またもし、おまえたちが孤児に対して公正にできないことを恐れるなら、女性でおまえたちに良いものを、二人、三人、四人娶れ。それでもし、おまえたちが公平にできないことを恐れるならば、一人、またはおまえたちの右手が所有するものを*1。それがお前たちが規を越えないことにより近い。(中田考監修『日亜対訳クルアーン』p.107)
19世紀の中央アジアを、現実的・歴史的根拠をもとにフィクションで描く森薫『乙嫁語り』は、7巻でイスラームの「一夫多妻」をテーマにする。
アニスは富豪の嫁である。
「奥様は本当にお幸せでございますね」
「そう?」
「そうですとも 何不自由なくお暮らしですし
こうして男のお子様にも恵まれて
旦那様だって これだけのお家なら
もう2・3人 奥方をお持ちに
なってもよろしいのに
奥様ひとすじで ございますからねえ」
というのがアニスのデフォルトである。夫はグラフィックからしていかにも優男。草食系男子。
アニスは森薫が「今回絵柄も少し変えてみました」(あとがきマンガ)と言っているように、はじめ森のキャラクターとは思えなかった。痩身で、関節がクネクネしている。夫が彼女を「柳」にたとえるが、髪と服が風にたなびく様と、ほそ〜い腕と脚が強調して描かれるので、本当に「柳」という印象を与える。そして、薄い胸!
瞳がトーンで淡く描かれ、眠そうで、いつも深窓にいる姿は、アニスから一切の生活感を剥奪している。この世のことを知らないお姫様、みたいな感じがぽわぽわと溢れ出ている。あー、もちろん夫がいるし、裸でピロウトークしている様子は出てくるので、「おぼこ」というわけではないのだが。
何不自由なく暮らしているはずなのに、どこかもの足りない、というか根拠のわからない疎外感を抱いたアニスは、侍女に「姉妹妻」を持つようにすすめられる。森によれば姉妹妻は「縁組姉妹」であり、生涯仲よく、そして支え合う「女性同士の結婚」ともいうべきもので、17〜19世紀のころまで現実に存在した制度だという。
確認できるような資料を持たないので森の説明によるしかないのだが、それを読んでのぼくの受け止めは、親密な女性の友人を契約(縁組)によって確実にしあうものといったところ。こちらのブログで指摘があるように、戦前の女学生の「エス」を想起させる。
(以下ネタバレがあります)
侍女にすすめられて出かけた公衆浴場で、アニスはシーリーンという女性にひとめ惚れしてしまい、姉妹妻となる。
姉妹妻となったとたんに、シーリーンの夫が卒中とおぼしき症状で急死し、貧困の渕にあるシーリーンおよびその亡夫の義父母はたちまち生活困窮の危機にさらされるのだ。
まさかシーリーン
わたしらを置いて 出て行くのかい!?
息子が こんなことになって
お前にまで 出て行かれたら
わたしらもう 物乞いになるしか ないよ
後生だよ シーリーン
行かないで おくれよ 頼むよ
とすがりつくのはシーリーンの義母である。20歳をこえて子連れでの再婚の困難にその場にいた皆が溜息をつく。
姉妹妻としてシーリーンを支えると誓ったばかりのアニスの悩みようは推して知るべしである。
彼女の苦悩の果ての提案は、21世紀の日本に住むぼくらにとっては驚くべきものであった。アニスは思い悩んだあげく、自分の夫に、シーリーンをもう一人の妻にしてもらえないかと頼むのだ。
夫の承諾を得て、シーリーンはふたりめの妻として迎えられる。
シーリーンの義父母には別宅が与えられ、義父母たちも信じられないというような顔をしてその巡り合わせに感謝する。
この巻のラストは、庭園の池の前で親密に、そして幸せそうに話しあうアニスとシーリーンを、白っぽい、花を背負わせた画面になっている。いかにも昔風の、泥臭い現実感を削いだ少女マンガの幸福を示されたような思いで読む。
というのよりもさらに粗い粗筋だけを聞いたつれあいは、「うへえ、なにそれ」と顔をしかめた。
一夫多妻(ポリジニー)というのは、現代の日本女性の感覚からすれば悪夢でしかない。
にもかかわらず、森薫の手にかかれば、それが極上の幸せのようにして提示されるのである。まことに不思議というか、創作の力である。
森が描いている一夫多妻は、イスラームにおける一夫多妻の原理を厳格に、それゆえに最も公正な形で適用したものだといえる。
冒頭に引用した『クルアーン』にもあるように「おまえたちが孤児に対して公正にできないことを恐れるなら」というのが複数の妻を娶るさいの目的とされている。つまり、夫の死によって貧窮にさらされている孤児を救うことがこの「一夫多妻」の許容の目的だというわけである。
これは、イスラームの一夫多妻に関する「誤解」を解こうとする解説本の多くに登場する説明である。
一夫多妻を認定する啓示が下された経緯については、当時の社会的背景を知る必要がある。すなわち当時、オホドの戦役において、700人のムスリム軍の中から74名の戦死者を出し、多くの孤児と未亡人を生じた。これらの救済はウンマ共同体の直面する困難な社会問題となっていた。多妻主義の啓示はこのような共同体の窮状を救うためにいわば緊急措置として下されたものであり、これによって多くの孤児と未亡人が路頭に迷うことを免れたのである。(安倍治夫『FOR BEGINNERS イスラム教』p.78)
このところ〔『クルアーン』の該当部分――引用者注〕をきちんと読むと、重婚は、「孤児に対して公正にできないことを恐れるなら」という条件が前にあるため、野放図な性欲のために複数の妻を持ってよいと言っているのではないことが分かります。戦災などで父を失った孤児を持つ母親が路頭に迷うことのないように重婚を承認しているのです。(内藤正典『イスラム戦争』p.143)
まず初めにこの啓示はウフドの戦いの直後に顕われたものであり、戦闘の結果マホメットの周囲に多数の寡婦と孤児が生じてしまった。その救済の手段として提示されたのが、この示唆である。〔…中略…〕原則は一人妻、困難な社会情況に対するセーフティネットとして多妻を許す啓示があった、というのが標準的な解釈である。(阿刀田高『コーランを知っていますか』p.230)
マルキストである浜林正夫はもっと控えめに書いている。
多妻制が孤児との関連で説かれているのはどういうわけなのかよくわかりませんが、六二五年にムハンマドはメッカの軍隊と戦って敗北し、多数の未亡人と孤児が出たので、その救済のために未亡人との結婚をすすめたという説もあります。(浜林『これならわかるキリスト教とイスラム教の歴史Q&A』p.52)
アニスの夫は、この『クルアーン』解釈に厳密に則っている。*2
「孤児救済」というのが目的であるというのはまず適合しているし、「公平にできないことを恐れるならば」とあるように、多妻できる夫はすべての妻に「公平」に接することができることが原則である。「第一夫人」「第二夫人」という呼び名は正しくない! と言われるゆえんであるが、アニスの夫は作中で
公平に接することができるのであれば
妻は4人まで持てます
「しかし 妻が4人もいて うまくいくとは
私には 想像もつかない 話です」
「ですから 公平に接する というのが 大事なのですよ」
という『クルアーン』解釈と思しきものを調査旅行中の西洋研究者に披露している。そして、アニスの夫がこれまで別の妻を持たなかったのは、アニスを愛していたからであって、それで十分であるとともに、アニスの気持ちを害することを恐れていたからだという告白をしている。
つまり、本来の愛はアニスにしかむけられておらず、シーリーンを娶ることは孤児救済のための方便なのだというエクスキューズが本作にはくり返し入る。
現実のイスラム社会では、この『クルアーン』を口実にして「野放図な性欲のために複数の妻」を持つ例もあったようで、阿刀田は
時が移りイスラム社会が多様化すると蓄妾的な傾向があらわな〔寡婦救済とはちがう〕一夫多妻制も現実に見られたりして、きれいごとだけでは片づけられない側面が、なきにしもあらず。(阿刀田同前p.230)
と述べているし、森薫が描いている作中でも、アニスのまわりの富豪では、単なる多情のために妾をたくさんもっている家が当たり前であることがほのめかされている。
だからこそ、『クルアーン』に記された啓示の通りに実践したアニスの夫の「良さ」が浮かび上がる。
アニスは臥所で、夫に対して
…………あなたは 素晴らしいひとだわ
私 あなたの事を本当に尊敬しているの
あなたが夫で 幸せだわ私 やっと わかったわ
あなたみたいな ひとと
結婚できて 本当に 幸せ なんだわ
と真顔の大ゴマでつぶやく。
自分以外のもう一人の妻を娶ったことを、妻が心の底から感謝し、これでもかと深い尊敬と幸福の吐露をくれるんだぜ! そしてそれを説得的に描こうとする、この森薫の野心!
アニスの夫の草食男子的描写は、おそらく森薫を愛好しているであろう女性、そしてぼくのようなヒョロヒョロ文系エセインテリの好みに適っている。アニスだけを本当は愛し、シーリーンを娶る必然を整然と『クルアーン』的厳密解釈で述べるという知的っぷり。
まだ「多妻のすすめ」をアニスに聞かされる前に、アニスの夫がシーリーンの不幸を聞かされたとき、無関心というわけでもないし、逆にことさら痛ましがるふうでもない。
生き死には 神の御心だ
人に できることは それほど多くない
と少し哀しげな顔でいうのも、(伝え聞くかぎりでの)イスラム的である。よく冗談ごかしてイスラムの人とつきあうと遅刻してきても「インシャラー(神の御心のままに)」と言うとされるが、イスラームを擁護する立場からすれば、自分の運命や環境は小賢しい人為でどうにかなるものではなく、あらゆることが「インシャラー」なのだと。
ちょっと見方を変えると、貧乳の美人と、肉感的で豊満な美女を二人も嫁にできて、しかもそれは体裁としては貧者救済であって社会の尊敬を集め、妻からも1グラムの嫉妬も引き起こさずに敬意と一層深い幸せを引き出しているんだから、21世紀の現代日本男性からみると逆にウハウハのような気がする。
全体におっぱいの描写が多いのと、百合っぽい画面・展開からして、まあ十分にこの作品は、エロチックに機能していると思うよ。
個人的に好きです。アニス。ええ。
阿刀田高は、『コーランを知っていますか』の中で、『クルアーン』に示された女性像について、夏目漱石の『こころ』を「女性蔑視文学」と批判されたときのことを書いている。
『こころ』に出てくる「先生」というのは、妻に愛情を示しているようではあるけども、それを21世紀の日本の女性からみると上から目線の「いたわり」「あわれみ」にすぎない、しょせん明治の男の限界ではないかという批判である。
阿刀田はこの批判を紹介しながら、『クルアーン』に直接示された女性観は、まあ、現代の西洋的基準からすると確かにツッコミどころ満載なのだが、当時としては十分に進歩的だったんじゃねえのという旨の意見をのべている。
横暴で粗野な男よりはずっとましではあるけれど、時代が二十一世紀まで進んでは、このビヘイビアは根元において女性をきちんと認めていない、と言われても仕方ない。(阿刀田前掲p.235)
森の描き方は、孤児救済の側面をとにかく前面に出し、しかも夫の「アニス一筋」&まじめぶりを強調することで、この「遅れ」「今ひとつ」感を無くしてしまっているのがすごいと思う。女性が読むとどうなのかは知らないけど。
ところで一夫多妻といえば、NONの『ハレ婚。』。
結婚していることを知らされずに騙されて主人公が、不倫はこりごりだと思って帰郷してみると、郷里は重婚を認める特区に指定されていたというとんでもない設定で、現代に「一夫多妻」を描こうとしている。
まだ2巻までなので結末がどういう展開になるのかわからないが、前作『デリバリーシンデレラ』ではデリヘルを福祉職とダブらせながらセックスワークを挑戦的に「正当化」していた。どちらも前提としては「一夫一婦を永久に続けるってなんかおかしくないか?」という問いがある。男の都合っぽくはあるんだけど。
『乙嫁語り』で示された以上の「一夫多妻」の「説得性」を示せるかどうか注目している。
ちなみに、現代のイスラム圏では、一夫多妻制は国によって制度事情が異なるが禁止、例外規定のみ、現実にはほとんど無理、というのが実情のようである。