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白鯨#12

第15章 追跡2


鯨は、海面下に潜ったらしく、見えなかった。
やがて暗い緑色の海面に白い泡が立ち、蒸気のようなものが見えた。
「そこだ! 漕げ、漕げ!」
スターバックの叫びに、漕ぎ手たちはここを先途とばかり、必死で漕ぐ。背骨が折れても不思議ではない。
実際のところ、我々漕ぎ手は、進行方向に背を向けて漕いでいるのであり、前方の様子はほとんど見られない。頼りにするのは、船尾で舵を操っている短艇長の指示だけであり、彼が我々をどこに導いているやらさっぱり分かりはしないのである。彼が我々を死神の口に向かって漕ぎ進ませていようとも、我々にはそれは分からないのだ。
「さあ、頑張った。疾風が来るぞ。だが、風が来る前に、あの鯨めにがつんと一発食らわせるんだ。漕げ、漕げ、死ぬ気で漕げ!」
スターバックの、静かだが熱気に溢れた声が、我々を駆り立て、力を奮い起させる。
「あそこだ、クィークェグ、立て!」
舳先にいて、必死に舟を漕いでいたクィークェグが、その声ですっくと立ち上がる。
「今だ、打て、一発ぶちこめ!」
その瞬間、大きな衝撃を受け、小舟は何かの大きな力で持ち上げられた。
我々は、今や舟を漕ぐどころではなく、舟にしがみついているだけである。
疾風であった。風は我々の舟を持ち上げ、海に叩きつけた。小舟は転覆し、乗組員は海の上に投げ出された。私はしたたか海水を飲んだが、他のみんなも同じだろう。
クィークェグの銛は、空しく鯨をかすっただけで、鯨は悠々と逃れ去った。そして我々は転覆した小舟の周りを泳ぎながら、それにしがみついていた。
もしも、ピークォド号が運良く我々を見つけてくれなければ、この広い海原で孤児となった我々は、そのままそこで命を終えていただろう。そして、ゴタムの賢人の童謡よろしく、この話もここでお終いになったわけである。
だが、我々は救われた。そして、水浸しの体をみじめに震わせながら本船に収容された後、この壮大な追跡で、たった一頭の獲物もなかったことを知らされたのであった。



第16章 遺言

「クィークェグよ」
私はつとめて平静な口調で言った。
「こんな事はしょっちゅう起こるもんかい。つまり、小舟が海の上でひっくり返って、乗っていた人間はあわやお陀仏になるなんてことがさ」
クィークェグは何の感情を表すでもなく、まあ、しょっちゅう起こるなあ、と言った。
私は降り出した雨の中で悠然とパイプを吸っている二等運転士に言った。
「スタッブさん、ぼくはあんたが、うちのスターバックくらい慎重な男はおらんと言ったのを覚えておるんですがね。風やら疾風やらの中で、鯨めがけて突進していくのを慎重な人間と言うんですかい」
スタッブは嘲笑うように煙をひとつ吐き出した。
「あたりきよ。じゃあ、お前、鯨が尻尾を振ってさよならするのを黙ってお見送りしろとでも言うんか」
私は近くに立っていたフラスクにも聞いてみた。
「フラスクさん、ぼくはこの道には新米だから、ひとつ、折り入ってお伺いしたいんですがね、この世界じゃあ、死神が口を開けて待ってるところへ、後ろ向きになって背骨が折れるくらいぐいぐい漕いでいくってのが、どうしても規則になってるんですかい?」
「もっとあっさり言ったらどうだい」とフラスク。
「そうさ、それが決まりだ。もっとも、漕ぎ手が前を向いたまま、鯨にぶつかっていったなら面白かろうとは思うぜ。そしたら、互いに見交わす顔と顔、とならあ。はっは」
私は、これらの証言を得て、得心し、クィークェグを呼んで言った。
「クィークェグ、来てくれ。お前を俺の顧問弁護士、兼、遺言執行人、兼、遺言引受人にしよう。下に行って遺言書を作るから、つき合ってくれ」
こうして私は、捕鯨船の乗組員となるということがどのようなものであるかということを学び、後顧の憂いなく、この儚い稼業に命を賭ける決意をしたのであった。




























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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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