第21章 ピップ
鯨捕りの危険性については、以上に述べただけでは十分ではない。鯨に銛を打ち込んだ時、舟が猛烈な勢いで鯨に引っ張られる事は先に書いた通りであるが、その際に、矢のように空中を走るロープは、場合によっては舟の中の者を共に地獄に引きずっていく首くくりの縄に変わるのである。しかも、舟の中には鯨に打ち込むための鋭い刃を持った数本の槍と銛が備わっており、それらにロープが絡まりでもしたら、絞首台はいきなりギロチンに変わるであろう。
私はここで哀れなピップの事を諸君に語ろう。
ピークォド号の雑役夫の黒人少年ピップは、給仕の団子小僧とは好一対であった。どちらものろま、間抜けと船中の者みんなにののしられながらけなげに自分の勤めを果たしていたが、ピップはのろまなどではちっともなかった。むしろ機敏で陽気な少年だったのだが、船乗りとしては致命的な欠点を持っていた。それは、彼のどうしようもない臆病さであった。
その臆病さも、彼が雑役の仕事をしている間は目に付かなかったが、運悪くスタッブの最後尾漕手が手をくじいて、ピップがその代わりに舟に乗り込まされた時、彼は鯨捕りとしては死刑にも相当するヘマをしでかしたのであった。
その時、タシュテゴが鯨に銛を打ち込み、例によって舟は猛烈な勢いで走り出した。その衝撃に驚いたピップは、あわてて立ち上がり、轆轤から繰り出されるロープに巻き込まれ、海に落ちたのであった。おそらく一瞬のうちに、彼の体は鯨の引く力で締め付けられ、窒息死するだろう。
タシュテゴは、ナイフを抜いてロープの上にかざし、スタッブを振り返った。
「切るか?」
その時、タシュテゴの目は、ピップへの憎悪に輝いていたに違いない。せっかくの高価な獲物を、この間抜けの小僧一人のために失うのである。
「畜生め、切れ!」
スタッブは怒鳴った。
こうしてピップは救われ、鯨は失われた。
舟に引き上げられたピップが乗組員全員から罵倒されたのは言うまでもない。
「なあ、ピップ、お前が水浴びでもしたい気分になったというのなら、俺は止めはせん。だが、この次にお前が海に飛び込んだらだな、俺たちはお前を放っといて鯨捕りに精出すことにするからな。覚えとけよ。鯨一頭は、お前がアラバマで売れる値段の三十倍も値が高いんだ」
スタッブの言葉は冗談などではなかった。
二度目に舟に乗らされた時、またしても同じ状況で、ピップは海に飛び込んだのだった。そして、スタッブは言葉通り、彼を海に放っといて、鯨を追いかけた。実際、スタッブの行為は責められない。臆病は、鯨捕りの世界では、場合によっては殺人以上の悪徳なのである。もちろん、スタッブは、後でピップを拾う気でいた。
だが、長い時間の後にやっと本船に救助された時、この黒人小僧は気が狂っていた。それも当然だろう。無限に広がる海面には、舟一つ、島影一つ無く、見えるものは、ただ空と波だけである。自分を救助するであろう舟は、もしかしたら自分を見失ったままあらぬ方向へ行ってしまったかもしれない。こうした状況では、よほど強い精神を持った者でない限り、気がおかしくなって不思議ではない。
その日から、この気のふれた黒人少年は、愛用のタンバリンを手に、訳の分からぬ事を言っては船内をうろつくようになった。
おそらく、その姿を見るたびに、スタッブの心には穏やかならぬ思いが浮かんだものと思われるが、それは他の者には伺い知れぬことである。確かに、スタッブは、警告し、その警告を実行しただけである。悪いのは警告を守らなかったピップの方だ。だが、法律の咎めぬことも、良心はより重い裁きを与えることもある。この気のふれた黒人小僧は、もとからピークォド号のマスコット的存在だったが、今では我々の運命の象徴のような姿で、船内を歩き回っては人々を気味悪がらせるのであった。
鯨捕りの危険性については、以上に述べただけでは十分ではない。鯨に銛を打ち込んだ時、舟が猛烈な勢いで鯨に引っ張られる事は先に書いた通りであるが、その際に、矢のように空中を走るロープは、場合によっては舟の中の者を共に地獄に引きずっていく首くくりの縄に変わるのである。しかも、舟の中には鯨に打ち込むための鋭い刃を持った数本の槍と銛が備わっており、それらにロープが絡まりでもしたら、絞首台はいきなりギロチンに変わるであろう。
私はここで哀れなピップの事を諸君に語ろう。
ピークォド号の雑役夫の黒人少年ピップは、給仕の団子小僧とは好一対であった。どちらものろま、間抜けと船中の者みんなにののしられながらけなげに自分の勤めを果たしていたが、ピップはのろまなどではちっともなかった。むしろ機敏で陽気な少年だったのだが、船乗りとしては致命的な欠点を持っていた。それは、彼のどうしようもない臆病さであった。
その臆病さも、彼が雑役の仕事をしている間は目に付かなかったが、運悪くスタッブの最後尾漕手が手をくじいて、ピップがその代わりに舟に乗り込まされた時、彼は鯨捕りとしては死刑にも相当するヘマをしでかしたのであった。
その時、タシュテゴが鯨に銛を打ち込み、例によって舟は猛烈な勢いで走り出した。その衝撃に驚いたピップは、あわてて立ち上がり、轆轤から繰り出されるロープに巻き込まれ、海に落ちたのであった。おそらく一瞬のうちに、彼の体は鯨の引く力で締め付けられ、窒息死するだろう。
タシュテゴは、ナイフを抜いてロープの上にかざし、スタッブを振り返った。
「切るか?」
その時、タシュテゴの目は、ピップへの憎悪に輝いていたに違いない。せっかくの高価な獲物を、この間抜けの小僧一人のために失うのである。
「畜生め、切れ!」
スタッブは怒鳴った。
こうしてピップは救われ、鯨は失われた。
舟に引き上げられたピップが乗組員全員から罵倒されたのは言うまでもない。
「なあ、ピップ、お前が水浴びでもしたい気分になったというのなら、俺は止めはせん。だが、この次にお前が海に飛び込んだらだな、俺たちはお前を放っといて鯨捕りに精出すことにするからな。覚えとけよ。鯨一頭は、お前がアラバマで売れる値段の三十倍も値が高いんだ」
スタッブの言葉は冗談などではなかった。
二度目に舟に乗らされた時、またしても同じ状況で、ピップは海に飛び込んだのだった。そして、スタッブは言葉通り、彼を海に放っといて、鯨を追いかけた。実際、スタッブの行為は責められない。臆病は、鯨捕りの世界では、場合によっては殺人以上の悪徳なのである。もちろん、スタッブは、後でピップを拾う気でいた。
だが、長い時間の後にやっと本船に救助された時、この黒人小僧は気が狂っていた。それも当然だろう。無限に広がる海面には、舟一つ、島影一つ無く、見えるものは、ただ空と波だけである。自分を救助するであろう舟は、もしかしたら自分を見失ったままあらぬ方向へ行ってしまったかもしれない。こうした状況では、よほど強い精神を持った者でない限り、気がおかしくなって不思議ではない。
その日から、この気のふれた黒人少年は、愛用のタンバリンを手に、訳の分からぬ事を言っては船内をうろつくようになった。
おそらく、その姿を見るたびに、スタッブの心には穏やかならぬ思いが浮かんだものと思われるが、それは他の者には伺い知れぬことである。確かに、スタッブは、警告し、その警告を実行しただけである。悪いのは警告を守らなかったピップの方だ。だが、法律の咎めぬことも、良心はより重い裁きを与えることもある。この気のふれた黒人小僧は、もとからピークォド号のマスコット的存在だったが、今では我々の運命の象徴のような姿で、船内を歩き回っては人々を気味悪がらせるのであった。
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