
「だめよ、ダン、もう少し頑張りなさい。できるだけ遠くまで行かないと」
「いえ、ソフィ、私の考えでは、このグエンがいる限り、多少の追手がまた現われても大丈夫だという気がします。今、頑張りすぎると、これからの旅がつらくなりますから、今夜はこの近くで泊まりましょう」
ちょうど、数百マートル先に宿場町の明かりらしいものがあるのを見つけ、フォックスは言った。
「あ、グエンさん、私の名前はフローラということにしておいてください。ソフィとダンもそう呼ぶのよ」
「フローラだって。変なの。まるで女の子の名前みたいだ」
「私は女ですよ。これでも子供の頃は可愛い娘だと言われていたんですから」
「嘘だい。こんなに真っ黒に日焼けしているくせに」
「うるさいわね。私はあなたのお姉さん、ということになっているのだから、うるさく言うとお尻をぶちますよ」
「ダン、言うことを聞くの」
「はあい」