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二つの死へのあまりの差別待遇

「世に倦む日々」から転載。
御説の通り、である。
なぜ世間の人間は「私は後藤健二だ」のプラカードは掲げるのに、「私は湯川遥菜だ」のプラカードは掲げないのか。
イケメンヒューマニストジャーナリストと自分を同一化はできても、いかがわしい民間軍事会社社長の軍事オタクでオカマでチンポコ自己切断の不細工な顔の小太り男と自分は同一化できないのか。(笑)
ふだん差別にうるさい人々は、なぜこの大々的差別に異論の声を上げないのか。なぜオカマたち、ネット右翼たちは自分たちの仲間の湯川ハルナの受けたこの屈辱に対し抗議の声を上げないのか。
後藤健二がやってきた仕事は確かに世間から称賛され易いものだ。戦争被害者の味方、子供の味方、自然災害被害者の味方。(私のようなひねくれ者にはこういう人間は少々気持ち悪いのだが。)だからと言って、マスコミの、この二つの死に対する扱いの差はあまりにひどすぎるだろう。もちろん、後藤健二神格化、ヒーロー化の背後には「英霊」を利用して日本を戦争へと導くいつもの手法が見え透いているのだが。
湯川ハルナでは「英霊」としての神格化は無理、という扱いを湯川氏は受けたわけで、可哀そうと言えば可哀そうだが、自分のしてきたことの当然の報いを受けたわけである。彼の扱いの方が正当なのであり、問題は、後藤健二神格化・ヒーロー化の方だ。
もっとも、今回の記事タイトルの「二つの死」という言い方は、この二人とも本当に死んだ、殺されたという前提での話である。何しろ、政府はISISに対して二人の遺体返還を要求しないことを決定したのだから、二人の死の真偽の確かめようもない。


(以下引用)

湯川遥菜と後藤健二の命の尊厳の格差 - 差別に抵抗を感じない世論

後藤健二が殺害された動画が公開された直後、昨日(2/1)早朝、安倍晋三は官邸での会見と閣議で、「(テロリストたちに)罪を償わせる」と発言、その部分の映像を何度もテレビの報道番組で流させた。日本政府が、邦人に危害を加えた外国の犯人や組織に対して、「罪を償わせる」という復讐の意思と感情を露わにした声明を出したのは初めてのことだ。ちょうど2年前、アルジェリアでテロ事件が起き、10人の日本人が人質にされ殺害されたが、そのときの安倍晋三のコメントは「痛恨の極み」と「断固非難」に止まっている。今回の報復宣言は異例のことで、マスコミ報道は誰もこの点に注意を向けないが、われわれはこの表現に警戒が必要だろう。明らかにテロリストに対する敵意と憎悪を剥き出しにした言葉で、売られた喧嘩は買うという意思表示がされている。簡単に言えばイスラム国に対する宣戦布告の表現である。邦人がテロ集団に誘拐され殺害されたことは幾度かあるが、日本政府は嘗て一度もこのような声明は発したことはない。日本の安全保障政策の原理が憲法9条から「積極的平和主義」に変わったことを、安倍晋三はこの報復宣言で国民に知らしめている。「罪を償わせる」という政府の反応は、テロ事件が起きたときに米国や英国がよく使う表現だ。安倍晋三は言葉を英米と合わせたのであり、対策も英米とコンパチブルにするという含意が看取できる。

つまり、イスラム国に対して武力で報復するという意味だ。昨日(2/1)の安倍晋三の声明は、この挑発的で好戦的な文案が早くから準備されたものであったことが窺われる。また、オバマからの声明も異例のスピードで発表され、米国政府のあまりに素早い対応に驚かされた。TBSのサンデーモーニングで橋谷能理子がそれを伝えたのは、午前9時前だっただろうか。DCは週末土曜の夜だ。後藤健二の殺害が明らかになった時点で、間髪を置かず即メッセージを発信するよう、両国政府が文面を調整して周到に準備していたことがよく分かる。オバマの声明文の中の後藤健二に対する賛美の部分は、明らかに日本の外務省が原稿を挿入したもので、オバマに無理にリップサービスさせたものだ。今回、安倍晋三の声明や反応には「テロとの戦い」の一語はなく、対テロ戦争の宣告までには至らなかったが、国民の中にイスラム国への憎悪と敵意を煽り立て、復讐感情で国民を一つに結束(fascio)させ、安倍晋三による中東安保政策(軍事出動)への支持へと世論を引っ張ろうとする思惑は丸見えと言える。2週間後の2/18、DCで対テロ首脳級会議が開催される。これは、パリでのテロ事件を受けて対策を協議する会合だったが、これでオランドと並んで安倍晋三が準ホストの位置になるのは確実だ。

2/18のDCの会議は、イスラム過激派に対して主要国が「テロとの戦争」を宣言する場になり、12年前のブッシュに続いて、オバマが法王として中東に十字軍を派遣する儀式が演出されるこになるだろう。日本がどういう軍事的役割を担うべきかは、すでに昨年末の報ステで新参のジャパンハンドラーによって予告(マスコミ辞令)されている。今、日本は岐路に立っている。有志連合に加わってイスラム国と戦争するか、それとも憲法9条に即して軍を出さず、「テロとの戦争」に参加を見送って局外中立を貫くか、二者択一の瀬戸際に立っている。マスコミは、安倍晋三の意向に従って世論調査を巧妙に繰り出し、2/18のDCの会議の前後にキャンペーンを張り、自衛隊を中東に派遣しろという世論の多数化を図ってくるだろう。また、菅義偉は、中東での集団的自衛権の行使を国会で野党に認めさせるべく国対工作を仕掛けるに違いない。後藤健二が殺害される前、1/24までのマスコミの空気は、古賀茂明や金平茂紀の論調が支配的で、11月から人質を取られていることを知りながら1月にイスラム国を挑発した安倍晋三の中東外交に批判的なものだった。マスコミがこの線を維持し、民主党がこの姿勢と論点で安倍晋三を国会で追及すれば、世論は「テロとの戦争」に反対が多数になるだろう。どっちに転ぶか、まさに岐路だ。

この岐路は、民主党の岐路でもある。民主党は、事件の認識と対策で党内が割れるのではないか。細野豪志ら右派は、例によって、「テロ対策と安全保障に与党も野党もない」の論法を言い上げ、安倍晋三の路線と方向にぴったり準拠させ、陸自を砂漠での戦闘 - 後方支援だのPKFだのの名目の - に出そうとするに違いない。一方、長妻昭らは、9.11後の米国の失敗を日本が繰り返してはならぬという立場で、中東への自衛隊派遣に慎重論を言い、それを自民党と民主党の対立軸にしようとするだろう。蛇足ながら、細野豪志や前原誠司ら右派は、常に「この基本政策に与党も野党もない」のフレーズで自己を正当化するのが特徴で、消費税の増税も社会保障の切り下げもそれで押し切り、NHKや日テレやフジのキャスターを喜ばせてきた。日本の重要政策上の岐路というのは、常に民主党の政策決定の岐路としてミクロに反映される。民主党に問いたいのは、もし民主党が政権与党であったときに事件に遭遇したらどうしたかということだ。11月に後藤健二が人質に捕らわれ、身代金を払えという要求を受けて政府は対応していた。民主党政権であったなら、英米型の拒否見殺し策を選んだのか、仏西型の身代金支払い策を選んだのか、どちらを選択したのか。おそらく、細野豪志は英米型、長妻昭は仏西型だろう。岡田克也はどちらを決断するのか。

さて、オバマの声明はこう言っている。「米国はISILによる日本国民でジャーナリストの後藤健二氏の許し難い殺害を非難する。後藤氏は報道を通じ、勇気を持ってシリアの人々の窮状を外部の世界に伝えようとした。われわれの心は後藤氏の家族や彼を愛する人々と共にあり、米国は今日、こうした野蛮な行為を糾弾することで、安倍首相や日本の人々と連帯する」。これを見て、最初に違和感を覚えたのは、後藤健二に対しては世界の指導者である米国大統領が絶賛の辞を送って悼んでいるのに、同じく殺害された湯川遥菜の名が一言も出ていないことだった。まるで、イスラム国のテロで殺害された日本人は一人で、後藤健二だけだったような文面になっている。二人殺されたという事実認識が声明文の中にない。これは、米国だけでなく、政府とマスコミの反応と態度が全く同じで、さらにネットの言論が同じだった。後藤健二の殺害と湯川遥菜の殺害の二つが、あまりに扱いに差がありすぎる。湯川遥菜が殺害されたのは、もう一週間以上前の1/24の深夜だった。殺害の一報のとき、マスコミは、首と胴体が離れた湯川遥菜の写真をそのまま公開し、画像をボカす処理を施す配慮をしなかった。血だらけの残酷な写真は、解像度が粗い点が多少とも救いとなってはいたけれど、後藤健二が両手で持った形で、隠さずマスコミの記事や映像に登場した。

「いいのかな」と思った人間は何人かいたはずだが、その露出について咎める議論があったということはない。後藤健二については、殺害の動画をイスラム国が上げた2/1の朝、マスコミは首と胴体が離れた写真を公開しなかった。明らかに、後藤健二については政府がマスコミに配慮と自粛を要請していることが察せられる。私がそれをネットで発見しTwで告知したところ、「後藤さん殺害のビデオを拡散しないでください。彼の尊厳を守ってください」という反論が入った。マスコミに対して、湯川遥菜の遺体の映像を出すなという苦情が一度でも上がっただろうか。湯川遥菜殺害の報道が写真と共に出た後、マスコミも世論も湯川遥菜には全く関心を向けず、リシャウィと後藤健二の人質交換の解説と話題に夢中になっていた。残酷な死に様を躊躇なく曝された湯川遥菜は、報道と言論の対象から除外され、誰からも注目されず、まるでネコの死骸のように傍らにうち捨てられた。命の重さは同じであり、人の尊厳に違いはないはずなのに、どう考えても異常ではないか。後藤健二の殺害に対しては、国中が上を下への大騒ぎで、ホワイトハウスまで巻き込んで大々的な追悼の狂躁が盛り上がるのに、湯川遥菜が殺害された一報があったとき、その事実には誰も衝撃を受けなかった。テレビのキャスターも中東専門家も、政府の人間も、そのとき沈痛な表情や言葉を示すことはなかった。

どうして、同じ日本人なのに、同じ被害者なのにこれほど差別されるのだろう。後藤健二に対しては、マスコミによる尊厳への配慮がされ、首相のヤラセの「目に涙」と米大統領による絶賛の辞が与えられ、左翼による救命運動のプラカードの山ができるのに、どうして湯川遥菜にはそれがハプンしないのか。ネコの死骸のように無視されて扱われるのか。そのことを誰も不自然と思わないのか。昨日(2/1)からの日本の世論は、マスコミもネットも、後藤健二の人格と業績を称えて美化する声で一色だ。人質にされた動画が公開された時点から、後藤健二を過剰に称賛する運動は始まっていたが、今ではそれが沸騰して、まるで神様のような国民的英雄になってしまっている。後藤健二を相対化する声は、自己責任論を喚くネット右翼と経歴を取材した一部の週刊誌のみに止まり、政府、マスコミ、左翼リベラルと、ほぼ全体が過熱した偶像崇拝のムーブメントに漬っている。本来、二人は同じ政府系工作員であり、二人はワンセットのコンビだった。湯川遥菜のBlogを精査すれば、湯川遥菜の中東工作には常に後藤健二が付き添っていたことが分かる。4月のシリア、6月のイラク、7月のシリア、それぞれ2週間ほどの湯川遥菜のミッションの全てに後藤健二は密着している。湯川遥菜のBlogで、途中から偶然に後藤健二と会ったり、あるいは後藤健二と別れたりという記述があるのは、真実を隠すための湯川遥菜の脚色だ。

途中で後藤健二と別れた場合、単独で行動できない湯川遥菜は誰に通訳してもらうのか。湯川遥菜のBlogは、この事件の真相を解明するきわめて有意味な証拠資料だが、そこに全て真実が書かれているわけではない。公開のBlogだからこそ、大事な秘密は隠し、意図的に虚構を真実のように書き、ストーリーで読者を目眩ましさせているのである。後藤健二を異常に聖人化して「ジャーナリストの鏡」にして宣伝していること、そして、湯川遥菜を異常に無視し、無価値化してうち捨てていること、この二つは一つの作為の構図の中にある。意図的に政府とマスコミがそうしている。湯川遥菜には関心を向けさせず、後藤健二はひたすら賛美させ崇拝させる。一方は薄暗い像に、一方は極端に明るい像に。これは、1/20に事件が起きたときからの政府の計画的な情報工作だ。


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