「武田邦彦のブログ」から転載。
武田邦彦は評価の分かれる人物だが、地球温暖化詐欺を最初の頃から指摘しており、「白人は人間ではない」という面白い動画(井口博士のブログで知った)では白人の悪行を忌憚なく指摘したりして、支配階級にはいろいろ都合の悪い発言の多い人物なので、「陰謀論者」扱いにされているようだ。支配階級下部工作員のネット右翼たちも、彼を攻撃しているようである。
もちろん私は彼を評価する一人だ。どちらかと言うと私と似たタイプのようで、考えたことを素直にそのまま口に出す性格だと私は見ている。科学者としては慎重さに欠ける感じもあるが、だからこそ面白い発言も多いのである。
下の記事は彼のエッセイだが、彼の人生観が顕れており、その人生観も私に似ている。それは、「未来を見ることは人間には属していない」という「ケセラ・セラ」の歌詞でもある。だからこそ人生は面白いし、極端に言えば、だからこそ人生は生きるに値するのである。先が分かっていたら、生きる必要など無いではないか。
ところが、自分は賢いと考えている人間ほど先の予測をしたがり、未来を自分の手で自分の思い通りにしようとしたがるのである。人間なんて、一秒先には息を詰まらせて死んでいるかもしれない存在であるのに。
(以下引用)*前半省略。
でも、人間のあたまで考えた「将来予測」は、必ず外れます。
予測が外れる原因には二つあり、第一には「人間は、今の知識と状態で正しいことを判断し、それで将来を予測する」からです。
その典型的な一つの例として、1972年のメドウスの「成長の限界」があります。
よく知られているように、この本は「あまりに人間が大量に消費するので、21世紀には現在の文明は破滅する」と結論した書籍です。当時、大騒ぎになり、石油ショックのきっかけになり、今でもメドウスのことを信用している人が多いのです。
でも、メドウスはそこのところはよくわかっていたので、前文で「もしも、現在の状態が続くとしたら」と断り書きを入れて予測しています。
メドウスが将来の地球の環境や資源を計算したとき、メドウスが使った「知識と判断」は1965年当時のものでした。
つまり、メドウスは神様ではないので、自分が研究している時(1965年付近)にはまだ発見されたり発明されたりすることを知らないのです。たとえば、携帯電話は無かったので、電話を引くときには電話線(銅)がいると計算しています。
また、当時は脱硫技術が発達していなかったので、石油や石炭を燃やせば亜硫酸ガスが出ると仮定しています。
だから、メドウスは近い将来、銅が無くなり、大気が汚染されると予測したのです。
・・・・・・・・・
でも、縄文時代、平安時代、そして現代でなぜ、こんなに違うのでしょう。
それほど前のことを出さなくても、おじいさんの時代(20世紀の前半)には、まだ日本には、自動車、テレビ、冷蔵庫、携帯電話、パソコン、エアコン、石油ストーブ、婦人のストッキング、エスカレータ、冷凍食品、スーパー、コンビニ、原発・・・なにもかも無かったのです。
つまり、「10年、一昔」と言うように、人間社会は10年も同じことが続きません。人間は止まっているのが苦手で、前進をつづけていきます。そして「どのように前進するか」ということすら、予測できないのです。
・・・・・・・・・
予測が間違う第二の問題点は、「人間は心配性だ」と言っても良いですし、「人間は我が身が可愛い」と言っても良いことからきます。
将来を楽天的に考える人は少なく、心配ばかりしています。
でも、これも奇妙です。大きく歴史を見れば、前の時代より今の時代の方が必ず良くなっているからです。
「昔の方が良かった」と言う人がいるので、その時には、「昔でも今でも、どちらでも良いですよ。どちらを選びますか」と聞くと今度は100人が100人、「今が良い」と言います。
たとえば、今から80年前は、平均寿命が43歳。トイレはくみ取り、テレビも冷蔵庫もないのですから、大部分の人は今が良いと思います。
これが500年ほど前になると、手術の時に麻酔を掛けないで足をノコギリで切っていました。「それでも500年前に帰りたいですか」と聞くと、首を横にフルでしょう。
だから、「今より未来が良い」のは間違いありません。これほど長い歴史で証明されているのですから、間違いはないのです。
でも、ノストルダムスの予言や温暖化の予言など、予言の類はすべて悲観的です。
歴史から言うと未来は楽観的、人間の予言は悲観的・・・ここに未来予想の原理原則が潜んでいます。
・・・・・・・・・
もしも、人間がギリシャの知恵の女神ミネルヴァのように完璧な知恵を持っていたら、正確に未来に起こることを予測し、そして明るい未来を描くでしょう。
でも悲しいことに人間の頭脳は出来損ないで、「現在の知識で未来を予想し」、「未来は現在と違うことを知っていてもそれを考えることができず」、そして「我が身を考えるので、心配性になる」というハンディを負っています。
私が「目標を持たずに、今を一所懸命」と言うのはこの原理があるからでもあります。目標は自分の頭脳の欠陥を考えてぼやーっとだけ考えます。
「ま、なんとか生活ができれば」というぐらいです。
そして、もしその心境で一所懸命、毎日を送ることができれば、向こうから来るもの(将来の社会や自分)は自分が選択できないものだからです。
人間は予測することが出来ない。だから予測は必ず間違う。でも人間は予測をし、将来を悲観して、間違った目標を立てて無駄な努力をするものだ、と私は思います。
(平成22年1月15日 執筆)
武田邦彦は評価の分かれる人物だが、地球温暖化詐欺を最初の頃から指摘しており、「白人は人間ではない」という面白い動画(井口博士のブログで知った)では白人の悪行を忌憚なく指摘したりして、支配階級にはいろいろ都合の悪い発言の多い人物なので、「陰謀論者」扱いにされているようだ。支配階級下部工作員のネット右翼たちも、彼を攻撃しているようである。
もちろん私は彼を評価する一人だ。どちらかと言うと私と似たタイプのようで、考えたことを素直にそのまま口に出す性格だと私は見ている。科学者としては慎重さに欠ける感じもあるが、だからこそ面白い発言も多いのである。
下の記事は彼のエッセイだが、彼の人生観が顕れており、その人生観も私に似ている。それは、「未来を見ることは人間には属していない」という「ケセラ・セラ」の歌詞でもある。だからこそ人生は面白いし、極端に言えば、だからこそ人生は生きるに値するのである。先が分かっていたら、生きる必要など無いではないか。
ところが、自分は賢いと考えている人間ほど先の予測をしたがり、未来を自分の手で自分の思い通りにしようとしたがるのである。人間なんて、一秒先には息を詰まらせて死んでいるかもしれない存在であるのに。
(以下引用)*前半省略。
でも、人間のあたまで考えた「将来予測」は、必ず外れます。
予測が外れる原因には二つあり、第一には「人間は、今の知識と状態で正しいことを判断し、それで将来を予測する」からです。
その典型的な一つの例として、1972年のメドウスの「成長の限界」があります。
よく知られているように、この本は「あまりに人間が大量に消費するので、21世紀には現在の文明は破滅する」と結論した書籍です。当時、大騒ぎになり、石油ショックのきっかけになり、今でもメドウスのことを信用している人が多いのです。
でも、メドウスはそこのところはよくわかっていたので、前文で「もしも、現在の状態が続くとしたら」と断り書きを入れて予測しています。
メドウスが将来の地球の環境や資源を計算したとき、メドウスが使った「知識と判断」は1965年当時のものでした。
つまり、メドウスは神様ではないので、自分が研究している時(1965年付近)にはまだ発見されたり発明されたりすることを知らないのです。たとえば、携帯電話は無かったので、電話を引くときには電話線(銅)がいると計算しています。
また、当時は脱硫技術が発達していなかったので、石油や石炭を燃やせば亜硫酸ガスが出ると仮定しています。
だから、メドウスは近い将来、銅が無くなり、大気が汚染されると予測したのです。
・・・・・・・・・
でも、縄文時代、平安時代、そして現代でなぜ、こんなに違うのでしょう。
それほど前のことを出さなくても、おじいさんの時代(20世紀の前半)には、まだ日本には、自動車、テレビ、冷蔵庫、携帯電話、パソコン、エアコン、石油ストーブ、婦人のストッキング、エスカレータ、冷凍食品、スーパー、コンビニ、原発・・・なにもかも無かったのです。
つまり、「10年、一昔」と言うように、人間社会は10年も同じことが続きません。人間は止まっているのが苦手で、前進をつづけていきます。そして「どのように前進するか」ということすら、予測できないのです。
・・・・・・・・・
予測が間違う第二の問題点は、「人間は心配性だ」と言っても良いですし、「人間は我が身が可愛い」と言っても良いことからきます。
将来を楽天的に考える人は少なく、心配ばかりしています。
でも、これも奇妙です。大きく歴史を見れば、前の時代より今の時代の方が必ず良くなっているからです。
「昔の方が良かった」と言う人がいるので、その時には、「昔でも今でも、どちらでも良いですよ。どちらを選びますか」と聞くと今度は100人が100人、「今が良い」と言います。
たとえば、今から80年前は、平均寿命が43歳。トイレはくみ取り、テレビも冷蔵庫もないのですから、大部分の人は今が良いと思います。
これが500年ほど前になると、手術の時に麻酔を掛けないで足をノコギリで切っていました。「それでも500年前に帰りたいですか」と聞くと、首を横にフルでしょう。
だから、「今より未来が良い」のは間違いありません。これほど長い歴史で証明されているのですから、間違いはないのです。
でも、ノストルダムスの予言や温暖化の予言など、予言の類はすべて悲観的です。
歴史から言うと未来は楽観的、人間の予言は悲観的・・・ここに未来予想の原理原則が潜んでいます。
・・・・・・・・・
もしも、人間がギリシャの知恵の女神ミネルヴァのように完璧な知恵を持っていたら、正確に未来に起こることを予測し、そして明るい未来を描くでしょう。
でも悲しいことに人間の頭脳は出来損ないで、「現在の知識で未来を予想し」、「未来は現在と違うことを知っていてもそれを考えることができず」、そして「我が身を考えるので、心配性になる」というハンディを負っています。
私が「目標を持たずに、今を一所懸命」と言うのはこの原理があるからでもあります。目標は自分の頭脳の欠陥を考えてぼやーっとだけ考えます。
「ま、なんとか生活ができれば」というぐらいです。
そして、もしその心境で一所懸命、毎日を送ることができれば、向こうから来るもの(将来の社会や自分)は自分が選択できないものだからです。
人間は予測することが出来ない。だから予測は必ず間違う。でも人間は予測をし、将来を悲観して、間違った目標を立てて無駄な努力をするものだ、と私は思います。
(平成22年1月15日 執筆)
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