「逝きし世の面影」というブログから。
吉本隆明信者が軒並みボロクソに論評されているのが面白い。私も、吉本隆明は「共同幻想」という使い勝手のいい社会学用語(?)を作った以外に思想家としての重要性がまったく理解できないので、この啖呵は気持ちがいい。マスコミに溢れる、「知らないものを知ったふりして担ぎあげる知識商売人」たちへの痛烈な批判である。
まあ、内田樹などは、「時々正しいことを言う」と言うより、9:1くらいで正しいことを言う知識人だと私は評価しているが、彼が吉本を持ち上げるのはただの信者としての無批判な礼拝だろうとは思う。
(以下引用)
吉本隆明教、あるいは吉本興業のサル回し劇場
2012年04月11日 | 社会
『吉本真理教』
怪しげた似非論理をもてあそんだ挙句に悲惨な内ゲバ殺人を引き起こした極左の暴力事件を全面肯定したり、
同じ論法で、オウム真理教の地下鉄サリン事件後に主犯の麻原彰晃を『現存する宗教修行者のなかで世界でも有数の人物』と親鸞になぞらえて天まで持ち上げたり、
小泉純一郎らの悪魔の碾き臼である新自由主義の『ニセ改革』を無批判に全面的に支持したり、
誰の眼にも『限界』が明らかな大量消費・大量廃棄の(今では悲惨な間違いが明らかなっている)アメリカ型『資本主義』を手放しで賞賛したり、
3・11の福島第一原発の爆発後には完全に崩壊した原発安全神話にしがみ付いて『反原発でサルになる』との呆れた妄言を吐いたり。
今年3月16日に死んだ吉本隆明は数々の場違いな迷惑言動で周り(ほぼ日本人の全員)から失笑と怒りを買っていた。
ところがである、世の中は広い。真っ当な社会人一般とは無関係に、普通の自分たち日本人が知らない裏の闇社会では事情がまったく違っていたから面白い。
一部全共闘崩れの有名人やマスコミからは『戦後思想界の巨人』と呼ばれ教祖として今での崇められているらしい。
生活や社会から遊離した頭だけの日本の知識人一般の『知の腐敗・衰退』の見本の様な話であり笑えないブラックジョークである。
『もののあわれ』や『かんながらの道』の国粋的な『国学』の延長線上にあって一時代を築いた、1945年の日本敗戦までの(積極的な戦争協力で理論崩壊した)日本浪漫派や京都学派の延長線上に新左翼のカリスマ(極左の教祖)吉本隆明は、孤独なピエロとして存在していた。
日本の知識人においては実生活と思想とは分離していて、西洋由来の『思想』『哲学』はしばしば頭の中だけのお題目的にしか理解されておらず、悲しいかな当人の血肉になっていない『付け焼き刃』。
論理的にも科学的にも理解出来ていないので、実生活が脅かされた時には簡単に捨て去っても何の問題も起こらない。(この場合の『転向』は、深刻な葛藤を生まず些細な出来事だった)
60~70年代の多くの新左翼活動家は不勉強で歴史に疎く半世紀前の日本浪漫派や京都学派の悪行をまったく知らなかったので、半世紀も周回遅れの吉本隆明に簡単に騙された。
吉本真理教は高尚な哲学思想の話ではなくて、社会性の全く無い引きこもり状態の痴呆に近い超高齢者が見え透いた同一手口の低級な詐欺に次々騙されるという、柳の下にドジョウが何匹もいた阿呆臭い笑い話である。
科学では、どれ程高邁な理路整然とした美しい理論であっても色々な科学的な批判・検証作業を経たもの以外は単なる『仮説』に過ぎない。
色々な仮説の中で、第三者による客観的な検証作業で『正しい』ことが証明されたものだけが『定説』(原理、原則、法則)となる。
吉本隆明の『思想』は、オウムや新自由主義や原発事故など数々の実践的な検証作業の結果、完全に『間違いである』(客観的事実とは違う)ことが証明されている。
ところがNHKを筆頭にして読売産経、朝日毎日などマスコミ各社は競って『戦後最大の思想家』などと歯の浮くような空疎な言葉で吉本隆明を持ち上げるから愉快である。
賞賛一色に塗りつぶされている大手マスコミでは、表立って吉本隆明の毒キノコ的な実像を伝えたものは一つも無い。
客観的な真実を読者に伝える気がないのだろうか。
今回の吉本劇場以上に、日本国のマスコミ全般の無責任で病的な側面を端的に表しているものは無い。
マスコミや知識人の精神の貧困と堕落腐敗は明らかなのです。
これは是非とも忘れない内に、日本のマスコミご用達の御粗末な似非知識人の『恥』の記録として残しておくべきであろう。
『内田樹の研究室』
何と言っても筆頭は時々正しいことも言うので護憲左派にも沢山の信奉者がいる内田樹神戸女学院大学名誉教授であろう。
この『時々正しい』なら、戦後民主主義を嘲笑する無茶苦茶なパフォーマンスのあの橋本徹でも行っている。
『雉も鳴かずば撃たれまいに』、マスコミで横並びで賞賛するばかりでなく自分の個人ブログでも飽きることなく呆れ果てた言動を繰り返す念の入れようである。
内田樹は哀れにも完璧に吉本真理教のマインドコントロール下にあるようだ。
『吉本隆明 on stage』(内田樹の研究室)では、
>高校1年のときに『自立の思想的拠点』を読んだ・・・
『応接間でまつことしばし、吉本隆明が登場した。
おもわず土下座。』
『それから4時間半ほど対談(というよりは吉本さんの独演会)。
吉本隆明はあたたかい、澄んだ眼をした人であった。
みつめられると、なんだか「ほっこり」してくる。
吉本さんの話のあいまに、どうでもいいような合いの手を入れただけで、私の方は呼んでいただいたほどの働きはできなかったけれど、まことに記念すべき一日であった。』
と完全に破壊的カルト宗教の教祖(グル)に対する信者の態度。
内容的には何もなし。
何処を探してもまったく吉本の『思想』の具体的な記述がない。
この態度は新聞などの記事でもまったく同じで『何も無し』なのですよ。
吉本に関して、あるのは歯の浮くようなお世辞や追従の類であるが、致し方ないでしょう。
一言でも吉本隆明の主張(思想)の具体例を書けば自動的に、即悪口にしかならないのですから、幾ら話芸の手品師内田樹としても最早手の施しようが無かったのです。
『私的昭和人論』(内田樹の研究室)では、
内田樹は自分が武道にのめりこんだ原因が、『この時期の転向者たちは、獄中で仏教書や日本の国体思想についての書物を読んで、その深遠さに一驚して、一夜にして天皇主義者になるという定型を歩んだ。』との、吉本隆明の『転向論』であったと種明かししているのですが、アホ臭いにも程がある。
獄中で左翼から国体思想(右翼)に一夜にして転向した人々(知識人)が敗戦以前にいたことは事実であるが、その数は日本全体から見れば数えるほどの少なさで、例外なのですよ。
単純系の科学原則は100%確実に例外なく現れるが、複雑系の学問である社会科学ではどんなに優れた原理・原則でも必ず少数の例外が生まれる。
獄中で簡単に右翼に転向した左翼知識人など、日本人全体の人数を考えれば、極少数の『例外』程度の些細な話なのです。
転向しなかった共産党員はもっと少ない例外中の例外。
左翼知識人の転向は『深遠な国体思想』に感動したからではなくて、単に『我が身かわいさ』から。それ以上でもそれ以下でもない『下世話な話』である。
主義や思想とは無関係。
これだけ事実を正反対に描く内田樹の恥知らずな態度は見上げたもので、自分で主張することが本当に真実なら、何故内田本人は『深遠な思想』である『右翼』にならなかったのか。
内田樹が武道を練習しただけで『右翼にならなかった』明確な事実は、自分自身では『深遠な国体思想』などとは少しも思っていない何よりの証拠である。
その場その場の口から出まかせの嘘八百にしても酷すぎる。
日本の右翼思想、国体思想の底の浅さは証明済みで『深遠』とは対極にあることは誰もが知っている。
社会科学では全体を見ずに少数の例外(敗戦までの極少数の左翼知識人の転向)をいくら論じても、社会全体は何時まで経っても判らない。
『転向』の定番とは1945年8月15日に、(内田樹言うところの)『深遠な国体思想』の間違いにすぐさま気が付き(捨て去り)、アメリカの持ち込んだ民主主義に日本人全員が乗り換えた(転向した)ことである。
しかし、日本人全体の『転向』については都合が悪いので吉本隆明にしろ内田樹にしろ、一言もいわずに黙っている。
67年前に横並びで日本人全員がみんな仲良く『転向した』のであるが、この転向理由には『孤立した』とか『獄中』何か、まったく無関係。この薄汚い嘘つきの馬鹿たれが。
>『この種の上昇型のインテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で眼のまえにつきつけられたとき、何がおこるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば、本格的な思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである。』<
『そう、思い出したよ。
私はこれを読んで、以後絶対に「日本的小情況」を見くびらないことを自戒のことばとしたのである。そうして、私はまず武道の稽古を始めたのである。』
と内田某は主張しているが詐欺的な言い分である。
戦中に、生活実感から遊離したインテリが獄中で何人か転向しても、国家や社会全体から見れば何の意味も持っていない。
67年前の敗戦時に、上は天皇から下は庶民全員、知識とは無関係に日本人全部が1日で転向した客観的な歴史的な『事実』を、わざと(意識的に)見落としているのです。
日本人全体の『転向』は、日本人なら『見落とし』する筈が絶対に無いのですから、吉本隆明や内田樹は自分勝手に日本の歴史を歪曲、改竄しているのです。
呆れ果てた話であるが内田樹は、『吉本隆明はビートルズと同じ。』と言っているが意味不明。
絶滅危惧種の一部の少数の新左翼以外に、誰も知らない都市伝説的な『戦後最大の思想家』吉本隆明と、世界の音楽界に影響を与えたビートルズが『同じ』とは。
ミソとクソとを混同されては甚だ迷惑。
ビートルズは世界中の若者世代で昔も今も皆が熱中したが、リアルな活動中は人気がなく解散してから売れ始めたとでも勘違いしているのだろうか。
知恵足らずのお馬鹿なネットウョも真っ青の明らかな歴史の捏造・改変である。
『狂言回しならぬ「猿回し」としての糸井重里』
60年台から70年台には社会性が皆無で論理的に無茶苦茶、一般社会を無視し内ゲバで沢山の死者まで出した極左の愚かで凶暴な暴力学生の全員が毒キノコの吉本に嵌っていた。
その後の最近の10年近くはコピーライター糸井重里が、吉本隆明の意味不明の『御言葉』を世間に広める熱心な伝道者(カルトの信者)の役割を担っいたと思っていた。
教祖の吉本隆明イエスと、弟子で新興宗教のキリスト教を立ち上げたパウロ糸井重里の関係ですね。
ところがNHKの3月に放送されたETV特集『吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~』を見るとこの解釈は間違いで、哀れな吉本隆明自身はいたずらに老醜を晒しているだけである。
吉本本人は次女の吉本ばななが言ったように最早世間に出せる状態ではなくなっていた。
実はNHKのETV特集での吉本隆明は筋道だって喋ることが出来ず、放送では何も内容のある論理的な話は少しも語っていない。
教祖と伝道者の関係ではなくて、真実は吉本隆明というサルを上手に操る『猿回し』の役が糸井重里だったのですから大笑い。
コピーライター(コマーシャル)の大事な役目とは、他とまったく『同じもの』を、さも飛び抜けて優れている『たった一つのもの』と大衆を騙す宣伝・広報活動なのですが、その意味では元新左翼の糸井重里は何時まで経ってもインチキ臭いコピーライターの仕事(御粗末なプロパガンダ)を飽きることなく一貫して行っているのでしょう。
『呪縛を卒業したらしい宮台真司と呉智英、吉本真理教と決別出来ない橋爪大三郎』
世間から落ちこぼれ他人迷惑な非行に走った愚かな子供達の唯一の希望とは、自分が大人に成ったら少しは賢くなり普通のまともな人間に成長することなのです。
ところが、『三つ子の魂、百まで』で、若い時に道を踏み外し世間に笑われるような阿呆なことをしたり、危険な破壊的カルトに嵌ると幾ら勉強しようが歳をとろうが簡単には抜け出せず、努力しても修正が効かない。
『若いときの馬鹿は歳をとっても矢張り馬鹿』という何とも恐ろしい、夢も希望も無い話が東京工業大学大学の橋爪大三郎である。
哀れにも無様な妄言を繰り返すグルの吉本教祖が偉大な思想家に見えるのです。
それとも橋爪大三郎の場合は、薬物中毒者や心的外傷後ストレス障害(PTSD)患者などと同じで何かの弾みに遠い昔に決別して忘れていた筈の、自分の過去の忌まわしい病状が再発して仕舞ったのか。
突然起きる深刻なフラッシュバック現象なのか、それとも先祖返りなのか知らないが、当人にはありもしない幻覚や幻聴が生々しく蘇るのですから恐ろしい。
見えないものが見えるが、逆に目の前の誰にでも見えるはずの普通の現実が当人にはまったく見えていない。
これは、簡単には精神的呪縛や影響から決別出来ないという、破壊的カルト宗教のマインドコントロールの恐ろしさを証明しているのでしょうか。
未だに吉本教祖から自由になれない橋爪大三郎とは対照的なのが、マインドコントロールを脱したらしい宮台真司である。
宮台は高偏差値のオウム信者と同じで、相変わらず昔のように教祖(グル)を完全には否定しきれずいるのですが、今では毒キノコとしての吉本隆明の本当の醜い正体を一定限度見抜いている。
呉智英の場合、
『私は吉本に影響を受けていない。むしろ懐疑的であった。』と言いながら、『四十数年前、大学生だった私は(吉本の)この言葉を理解するのに一週間ほどかかった。』とか、
『戦後の思想家でベスト3とかベスト5を選べと言われたら、客観評価として私は吉本隆明を入れるだろう。』とも評価するのですから、話の辻褄が合わない。
『吉本の「大衆の原像」が完全に破綻したのはオウム事件の時だった。「麻原彰晃を高く評価する」という珍論を発表し、大衆を唖然とさせた。吉本の「大衆の原像」は「大衆の幻像」だったのである。この頃から、吉本の本は学生たちにも(もちろん大衆にも)全く売れなくなった。ただ、全共闘時代に吉本愛読者だった言論人だけが、吉本の新刊を褒めちぎった。
ああ、吉本隆明はこの人たちの「共同幻想」なんだなと、私は妙に納得した。』とあるので、昔には嵌り込んでいたが今ではマインドコントロールを脱した宮台と同じ立場なのだろう。
『その他のお粗末ヨイショ』
日本の特権階級の傲慢さ破廉恥さの代表、石原慎太郎の場合、
『ひとつの世代の象徴的な存在だった。権威ってものに反抗、対抗するオピニオンリーダーだと思う。なかなか彼を継ぐような論客ってのは現れてこないね。体制、反体制にしろ、ろくな評論家がいないわな。日本には。』 『1つの世代の象徴的な存在だった。残念です。』
この日本の恥部で危険な毒キノコ的人物は汚物の様な吉本隆明を自分の同類項と見ていたのでしょう。
事実福島第一原発の事故後にも原発推進に狂奔する産経新聞や石原慎太郎と意見が完全に一致。寸分の違いが無い。
吉本が口汚く罵ったのは共産党や護憲派など左翼である。
現実問題に対する吉本隆明は、左翼的権威に対する『反抗』と共に、その正反対の無制限の現状肯定・現状賞賛に終始して、対米従属の右翼反動と同一の態度だったのです。
保守を自認する石原慎太郎にとっては吉本隆明と同じで、論理的な『権威』とは右側には無く、左翼陣営にあると認めているのだろうか。
オウムを高く評価して阿呆を晒した中沢新一の場合、
いかなる政党にも所属しない環境保護の緑の党を立ち上げると称して妄動しているのですが、極左のアイドル吉本隆明との思想的な近さと荒唐無稽なカルト臭は隠しようが無い。長年吉本隆明と二人三脚でお互いをヨイショしてきた中沢新一は見苦しい限り。
毎日新聞は『吉本隆明さんを悼む』なる連載記事?の特集を組み北海道大学の中島岳志や詩人の北川透、フランス文学の松浦寿輝や田中和生が歯の浮くような現実世界とは完全に遊離した軽薄なヨイショ記事を書いているが相手が小物なのと主張内容が余りに馬鹿馬鹿しいのでパス。
カシコと論争してもなかなか賢くならないが『朱に交われば赤くなる』の諺のとおりで吉本真理教のような馬鹿を論じると間違いなく自分もアホになるので止めたほうがよい。
ただ、全てのマスコミ(日本では一番権威があるはずの大新聞)が例外なく思考停止状態に陥り『戦後の最大の思想家』との意味不明の金太郎飴のヨイショ記事を書いていることには大いに興味がある。
『何故か金太郎飴状態のマスメディアの怪』
今新聞社で記事を書いているのが元全共闘シンパで昔に吉本隆明を読んでいたのでノスタルジーを感じるのだろうか。
吉本を『批判する』ことはネタが幾らでもあるので誰にでも簡単に出来るのだが、今のマスコミの様に『褒める』となると至難の業なのですよ。
何しろ著作は膨大だが、これは幸福の科学の大川隆法と同じで信者以外の一般人はちんぷんかんぷん。
もちろん信者でも正しく理解出来るものは誰一人無いという不思議な代物である。
非論理的な思想云々の前に、吉本隆明の場合に特徴的なのは日本語としてちんぷんかんぷんであることでしょう。
外国語に正しく訳しようが無いのですね。
外国の著名人との対話もあるが、相手には吉本語が理解出来ないので全く会話にならないのです。
これは実は日本人の吉本信者も事情がまったく同じである。
『吉本さんの文体は凄い』とか『異様な説得力』とか『圧倒的な情動のうねり』があると褒めるのですが、同時に信者の目にも『時として混乱』し、『論理的でない』し、『合理主義とは程遠い』等と、まともな思想家とは異質であることを知っている。
それで仕方なく『吉本さんは詩人であった。』と、中身が無い事実を言いつくろう。
吉本隆明の場合、論理の組み立てが『支離滅裂』であるのに、話の筋道には無頓着で『無茶苦茶』、あわせて小難しい言葉を無闇に使いたがる悪癖がある。
しかも日本語としての『て・に・を・は』までが不正確で間違っており意味を為していない。
吉本隆明の『思想』の中身とは無制限の『現状肯定』以外には何も無く、『空疎』な単なる『言葉遊び』程度である事実は誰の眼にも明らかなので、あえて『詩人』とでも説明しないと解釈のしようがないのです。
吉本隆明信者が軒並みボロクソに論評されているのが面白い。私も、吉本隆明は「共同幻想」という使い勝手のいい社会学用語(?)を作った以外に思想家としての重要性がまったく理解できないので、この啖呵は気持ちがいい。マスコミに溢れる、「知らないものを知ったふりして担ぎあげる知識商売人」たちへの痛烈な批判である。
まあ、内田樹などは、「時々正しいことを言う」と言うより、9:1くらいで正しいことを言う知識人だと私は評価しているが、彼が吉本を持ち上げるのはただの信者としての無批判な礼拝だろうとは思う。
(以下引用)
吉本隆明教、あるいは吉本興業のサル回し劇場
2012年04月11日 | 社会
『吉本真理教』
怪しげた似非論理をもてあそんだ挙句に悲惨な内ゲバ殺人を引き起こした極左の暴力事件を全面肯定したり、
同じ論法で、オウム真理教の地下鉄サリン事件後に主犯の麻原彰晃を『現存する宗教修行者のなかで世界でも有数の人物』と親鸞になぞらえて天まで持ち上げたり、
小泉純一郎らの悪魔の碾き臼である新自由主義の『ニセ改革』を無批判に全面的に支持したり、
誰の眼にも『限界』が明らかな大量消費・大量廃棄の(今では悲惨な間違いが明らかなっている)アメリカ型『資本主義』を手放しで賞賛したり、
3・11の福島第一原発の爆発後には完全に崩壊した原発安全神話にしがみ付いて『反原発でサルになる』との呆れた妄言を吐いたり。
今年3月16日に死んだ吉本隆明は数々の場違いな迷惑言動で周り(ほぼ日本人の全員)から失笑と怒りを買っていた。
ところがである、世の中は広い。真っ当な社会人一般とは無関係に、普通の自分たち日本人が知らない裏の闇社会では事情がまったく違っていたから面白い。
一部全共闘崩れの有名人やマスコミからは『戦後思想界の巨人』と呼ばれ教祖として今での崇められているらしい。
生活や社会から遊離した頭だけの日本の知識人一般の『知の腐敗・衰退』の見本の様な話であり笑えないブラックジョークである。
『もののあわれ』や『かんながらの道』の国粋的な『国学』の延長線上にあって一時代を築いた、1945年の日本敗戦までの(積極的な戦争協力で理論崩壊した)日本浪漫派や京都学派の延長線上に新左翼のカリスマ(極左の教祖)吉本隆明は、孤独なピエロとして存在していた。
日本の知識人においては実生活と思想とは分離していて、西洋由来の『思想』『哲学』はしばしば頭の中だけのお題目的にしか理解されておらず、悲しいかな当人の血肉になっていない『付け焼き刃』。
論理的にも科学的にも理解出来ていないので、実生活が脅かされた時には簡単に捨て去っても何の問題も起こらない。(この場合の『転向』は、深刻な葛藤を生まず些細な出来事だった)
60~70年代の多くの新左翼活動家は不勉強で歴史に疎く半世紀前の日本浪漫派や京都学派の悪行をまったく知らなかったので、半世紀も周回遅れの吉本隆明に簡単に騙された。
吉本真理教は高尚な哲学思想の話ではなくて、社会性の全く無い引きこもり状態の痴呆に近い超高齢者が見え透いた同一手口の低級な詐欺に次々騙されるという、柳の下にドジョウが何匹もいた阿呆臭い笑い話である。
科学では、どれ程高邁な理路整然とした美しい理論であっても色々な科学的な批判・検証作業を経たもの以外は単なる『仮説』に過ぎない。
色々な仮説の中で、第三者による客観的な検証作業で『正しい』ことが証明されたものだけが『定説』(原理、原則、法則)となる。
吉本隆明の『思想』は、オウムや新自由主義や原発事故など数々の実践的な検証作業の結果、完全に『間違いである』(客観的事実とは違う)ことが証明されている。
ところがNHKを筆頭にして読売産経、朝日毎日などマスコミ各社は競って『戦後最大の思想家』などと歯の浮くような空疎な言葉で吉本隆明を持ち上げるから愉快である。
賞賛一色に塗りつぶされている大手マスコミでは、表立って吉本隆明の毒キノコ的な実像を伝えたものは一つも無い。
客観的な真実を読者に伝える気がないのだろうか。
今回の吉本劇場以上に、日本国のマスコミ全般の無責任で病的な側面を端的に表しているものは無い。
マスコミや知識人の精神の貧困と堕落腐敗は明らかなのです。
これは是非とも忘れない内に、日本のマスコミご用達の御粗末な似非知識人の『恥』の記録として残しておくべきであろう。
『内田樹の研究室』
何と言っても筆頭は時々正しいことも言うので護憲左派にも沢山の信奉者がいる内田樹神戸女学院大学名誉教授であろう。
この『時々正しい』なら、戦後民主主義を嘲笑する無茶苦茶なパフォーマンスのあの橋本徹でも行っている。
『雉も鳴かずば撃たれまいに』、マスコミで横並びで賞賛するばかりでなく自分の個人ブログでも飽きることなく呆れ果てた言動を繰り返す念の入れようである。
内田樹は哀れにも完璧に吉本真理教のマインドコントロール下にあるようだ。
『吉本隆明 on stage』(内田樹の研究室)では、
>高校1年のときに『自立の思想的拠点』を読んだ・・・
『応接間でまつことしばし、吉本隆明が登場した。
おもわず土下座。』
『それから4時間半ほど対談(というよりは吉本さんの独演会)。
吉本隆明はあたたかい、澄んだ眼をした人であった。
みつめられると、なんだか「ほっこり」してくる。
吉本さんの話のあいまに、どうでもいいような合いの手を入れただけで、私の方は呼んでいただいたほどの働きはできなかったけれど、まことに記念すべき一日であった。』
と完全に破壊的カルト宗教の教祖(グル)に対する信者の態度。
内容的には何もなし。
何処を探してもまったく吉本の『思想』の具体的な記述がない。
この態度は新聞などの記事でもまったく同じで『何も無し』なのですよ。
吉本に関して、あるのは歯の浮くようなお世辞や追従の類であるが、致し方ないでしょう。
一言でも吉本隆明の主張(思想)の具体例を書けば自動的に、即悪口にしかならないのですから、幾ら話芸の手品師内田樹としても最早手の施しようが無かったのです。
『私的昭和人論』(内田樹の研究室)では、
内田樹は自分が武道にのめりこんだ原因が、『この時期の転向者たちは、獄中で仏教書や日本の国体思想についての書物を読んで、その深遠さに一驚して、一夜にして天皇主義者になるという定型を歩んだ。』との、吉本隆明の『転向論』であったと種明かししているのですが、アホ臭いにも程がある。
獄中で左翼から国体思想(右翼)に一夜にして転向した人々(知識人)が敗戦以前にいたことは事実であるが、その数は日本全体から見れば数えるほどの少なさで、例外なのですよ。
単純系の科学原則は100%確実に例外なく現れるが、複雑系の学問である社会科学ではどんなに優れた原理・原則でも必ず少数の例外が生まれる。
獄中で簡単に右翼に転向した左翼知識人など、日本人全体の人数を考えれば、極少数の『例外』程度の些細な話なのです。
転向しなかった共産党員はもっと少ない例外中の例外。
左翼知識人の転向は『深遠な国体思想』に感動したからではなくて、単に『我が身かわいさ』から。それ以上でもそれ以下でもない『下世話な話』である。
主義や思想とは無関係。
これだけ事実を正反対に描く内田樹の恥知らずな態度は見上げたもので、自分で主張することが本当に真実なら、何故内田本人は『深遠な思想』である『右翼』にならなかったのか。
内田樹が武道を練習しただけで『右翼にならなかった』明確な事実は、自分自身では『深遠な国体思想』などとは少しも思っていない何よりの証拠である。
その場その場の口から出まかせの嘘八百にしても酷すぎる。
日本の右翼思想、国体思想の底の浅さは証明済みで『深遠』とは対極にあることは誰もが知っている。
社会科学では全体を見ずに少数の例外(敗戦までの極少数の左翼知識人の転向)をいくら論じても、社会全体は何時まで経っても判らない。
『転向』の定番とは1945年8月15日に、(内田樹言うところの)『深遠な国体思想』の間違いにすぐさま気が付き(捨て去り)、アメリカの持ち込んだ民主主義に日本人全員が乗り換えた(転向した)ことである。
しかし、日本人全体の『転向』については都合が悪いので吉本隆明にしろ内田樹にしろ、一言もいわずに黙っている。
67年前に横並びで日本人全員がみんな仲良く『転向した』のであるが、この転向理由には『孤立した』とか『獄中』何か、まったく無関係。この薄汚い嘘つきの馬鹿たれが。
>『この種の上昇型のインテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で眼のまえにつきつけられたとき、何がおこるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば、本格的な思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである。』<
『そう、思い出したよ。
私はこれを読んで、以後絶対に「日本的小情況」を見くびらないことを自戒のことばとしたのである。そうして、私はまず武道の稽古を始めたのである。』
と内田某は主張しているが詐欺的な言い分である。
戦中に、生活実感から遊離したインテリが獄中で何人か転向しても、国家や社会全体から見れば何の意味も持っていない。
67年前の敗戦時に、上は天皇から下は庶民全員、知識とは無関係に日本人全部が1日で転向した客観的な歴史的な『事実』を、わざと(意識的に)見落としているのです。
日本人全体の『転向』は、日本人なら『見落とし』する筈が絶対に無いのですから、吉本隆明や内田樹は自分勝手に日本の歴史を歪曲、改竄しているのです。
呆れ果てた話であるが内田樹は、『吉本隆明はビートルズと同じ。』と言っているが意味不明。
絶滅危惧種の一部の少数の新左翼以外に、誰も知らない都市伝説的な『戦後最大の思想家』吉本隆明と、世界の音楽界に影響を与えたビートルズが『同じ』とは。
ミソとクソとを混同されては甚だ迷惑。
ビートルズは世界中の若者世代で昔も今も皆が熱中したが、リアルな活動中は人気がなく解散してから売れ始めたとでも勘違いしているのだろうか。
知恵足らずのお馬鹿なネットウョも真っ青の明らかな歴史の捏造・改変である。
『狂言回しならぬ「猿回し」としての糸井重里』
60年台から70年台には社会性が皆無で論理的に無茶苦茶、一般社会を無視し内ゲバで沢山の死者まで出した極左の愚かで凶暴な暴力学生の全員が毒キノコの吉本に嵌っていた。
その後の最近の10年近くはコピーライター糸井重里が、吉本隆明の意味不明の『御言葉』を世間に広める熱心な伝道者(カルトの信者)の役割を担っいたと思っていた。
教祖の吉本隆明イエスと、弟子で新興宗教のキリスト教を立ち上げたパウロ糸井重里の関係ですね。
ところがNHKの3月に放送されたETV特集『吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~』を見るとこの解釈は間違いで、哀れな吉本隆明自身はいたずらに老醜を晒しているだけである。
吉本本人は次女の吉本ばななが言ったように最早世間に出せる状態ではなくなっていた。
実はNHKのETV特集での吉本隆明は筋道だって喋ることが出来ず、放送では何も内容のある論理的な話は少しも語っていない。
教祖と伝道者の関係ではなくて、真実は吉本隆明というサルを上手に操る『猿回し』の役が糸井重里だったのですから大笑い。
コピーライター(コマーシャル)の大事な役目とは、他とまったく『同じもの』を、さも飛び抜けて優れている『たった一つのもの』と大衆を騙す宣伝・広報活動なのですが、その意味では元新左翼の糸井重里は何時まで経ってもインチキ臭いコピーライターの仕事(御粗末なプロパガンダ)を飽きることなく一貫して行っているのでしょう。
『呪縛を卒業したらしい宮台真司と呉智英、吉本真理教と決別出来ない橋爪大三郎』
世間から落ちこぼれ他人迷惑な非行に走った愚かな子供達の唯一の希望とは、自分が大人に成ったら少しは賢くなり普通のまともな人間に成長することなのです。
ところが、『三つ子の魂、百まで』で、若い時に道を踏み外し世間に笑われるような阿呆なことをしたり、危険な破壊的カルトに嵌ると幾ら勉強しようが歳をとろうが簡単には抜け出せず、努力しても修正が効かない。
『若いときの馬鹿は歳をとっても矢張り馬鹿』という何とも恐ろしい、夢も希望も無い話が東京工業大学大学の橋爪大三郎である。
哀れにも無様な妄言を繰り返すグルの吉本教祖が偉大な思想家に見えるのです。
それとも橋爪大三郎の場合は、薬物中毒者や心的外傷後ストレス障害(PTSD)患者などと同じで何かの弾みに遠い昔に決別して忘れていた筈の、自分の過去の忌まわしい病状が再発して仕舞ったのか。
突然起きる深刻なフラッシュバック現象なのか、それとも先祖返りなのか知らないが、当人にはありもしない幻覚や幻聴が生々しく蘇るのですから恐ろしい。
見えないものが見えるが、逆に目の前の誰にでも見えるはずの普通の現実が当人にはまったく見えていない。
これは、簡単には精神的呪縛や影響から決別出来ないという、破壊的カルト宗教のマインドコントロールの恐ろしさを証明しているのでしょうか。
未だに吉本教祖から自由になれない橋爪大三郎とは対照的なのが、マインドコントロールを脱したらしい宮台真司である。
宮台は高偏差値のオウム信者と同じで、相変わらず昔のように教祖(グル)を完全には否定しきれずいるのですが、今では毒キノコとしての吉本隆明の本当の醜い正体を一定限度見抜いている。
呉智英の場合、
『私は吉本に影響を受けていない。むしろ懐疑的であった。』と言いながら、『四十数年前、大学生だった私は(吉本の)この言葉を理解するのに一週間ほどかかった。』とか、
『戦後の思想家でベスト3とかベスト5を選べと言われたら、客観評価として私は吉本隆明を入れるだろう。』とも評価するのですから、話の辻褄が合わない。
『吉本の「大衆の原像」が完全に破綻したのはオウム事件の時だった。「麻原彰晃を高く評価する」という珍論を発表し、大衆を唖然とさせた。吉本の「大衆の原像」は「大衆の幻像」だったのである。この頃から、吉本の本は学生たちにも(もちろん大衆にも)全く売れなくなった。ただ、全共闘時代に吉本愛読者だった言論人だけが、吉本の新刊を褒めちぎった。
ああ、吉本隆明はこの人たちの「共同幻想」なんだなと、私は妙に納得した。』とあるので、昔には嵌り込んでいたが今ではマインドコントロールを脱した宮台と同じ立場なのだろう。
『その他のお粗末ヨイショ』
日本の特権階級の傲慢さ破廉恥さの代表、石原慎太郎の場合、
『ひとつの世代の象徴的な存在だった。権威ってものに反抗、対抗するオピニオンリーダーだと思う。なかなか彼を継ぐような論客ってのは現れてこないね。体制、反体制にしろ、ろくな評論家がいないわな。日本には。』 『1つの世代の象徴的な存在だった。残念です。』
この日本の恥部で危険な毒キノコ的人物は汚物の様な吉本隆明を自分の同類項と見ていたのでしょう。
事実福島第一原発の事故後にも原発推進に狂奔する産経新聞や石原慎太郎と意見が完全に一致。寸分の違いが無い。
吉本が口汚く罵ったのは共産党や護憲派など左翼である。
現実問題に対する吉本隆明は、左翼的権威に対する『反抗』と共に、その正反対の無制限の現状肯定・現状賞賛に終始して、対米従属の右翼反動と同一の態度だったのです。
保守を自認する石原慎太郎にとっては吉本隆明と同じで、論理的な『権威』とは右側には無く、左翼陣営にあると認めているのだろうか。
オウムを高く評価して阿呆を晒した中沢新一の場合、
いかなる政党にも所属しない環境保護の緑の党を立ち上げると称して妄動しているのですが、極左のアイドル吉本隆明との思想的な近さと荒唐無稽なカルト臭は隠しようが無い。長年吉本隆明と二人三脚でお互いをヨイショしてきた中沢新一は見苦しい限り。
毎日新聞は『吉本隆明さんを悼む』なる連載記事?の特集を組み北海道大学の中島岳志や詩人の北川透、フランス文学の松浦寿輝や田中和生が歯の浮くような現実世界とは完全に遊離した軽薄なヨイショ記事を書いているが相手が小物なのと主張内容が余りに馬鹿馬鹿しいのでパス。
カシコと論争してもなかなか賢くならないが『朱に交われば赤くなる』の諺のとおりで吉本真理教のような馬鹿を論じると間違いなく自分もアホになるので止めたほうがよい。
ただ、全てのマスコミ(日本では一番権威があるはずの大新聞)が例外なく思考停止状態に陥り『戦後の最大の思想家』との意味不明の金太郎飴のヨイショ記事を書いていることには大いに興味がある。
『何故か金太郎飴状態のマスメディアの怪』
今新聞社で記事を書いているのが元全共闘シンパで昔に吉本隆明を読んでいたのでノスタルジーを感じるのだろうか。
吉本を『批判する』ことはネタが幾らでもあるので誰にでも簡単に出来るのだが、今のマスコミの様に『褒める』となると至難の業なのですよ。
何しろ著作は膨大だが、これは幸福の科学の大川隆法と同じで信者以外の一般人はちんぷんかんぷん。
もちろん信者でも正しく理解出来るものは誰一人無いという不思議な代物である。
非論理的な思想云々の前に、吉本隆明の場合に特徴的なのは日本語としてちんぷんかんぷんであることでしょう。
外国語に正しく訳しようが無いのですね。
外国の著名人との対話もあるが、相手には吉本語が理解出来ないので全く会話にならないのです。
これは実は日本人の吉本信者も事情がまったく同じである。
『吉本さんの文体は凄い』とか『異様な説得力』とか『圧倒的な情動のうねり』があると褒めるのですが、同時に信者の目にも『時として混乱』し、『論理的でない』し、『合理主義とは程遠い』等と、まともな思想家とは異質であることを知っている。
それで仕方なく『吉本さんは詩人であった。』と、中身が無い事実を言いつくろう。
吉本隆明の場合、論理の組み立てが『支離滅裂』であるのに、話の筋道には無頓着で『無茶苦茶』、あわせて小難しい言葉を無闇に使いたがる悪癖がある。
しかも日本語としての『て・に・を・は』までが不正確で間違っており意味を為していない。
吉本隆明の『思想』の中身とは無制限の『現状肯定』以外には何も無く、『空疎』な単なる『言葉遊び』程度である事実は誰の眼にも明らかなので、あえて『詩人』とでも説明しないと解釈のしようがないのです。
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