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白鯨#10

第13章 白い悪魔

かなり以前から、群れを離れた孤独な白鯨が、捕鯨船以外には訪れる者もない絶海のあちこちに出没していた。その白い鯨については、神秘的な噂が囁かれていたのだが、船乗りというものは迷信深いものだから、私は、その噂もほとんど信じてはいなかった。だから、今、エイハブ船長の目的が、その白鯨を倒すことだと聞いても、あまり現実的な感じは持てなかったのである。もちろん、私も、あの熱狂の中の一人であったのだが、それは酒の酔いと同じことであり、我に返った後では、自分が何であれほど興奮していたのか、馬鹿らしい気分にさえなったものである。
もちろん、モゥビィ・ディックが存在することは疑えない。一般に鯨は大人しい性質のものだが、抹香鯨は別である。捕鯨船に追われた抹香鯨は、しばしば自分に銛を投げつける短艇に向かって反撃し、短艇を打ち壊して海の藻屑とする。もともと鯨の偉大な体躯はそれだけでも人に畏怖の念を抱かせるものだが、鯨の持つそうした力への恐怖感が、鯨にまつわる様々な伝説を生み出した。モゥビィ・ディックは、そうした伝説の一つであり、その異常な体の色が、それを見た者に不可解な気持ちを与え、不思議な恐怖心を抱かせたものだろう。そう私は思っていたのである。だから、伝説の白鯨がこうして身近なものになったといっても、それは、名前だけ知っていた遠い従兄弟が近くに引っ越してきたくらいのもので、顔を合わせるまでは、そいつについて何とも判断のしようがないというくらいの気分であった。
しかし、この日から、白鯨についての話が水夫たちの日常に上るようになって、私はモゥビィ・ディックについて詳しく知るようになった。その中でも、もっとも奇怪な話は、モゥビィ・ディックは人間並みの知恵と感情を持ち、悪魔みたいに狡知に長けているという話である。
鯨のために命を失った人間は多い。しかし、白鯨の場合は、あらかじめ残忍をたくらんでやったとしか思えない、と老練の水夫は言うのである。
「俺は、あいつが舟を砕いて悠々と泳ぎ去る時、確かにあいつがにやりと笑うのを見たんだぜ」
そう言ったのは、この前の航海でエイハブと行動を共にした水夫の一人であった。
他の連中が、私と同様に、一時の狂熱からすぐに醒めたのは疑いない。だが、エイハブの執念は、船の乗組員全員に奇怪な磁力を及ぼし、彼に逆らえない雰囲気が作り上げられていた。あの冷静なスターバックさえ、あの日以来、エイハブの目的に対して、表立って反抗することはしなくなった。
「こんな広い海の上で、たった一頭の白鯨に出逢うなんて、奇跡に近い。それまでは、他の鯨を捕まえていればいだけだし、船の樽がみんな一杯になったら、あの老人もナンタケットに帰らざるを得ないだろう。要するに、これは普通の航海と同じことだ」
スターバックが自分にそう言い聞かせているのが私には感じ取れた。だが、おお、神の定めた運命は、スターバックの予想通りにはいかなかったのである。










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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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