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企業対国家

「晴耕雨読」から内田樹の文章の一部を転載。グローバリズムとは企業主体の思想であり、それが国家(国民国家)と鋭く対立すること、そしてグローバリズムの目指すところは国家解体、世界統一政府(NWO)であることを、原理的にかつ明快に説明している。
国民の立場から言えば、国民の99%は生まれ育った国家(土地)と運命共同体であって、国家を失えば、確実な生きる基盤をも失うのだ、という話である。すなわち、自由な人間ではなく企業の奴隷、使い捨ての道具として生きるしかなくなるのである。現在の資本主義でもすでにそういう面はあるのだが、それが先鋭化するのがワンワールド(NWO)という世界である。




(以下引用)



国民国家という統治システムは政治史的には1648年のウェストファリア条約を起点とする近代の装置である。

国境があり、官僚制度があり、常備軍があり、そこに国籍と帰属意識を持つ「国民」というものがいる。

生誕の日付をもつ制度である以上、いずれ賞味期限が切れる。

だが、国民国家は擬制的には「無窮」である。

現に、あらゆる国民国家は自国の「年齢」を多めに詐称する傾向がある。

日本では戦前まで神武天皇の即位を西暦紀元前660年に遡らせていた。

朝鮮の檀君王倹が王朝を開いたのは紀元前2333年とされる。

自国の発祥をできる限り遠い過去に求めるのは国民国家に共通する傾向である。

その構えは未来についても変わらない。

国民国家はできれば不死のものでありたいと願っている。

中央銀行の発行する紙幣はその国がなくなった日にはゴミになる。

翌日ゴミになることがわかっているものを商品と交換する人はいない。

だから、国がなくなる前日において貨幣は無価値である。

残り日数を十日、二十日と延ばしてみても事情は変わらない。

だから、国民国家の財政は「いずれ寿命が来る」という事実を隠蔽することによって成立している。

これに対して企業は自己の寿命についてそれほど幻想的ではない。

統計が教えるところでは、株式会社の平均寿命は日本で7年、アメリカで5年である(この数字は今後にさらに短縮されるだろう)。

グーグルにしても、アップルにしても、マイクロソフトにしても、それらの企業が今から10年後にまだ存在しているかどうか、確かな見通しを語れる人はいない。

けれども、そんなことは企業経営者や株主にとっては「どうでもいいこと」である。

企業が永続的な組織であるかどうかということは投資家にとっては副次的なことに過ぎない。

「短期的な利益を追い求めたことで長期的には国益を損なうリスクのあること」に私たちはふつう手を出さないが、この場合の「長期的・短期的」という判定を実は私たちは自分の生物としての寿命を基準に下している。

私たちは「国益」を考えるときには、せめて孫の代まで、三世代百年は視野に収めてそれを衡量している。

「国家百年の計」という言葉はその消息をよく伝えている。

だが、寿命5年の株式会社にとっては「5年の計」が最大限度であり、それ以上先の「長期的利益」は損益計算の対象外である。

工場が排出する有害物質が長期的には環境に致命的な影響を与えると聞いても、その工場の稼働によって短期的に大きな収益が上げることが見通せるなら企業は環境汚染をためらわない。

それは企業にとっては全く合理的なふるまいなのである。

そして、これを倫理的に断罪することは私たちにはできないのである。

なぜなら、私たちもまた「こんなことを続けると1000年後には環境に破滅的な影響が出る」と言われても、そんな先のことは気にしないからである。

グローバル資本主義は「寿命が5年の生物」としてことの適否を判定する。

国民国家は「寿命100年以上の生物」を基準にして判定する。

それだけの違いである。

寿命を異にするだけではない。

企業と国家のふるまいは、機動性の違いとして端的に現れる。

グローバル企業はボーダーレスな活動体であり、自己利益を最大化するチャンスを求めて、いつでも、どこへでも移動する。

得物を追い求める肉食獣のように、営巣地を変え、狩り場を変える。

一方、国民国家は宿命的に土地に縛り付けられ、国民を背負い込んでいる。

国家制度は「その場所から移動することができないもの」たちをデフォルトとして、彼らを養い、支え、護るために設計されている。

ボーダーレスに移動を繰り返す機動性の高い個体にとって、国境を越えるごとに度量衡が言語が変わり、通貨が変わり、度量衡が変わり、法律が変わる国民国家の存在はきわめて不快なバリアーでしかない。

できることなら、国境を廃し、言語を統一し、度量衡を統一し、通貨を統合し、法律を統一し、全世界を商品と資本と人と情報が超高速で行き交うフラットな市場に変えたい。

彼らはつよくそう望んでいる。

このような状況下で、機動性の有無は単なる生活習慣や属性の差にとどまらず、ほとんど生物種として違うものを作り出しつつある。

戦争が始まっても、自家用ジェットで逃げ出せる人間は生き延びるが、国境まで徒歩で歩かなければならない人間は殺される。

中央銀行が破綻し、国債が暴落するときも、機動性の高い個体は海外の銀行に預けた外貨をおろし、海外に買い整えておいた家に住み、かねての知友と海外でビジネスを続けることができる。

祖国滅亡さえ機動性の高い個体群にはさしたる金銭上の損害も心理的な喪失感ももたらさない。

そして、今、どの国でも支配層は「機動性の高い個体群」によって占められている。

だから、この利益相反は前景化してこない。

奇妙な話だが、「国が滅びても困らない人間たち」が国政の舵を任されているのである。

いわば「操船に失敗したせいで船が沈むときにも自分だけは上空に手配しておいたヘリコプターで脱出できる船長」が船を操舵しているのに似ている。

そういう手際のいい人間でなければ指導層に入り込めないようにプロモーション・システムそのものが作り込まれているのである。

とりわけマスメディアは「機動性が高い」という能力に過剰なプラス価値を賦与する傾向にあるので、機動性の多寡が国家内部の深刻な対立要因になっているという事実そのものをメディアは決して主題化しない。

スタンドアロンで生き、機動性の高い「強い」個体群と、多くの「扶養家族」を抱え、先行きのことを心配しなければならない「弱い」個体群の分離と対立、それが私たちの眼前で進行中の歴史的状況である。













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