第17章 大烏賊
船は、アフリカ大陸最南端の喜望峰を越えて、北東に進み、インド洋に向かう。喜望峰は、その輝かしい名前とはうらはらに、嵐の海であり、かつての呼び名であった苦難峰そのものの難所であった。ピークォド号は、この嵐にも幸い船体をぶっ壊すこともなく、穏やかな海域に歩を進めた。途中、捕鯨を終えて帰途に就く船の数々を我々は羨ましい思いで眺めたが、船倉の樽の一つとして油の入っていない状態では、我々の帰れる日はずいぶん先の事になるだろうと、覚悟したものである。
ある透明な朝、超自然的な静寂があたりを支配する中で、マストに上って見張りをしていたダグーが、大声を上げた。
「出たぞ、白鯨じゃ! 真っ白な化け物じゃあ!」
水夫たちは名高い怪物を見ようと、甲板に飛び出した。私も、その中の一人となって、ダグーが指さす方向を見た。確かに、はるか前方に、この世の物とも思われない、輝くばかりに真っ白で巨大な生物がゆるゆると海上を浮きつ沈みつしている。
しかし、エイハブは、甲板上に凝然と立っている。あれほど、白鯨への復讐に執念を燃やしていた男が、この時になっていったいどうしたのか。
「スターバックさん、どうしたのです? 白鯨が出たんですよ。どうして短艇を下ろさないのです?」
「あれは白鯨ではない」
スターバックの顔は青ざめていた。
「あいつに出逢うくらいなら、モゥビィ・ディックの口の中に飛び込んだ方がましだわい!」
「あれはいったい何なんです?」
「大烏賊だよ。あいつに出逢って、生きて港に戻った船は、まず無いという話だ」
我がピークォド号は、この生きた海の幽霊を遠くに眺めながら、触らぬ神に祟り無しとばかりに船足を速めて立ち去った。だが、この出来事は、ピークォド号の前途について、乗組員全体の気分に一抹の影を残したのであった。
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